その異変に最初に気が付いたのは当人ではなく、意外なことに犬であった。  
 
「お前…なんか香水でもつけてるびょん?」  
「…?…つけてないけど、なんで?」  
「匂いが、いつと違うびょん」  
犬はクロームのうなじに鼻を近づけて、くんくんと嗅いでみせる。  
「そうなの?どうしてだろ…?」  
 
そんなやり取りがあったのが、つい二日前の事。  
そしてついに今日、  
食事中急に気持ちが悪くなったクロームは、嘔吐を催してしまった。  
 
「もしかして…」  
 
ひとまず落ち着いた彼女が不安そうに呟いた言葉。  
しかしその意味をすぐに理解し納得出来る程、犬も千種も大人ではなかった。  
 
パパが死んだのは、私が8歳の時だった。  
ママが「お父さん」と再婚したのは、私が10歳の時だった。  
「お父さん」が私を抱きはじめたのは、私が13歳の時だった。  
そして14歳。今、私は。  
 
 
 
 
最近、クロームはとにかくよく眠る。その上、元々小食ではあったが、  
最近では果物しか口にしなくなってしまった。  
流石に心配になってきた千種や犬にも「なんでもない」の一点張りのクロームは、  
しかしとてもつもない不安を抱えていた。  
どうしたらいいのか、さっぱり解らなかった。  
ただ、こんな事になってしまった原因を、思い出していた。  
 
 
凪が事故に遭う前。  
その頃、家に母親が居ない時を見計らって、義父は週に一度は凪に身体を開くよう求めた。  
 
「いい子だね、凪」  
「…ぁあ…っ、やっ」  
「ほら、もっと顔を見せて…」  
「ん、っ」  
「ほら、ここがいいんだろう…?」  
「や、おと…さ、ん…っ」  
 
勿論、凪も最初は必死で抵抗した。しかし。  
「断るなら、離婚するよ。君のお母さんが浮気しているのは、  
興信所を使って証拠も押さえてるんだ。…せっかく捕まえた金ヅルを失っては、  
君もお母さんも困るだろう?」  
そう脅された凪は、為すがままにされるしか無かったのだった。  
コンドームを使わないその義父は、事後にはただ黙ってアフターピルを彼女に渡すだけだった。  
 
 
 
三人を匿う為に与えられた並盛のマンションの一室。  
部屋で一人、膝と槍を抱きかかえて座りこむクロームは涙を落とした。  
「助けて…誰か……骸様…っ」  
 
 
 
先日までリングの争奪戦が行われていたとは信じられない程、  
今日も並盛中学は麗らかだ。  
その中でもとりわけ緊張感の無い、患者のいない保健室で、  
保健医であるシャマルは雑誌を読みながら寛いでいる。  
 
そこにコンコン、と控え目なノックが鳴り、  
ドアが開く音と共に「失礼します」と言うか細い女子の声が聞こえた。  
今は授業中である。  
その声の落ち着きぶりからして、体育で軽い怪我でもしたか、  
もしくは生理関連だろう、とシャマルはあたりをつけた。  
しかし彼が振り向いた先にいたのはツナの霧の守護者であり、  
並盛の生徒ではないはずのクロームだった。ご丁寧にも並盛の制服まで着ている。  
「どうしたんだい?お嬢ちゃん」  
「クフフ、残念ながら今はクロームではありませんよ」  
保健室の引き戸を後ろ手に閉めながら言う少女の言葉にシャマルは驚く。  
「ゲッ…男の方かよ」  
しかし、姿も声も儚げな少女のそれである。  
なんて紛らわしい奴なんだ、とシャマルは呆れた。  
「で?わざわざ何の用なんだ?」  
中身が男だと判った途端に態度を変えるシャマルに怯みもせず、骸は簡潔に用件を述べた。  
「この娘の身体を、診てもらいたいんです。  
ここでは都合が悪いでしょうから、夜にでも中山病院で」  
「…俺は男は診ないぞ」  
「知ってます。確か、貴方の専門は産婦人科でしたよね?  
男性を診ないのは、当たり前ですよね」  
「今の状態のお前さんを、女の子だとは認めたくは無いが…  
まあ、カワイ子ちゃんには変わりはねーか。  
でもどこを診ろって言うんだ?お前さんの身体は見た感じ至って健康だぞ?」  
「だからこそ問題なんですよ」  
「何?」  
「…どうやら、妊娠しているようで」  
流石の骸も気まずそうに告げた。シャマルは、ただ絶句した。  
「彼女、混乱している上に一人で抱えこんでしまったようで…。  
身体的にも精神的にも引きこもってしまって、  
僕が出てこないとこの身体ももちそうに無いんですよ。  
……産むにせよ堕ろすにせよ、  
一度は医師に診てもらうのが筋かと思いまして、来てみました」  
 
凛とした眼差しで、未だ絶句しているシャマルに骸は告げた。  
 
 
 
大きな木の幹にクロームは身体を預け、  
瞳を閉じて耳を澄ましていた。  
せせらぎの音が心地よい。  
 
凪が骸と出逢ったこの場所は、全てが穏やかである。  
 
クロームは昨日、部屋で一人涙を落としたその次の瞬間、気づけば此処に居た。  
最初は戸惑ったものの、あまりの心良さに、  
やがて元の所に戻らなくてもいいとすら思いはじめていた。  
そんな時、とうとう彼が現れた。  
 
「ここにいたんですね、僕のかわいいクローム」  
 
骸が此処に来る事はクロームの想像に難くなかったので驚きはしなかった。  
彼女は閉じていた瞳を開く事で彼の言葉に応える。  
骸はいつもと同じように微笑していた。  
 
「君の身体に異変が起きている事は知っています。  
先ほどドクターシャマルの所に行って、診察の予約をしてきました。  
明日の午後9時に、中山病院です。道順は、覚えてますね?」  
一度開かれたクロームの両目が、瞬きの後更に開かれた。  
 
「事が事ですし、君が逃げたい気持ちも理解出来なくはありません。  
…でもクローム。あの身体は君のものです。  
無論、その中に宿りはじめたもう一つの命も。  
君の代わりに僕が表に出て、君の子供を堕ろすなり産むなり出来なくもありませんが  
…僕はそれを勧めません」  
 
クロームは何も言い返せなかった。  
ただ、彼から目を反らさずにいるだけで精一杯だった。  
ともすれば涙が溢れてしまいそうな彼女を見かねた骸は、  
クロームと同じ目線を得る為に屈み、彼女を抱きしめた。  
同じ髪型をしても、同じ制服を着ても埋められない男女の違いを、  
その時クロームは確かに感じた。  
 
「目覚めなさい。受けとめなさい。この現実を。  
君には荷が重すぎる現実かもしれません。でも、僕が支えになります。  
僕だけでなく、犬や千種も……君は、もう一人じゃないんですよ」  
クロームを抱きしめる骸の手が、少しずれて彼女の頭を撫でた。  
「…はい、骸さま」  
 
クロームのその返事から怯えと迷いが消えていた事を確認した骸は、  
彼女を抱きしめるその腕の力を、少しだけ強くした。  
 
目覚めたクロームを迎えたのは、天井ではなく犬と千種の心配そうな顔だった。  
部屋の片隅で丸くなっていたはずの彼女は、  
しかし今は病人の様にベッドに寝ている状態だった。  
 
「…大丈夫ですか?」  
「うん、もう、大丈夫だよ」  
千種の控えめな発言に、クロームは小さく頷いた。  
「さっきまで、骸さんがきてたんだびょん」  
「そう、みたいだね…」  
クロームは上半身を起こしながら言った。  
いつの間にかパジャマに着替えている自分に気付く。  
「ねえ、二人は骸さまから私の身体のこと、聞いた?」  
そう問いかけてみると、二人は彼女から少し目をそらして気まずそうに言った。  
「……ええ、聞きました。驚きました」  
「うん、ちょービックリした」  
そうだよね、とクロームが呟くように返す。  
 
沈黙が始まり、程なくして犬の一言でそれが破られた。  
「…どーするの?」  
クロームの目を見つめる犬の瞳は、動物のそれと同じ様に真っ直ぐである。  
「……とりあえず、お医者さんに診てもらってから決めるよ。  
でも…。出来ることなら、産んであげたいな…」  
慈しみに溢れた手つきで、彼女は自分のお腹に手を当てた。  
 
「…俺達も、病院に付き添ってもいいですか?」  
何も出来ないけど、と付け足しそう言った千種に、  
今度はクロームが驚く番だった。  
 
以前の彼女なら彼の申し出を断っていたかもしれない。  
でも、彼女は変わった。  
誰かの気遣いに、素直に喜べるようになっていた。  
「うん、ありがとう…!」  
 
 
 

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