そう、此処が10年後の世界だなどと説明されて、ハルや京子がにわかに信じられる筈もない。
10年バズーカを周知の獄寺やツナですら、未だ悪い夢の中に居るような稀薄な現実感に身を置いていた。
が、どんなに逃避しようと冗談にはなってくれない空気と、紛れもなく其処に在る『その人』の存在が、
少なくとも京子にだけは、此処が未来の世界である事実を顕著に告げていた。
(あれが…10年後の…雲雀さん…)
相変わらず皆から離れた場所に一人たたずむ雲雀。
(あんまり変わってないみたい…良かった…)
様になるスーツ姿に外見はすっかり大人びていたが、他人を寄せ付けないムードと危険な瞳は
中学生の頃とちっとも変わらない。
それを、つい、良かったと思ってしまい京子は内心で困惑した。
(変なの…学校で孤独な雲雀さんを見ると、いつも切なくなるのに…)
自分でも気付かぬ内に、京子は、それは熱心に雲雀をみつめていた。
そんな京子をゆっくりと雲雀が見る。
(!!)
目が合って京子はとっさに顔を伏せた。
視線で不快にさせただろうか。
あの雲雀が『京子の』雲雀であれば見つめる事だけは許してくれる筈だった。
再び視線を雲雀に移す京子。
彼の視線はもう彼方を見ていた。
ホッとしたようなガッカリしたような複雑な気持ち。
(…ばか。今はそんな事云ってる場合じゃないのに…)
荒廃した未来にショックを受けるハルを支えながら、京子は一先ず雲雀の事を考えるのをやめた。
それぞれが就寝についた後―。
ハル以上に寝付けなかった京子は、寝入ったばかりのハルを起こさぬよう、そうっと部屋を抜け出した。
水を飲んだ後、先刻皆が集まっていたミーティングルームを覗く。
普段は恐い筈の暗い部屋が今は何だか落ち着いた。
先のミーティングで出た、この世界の了平の安否不明の話。
沈む気持ちを払拭して、京子はぶんぶんと首を振った。
「…大丈夫!お兄ちゃんなら…きっと無事……だよ、ね…」
「杞憂だね」
不意にかけられた聞き覚えのある声に、京子が驚いて振り返る。
と同時に、急に部屋の灯りが点いて京子は眩しさに目がくらんだ。
「っ……?」
そーっと目を開けると声の主の姿はない。
「あ…あれ…?」
「此処だよ」
真後ろから掛けられた声に仰天して振り向く。
否、振り向こうとした京子の身体を固い何かが制した。
「あ……」
スーツを纏った大人の腕が、背後から京子の身体を包み込んでいた。
「……!!」
突然の事に京子の息が止まる。
「笹川了平は殺しても死なないよ。そんな、か弱いタイプじゃないの、キミが一番良く知ってるよね?」
「…は、はい…」
励ましてくれているのだろうか?
10年前より大きな身体。
10年前と変わらぬ声。
そしてきっと、10年前と同じ、性格。
「小さいね、キミ」
少し愉しそうな雲雀の声に京子の思考が舞い戻る。
「…雲雀さんが…大きくなったんだと…思います…」
「まあ、この世界のキミも大差ないけど」
がーーーん
雲雀の腕の中で京子は倒れそうになった。
胸に抱いていた大人の自分への憧れがガラガラと音を立てて崩壊する。
雲雀は吹き出す寸前だった。
「…ホント変わらないね、キミ」
「!か、からかったんですか?からかったんですよねっ??」
「さあ・ね」
雲雀はゆっくり京子の髪に顔をうずめる。
(!!!)
「あ、あの…雲雀さん?あの…」
「……静かにしてね、僕が煩いの嫌いって知ってる筈だよね?」
「う……」
聞きたい事も、話したい事もいっぱいあるのに。
雲雀の腕のすきまから京子がポソリと呟いた。
「髪切ったんですか…?」
一瞬の静寂。
「……其処なんだ?キミの興味って」
はあ、と雲雀が溜め息をつく。かなりワザとらしく。
(私って……)
自分でも呆れるけど。
最も本当に聞きたい事なんて聞ける訳がない。
それはそれとして、一体いつまでこうしているのだろう?
抱擁され硬直する京子に雲雀は、やはり溜め息をつく。
「この身体は慣れない?」
中学生の雲雀の身体にだって、京子は慣れてるつもりはない。
「はい…でも…」
「でも?」
「嫌じゃ、ない…ですから」
「…素直だね」
不意に雲雀の腕が緩み京子を自分の方へと向かせる。
(!!)
雲雀と正対する京子。
顔の位置がすごく高い。
先刻、遠巻きにしか見れなかった端正な顔が京子を静かに見下ろしている。
(あ……)
大人になって精悍になった雲雀の面立ちは、相変わらず際立って整っていた。
やや悪魔的な微笑も中学生の頃と何ら変わらない。
指輪をしているのは少し意外ではあったが。
「僕の顔、変?」
穴が開く程みつめる京子に雲雀が問う。
「とっ…とんでもない…!!」
むしろカッコ良すぎて見とれてます…などとは流石に云えない。
おどおどと目線をそらす京子の顔は自分でも分かる程赤く、熱くなっていた。
怯えた小動物のような京子が雲雀は嫌いではない。
スッと雲雀の指が京子の顎を軽く持ち上げた。
「…?雲雀さん…?」
「もう僕とキスしてたっけ?」
「…えっっ!?」
流石の雲雀も10年前の事をいちいち日付まで覚えていない。
「まだだったら、過去の僕に悪いから。…まぁ別にどうでもいい気もするけど」
自分自身とさえも争いかねない雲雀の言動。
オロオロしている京子に雲雀の詰問がとぶ。
「したの?してないの?」
強い眼光に京子の背筋が伸びる。
「し………しました」
「返事は早くね」
そう云うや否や、雲雀はグッと身をかがめ京子の唇を自身のそれで塞いできた。
「……っっっ!?」
驚きに見開いた目が雲雀の瞳をとらえる。
目を開けたままの雲雀に京子は更に困惑したようだったが、ただきつく目を閉じる。
雲雀は構わず彼女の唇を吸ってきた。
(うう)
『京子の』雲雀とは流石にキャリアが違う。
自然なまでに、するりと割り入った舌が京子の舌に絡み付く。
「うっ…ひば…りさ……」
垂直に上を向いた京子の顔を雲雀の顔が覆う。
「んん…んっ…」
どちらの首にも負担な身長差。
雲雀の慣れすぎたキスに子供の京子はアッサリ腰が砕けていた。
そんな京子の身体を支え、尚も深く口腔を嬲る雲雀。
真上から覆われた京子の唇に雲雀の唾液が幾らか流れ込んだ。
「っ…ゴクン…はぁはぁ…雲雀さん…」
「キミ…背、小さすぎ」
首が凝ったらしい雲雀は10年前と変わらぬ無茶な論法を振りかざす。
云われた京子は普通に謝ってきた。
「…ごめんなさい、雲雀さん」
雲雀は肩をすくめた。この少女と居ると通常より増して自分が悪人に思えてくる。
「真に受けないでよ。それよりキミ…」
「え…??」
雲雀の手が京子の腰―というより際どくヒップに近いが―を撫で上げた。
「きゃあああっっっ!?」
「ワオ。やっぱりまだなんだ?」
雲雀の言葉の正確な意味は、京子には分かっていない。
「!?!?」
不憫なほど混乱する京子に、流石に憐れみを覚える雲雀。
「まぁ我慢するしかないよね…嫌だけど。いいよ分かってたから」
「???ご、ごめんなさい…?」
良く分からないまま、京子はやはり謝ってしまう。
「いいよ謝らないで。部屋に送るよ、来て」
「は、はいっ…」
(…一体何だったんだろ…?)
連れの少女の歩幅に合わせる事なく雲雀はサッサと歩いていく。
(あっ、おいてかれちゃうっ)
息を弾ませ懸命に付いてくる京子を雲雀はチラリと一瞥する。
こんなにも抱き締めたくなる女を雲雀は他に知らない。
目の前の想い人は年端もいかない中学生だというのに。
自嘲気味の雲雀のかすかな笑い声は京子の耳には届かなかった。
部屋の前に辿り着いた頃には京子はハーハー云っていた。
「…じゃあね」と、踵を返す雲雀。
「ま…待ってくださいっ!」
「何?」
冷たい声に一瞬臆したが、京子はどうしても確かめたい事を雲雀に訊ねた。
「あの…10年後も雲雀さんと私は……続いてますか…?」
京子の一途な眼差しに珍しく雲雀の心が揺れる。
が、京子に気付かれる前に、いつもの掴めない微笑が答えていた。
「未来を先に知っちゃったら、つまらないと思うけど?」
「………はい」
態のいい拒絶に、しゅんとする京子。
その頭を雲雀は自身の胸に押しつけた。
「…!?」
「10年後もキミは変わらないよ……そして僕も。これでどう?」
「は…い!充分です…!」
一度だけ京子は自分から雲雀にギュッと抱きついた。
「雲雀さん…大好きです」
「『キミの』僕に云ってあげてよ…帰ったらね」
「はい」
京子はクスッと笑った。
「おやすみなさい、雲雀さん」
「またね」
自室に戻る途中雲雀は、ふと立ち止まる。
そういや、僕の『彼女』は向こうの世界に居るんだっけ…
まさかと思うけど…向こうの僕…彼女に手を出したりしてないだろうね?
…………
「…噛み殺す」
雲雀の物騒な独り言に気付いた者は居なかった。
END