シマコフ大佐は苦渋の表情を浮かべ、命令した。
「命令。第3中隊戦闘団、第4中隊戦闘団、ロケット中隊は可及的速やかにアンデネスの防衛に転ずべし――」
第4中隊長のソロキン大尉は、北方に立ち上る巨大な火球を見た。
それは、ロケット中隊とKGB小隊の最期を告げる墓標であった。
ソロキンはそれを見るや否や退路が断たれたことを悟り、全中隊に山中へ入るように命じた。
『ディーヴァーベルグのロケット中隊が、強力な攻撃を受けていると報告して連絡を絶ちました!』
「何!? 航空攻撃か地上攻撃か」
『不明です!』
『哨戒6班より至急報!ブレイヴィカに敵連隊兵力――ディーヴァーベルグに向け進撃中!』
NATOは2個の大隊戦闘団をアンデネス南方に上陸させたのである。反攻は開始された。
北
進
せ ――スレッジ・ハンマー作戦発動!
よ
!
撤退命令を受けたソヴィエトの2個中隊は、直ちに後退を開始した。
だがそれを見て取るや否や、ボガード防衛線のNATOは追撃を開始した。
送り狼の攻撃に後衛は見る見る数を減らした。
前衛は強力な敵の攻撃に直面していた。
前進は不可能だった。
さらに北欧の早い夜明けの直後から、NATOの航空攻撃が開始された。第3中隊は猛爆に曝された。
第4中隊は第3中隊よりも多少恵まれていた。
彼らは山中を行軍することになったため、NATOの航空攻撃をおおよそ避けることが出来た。
だが、その行軍は悲惨を極めた。
どこまで続く泥濘ぞ
三日二夜を食もなく
雨降りしぶく鉄兜
どさっ、と音を立てて兵士が崩れた。
被弾したのではない。疲労、寒さ、空腹、出血、不眠が凶器となる。
「ニキータ! どうした、しっかりしろ! 立て、立つんだ!」「さぁ、これは俺が持ってやる!」
そう言って二等兵の荷物を持ってやる軍曹も、既に足元は危うくなっている。分隊の死闘が続いていた。
精強を持って鳴る空挺隊員ですら、もはや極限に達しつつあった。
昨日未明から彼らはひたすら戦ってきた。最後の食事は昨日の1730時。
第4中隊の半分は傷痍兵を無理矢理前線に復帰させたものであり、残りは全く休まずに激戦を続けていたものだった。
中隊長のソロキン以下、傷を負わぬものは一人としていなかった。持参した食料・薬品はたちまち底をついた。
薬莢から抜いた火薬を傷に塗りつけ、燃やして消毒できたのはまだ良いほうだった。
ソロキンは迫撃砲弾の破片で負傷した上膊を上着の切れ端で縛り、ライフルを胸の前にかけ、折った枝を杖にしていた。
プーカン中尉が必死に治療した古傷も長い行軍の間に再び開き、出血していた。
極寒のノルウェーにも関わらず、彼らは汗だくだった。
汗は流れてすぐに体温を奪う凶器と化した。
顔に塗った迷彩ペイントは汗で溶けて流れ、彼らの形相をいっそう人間離れして見せていた。
血と汗がまじり、目に垂れてくる。
迷彩服は破れてぼろぼろになり、岩や枝で傷つけた無数の傷からの出血と埃、汗で獣のような臭いを放っていた。
黒と緑、わずかに赤が混じった顔面には焦燥した表情が張り付き、血走った双眸がぎらぎらと光っていた。
ソロキンは兵士たちを真似て崖肌に生えていた雑草を引きちぎり、口にくわえて噛んだ。
土臭い雪が溶け、青臭い草汁が口内に広がった。その草の固まりを無理矢理に呑み下した。
遠くから遠雷のような音が響いてくる。
NATOの空爆の音、彼らの希望を奪い去っていく音だ。
既に煙草は無くなりぬ
頼むマッチも濡れはてぬ
飢え迫る夜の寒さかな
「アンデネスへ…」
男たちはうわ言のように呟きつつ、ほとんど精神力のみを支えにして険しい山肌を進みつづけた。
あるものはライフルを杖にして、あるものは戦友の肩を借り、彼らはなおも進みつづけた。
かつてしばしば一服して人心地をつけていた男たちも、もはやマッチを擦る余力すら持ち合わせていなかった。
ソロキンは赤いフィルターをかけたフラッシュライトで地図を確認した。
足元にはナメクジ、ムカデ、ミミズなどがうごめいていたが、彼らにそれを気にしている余裕などどこにも無かった。
何人かの兵士は力尽き、膝を折った。
「凍えるぞ、休むな!」
ソロキンの声に、男たちはよろよろとゾンビーのように立ち上がる。
何人かはそのままふらふらとあらぬ方向に歩き出す。疲労と寒さで頭がやられているのだ。
闇の中に叫びが上がる。中隊本部付きの准尉が沢に足を滑らせ、倒れこんだ。
だが立ち上がってこない。もはや体を起こす力すら残っていないのだ。
仲間たちも頭を回してそれを見るだけで、助けない。助けようとしないのではない。助けられないのだ。
「イーゴリ、その無線機を渡せ。持ってやる」
ソロキンは准尉から無線機を奪った。
「俺はもう助からない戦友、置いていけ」白髪の准尉は拳銃を抜いて自分のこめかみに当てた。
「莫迦野郎、俺は一人も置き去りにはせんぞ」ソロキンは自分に言い聞かせるように怒鳴ると、准尉に肩を貸して歩き出した。
だがソロキンの願いも空しく、脱落者は相次いだ。
もはや追随できなくなった者たちは、静かに消えていった。自ら捨伏となるために。
彼らは、その戦友にすら気付かれなかった。
誰にも他人を心配している余裕など無かった。
自分が生き残る戦いに精一杯で、みんな、その戦いに自分が勝てるのかという疑念を押し隠して進んでいた。
奇遇にも、そこはスーザンとクレトフの馴れ初めの地だった。
かつて恋人たちが愛を語らった場所を、男たちは生死を賭して戦いながら進んでいた。
ヤンセン軍曹は手を後ろに伸ばし、手のひらを広げてゆっくり横に振った。
分隊員は足を止め、それぞれライフルを構えた。
ヤンセンは木の間に張られたワイヤーをそっとたどり、震える手でピンからワイヤーを外した。
何が彼に警告したのかは分からない。
ヤンセンが体を投げ出すようにして伏せた瞬間、虫が頭の上を飛んだ。
いや、虫ではなかった――顔面を朱に染めて分隊員が吹き飛んだ。
ヤンセンは素早く体を回してライフルを構え、マズル・フラッシュを狙って連射を浴びせた。
絶叫が響き、草むらそのものであるかのように擬装した人影が転がった。
「ザマぁ見ろ」
ヤンセンは吐き捨てると立ち上がった。
「誰がやられた!」
「ベルグが…即死です」
ヤンセンは毒づいた。
「軍曹」兵長が言った。「こいつ、まだ生きてますよ」
「どれ、見せてみろ」ヤンセンは無造作に銃口を敵の鉄兜に押し当て、引き金を絞った。
ソ連兵は脳漿を撒き散らして死んだ。
「軍曹!」
「こいつらは敵だ!殺せ――ロスケを殺せ!」ヤンセンの叫びに、兵士たちが唱和した。
「露助を殺せ!」「殺せ!」
捨伏たちは這って手榴弾でトラップを仕掛け、繁みからライフルの銃身だけを突き出して潜んだ。
何人かは、ノルウェー軍の偵察隊が来る前に力尽きた。
何人かは、トラップに引っかかって混乱するノルウェー兵に銃撃を浴びせ、そして応射で命を絶たれた。
そうでなかった少数のものは捕虜となったが、しばしば激昂し混乱したノルウェー兵にその場で処刑された。
双方とも、精神的にも体力的にも極限状態だった。
わずか1昼夜の戦闘でここまでなるというのは、アンダヤの戦闘がいかに過酷だったかの一つの証明ではあった。
もっともそのような証明はこの戦場を探せばごろごろしていたので、誰もそれ以上は求めていなかった。
それ以上?
否、全く求めてなどいなかった。
しかし人間がいかに戦争を捨てようと、戦争は決して人間を捨てなかった。
『どこに行くんだい、兄さん?』イワンはアルカージーに聞いた。
『他言無用だがね…アイスランドさ! かつて、これほど大胆不適なソヴィエトの作戦があっただろうか!』
アルカージーは朗らかに振舞おうとしたが、それは必ずしも成功しなかった。
イワン・ソロキンは彼の姪を、スヴェトラーナを思い出した。
スヴェトラーナも成長すれば、スーザン・パーカーのような金髪の美しい女性になったことだろう。
だが、彼女を見ることはもう出来ない。
ドイツの冷酷なるテロリストによって、スヴェトラーナは爆殺されてしまったのだ。
イワンは、魂の抜け殻のようになった兄を見て心が痛んだ。スヴェトラーナの記憶は、彼のNATOへの憎悪をかきたてた。
スーザン・パーカー個人への憎しみは士官室の交流を通じてすぐに消えたが、『ドイツはそんなことをしていない』と
言うスーザンの言葉を聞いても、資本主義者,ファシストたちへの彼の憎悪が和らぐことは無かった。
あの事件以来、ソロキン兄弟は、復讐のためだけに戦いつづけた。
「これが戦争なのか…兄さん」
イワン・セミョーノヴィッチ・ソロキンの呟きは必死に進む男たちの息づかいにまぎれ、当人の耳にすら届くことは無かった。
彼らには、もう時間の感覚は無かった。
無言のうちに足を前に運び、ときおり止っては地図とコンパスを照合し、また足を踏み出す。
それはもはや進軍ではなく、彷徨だった。
隊列の末尾で声も立てずにひとりの兵士が崩れた。
誰も、彼を助けようとはしない。
わき目も振らずに進んでいく。おそらく気付いてもいないのだろう。
「たすけて…」
兵士はか細い声で叫びながらしばらく泥の中でもがいていたが、やがて力尽きた。
ロシア中西部の寒村で生まれ、遥かなノルウェーの地で斃れた若者の顔は、血と泥で死化粧されていた。
「今、何が欲しい?」
朝鮮戦争において『ライフ』誌のカメラマン ダグラス・D・ダンカンは、中国軍の追撃を受けつつ極寒の朝鮮半島を撤退する米海兵隊員に呼びかけた。
今ここでダンカンがソヴィエト空挺隊員に同じ問いをしたなら、彼らも同じように返しただろう。
「明日が欲しい」、と。
NATOの追撃が近づいてきた。
迫撃砲弾が隊列の周囲で爆発し、破片が兵士たちを襲う。
その兵長は、先ほどまで歩いていた。
いま彼は全身に迫撃砲弾の破片を受け、爆風で飛ばされて木の上に引っかかっている。
彼を助けようと言うものはいないし、もしいたとしたら、みんなはそいつが狂っていると言っただろう。
なぜって、兵長はもう死んでいるんだから。
前方に敵。中隊兵力と見込まれる。
そう途切れ途切れに報告した伝令兵には、もう敬礼する体力も気力も無かった。
そしてソロキンにも、それを咎める気力も体力も有りはしなかった。
続いて逓伝されてきた情報は、さらにひどかった。
後方にも敵部隊。中隊兵力以上。
両側に敵斥候を確認。
左側に敵。大隊兵力。
右側に敵。中隊兵力以上。
ソロキンは、その知らせに文字通り全身の力が抜けた。
杖に縋るようにして地面にへたり込んだ。
ほかの空挺隊員たちも同様だった。銃を地面に横たえ、膝を折った。
最期の突撃をしようにも弾薬はもうほとんど残っていない。
何より、もう足が一歩も前に進もうとしない。
みな血走り、そして虚ろな目を虚空に向け、黙りこくっている。
万策尽きた。
「Помогйте!」ソロキンは叫んだ。
だが、その声はノルウェー人には理解できなかった。
森の中から誰かが叫んだ。スーザンとの会話で多少上達したと思った英語は、この極限状態の中どこかに消えていた。
だが降伏を要求していることは、たれにも明らかなことだった。
「イエス」ソロキンが怒鳴り返した。「イエス」
返事のかわりにまた斉射が放たれて、隊列のなかから悲鳴が聞こえてきた。
「何たることだ!」ソロキンは自分が敵の質問を誤解したに違いない、と気付き、それと同時に解決策を思いついた。
感覚を失った手でどうにか胸元から白い三角巾を引っ張り出し、杖に結び付けて振った。
「准尉、この捕虜は大尉ですよ」准尉はその声に顔を向けた。
「…並べろ」
伍長は聞き返した。聞き取れなかったのか、理解できなかったのか。
「そいつらを、そこに、並べろ。早よせんか!」
疲労の極に達していたロシア人たちは、困惑した――いや理解したくない命令を受けたノルウェー兵の指示に黙々と従った。
「至急至急、てk」
「尻切れ。さらに送れ」
「敵が降伏しました!」通信兵は守るべき形式を一切無視したが、今だけは誰もそのことを咎めなかった。
だが後に回想したとき、ノルウェー人たちは、その通信を聞いての高揚感などを思い出すことは出来なかった。
彼らは、迫撃砲の援護の元にもう10時間あまりに渡って追撃していた。
終わった…
誰もがただ、そのことをかみ締めていた。虚脱感、そして倦怠感が全身を覆っていた。
「上の敵は優秀だったな…」クノックス大尉はぼやきとも賞賛ともつかない口調で呟いた。
だが、クノックスにはまだ休息は訪れなかった。
その場の最先任将校として降伏をまとめなくてはならない。襟章は中尉のままだったが、大尉であることに変わりはない。
彼は通信兵を連れ、丘を登りはじめた。
こちら側にはさほど戦火は及んでいなかった。晩夏にも雪が残る山肌だが、かすかな緑が目を楽しませてくれる。
彼が稜線を越えて頂の平地に出たとき、異常な光景が目に飛び込んできた。
膝を突いてうずくまる影と、それに向かって銃を構える男たち。
迷彩服の柄から、うずくまっている影がソヴィエト兵であることは一目で知れた。
クノックスは一瞬呆然としたが、すぐに我に返った。
「射撃中止!射撃中止!」わめきながら走った。
兵士たちはほっとしたように銃を下ろした。
しかし、准尉は血走った目をクノックスに向けた。
「大尉」その声には感情が無い。
「准尉、君は自分が何をしているのか分かっているのか!?」そこで堪えた。
「君は戦時服務規程に明白に違反している。
本来ならば解任し後送するところだが、状況を考慮して今回は見逃そう。
直ちに任務に復帰せよ」
准尉は不服そうに彼を見たが、クノックスの憤怒に燃えた目に屈して敬礼し、肩を落とすようにして歩み去った。
彼はその背中を睨み付けていたがやがて視線を転じ、地に崩れたソヴィエト兵を助け起こした。
「やあ、大丈夫か? 私はクノックス、ノルウェー王国海兵隊大尉だ。君たちの最先任士官は何処にいる?」
「私が最先任だ。ソロキン大尉、ソヴィエト陸軍。助けてくれてありがとう、クノックス大尉」
彼らは固く握手を交わした。
状況はアンデネスでも悪化の一途を辿っていた。
地雷原や塹壕の修復をしていた工兵部隊までもが南部の戦線に投入された。
装甲されたブルドーザーの上には機関銃が据え付けられ、間断なく弾丸を吐き出していた。
北部では、戦力を引き抜かれて痩せ細った防衛線の前にノルウェー海兵隊のF大隊戦闘団が揚陸を開始した。
これと同時にA大隊への補給も再開された。数十トンの弾薬が陸揚げされ、弾薬不足に苦しむA大隊は苦境を脱した。
ソヴィエトの砲兵中隊は砲撃を開始するが、夜間の偵察で陣地の位置が全て割れていた。
的確な空爆が次々と榴弾砲を捉えていく。
NATOの工兵はソヴィエトの銃砲火に曝され、多大な損害を出しながらも地雷原を啓開した。
セルギエンコ大尉は、この2日間戦いつづけて疲労の極に達している兵士を率いて5倍の敵と相対することになったのだ。
それを援護する火力は迫撃砲と歩兵の携行火器のみである。
だが若き空挺隊員たちの顔は不敵に笑う。近接戦になれば敵機は介入できない。
彼らに残された選択は2つ。
突撃か、死か。
激戦となった。
迫撃砲は砲身が焼けるほど撃ちまくり、対戦車ミサイル発射機は休む間もなく目標を探し、発射した。
だが兵力に劣るソヴィエト軍は押され、次々と塹壕を奪取されていく。
冬季戦迷彩のNATO軍は地を白く染め上げるほどの大軍で寄せてくる。しかもその全員がノルウェー海兵隊が誇る精鋭部隊だ。海からは駆逐艦が艦砲で掩護し、橋頭堡に揚陸された迫撃砲は弾幕射撃で海兵隊の突撃を掩護した。
NATOは質で並び、量、特に鉄量では完全に勝っていた。
第3中隊がNATOから鹵獲した迫撃砲、特にその弾薬は辛うじて引き揚げに成功したが、その支援など焼け石に水だ。
後退は許されなかった。
この防衛線が破られれば飛行場は目の前だ。飛行場確保という任務は無残な失敗を遂げることになる。
それを阻止できる予備兵力は既に無い。
X+1日早朝、北東方面でNATOの大攻勢が開始された。
その30分後にはNATOの攻撃は南部方面にも飛び火した。
主防,側防などと言っている状況ではない。体勢を整理しようにも、後退できる余地など何処にも無い。
クチカロフ軍曹は、重火器分隊を率いて南方で工兵中隊の後方を支援していた。
彼らはノルウェー軍から鹵獲したカール・グスタフを抱えており、今しも分隊員たちはその扱いに習熟しようとしている。
カール・グスタフはスウェーデン製の短射程兵器で、日本の陸上自衛隊も採用している傑作無反動砲だ。イラク派遣で話題になったので、ご存知の読者も多いだろう。
その照準はちょっとした名人芸を要する上に、威力は対戦車ミサイルに少し劣るが、その代わりいろいろな弾種を撃てる。
鹵獲した中には、対戦車用のヒート弾のほかに榴弾や照明弾もあった。
こんな無反動砲がこっちにあったらなあ、とクチカロフは思う。
人影が脇の藪からよろめき出た。
分隊はさっと各々の武器を構えた。「止まれ! 誰何!」
「戦友…戦友…」答えはロシア語だった。
「射撃待て、友軍だ!」
「来い!来い!」
若い上等兵が飛び出して助けた。
兵士は塹壕に転げ落ちるようにして入った。体を起こすことが出来ない。
「第3中隊伍長イェレメンコです…中隊は自分だけであります…全員…」そこで絶息した。
「死にました…」上等兵が屈みこんで、呆然とした。
やがて対戦車ミサイルが尽きた。
ソヴィエトの空挺隊員たちはRPG-7対戦車ロケットで敵の戦車に立ち向かった。
本来RPG対戦車ロケットは至近距離での自衛用だが、そんなことに構ってはいられない。
ソヴィエトの迫撃砲部隊はNATO迫撃砲部隊の猛射に圧倒された。
その穴を補うように、RPGは敵に占領されたトーチカを爆破するのにも用いられた。
南方の工兵中隊も果敢に戦った、彼らの本業は近接戦闘ではないにもかかわらず。
緊急に機関銃を取り付けた装甲ドーザを先頭に攻め、南方の要衝417高地はわずか3時間のうちに10回以上も主を変えた。
彼らに支給できる対戦車ミサイルなどはなから存在しない。
RPGロケット、そして鹵獲品のカール・グスタフが頼りだ。
工兵たちは慣れない兵器に手間取りながらも、持てる全てを投入して戦った。
少ない立ち木や草に紛れて忍び寄り、対戦車ロケットをぶっ放しては逃げた。
工兵中隊本部に、装甲車に支援された海兵隊が迫る。
一人の兵士が飛び出し、RPGで鮮やかに歩兵戦闘車を仕留めた。
中隊長のタラン中尉もRPGを構えた。だが機関銃の火線に捉えられ、顔も上げられぬ。
もはやこれまでか。
その後方に履帯の音。装甲ドーザが丘に隠れて接近し、カール・グスタフを撃った。
装甲車を撃破された海兵隊は後退し、中隊本部は守られた――
――さしあたっては。
いくつかの部隊ではRPGも使い果たした。
それでもソ連兵たちは対戦車地雷や梱包爆薬に遅延信管をつけ、あるいは手榴弾をいくつかまとめた集束手榴弾を持ってNATOの戦闘車両に立ち向かった。
第2次大戦の遺物、対戦車手榴弾も使われた。
この手の手榴弾に全てを賭けて…
対戦車手榴弾が弧を描いて装甲車に飛ぶ。1943年に作られた年代モノの対戦車手榴弾は、空中で吹流しを出して姿勢を安定させ、装甲板にあたると高温のジェットで装甲板を貫徹する。
手榴弾まで使い果たしたルシチェンコ少尉は、アンデネスの薬屋から塩素酸カリウムを持ち出した。
ガソリンと砂糖、ガラス瓶は容易に調達できた。
兵士たちは紙を巻いたガラス瓶を片手に装甲車に忍び寄った。
モロトフ・カクテルが飛び、エンジン・コンパートメントに引火して装甲車が炎に包まれる。
熱さに絶叫しながら装甲車を飛び出した海兵隊員は銃弾を浴びて吹き飛んだ。
戦闘は超至近距離での決闘の様相を呈し、戦場は男たちの蛮勇の場となった。
ノルウェー軍の車輌部隊はまったく油断できなかった。
何処からとも無く湧いてくる、と思えるソヴィエト兵は何時の間にか忍び寄り、手榴弾や火炎瓶で攻撃してきた。
戦車ですらしばしば小破・中破した。
乗っ取ろうとよじ登って来る空挺隊員たちを辛うじて撃退することもしばしばだった。
フィスケネスの北西には小さな丘がある。ソヴィエト軍によって114高地と名づけられたこの丘が、工兵中隊担当戦区での防衛拠点となっていた。ここでは、メドヴェデフ少尉以下の小隊24名が野戦陣地に拠って守っていた。
この丘を取れば、アンデネスの市街へ撃ち下ろすことが出来る。海兵隊はここを攻勢主軸に設定し、圧倒的な鉄量の支援を受けて圧してきた。
偵察隊が陣地から数十メートルまで接近して鉄条網を啓開しようとしたとき、横殴りの銃撃が襲ってきた。
高い立ち草に隠れて息を潜めていた蛸壺が息を吹き返し、側防機能を発揮していた。
この銃撃に算を乱した海兵隊は一時的に後退したが、鉄量の差はこの程度の小細工で埋められるものでは到底無かった。
彼らはたちまちに海兵隊1個中隊以上を相手に絶望的な戦闘を展開していた。
迫撃砲弾がひっきりなしにトーチカを揺らし、見渡す限りの地平は海兵隊の冬季戦迷彩で白く染まった。
2丁の機関銃は銃撃を続け、それが止むのは加熱した銃身を交換する時だけだった。
続けて炸裂する迫撃砲弾が立ち草を根こそぎにし、数時間で114高地は禿山になっていた。
工兵中隊本部が危機を脱してすぐに、タラン中尉にとって114高地への手当てが急務となった。
114高地の喪失は工兵中隊の戦線に決定的な穴をブチ抜くことになる。
タランはシマコフ大佐に支援を要請したが、南方に回せる部隊は無かったし、タランもはなから期待などしていなかった。
工兵中隊はノルウェー海兵隊のピラーニャ装甲車2両を奪取していた。これらには25ミリ機関砲が搭載されており、また装甲ドーザーより多少マシな装甲があった。回せる部隊は、この鹵獲装甲車と1個分隊14名の歩兵に過ぎなかった。
海兵隊は集中しすぎた。周縁警戒を疎かにし、114高地の奪取に全力をあげていた。
その隙に、2両のピラーニャは獰猛に攻撃を開始した。
海兵隊はそれを友軍と誤認し混乱した。友軍が後方から回り込んで占領したものと考え、油断していたところに機関砲の連射が襲ってきた。
わずか2匹の猛魚は車体をバウンドさせながら疾走した。
25ミリ機関砲がバースト射を送り出し、砲塔は次の贄を探してくるっと回った。
この陣前逆襲での混乱に乗じ、歩兵分隊が突撃に移った。この方面を担当する海兵隊D大隊戦闘団は一時的恐慌状態に陥った。
だが勢いの止まったときが、彼らの死ぬときだった。
圧倒的なNATO軍に何重にも包囲され、2両の装甲車と14名の空挺隊員は瞬時に殲滅された。
114高地を守る兵力は、11名に減少。
NATOがじりじりと飛行場に近づくにつれてソヴィエトの防御陣地は堅牢の度を増した。
日露戦争において日本人が日本人の血を代償にして学んだ通り、もともとロシア民族は陣地を作るのが上手い。
そこに機動攻撃を旨とする空挺の色が加わると、考えるだにオソロしいシロモノが出来上がってしまうのである。
対戦車壕に嵌って動けなくなった装甲車には、即時にカール・グスタフや対戦車ミサイルの十字砲火が待っている。
複雑に入り組んだ塹壕では、しばしば仕掛け爆弾が軽はずみに前進したNATO兵を引き裂いた。
迫撃砲の阻止射撃も期待したほどの効を奏さず、火炎放射器はもともと持っていなかった。
全くもって、この圧倒的な鉄量の差を持ってしてもNATOの進撃は困難を極め、多くは凄惨にまでなった。
それでもNATO、特にノルウェー海兵隊は文字通り不屈だった。
誰もが極限状態だった。それでも、決戦意識が彼らを挫けさせなかった。
祖国を蹂躙するソヴィエト人への憎しみが彼らを支えた。誰もが死力を尽くした。
その海兵隊をもってしても、その前進は停滞しつつあった。
南部の海兵隊はカウンター・アタックの勢いを失い、工兵隊の堅固な守りと疲労のために前進速度が落ちていた。
E大隊が威力偵察のために攻撃し、他の部隊は漸くにして一息ついていた。
洋上のNATO司令部はこれに激怒した。この怒りは残酷であった。彼らはそれをよく知っていた。
それでも激怒せざるを得なかった。レイノルズ大佐は無線機が爆発しかねないほどの勢いで怒鳴った。
『アンデネス前面ではA大隊が孤立しとるんじゃ。それでも何とか前進しようとしとるんじゃ。
なんと飛行場の前2キロまで進出しよった。
だがお前、今朝になって敵がどんどん増えてきて、F大隊の支援があっても難戦も何も話にならん。
飛行場を撃破できるか否かが勝敗の分かれ目じゃ。ヨルデン(A大隊長)の荷を軽くしてやれ。
第2連隊が100歩進むごとにA大隊が1歩進める。そのために第2連隊にどれだけの損害を出しても構わん。
A大隊がアンデネス前面で潰れればアンダヤ戦はもうしまいじゃ。第2連隊が生き残っても海兵隊が潰れるぞ!』
0400時、威力偵察により工兵隊の防衛配置はおおよそ割れた。
そして、第2連隊を基幹としたリュイサ支隊、すなわちB大隊,C大隊,D大隊,E大隊は、敵の保塁群へ猛烈な攻撃を再開した。いかな情報があろうとも、その攻撃たるやまさに猛進 実に惨烈しばしば描写するに耐えざるものであった。
ある中隊では、1門のカール・グスタフから放たれた砲弾が中隊長の五体を木っ端微塵に吹っ飛ばした。
だが砲煙が晴れると別の士官が指揮を代行し、攻撃の手を全く緩めなかった。
B大隊は3分の1,100名の兵士を喪失して事実上中隊の規模となっていた。
だがブッシュ少将はそれでも大隊編成を解かなかった。
ここでB大隊をC大隊に編入すれば、B大隊はただ全滅するために上陸した部隊として戦史に刻まれることになる。
ただしB大隊長に臨時に任ぜられたウォード大尉は、事実上C大隊の指揮下に入るように命ぜられた。
遮蔽から遮蔽へとダッシュし、匍匐前進でゆっくりと進む。
機関銃が、頭上のトーチカから間断なく弾丸を送りつづけている。
少しでも頭を上げれば、気付かれるようなことがあれば…
軍曹は仰向けになって右腕に握った梱包爆薬を放り込み、刹那、身を翻して倒れこんだ。
爆発がトーチカを大破させた。
軍曹は粉塵収まらぬトーチカの残骸に躍りこんだ。
ソヴィエト兵の何人かは奇跡的に即死を免れていたが、爆発の衝撃で朦朧としていた。
軍曹は彼らを素早いサブマシンガンの掃射で一掃し、分隊員はトーチカへとなだれ込んだ。
隣のトーチカが異常を悟り、銃撃を浴びせてきた。
手榴弾が弧を描いて飛来した。
分隊員の一人がそれを掴もうとしたが、遅かった。
手榴弾が爆発し、致命的な破片でトーチカの残骸を満たす。軍曹以下の分隊は全滅した。
だが後続の部隊がその突破口へとなだれ込み、たちまちに塹壕の中で凄惨な白兵戦が展開された。
ソヴィエト工兵中隊のサヴィン分隊は先ほどまで後方にいた。
だが、今は前線にいる。彼らが動いたわけではない。前線がここまで後退してきたのだ。
「じ…自分も部下も近接戦経験はありません」サヴィン軍曹は、本管中隊から急派されてきたネデリー中尉に訴えた。
「俺もだよ、ヤケクソさ。早く位置につけ」普段は輸送業務を担当しているネデリーは返した。「第1線が突破された」
「エライことになってしもた」盛り土された坑道を小走りに遠ざかる中尉の背中に向かってぼやいた。
砲弾が落ち、爆発した。どちらのものかは分からない。
「すげェ、腹に響くぜ」「おい、しゃがめよ」若い分隊員たちは囁きあっている。
「来るぞナトーだ」「俺、怖いよ」
BAGOM! BAGOM! 「ワァっ!」
土砂が飛び散り、体を半ば埋めた。
「射撃用意!」
「おい、射撃用意だってさ」「我慢できないよ」
「俺、こんなところで死にたくないよ」「俺だって」
「み…見ろよ、LAVだエルエーブイ」
二等兵は耳をふさぎ、目をつぶって塹壕の底にしゃがんでいた。
「俺、怖いんだ。小便漏らしちゃったよ」
「…俺もだよ」ライフルを抱えた相棒も呟いた。
『カスター32こちらカスター13 目標位置座標152-2351 標高200 観目方位角4720 敵野戦陣地推定小隊兵力
正面200縦深100 試射を要求 修正可能 おくれ』
「カスター13こちらカスター32了解 待て」
「班長! FOから射撃要求です。修正射、座標152…」
「中隊修正射! 基準砲、M557瞬発、装薬緑4 方位角1058 射角380 弾種榴弾」「よし!」
「各個に撃て! なお効力射にはM557短延期8発を準備」
「よーい、てっ!」BAM!
「基準砲、初弾発射」
「1中、FOから射撃要求。まもなく射撃入ります」
「…弾着いま! おくれ」
『カスター32 こちらカスター13 弾着確認 右へ100増せ200 効力射を要求 おくれ』
「カスター13 こちらカスター32 了解 効力射に入る 以上!」
「中隊効力射! 中隊全砲 M557短延期 装薬緑4 50ミリ秒 方位角1056 射角375 弾種榴弾 8発」「良し!」
「準備良し」「連続各個に撃て!」
「撃ち方はじめ!」BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM!
BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM!
BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM!
BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM! BAM!
「カスター13 こちらカスター32 最終弾落達まであと10秒―――――弾着いま!おくれ」
『カスター32 こちらカスター13 最終弾確認 敵の被害甚大』
114高地の頂上で105ミリ榴弾が続けざまに炸裂した。
爆竹が弾けるような音が続き、土砂が盛大に舞い上がった。
そこに生きているものがいるとは思えなかった。
『114高地連絡途絶』
『013こちら203 敵部隊損害に構わず北上中!』
『024こちら311 弾着いま! 照準修正願います…もしもし! もしもし!』
『011こちら165 全弾この上に落としてくれ 構わんやれ!』
120ミリ迫撃砲は、NATOを阻止しようとはかない望みをつないで砲撃を続けた。
だが、南部に揚陸されたNATOの対迫レーダーが機能し始めた。
放物線を描いて飛翔する迫撃砲弾は容易にその発射点を曝露し、迫撃砲の陣地を狙ってNATOの105ミリ榴弾が降った。
しばしば、塹壕は双方の兵士たちにとってそのまま墓穴となった。
それでもどちらも一歩も退こうとしなかった。戦友の死体の脇で男たちは戦った。
戦友の死体を回収するのは不可能だった。
壕は双方の戦死体で埋まり、兵士たちはそれを放り出して戦った。
第2中隊のザハルーティン分隊は後方を遮断され、包囲された。彼らはそれでも潰乱せず戦い続けた。
戦後、壕の中で分隊長ザハルーティン軍曹と6人の分隊員が各個の掩体で戦死しているのが発見された。
周囲には半円状に53名の海兵隊員の死体が転がっていた。
「防御なるものを示す一例なり」
NATO側の戦後報告書より抜粋した一文である。
掩護砲撃のために沿岸に接近した英海軍フリゲイトのウォーグレイヴ艦長は、双眼鏡を以って沿岸を遠望した。
双眼鏡を下ろした中佐の顔は蒼白になっていた。
戦線正面には地を埋め尽くすかのごとく双方の戦死体が転がり、その全てが不完全であった。
腕が地面に刺さり、頭が砂を噛んで転がっていた。肉片が飛び散り、足がごろんと転がっていた。
ノルウェー兵がソヴィエト兵の喉に噛み付き、気管が露出している。
そのノルウェー兵の目にはソヴィエト兵の指が突っ込まれ、眼球を抉り出していた。
その状態で二人とも息絶えていた。
ノルウェー人の、イギリス人の、アメリカ人の、そしてロシア人の血で砂浜は赤黒く変色し、その臭気は海上まで漂っていた。
いかに残酷な人間がいかに想像力を働かせても、これほどの作品は出来なかったであろう。
まさに悪魔の創作であった。
そんな中、双方の兵士たちは壕の埋め草となった死体を放り出して戦い続けていた。
やがては第1中隊本部の塹壕にまで海兵隊員たちが侵入してきた。
セルギエンコ大尉以下の中隊幕僚までもが銃を取って戦うほどに、ソヴィエト軍は追い詰められていた。
一部の海兵隊は市街に突入し、コルトン中尉が指揮する司令部守備隊と市街戦を展開し始めた。
「敵が市街に侵入しました!コルトン中尉が支援を要請しています」
「大佐」クレトフが叫んだ。「自分が行きます」
「兵力はあるのか?」
「対艦ミサイル中隊,高射砲兵中隊,砲兵中隊の残余が再編完了しております。小隊兵力です」
「よし。行け! だが将校斥候だ。すぐに戻って来い」
シマコフの言うことも当然で、今現在コルトンが指揮しているのはたかだか小隊相当の部隊に過ぎず、さらに1個小隊を加えても少佐――大隊長が直接指揮するレベルの部隊ではない。尤も、クレトフにしてもはなから将校斥候のつもりだった。
クレトフはさっと敬礼し、駆け出した。それを見送るシマコフの目に浮かぶ、後ろめたさと若干の安堵の色には気付かずに。
松葉杖をついたデミヤン大尉が恨めしそうに見送った。クレトフは通りざまに、にやっと笑いかけた。
小隊は、その全員が近接戦闘を専門としない兵科の出身だった。
対艦ミサイル中隊こそほぼ無傷だったが、砲兵中隊、高射砲兵中隊は空爆の痛手がまだ生々しかった。
特に高射砲兵中隊は数日前に布陣したばかりで地形に不慣れであった。
それでも、彼らは恐れをほとんど抱かなかった。
彼らの指揮官はシマコフ大佐だ。空挺誘導隊指揮官として、そして空中突撃連隊指揮官として、アフガン侵攻では先陣を切ってバグラム空軍基地に降着し、第1次アンダヤ戦では弾雨を冒して連隊の先頭に立ち、クレトフの背撃と呼応してNATOを大潰乱させた男だ。
十字路はバリケードで封鎖され、その前でピラーニャ装甲車の残骸がくすぶっていた。
半長靴の靴底で、瓦礫やガラスの破片が音を立てた。
「やあ、アンドリューシュカ。景気はどうだい?」
「やあ、サーシャ。交替か? やれやれ俺はこの穴が気に入りだしてたんだがな」
道の脇の蛸壺でライフルを構えたコルトンは皮肉ともつかない口調で言った。
両脇の民家からは機関銃が銃撃を浴びせていた。
敵も向かいの民家に拠り、銃撃戦を展開していた。
クレトフは、無謀にも仁王立ちになって双眼鏡で見回した。
「あそこに敵の観測班が陣取ってる――ように見える――うん、やっぱりそうだ。あそこなら迫撃砲で潰せないか?」
クレトフはコルトンに聞いた。コルトンの本業は情報将校だ。
「あー、どうだろうな。地上の観測手を潰しても航空機が代行しちゃあどうにもならないんじゃないか?」
「いや、陸海空がそんなに上手く連携できているとは思えん。
あれを潰せば、少なくとも敵地上軍の砲兵射撃は軽減されるだろう――」
クレトフは身を投げ出すようにして伏せた。
数呼吸後、105ミリ榴弾が炸裂した。
「無茶しやがる。誤射しかねんぞ」クレトフは他人事のように言った。
「たぶん流れ弾さ」コルトンも他人事のように言った。
「観測手の件だが、試してみてくれ。砲兵射撃だけでも減ればだいぶ助かる」
クレトフは車に乗り込んだ。司令部に戻る前に、市街を一周するつもりだった。
「サーシャ、死ぬなよ! あんたが死んだらスーザンが泣く」コルトンは笑った。「死んだら殺すぞ!」
「ヌかせ!」
クレトフは安全装置を解除したカービンを助手席に置き、車をスタートさせた。
町は瓦礫の山になっていた。車は飛行機に狙われるかと思ったが、砲兵の火線に割り込むことを警戒してアンデネス上空に戦闘機は来なかった。
だが、頼みの綱の迫撃砲は急速に戦力を減らしつつあった。
司令部に帰って戦況を聞いたクレトフは、NATOの対迫撃砲レーダーの威力に舌を巻いた。
中迫撃砲は撃ってすぐに陣地転換をすればどうにかなるが、重迫撃砲は陣地の秘匿性に全てを賭けるしかない。
そして、弾薬も尽きつつあった。あと10斉射と少しで――迫撃砲部隊にとって――全ては終わる。
今や劣勢は明らかだった。
航空掩護は無い。
対空火力も、レーダーも無い。
対艦ミサイルも無い。
戦車も砲兵も、無い。
装甲車すら1両も無い!
「我に空無し」
空軍から派遣されていた航空統制官は、ナルヴィクに悲痛な通信を送った。
三軍調整官の命令は飛行場の死守だった。
『3日以内に援軍を送る。飛行場を絶対に渡すな! 兵の死体を土嚢代わりにしてでも守れ』
「我々はもとより命を捨てる覚悟であります。
しかしこの犠牲の要求が正しいか小官には分かりません」
野戦病院は満杯になり、プーカンは司令部シェルター、スーザンがいる地下壕の上階にも負傷者を収容せざるを得なくなった。
指揮所はよりよく戦況を把握するため1階に移された。
空爆の脅威はあったが、実のところ地下1階でも1階でもあまり変わらなかった。
ブレイヴィカとブリークに展開したNATOの砲兵部隊は、布陣するや否や滅多うちに撃ちまくり始めた。
1分間に1門あたり5発を撃つ持続射である。
一発ごとに20ないし30メートルの危害半径を持つ105ミリ榴弾が、それこそ雨あられのごとく市街と飛行場に降り注いだ。
地獄の業火に投ぜられたが如き銃砲火の中で、工兵中隊と第1中隊および第2中隊――いや、もはや第1中隊と言うべきだろう、両中隊の損耗率は50%を越えていた――は絶望的な戦闘を展開しつつあった。
彼らは圧倒的なNATOの火力と兵力に耐えられず後退に後退を重ね、防衛線はことごとく突破され陣地は蹂躙され、今や飛行場の主要施設と司令部を含む半径3キロ足らずの円陣が最後の抵抗線となっていた。
陥落した114高地には迫撃砲の反斜面陣地が構築され、前進観測班の進出により砲兵の砲撃もその精密さを増していた。
1020時、海兵隊はついに滑走路を踏んだ。戦闘開始より36時間が経過していた。
砲声と砲弾の炸裂音はまったく天地を揺るがすほどであった。
方面軍の工兵を総動員した陣地はこれに良く耐えた。しかしその音は空挺隊員たちから確実に士気を奪った。
それでもソヴィエト軍の戦意はなお盛んだった。
「もう降伏しているんじゃないか、まだ降伏しないのか」とレイノルズ大佐は憤慨を通り越して呆れかえった。
容赦なく落下する砲弾は確実に飛行場を破壊し、シマコフ支隊の抵抗の根拠を奪いつつあると言うのに!
スーザンはシャベルを握りしめ、決意を固めるために深呼吸した。
このままでは、クレトフは死んでしまう。これだけは明らかだった。
だが彼女がこれからしようとすることは、果たして良いことなのだろうか。さらに言えば、成算はあるのだろうか。
ええい、ままよ、と彼女は決心した。
ノブをひねると、鍵がかかっていた。一度,二度とノブにシャベルをたたきつけ、渾身の力で体当たりを繰り返すと、
やがてドアは吹き飛んだ。シャベルを携え、ごった返す廊下を縫って進んでいく。泥にまみれた野戦迷彩の中、蛍光色のフライト・ジャケットが目立った。疲れ果てた男たちは、訝しむ事も無く従順に彼女に道を開けた。
「バニー、何をしているの?」
左右を見回し階段の最後の一段を上がると、正面から声が掛かった。プーカンが注射器を片手ににらんでいた。
「為すべきことを為しに行くのよ、イリーナ!
あなたたちにこの愚行の幕引きができないなら私が引くわ。そこを退きなさい!」
彼女はシャベルを構え、睨んだ。プーカンはホルスターに手をかけた。
瀕死の兵士たちが呻く声が響き、衛生兵,下士官たちが慌しく動く。
その喧騒の中、束の間、親友同士である二人の女性はにらみ合っていた。
それを砕いたのは衛生軍曹の声だった。
「中尉、新しい患者です!」
プーカンは顔を向けずに言った。
「姓名は?負傷の程度は?」
「セルギエンコ大尉、手榴弾の破片で頭部外傷―――」
プーカンは悲鳴のような声を上げて振り向き、担架に駆け寄った。
「―――背中に多発裂傷。現場で意識喪失、搬送中に覚醒。意識混濁。瞳孔反射は正常。全血輸血を開始―――」
セルギエンコは、目を見開いて担架に横たわっていた。
手招きでプーカンを呼び何やら囁くと、彼女の目に涙が浮かんだ。
スーザンは壁に立てかけられたカービンを見つけた。
セルギエンコのものらしい。血のりがべったりと張り付いている。
彼女は吐き気をこらえてシャベルを置きカービンを掴むと、1階に向かって駆け上がった。
彼女は戸口から躍り出ると、すばやくカービンを構えた。
フルオートを選択することを決め、セレクタを2段下げる。
戦況を表示した砂盤を、何人もの人影が覗き込んでいる。
そのなかにクレトフの姿を見つけた彼女はカービンを構え、声を掛けた。
「第1中隊長負傷。後送されました」
「飛行場に敵! 交戦中」
「迫砲中隊が弾薬を要求しています」「残弾は4斉射分です」
「工兵中隊敗走中。支援を要請しています」
「南方に回せる部隊は?」シマコフが聞いた。
「ありません、同志大佐」クレトフは短く答えた。
賭けは外れることもあるから賭けと言うんだよ、コーリャ。
さて、どうする?
敵の反攻が開始されたとき、本管中隊は大いに狼狽した。
参謀将校は野戦電話に向かって怒鳴り、他の将校は伝令を送って左の将校とは別の命令を伝え、副長のクレトフすらしばしば逆上した声を上げた。
今、統合指揮所は静まり返っていた。
既に打つべき手は無かった。
そのとき、戸口から転がり出る鮮やかなオレンジの人影が目に入った。
クレトフは反射的にカービンを振り上げ、構えたところで相手に気付いた。
スーザンの顔の前にカービンを見て、彼は思わず笑い出しそうになった。
「こんなところで何をしているんだ? ここは危ないから下に戻り給え」
「あなたは私のことを心配している状況でないことは分かっているでしょう?
「ニコライ、あなたたちに勝ち目は無いわ。あなたたちはよくやった。でも、元から勝てるわけが無い戦いだったのよ。
あなたの部下はあなたを信頼している。彼らをこれ以上死なせては駄目よ。
ただちに降伏しなさい、今すぐに!」
誰もがこの対決を見守っていた。
嘘のように静まり返り、遠くの爆音、砲撃音だけが聞こえていた。
恋人たちは銃を構えあいながら、無言のまま向かい合っていた。
クレトフは、反射的に銃を構えてしまった自分の反射神経を呪った。
自分には、彼女を撃つことができないことが分かった。指が用心金から動かないのだ。
手詰まりだ。
彼女に撃たれるってえのはどうだろうな、サーシャ?
彼は、自分がそれをそう嫌がってもいないことに驚いた。
彼は疲れきっていた。部下はこの2日間戦い詰めで、司令部メンバーは白刃を踏むような緊張感に疲労しきっていた。
彼女を殺すことはできない。それに、ここで撃たれれば敗北という不名誉を生きて見ることも無い。
彼はそう結論し、その結論に妙に落ち着いた。
諦観に澄んだ心に、彼女の美しさは哀しいほどに染みた。
極度の集中力を表すように目を細め、彼のほうを睨みつけている。
戦の女神を体現したかのような、危険さ。普段の温かさは影を潜め、豹にも似た殺気が彼を撃った。
それはきりっと彫りがふかく、熱いものを内に秘めた顔だった――刀のようだ――彼の心に浮かんだのは、そんな、他愛も無い比喩だった。
彼はそのとき、相手が自分のことを殺そうとしていることをしばし忘れ、彼女の銃の照星越しに見えるその凛とした表情に魅入られたようにしていた。
ふと銃を傍らのテーブルに置き、無造作に足を踏み出した。彼女の目に、それと分かるほどの動揺の色が走った。
クレトフは両手をぶらぶらと無防備にたらしながら一歩一歩進んでいく。
彼女は銃のグリップを、壊しそうなほどの力で握りしめた。
「それ以上近寄らないで。撃つわよ、ほんとに!」
「撃てよ、スーザン。君が言ったとおりに。よく狙って撃つんだぜ」
「畜生セルゲイ、私に撃たせないでよ! そこで止まれ!」絶叫に近かった。
クレトフはゆっくりと手を上げ、額に指を当てた。
彼女はその指に導かれるように、半ば麻痺した状態で引き金を引いた。
しかし、彼女の手は最後の最後に反抗した。
1発目はクレトフの頭をかすめ、飛び去った。
その後に連射が続くはずだった。
しかし、1発だけだった。
クレトフは本能的に銃声に反応し、一瞬で距離をつめ、彼女の手からカービンを取り上げた。
二人の顔がぐんと接近し、お互いの目をのぞきこんだ。
「なんで撃たなかった? なんで、俺を殺してくれなかった?」
彼は囁いた。その目には、ただ絶望が宿っていた。任務に失敗したことを悟った男の絶望が。
そのとき。
「警報! 空襲!」
外にいた曹長が警告の叫びを発した。
クレトフは反射的にスーザンを机の下に押し込んだ。
指揮所の要員もさっと伏せた。
ハリアー攻撃機が機関砲を撃ちまくりながら突入してきた。
曹長は放胆にもミサイル発射機を取り上げ、仁王立ちになって構えた。
その足の間で砲弾が爆発し、切り裂いた。
クレトフは、その死を見て頭に血が上った。
「畜生!」
彼はスーザンを押し込んだ机の前に別の机を倒してバリケードにすると、駆け出した。
曹長の死体の脇に落ちたミサイル発射機を取り上げ、記録的な速さで構えた。
大会に出れば優勝間違いなしだ――そんな大会があれば、だが。
捕捉を知らせる電子音が鳴るや早いか、発射した。
ミサイルはぐんぐん迫り、ハリアーの機体の数十センチ後ろで爆発した。
ハリアーは黒煙を曳きつつ、海岸へと去っていった。
しかし、2番機が無誘導ロケットを撃ちながら突入した。
クレトフは発射機を投げ捨て、足を引きずりながら走った。
4発は、完全に外れた。3発は、近かった。
最後の1発が、クレトフの背後数メートルの地面に命中した、というか命中しなかった。
破片が飛び、右足を膝からすっぱりと切り落とした。
苦悶の叫びは頭を打って途絶えた。
バリケードから這い出していたスーザンは、クレトフが倒れるのをちょうど目撃して叫んだ。
誰も制止しないうちにカービンを掴んで飛び出し、気絶しているクレトフの腕を取って背負うとカービンを杖にして運んだ。
少尉が飛び出して助けた。
二人はクレトフの体をそろそろと運び、地下の臨時野戦病院に運んだ。
シマコフは、3人が戸口に消えるのを見て、踵を返した。
彼は彼女に言われるまでも無く、敗北を悟っていた。
だが彼女の言葉はその背を押した。
「NATO側の指揮官に呼びかけてみてくれ。そちらの都合の良い場所で、会いたい。停戦交渉の準備がある、とな」
そして、シマコフはナルヴィクへつながる回線を開いた。
「航空援護も、SAMもSSMもありません。弾薬はあと半日分。損耗率は70パーセント。これ以上の抗戦は無意味です」
『この敗北主義者め貴様は銃殺だ!』
「我々はこれより降伏します。以上交信終了」
『莫迦者! 貴様など魔女のバアサンに喰われろ!…』
応急処置を終えたクレトフがスーザンの肩を借りて指揮所に上がると、指揮所要員たちが悄然と立ち尽くしていた。
「悪いがクレトフ少佐、君に後始末を頼まねばならん。頼んだぞ」 シマコフが声をかけた。
クレトフはそのとき、シマコフの格好に気付いた。
顔には迷彩ペイントを施し、空挺部隊の誇りであるブルーのベレーでは無く、鉄帽をかぶっている。
鉄帽のネットにはあちこちに折った木の枝が着けられ、その手にはカービンが握られている。
彼の考えを読んだのか、シマコフが続けた。
「まあ、な。私は古い人間だ。祖国がヤンキーなどに汚されるのに耐えられんのだよ。そして、私は空挺隊員だ。
兵士として死にたい、と思うわけだ」
「団長!」クレトフは叫んだ。「自分にも、お供させてください!」
「莫迦を言うな――君はまだ若い。明日の祖国のために生きろ。第一その足で何をする?」
と、シマコフはクレトフの左足を掛け、引き倒した。
どうと床に倒れ、背中を打ってうめくクレトフの胸にバランスを崩したスーザンが倒れかかってきた。
みぞおちに彼女の手が当たりクレトフは苦悶する。
「それに、私はあの夜の償いをせねばならんのだ…」シマコフは独白する。
彼は、その夜のことを思い出していた。
彼の大隊長は彼より10才以上若く、毎日射撃練習をし、そして恋人がいた。
あの夜、彼はそれが妬ましかったのかもしれない。
彼は熱に浮かされたように動き、気付いたときには彼女の部屋の外に張り付いていた。
そして、彼女がベッドにうつぶせ、その指がどこで動いているかを見たとき、彼の中で何かが切れたのだった。
彼はその日から、その罪悪感を背負って生きてきた。
自分の大隊長に対するとき、自らの罪を意識しないわけにはいかなかった。
だが、それもこれで終りだ。
シマコフは、クレトフを抱き起こそうとするスーザンを見た。
彼女の匂い、感触がありありと思い出されるのをねじ伏せ、彼はつぶやいた。
「さよなら、スーザン」静かに言った。
その声は静かな中にも彼女だけに通じる熱情を秘め、不覚にもスーザンの目の中のシマコフの姿が揺らいだ。
彼はすばやく駆け出し、樹木線に入り込んだ。
そしてそれが、クレトフやスーザン、そして本管中隊の面々がニコライ・マクシモービッチ・シマコフ大佐を見た最後だった。
「こんにちは、私は英国海軍のブッシュ少将です。こちらはノルウェー王国海兵隊のスミス大佐、そして合衆国海兵隊のルイス少佐。彼女が通訳をします」
「クレトフ少佐です。英語は話せます」
「降伏を申し出るのですか?」
「交渉を提案します」
「あなたの部隊がただちに敵対関係を停止し、武器を引き渡すことを要求します」
「わたしたちは、どうなります?」
「戦時捕虜として抑留されるでしょう。負傷者は適切な治療を受け、全員が国際協定に従った扱いを受けます」
クレトフはうなずいた。
「即時停戦を提案します」
「停戦に同意します。ところで、その足はあまり具合がよろしくないようですな。
よろしければ、この機で我々に同道していただきたい」
「いずれにせよ、行かねばならんのでしょうな?」
スミス大佐は同情を含んだ笑いを見せた。
「まあ、そうなるでしょうな。早いか遅いかの違いだけで。
ところで、あなた方は良くやりましたよ」
クレトフは、その賛辞を複雑な思いで聞いた。
「ああそうだ、忘れるところでした。あなた方に同胞をお返しします。ノルウェー王国空軍、パーカー少佐」
プーカンに付き添われて、スーザンが陰から進み出た。
そこでルイスの姿を見つけた。
二人は立場を忘れ、走りよって抱き合った。
それを、クレトフとブッシュは驚きの目で見た。
「彼女は、我々がここに来たときから我々の捕虜でした。なんでも我々の戦闘機を6機撃墜したとか。
そちらではエースと言うんでしたな?」
「そうらしいですな。人道的な扱いに感謝しますよ」クレトフはこっそり苦笑いを浮かべた。
ようやく二人は抱擁をとき、見詰め合っていた。
「バニー、こんなところにいたの? あなたはエースなんだって?」
「まあね。あなたも落とされたのね? この石頭でド頑固なジャーヘッドめ」
「再会の喜びはその辺にしてくれよ」スミスが笑った。「少佐、お帰り。まだヘリコプターの席は空いてるぞ」
彼女はクレトフに歩み寄り、松葉杖を取り上げると肩を貸し、二人はエンジンを止めて待つUH-1Nへと歩き出した。
スミスが驚いた顔でルイスを見ると、彼女は意味ありげに眉を動かした。
プーカンはNATO側と捕虜や戦傷者の取り扱いについての交渉をはじめた。
整然とした降伏、という体裁を保つことが、今回の大戦における彼女の実質的に最後の任務だった。
英海軍のウェストランド・コマンドゥ・ヘリコプターが飛来し、負傷者たちを運び出していた。
セルギエンコは横たわり、空を眺めていた。
それがやがて動き出し、ヘリコプターの天井に変わった。
ローター音が変わり、ふわりと浮く感触が伝わってくる。
首を回して隣を見ると、クチカロフ軍曹が横たわっていた。
「死に損ねましたよ…」
「命あっての物種だよ、軍曹。まあせいぜい奥さんを大事にして、養生することだな」
「これで逃げられると思ったんですがね…」 あのボルシチ!
彼は顔をしかめようとした。
しかし、それに笑いと涙とが混ざり、ひどく滑稽な顔になった。
セルギエンコは哄笑し、目を閉じてプーカンの顔を思い浮かべた。