「残照」
心ならずもスーザン・パーカー空軍大尉がロシア人たちの客人となってから、およそ一週間が経った。
当初、彼らは友好的には程遠かった。スーザンはこの交戦で3人の部下を全て失い、一方でクレトフ少佐の部隊
は彼女に機銃掃射された。ちなみに彼らはのちに結婚することになるが、20ミリバルカン砲というのは配偶者間
暴力で使用された最大級の火器であろう。
その一方で、両者は戦争というものについておよそ古風で時代遅れな考え方を持っており、戦闘機パイロットも
空挺隊員も、それぞれがそれなりに自らをエリートだと見なしていた。このソヴィエト兵を相手にして、侵略者
に対して持つべき敵意を保っているのは難しかったし、ソヴィエト兵の側から見ればアンダヤは天国そのものに
思えた。例えば大隊長のクレトフ少佐の場合は7年前のアフガニスタン派遣が初実戦であり、その他の空挺隊員
もその種の経験を持っていた。そんな連中にとっては、ヨーロッパというだけで天にも昇るような気持ちになる
らしい。
ノルウェー人に戦士の伝統がないというわけではない――彼らがヴァイキングの末裔であることを想起されたい
――しかし少なくとも、ここにはムジャヒディンはいない。彼らがそう戦うことを余儀なくされたのは仕方ない
とは言え、戦場にそれなりのルールが存在するというか、そう期待できるというのは有難いことではある。
そして偶然にも、捕虜になった唯ひとりの空軍士官が女性であったということが、この問題に興味深い側面を
与えていた。戦場だと女でありさえすれば絶世の美女に見えるものだが、もともとスーザンは人目を引く顔立ち
だったし、しかも島にいる三千人あまりの若者に対して女性はスーザンとプーカン軍医中尉の2人だけだった。
これが錬度の低い徴集兵であればまた別の状況が生じたろうが、双方にとって幸いなことに、島にいるソヴィエ
ト兵の大部分は老練な空挺隊員だった。彼らは環境のおかげでたいへんに大らかな気分で過ごしていたし、
スーザンは気性として男っぽい部分も多分に持っていて、おまけにロシア人たちはなべて西側の女性に幻想混じ
りの憧憬を抱いていた。
そのような次第で、地上戦によって捕虜になった少数のノルウェー兵がソ連本国の収容所に送られた後も、
彼女だけはなんやかやと理由をつけて留められていた。彼女はそれをそれなりに楽しんでいたし、ロシア人たち
も、彼女が自分たちを機銃掃射したということは都合よく忘れ去っておおいに楽しんでいた。
しかしそんな良好な関係に、ちょっとした暗雲が垂れ込めつつあった。
全ては彼女の軽率な発言が招いたことである。
夕食後、彼女が自室に引っ込んだころを見はからって支隊の幹部たちが集まった。
「医学上は問題ありません」プーカン中尉が言った。
「彼女の腰は完治しています。多少の運動は、むしろ良い方向に働くでしょう」
「大佐、彼女はファシストです。信用してはいけません」ロマノフ中尉が指摘した。
「そのような者を自由に出歩かせるなど正気の沙汰とは思えません。KGBは反対します」
「中尉、君が職務を果たしていることが分かって大変に喜ばしい」
シマコフ大佐が辛辣な口調で言った。貴様の義務など知ったことではない、と言外に言っていたが、もちろん
正面切ってそのようなことを言うわけにはいかない。
「しかし、これは軍の名誉の問題だ。
彼女は空挺部隊を侮辱した。我ら伝統ある第106親衛空挺師団を、だ。
とうてい看過しがたい罪である。このような罪には然るべき懲罰を与えねばならん」
集まった男たちが密かな笑いを漏らした。
「それで、どれだけいくと思います?」とニチーキン大尉が聞いた。
「1.2に5」
「乗った」
「2に――」
「少佐は審判だから駄目ですよ」
そして、翌朝。
彼女が自分の愚かさを後悔するのは今にはじまったことでもないが、この朝、彼女はそれを数え切れないほど
反芻していた。
そもそも、機会はいくらでもあったはずなのだ。
かつて飛行隊長が毎朝のジョギングを提案したとき、『血管が拡張し、高G機動中に失神しやすくなる危険があ
る』などと理屈をこねて猛烈に反対した連中の筆頭格が彼女だった。
その後、ジョギングを決意したことも何度かあった。しかし、そういうときに限って何かしらの口実が、彼女に
見つけてもらおうと向こうからやってくるのであった。
その挙句にこのざまだった。喉がひりつき、心臓が口から飛び出しそうになっている。すっかり息を乱し、
清澄な朝の素晴らしい空気を少しでもたくさん体に取り込もうと、獣のように喘いでいる。
最悪なのは、音を上げることができないことだった。弱音を吐けば、3フィートほど後をついて来ている男――
糞忌々しい露助の空挺隊員――がさぞかし喜ぶことだろう。それだけは許せなかった。
たいていにおいて彼女は生き生きとしている――獰猛なまでに、とみんなが思っていた。Xで終わる「スー」
というあだ名は、決して彼女のおとなしさに由来するわけではない。
しかし今の彼女は歩く死体とさほど変わらず、多少早く走っている――むしろよろめいている――ことだけが
ゾンビーとの違いだった。これはちょっとした皮肉だった。普段の彼女はゾンビーを追いまわす側なのである。
第1中隊本部までだ、とスーザンは自分に言い聞かせた。そこまでは絶対に足を止めず、走りきろう。
その後は歩いていくんだ。絶対に止まらない。止まらないで行ける…はずだ。
目標まであと100メートルそこそこだと分かっていた。音速で飛ぶことに馴れた女にとってはたいした距離で
はないはずだった。
『空軍士官学校のマラソン選手』と自慢した昨晩の声が頭の中で響き、自分を嘲っているようだった。
これが10代後半とか20代前半だったら、しこたま飲んだ翌朝に飛び起きて、5マイルほど走りこんでから
平然と微笑を浮かべて朝食に出かけたものだった(と彼女は思った)。
それが今や、2キロも走っていないのに死んだほうがマシに思えてくる。本当にこれでも軍人か、と自嘲したく
もなる。いっそばったりといってしまえば、後の男も嘲る余裕は無くなるだろう。
軍曹に率いられた兵士の一隊が、歩調を揃えて彼女らの脇を駆け抜けた。通り過ぎる数人が好色な視線で彼女
の尻や胸を撫でまわし、後にぴったりとついてくるクレトフ少佐がきつい一瞥を与えたが、当の彼女にはそんな
ことを気にしている余裕はまったくなかった。
彼女は今や蛇行しはじめており、いっそう悪いことに彼女自身それに気づいていなかった。
背の低い建物が見えてきた。あと50メートル…
彼女はスピードをゆるめ、歩きはじめた。止まってはだめだ、と思った。止まればもっと辛くなる…
彼女は足を止めて煉瓦造りの壁に手をつき、何度も咳き込んだ。
吐くぞ、と思ったが、幸いそうはならなかったし、そもそも吐くものがなかった。
しかし心臓が口からこぼれおちそうで、脇腹が燃えるように痛く、萎えた膝ががくがくと震えていた。
顔を上げると、壁に寄りかかった男の笑いが目に入った。何も言わないのがなおさらこたえて、また俯いた。
「降参するかね、大尉?」
「ふん! これくらい…」
「尻を叩いて走らせても構わないんだぞ、こっちとしては」彼はにやにやと笑った。
「分かった、分かったわよ――あたしの負けよ!」
ありったけの息をかき集めて自尊心と一緒に吐き出すと、やわらかな草に腰を下ろして酷使された膝を伸ばした。
「無謀な挑戦だったわ…」
「挑戦するのは構わんよ。身の程をわきまえてりゃあな」
「畜生ッ!」と吐き捨てた。
「それだけ元気があれば、心臓発作を起こす心配はなさそうだな。ちょっと前には道端でぶっ倒れるんじゃない
かと思ったんだが」
彼女はそれには答えず膝を抱えた。その首筋に張り付いた濡れた髪に、彼はなぜかひどく狼狽して目を逸らせた。
「我々は全員が心肺蘇生法の訓練を受けている――こう聞けば少しは安心だろう?
まあ、明日からは衛生兵と救急車も連れて行くことにしようか」
「信じてよ。昔だったら、本当にこれくらいどうってことなかったんだから」
「まあ、よくもったほうだと思うよ――ずっとホテルから一歩も出ないで怠けてたわりにはね。
みんなだいたい1.5キロから1キロに賭けてたしね」
「あなたは?」彼女はさりげなく聞いた。
「俺は2キロで、一番近かったかな」
「ねえ、それなら帰ったら何か奢ってよ。私のおかげで賭けに勝てたようなものでしょう?」
上目遣いで見上げる彼女に、彼は吹きだした。
「ほら! それがいけないのさ。もっと健康的な食事をして、ちゃんと走る!」
「そうすれば、あなたたちについていけると思う?」
「2週間もすればじゅうぶんに我々に伍していけるさ――1キロくらいはね」
彼女の膨れっ面を見て、セルゲイは笑った。
「そう怒りなさんな、同志。継続は力なりさ。自分の不摂生を忘れて無理をするからいけないんだ」
スーザンは身を震わせた。摂氏で15度にも達しない涼しさだというのに、彼女は水でも浴びたようにすっかり
濡れてしまっていた。彼が笑って手を差し伸べ、彼女は少し躊躇ってからその手を握った。彼女の手が意外に
華奢なことに気づき、彼は新鮮な驚きを味わった。
彼女は彼にぶつかりそうになって体を引き戻し、膝がそれを支えきれないで少しよろめいた。
黄金色の残照が残る白い頬に赤みが差し上り、彼はそれをとても美しいと思った。
そして、彼らは今でも走っている。スーザンの拳がセルゲイのそれと軽く打ち合わされ、挑戦がなされる。
そして、彼らは復興の槌音が響く街を走っていく。
周囲の人々は、この毎朝の儀式を若い夫婦の仲の良さの表れのひとつだと思っていた。
しかし、これには彼らの知らない側面もあるのだった。
前の2つの大戦に比べ、今次大戦は結果としてわりあいに「すっきりと」終わったと言える。
第1次大戦はその終結によって第2次大戦を導いたし、第2次大戦は最終的に第3次大戦に発展した冷戦、
そして世界各地の数多の紛争の引き金を引いた。
それに比べ、当初の懸念にもかかわらず、第3次大戦が後に残した禍根は比較的に――比較的に、である――
少なかったと言えよう。
しかし、その第3次大戦の対立構造が唯一継続しているのが、この朝の競走なのかもしれなかった。
彼らの夫婦喧嘩はすなわち、箱庭の第4次大戦なのである――東西の両陣営で最高レベルの訓練を受けた2人が
素手でやりあうことになり、つまるところアインシュタインの予言はおおよそ正しかったという次第。
敗北の印として彼女が淹れたコーヒーを受け取り、ソファに沈んだセルゲイは満足そうな微笑を浮かべた。
一度は足を奪われた彼だが、新しい友人たちのおかげで西ドイツ製の実に良くできた足を得ることができた。
最初は歩くだけで我慢しなければならなかったが、やがて早足に慣れ、今では走ることすらできる。
そして、三度に一度は彼女よりも早く家に着くことができるまでになった。
キッチンに立ったスーザンはそんな彼を見ながら、彼の背中を見ながら走るのもそんなに悪くない、と思うの
だった。
(補遺)
「だけど、健康的な食事なんてどうすればいいのよ?」
セルゲイは考え込むふりをした。
「とりあえず、毎晩誰かを飲み潰さないと気がすまない、なんて癖はどうにかしてくれるとうれしいな。
毎朝毎朝誰かが使い物にならなくなってるのは困るんでね」
それに応じる訳にはいかなかった。こっそりドアの裏に何列も撃墜マークを刻んで喜んでいたからである。
「それから、毎晩厨房から何かちょろまかすのはやめることだな」
「あら、そんなはしたないことしないわよ」
「じゃあ昨日の晩、アップルパイまるごと1個とキットカットひと袋とシナモンドーナツひと箱とパンケーキ
ひと皿と、それと俺が楽しみにしていたリッチミルクのハーゲンダッツを掠めていったのは誰だろうな?」
彼女は赤面した!
<残照・了>