<終章>  
 
 ワシーリー・イワノヴィッチ・セルギエンコ大尉は、第35親衛空挺連隊の庁舎で椅子に座ったまま大きく伸びをした。  
彼は今月中の少佐への昇進が確実視されている優秀な士官だ。  
 アンダヤで降伏したのち、シマコフ支隊の生存者は1人を除いて全員が本国に送還された。  
送還途中、皆が自分たちの未来を悲観していた。  
「後退は反逆行為」という軍隊で降伏が何を意味するかを考えれば、それも当然だろう。  
だがしかし、彼らは同様に降伏したアイスランドのアンドレーエフ少将の部隊よりも恵まれていた。  
 有利の材料は、大隊で唯一大した傷も無く戦い抜いた中隊長、イワン・セミョーノヴィッチ・ソロキン大尉である。  
彼は新しい参謀長補佐官、アルカージー・セミョーノヴィッチ・ソロキン中佐の実の弟なのだ。  
尤もそのことはソロキン(弟)本人も知らず、出迎えたソロキン(兄)から聞かされてはじめてわかったことだった。  
 
 さらに幸運は続いた。  
欧米のメディアにおいて攻防戦のことが報道され、セルギエンコたちは「六倍の敵を相手に2日間持ちこたえた英雄」として扱われたのだ。さすがに西側でも有名になった英雄たちを処分するわけにも行くまい。  
その記事の配信元は、ノルウェーの国防シンクタンク、IGS。  
セルギエンコは降伏の前に全身の負傷で行動不能となっていたから責任が問われることは無かったものの、これらの要因が合わさり、降伏したにも関わらず、処分はほとんどなかった。  
 
 数字のみを見ると、ロシア民族の長く輝かしい要塞戦の歴史の中で、アンダヤの防衛戦はそう優れたものではない。  
セヴァストーポリ。  
かのトルストイが従軍し、後に『セヴァストーポリ』を著すことになるクリミア戦争最大の戦闘では、349日持った。  
旅順。  
日露戦争有数の激戦地、日本国家の存亡を賭けた攻防戦では、155日であった。  
アンダヤは2日。この記録はいかにも短い。  
 だが、アンダヤに設けられていた防御施設は実のところ貧弱だった。塹壕と鉄条網、地雷原、せいぜいがトーチカ程度である。野戦陣地に毛が生えたようなものだ。  
これは決してシマコフ大佐や三軍調整官などソヴィエト軍の無能を示すものではない。彼らには、時間が決定的になかった。  
2ヶ月弱。それが、彼らに与えられた時間だった。  
旅順では4年,セヴァストーポリではもっと長い時間があった。  
 
 また、戦略目的にも問題があった。  
セヴァストーポリ要塞は、ただひたすらそこに存在することに意義があった。  
旅順では港を守ることが要塞の存在意義であったが、その港は要塞の最奥部に位置し、幾重にも及ぶ防塁によって守られていた。  
アンダヤにおいては、守るべき飛行場は汀線からわずかに5ないし6キロであった。  
仮にアンダヤ守備隊の指揮官がニコライ・マクシモーヴィッチ・シマコフ大佐ではなくロマン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコ少将であったとしても、シマコフ以上に持たせることが出来たかどうかは怪しいものだ。  
ちなみにコンドラチェンコは、その優れた戦闘指揮により旅順攻防戦で日本軍に悲鳴を上げさせた工兵出身の猛将である。  
 
彼はため息をついた。  
時計を見て、プーカン軍医大尉の勤務明けまでまだ3時間もあることを知ると、中隊の訓練計画書に注意を戻した。  
次なる戦争に備えて。  
 
 晩秋のある日、アンダヤの海岸に立ってみる。  
ノルウェーの風は、切るように冷たい。  
緑多く、実に美しいところだ。町のすぐそばまで山が迫り、その緑が青空に眩しい。  
大理石の慰霊碑に触れると、かすかな温もりが伝わってくる。  
それはあたかも、死者たちが現世に残した体温であるかのようでもあった。  
 実のところ、本作で扱われた「アンダヤ島」は実際のAndoya島とはだいぶ異なる。その主原因は、筆者が同島の地形図を入手できなかったことにある。そのため、道路図を下敷きに劇的効果を狙ってこちらで創作した地形図を元にして、全ての作戦を立案したことをここに告白する。諸賢が軍事小説を書くならば、想定戦場の地図は「絶対に」入手すべきである。  
 
 本編で触れることはついに出来なかったが、アンダヤにはロケットの発射場もある。  
余談となるが、このロケット発射場が核戦争の引き金を引きかけたことがある。  
 1995年1月25日、アンダヤ発射場からオーロラ探査のためのNASAの高空観測ロケットが発射された。  
ノルウェー外務省は発射の1カ月ほど前に、発射場の担当者の書いた発射についての通知書をオスロにあるすべての大使館に回していた。このロケットは以前のそれより大型で3倍の到達高度を持っていた――が、このことは知らされなかった。  
そして、このロケット発射についての通告は、ロシアの複雑怪奇で怠惰な軍官僚組織の中で行方不明になっていた。  
 発射されたロケットは、ロシアの早期警戒レーダーに直ちに捉えられた。  
防空軍はこれをアメリカのSLBMと識別。当局は低弾道核攻撃と考えた。  
 低弾道核攻撃――悪夢のシナリオ。  
敵国首脳部に対応時間を与えず、近海に忍び寄った潜水艦から発射された核ミサイルが首都上空で続けざまに炸裂、敵の首脳部を一掃する。  
ミサイルが到達する前に報復攻撃の核ミサイルを発射しなければならない。  
大統領にも事態が知らされ、核攻撃の命令を伝達するための「パンドラ・プロセス」が史上初めて起動し始めた。  
判断の時間は数分しかない。  
 幸い謎の物体は北に大きく逸れて北海に落下することが判明し、ミサイルの発射は防がれた。  
 
 また、アンダヤ島はマッコウクジラで世界的に有名なスポットでもある。  
その他に有名なマッコウクジラのWWポイントとしてはニュージーランドのカイコウラ、日本の室戸が知られている。  
 ダイビング・ショップもあるが、アンダヤでウェット・スーツを着たダイビングをするのは自殺行為だろう。  
ドライ・スーツの着用を強く勧める。尤も、おそらくドライ・スーツでなければ機材を貸してもらえないだろう。  
 
 車道の行き止まりに一台の車が止まった。  
そして、若い男女がゆっくりと慰霊碑に歩みを進めた。一人はノルウェー空軍中佐、もう一人はIGSの研究員だった。  
男のぎこちない動きから、右足が義足であることが分かる。  
二人は慰霊碑の前に立ち、女は花束を手向けた。  
そして、肩を抱き合い、しばし立ち尽くす。  
 二人の胸中に去来した思いを描写することは、筆者には困難だ。  
悔恨、寂寥、憤怒、憂愁、追憶…  
 だが、言葉は不要だった。  
彼らには、ひとりとして同じ人間はいない。国籍もノルウェー,ソヴィエト,イギリス,アメリカと多岐に渡っている。  
だが、彼らはあの日々、それぞれが信じるもののために戦い、散っていった。  
それだけは確かだ。  
彼らはあの日、ここに、確かに存在したのだ。  
 北極海からインド洋までで戦われ、数百万の死傷者を出した今次大戦。  
 この大戦が何を残したのか?  
それを論じることは無意味だ。「生産的」という言葉ほど戦争と相容れぬものも無い。  
戦争、殊に近代の国家総力戦とは人命と資源に関する国家間の膨大な引き算であるのだから。  
 考えてみれば妙な話だ。  
月に人を送り、火星に機械を送ることはできても、「生命か、自由か」という根源的な問いに  
我々はついに答えていないのだから。  
 
 
 やがて彼らは抱擁を解いた。  
スーザン・<バニー>・パーカーとセルゲイ・アンドレーエヴィッチ・クレトフは、これからの人生を生きるために走り去った。  
 
 
 それを木陰から見つめるひとりの男があった。その黒い髪は風にそよとも動かない。  
その顔には、彼を特徴付ける不可解な微笑が浮かんでいた。だが、そこには微かな寂しさが混じっていた。  
 彼がかつて持ち、そして二度と手に入れることの無いもの。そして、もう会うことの無いだろう親友たち。  
共に生きることはあっても、共に死ぬことは決して無い友人たち。  
それらを彼は思い返していたのかも知れない。  
 
 ふと波間に日光がきらめいた。  
虹色の光がそのシルエットを鮮やかに浮かび上がらせた。  
それは彼にさす後光のようでもあった。  
そして再び視線を戻したとき、イワン・セルゲーエビッチ・ボルノフとして知られた男はどこにも見当たらなかった。  
 
一陣の寒風が、枯葉を巻き上げた。  
枯葉はくるくると舞いながら、きらめく海面に向かってゆっくりと落ちていった。  
 
<後編:渚にて・終>  
 
 
 
 
 
ぼくはいつも、見ているしかなかった――ロバート・キャパ、戦場カメラマン。  
1954年5月25日、インドシナで取材中、触雷し、死亡。  
 
この言葉と本文との間に特別なつながりは、無い。ただ筆者の感傷から、よく分からないまま記しておく。  
 
<北の鷹匠たちの死・了>  
 

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