「ごちそうさま、伸吾。美味しかった……!」
「ホント?良かったぁ。今コーヒー入れるから」
「ありがと…。じゃ、私、その間に洗い物しとく。エプロン貸してね」
「いいよ、くるみ。ゆっくりしてなよ」
「だって…ご飯、全部伸吾に作らせちゃったんだもん。悪くて…」
一緒に作るはずだったのに、また仕事が延びて。
2時間も遅刻したけど、伸吾は怒るどころか、一人で晩御飯を用意してくれてた。
…伸吾は優しい。
私は遅刻したり、ドタキャンしたり、そんなことばっかり…。
ドタキャンの最たる物が結婚式だった。
式が始まる直前、新婦は式場から消えた。
当然式は中止だったが、二人はほぼ100%のキャンセル料を支払うことになった。
また最初から、結婚資金を貯め直さなくてはならない。
同居の計画も消えた。
そのかわり、一緒にいる時間をなるべく作ろうと、予定が合う限り伸吾の部屋で
過ごすことにしていたのだった。
あのキャンセル料は痛かったなあ……。
――っていうか、あれって氷室警視が払うべきじゃないの?!お金持ちなんだし!
…あり得ないか…。飛んで行った私のせいだよね……。
「はぁあ…」
「どうしたの、ため息ついて。やっぱり疲れてる?」
「あ、ううん…。元気」
「元気っていう声じゃないぞ。忙しいの?心配だよ」
伸吾はくるみの後ろに寄り添って、体にそっと腕を回した。
くるみは食器を洗う手を止めて、頭を伸吾に持たせかける。
「ゴメンね、伸吾……。私のせいで結婚のびちゃって…」
「仕事だったんだもん、気にするなって。それよりさ、いいこと思いついたんだ」
「え…?」
伸吾は手際よくペアのカップにコーヒーを注ぎ、テーブルに運んだ。
「座って座って。飲みながら話すよ」
くるみはエプロン姿のままテーブルの前に座り、コーヒーを一口飲む。
「おいし。なあに?いいことって…」
「うん。もうさ、ホテルでの挙式・披露宴はやめるの。ちょっと質素だけど、
教会で、っていうのはどうかな?そうすれば費用もそんなにかからないから、
資金が貯まるまでの期間も短いだろ?その分結婚が近づくってわけ」
「あ……。それ、いい考えだね」
「でしょ?今度二人で詳しい話を聞きに行こうよ」
優しい笑顔。いろいろ考えてくれたんだ。
ありがとう、伸吾…。
くるみは伸吾に顔を寄せて、頬にそっとキスをした。
「くるみ……」
伸吾は顔を動かし、くるみの唇を捕らえた。
唇と唇を、強く、弱く、押し付け合う。
ちゅっ、ちゅっと小さな音をたてて、二人は小さなキスを繰り返した。
伸吾は少しずつ口を開いて、くるみの唇を包み込んでいく。
「…ん……」
くるみの顎に手を添え、自分の唇でくるみの唇に隙間を作った。
唇が開いた分だけ、キスが深くなる。
顔を傾けて、もっと深く……。
いつの間にかくるみは伸吾の腕の中にいた。
伸吾の舌が、少しだけくるみの口に忍び込む。
「……!」
くるみはぴくりと震えたが、すぐに自分の舌で伸吾の舌を迎えた。
舌の先がやわらかく触れ合う。
「んん…」
えも言われぬ感じに、くるみは喉の奥でため息をついた。
伸吾の力が強くなる。
くるみの胸元に手がのびて、やわらかな胸を手のひらで包んだ。
あ……。……気持ちいい…、伸吾の手……。
ちょっと恥ずかしいけど、もっと抱いて……。
伸吾はゆっくりとくるみの胸を揉む。
くるみは体を押し付けて、強くキスをした。
「う…っ!」
ふいに伸吾が体を遠ざけ、くるみに背を向けて苦しそうに話す。
「ちょ、ちょっと待って……悪い、これ以上は…、我慢できなく…なりそう…。
ごめんね、くるみ…」
「そんな、謝らないで……。…やっぱり、したい…?」
「そりゃあね。でも、ちゃんと結婚するまでガマンするよ。平気、平気」
「…ありがと、伸吾…」
「そのかわりさ、結婚したら、『裸にエプロン』やってくれない?」
「やっ…やだあ、伸吾のエッチ!」
「違うよ、男のロマンなんだよ!」
いつもの二人の空気に戻って、くるみはほっとする。
「あの…さっきの教会の話だけど、いつ行く?」
「くるみ、2、3日中に休み取れない?なるべく昼間がいいんだけど」
「取れるかなあ。頼んでみる……、氷室…警視に…」
「…うん。取れたら連絡して」
ほんの少しだけ、また空気が変わる。
さよならを言って、くるみは伸吾の部屋を後にした。
伸吾、辛そうだった…。我慢させてゴメン…。
早く…したいよね、やっぱり……。
絶対、お休みもらうから!
くるみはちらっと氷室の顔を盗み見る。
無表情にコンピューターの画面を見つめる横顔。
息巻いたものの、くるみは休暇の申請をなかなかきり出せずにいた。
うう…機嫌は悪くなさそうだけど、言いにくいなあ…。全休じゃなくて
半休なら許してくれるかな…。って、あたしが譲歩してどうするのよ!
結婚の相談があるので、休ませて下さい、って堂々と言わなきゃ!
…でも……。
くるみは氷室の様々な表情を思い出す。
とりすました、人を見下したような顔。自身に満ちた顔。
その一方で、打ちひしがれ、苦しむ顔。無力感に苛まれる顔。
無表情の下の激情。口には出さないくるみへの信頼。
あたしが結婚して辞めちゃったら、やっぱり、困るかな…。
後に来る人と気が合えば……ううん、他の人じゃきっと無理。
あたしは別に気が合うわけじゃないけど…警視のこと、ずいぶん理解できるように
なったし、警視だって、少しはあたしの――。
「彩木君」
くるみは胸を刺されたようにどきんとする。
「は…はい!」
「何かあるなら言ったらどうだ。私の顔に穴をあける気か」
「…え?あっ、いえ、そんなつもりじゃ……すみません…」
思わず目を伏せる。頬が少し熱い。
慌てるくるみを、氷室は横目で見る。
「…せっかく久々に冗談を言ったんだ。もう少し受けたまえ!」
ぷいと立ち上がり、書庫の中へ入って行った。
「ああん、どうしよう…怒らせちゃった……」
二人を見ていたボブが吹き出す。
「コウ、照れてるだけよ。だけど、くるみちゃんも、コウも、分かりやすいねぇ…」
「な…何言ってるの、ボブさんたら……!」
――あたし、穴のあくほど警視を見てた?それを…警視に見られてた?
やだ…余計言い出せなくなっちゃう……。
「あの…警視……」
くるみは意を決して、書庫の中の氷室のそばに行く。
棚に寄りかかって本を読んでいた氷室が、顔を上げてくるみに目を向ける。
表情は意外なほどやわらかい。
「なんだ」
「えーと……近々、お休みを頂きたいんですけど…」
「期間は」
「1日…いえ、ダメなら半日でも…」
「2日やろう。あまり頻繁に休まれてもかなわんからな」
「え、そんなにいいんですか?」
氷室はおかしそうにくるみを見る。
「2日で『そんなに』とは、君も相当A別館勤務に慣れたんだな…」
「あ……、まあ。なにしろ、ずーっとこき使われてるですもん」
「それも結婚退職までだろう。文句を言わずに頑張りたまえ」
胸がきゅんと締めつけられる。
「は…い。お休みありがとうございます、警視…」
「事件が入ってきたら、休暇中だろうと呼び出すぞ。いいな」
「わかってます。携帯はいつも持ってますから…」
「よし。それでいい」
なに…調子狂っちゃう…。どうして今日はこんなに優しいんだろ?
休暇の理由も聞かなかった…。
結婚退職まで…って、あたしが結婚して、辞めちゃっても、いいの…?
警視は全然困ったりとか……しないの?
ソファの上で、くるみと伸吾は重なりあっている。
「……んっ…ん」
くるみの上になった伸吾が、唇を離さずに体中をまさぐる。
手は少しずつ大胆になって、スカートの中にもぐった。
「し…んご……。ダメ……そんな方まで……」
くるみは慌ててその手を押さえ付ける。
「あ…ゴメン、夢中になっちゃった…。ね、くるみ、あれして」
「なに…?」
「この前みたく、口の中に、舌ペロンって……」
「ん……こう…?」
くるみが深くキスをして舌を入れると、伸吾は身震いして硬直した。
「ああっ……すごくいい……。ねえ、くるみ…、今日…最後までいっちゃだめ?」
「え……?!だ、ダメだよ…明日、教会に行くんじゃない……」
「そうなんだけど……結婚が近づいたって思うと、なおさら…」
伸吾はくるみの耳の下に唇を寄せて、熱い息で話しながら手を動かした。
くるみのしっとりした内腿の隙間をゆっくりとなで上げる。
「…あ…っ、…だ……めぇ…」
下着の上からじんわりと押してくる指に、くるみの口から声がもれる。
「はあぁ……っ…」
「ほら……、くるみだって、感じてるよ…。ね……?」
ほんのりと濡れた下着の上を指が動いて、くるみに答えをうながす。
「ああ……、しん…ご……おねがい、待って……。おねがい……!」
必死な声に驚いて、伸吾は体を離す。
くるみは目を潤ませ、はあはあと大きく息をついた。
「ごめん、なさい……。やっぱり、あたし、まだ…」
「くるみ…。悪かった、ごめん。おれ、我慢するって言ったのに…」
泣き出しそうなくるみの体を引き起こし、伸吾はそっと肩を抱いた。
「伸吾が、悪いんじゃないよ……あたしが悪いの………」
「…もういいよ……。しばらくこうしていよう…」
二人は肩を寄せあったまま、じっと座っていた。
翌日、伸吾とくるみは最寄り駅で待ち合わせて、その教会を訪れた。
事務室の窓口で伸吾が用件を告げる。
短いやり取りのあいだ、くるみは廊下の向こうを眺めていた。
その視線の先を、黒い服の男性が通り過ぎる。
えっ………。いまの…、警視!!?
う、うそ…、警視がどうしてこんな所にいるの……?
ヒッキーやめたとか……。まさか…そんなはずない。やだ、視力落ちたかなあ…。
「お待たせ、これから話を聞かせてくれるって。あっちの部屋で待って……、
くるみ?目こすって、どうしたの?」
「え…?ううん、なんでもない」
伸吾に伴われて、くるみは小さな応接室に入った。
「なんか緊張するね。いい子にしてなきゃって感じ。昨日我慢して正解だったよ」
「やっ、変なこと言わないで!」
ドアをノックして、男性が入ってくる。
「…お待たせしました。こんにちは」
その姿を見て、くるみは悲鳴に近い声をあげた。
「…ひむ……!」
――違う、氷室警視じゃない。さっきの人だ。すごく似てるけど、違う…。
瞬時に我に返り、冷汗が出る。
「すっ、すみません…、なんでもないです…!」
くるみの不躾な行動を気にするふうもなく、彼はにっこり微笑んだ。
「どうぞ、おかけ下さい」
腰を下ろしながら、伸吾がくるみをつつく。
「大丈夫?何か変だよ、くるみ……」
「ごめん。大丈夫」
男性もむかい合わせの椅子にかけ、話し始める。
「春原(すのはら)と申します。春の原と書きます。
今日は、結婚式についてお知りになりたいと云うことですね……」
警視に瓜二つでも、名前は正反対だあ…。この人の方が、優しい雰囲気。
やっぱり聖職者だからかな、穏やかな話し方。声は警視より少し高め…。
警視の声はドスがきき過ぎなのよ。嫌いじゃない…けど。
それにしても、どうしてこんなに似てるんだろ?まさか、親戚?
明らかに上の空のくるみの目と、春原の目が合う。
条件反射的に怒鳴られるような気がして、くるみはうろたえた。
「あ…あのっ…」
彼はくるみの目を見たまま、にこ、と口元をやわらげる。
「つまり、講座で少々キリスト教を学ぶことが条件です。
また、聖書を読む宿題も…。こちらには何度も足を運んで頂くことになります」
「なるほどお…。結構大変なんですねえ……」
突然、伸吾の携帯が鳴った。
「わ、ちょっと失礼!…はい、上島です……」
伸吾は電話を受けながら廊下に出ていく。
取り残されたくるみは所在なく下を向いていた。
「申し訳ない、急用ですぐに行かないと…。くるみ、ごめん!代打で地方取材が
入っちゃった…帰ったら連絡するから。あと頼んでいい?」
「うん、わかった……気をつけてね」
「じゃ、すみません、僕はこれで失礼します!」
慌ただしく伸吾が去る。
部屋がしんと静まりかえる。
くるみは会話の糸口をつかめずに、もじもじしていた。
「二人きりになったのでお聞きしますが…」
「え?」
彼は口元に笑みを浮かべたまま、しかし鋭い視線でくるみを見る。
「この結婚、迷っているのでは」
「え……っ」
くるみの胸はどきりと高鳴った。
「ど…どうして、そう思うんですか……」
「ただ、そんな気が。不愉快だったら謝ります」
「いえ………。…もしかしたら、気掛かりがあるかも……。あの、結婚したら、
仕事を辞める約束なんですけど…、辞めたあと、私の…上司が……」
くるみは息を継ぐ。
「部下は私一人で…、元々あまり部下が定着しない部署で、それで、辞めたあとが
心配なんです。大丈夫なのかなあって。なんか、おかしいですよね……」
「おかしくないですよ。お気持ちはわかります…」
くるみは氷室に言えないことを、氷室に似た人物に話している。
奇妙な気分ではあったが、思いを言葉にすると楽になった。
「ありがとうございます。あ、お話ししたら、ちょっとすっきりした…」
「それは良かった」
「なんだか相談に乗ってもらったみたい。神父さま…だから?」
「私が?…そう見えますか」
彼がにやりと笑う。
氷室を思わせる不敵な笑みは、微笑よりはるかに魅力的だった。
「え、違うんですか…。だって、すごく落ち着いてるし……」
「大学院で神学を学ぶ、ただの学生ですよ。ここでは手伝いをしています」
「やだ、ごめんなさい…」
「謝ることはない。――そうだ、一つの解決法を教えましょう」
「え?」
「例えば明日、その人に会えなくなるとしたら…。今日あなたはどうしますか?
考えてごらんなさい…それが答えにつながるかも知れない」
「…………」
くるみはその言葉を反芻しながら、彼の顔を見つめた。
「あなたは不思議な目で私を見る。……今日はお話しできて良かったです」
外に出て教会を離れると、夢から覚めたような気がした。
「そっ…そうだ、警視に聞いてみなくちゃ!」
くるみは歩きながら携帯を取り出す。
「氷室だ」
いつもの低い声が返ってくる。
「お疲れ様です、彩木です。あの、突然なんですけど、警視に生き別れの兄弟とか、
顔がそっくりの親戚とか、いませんか?」
「……何を言ってるんだ、君は?寝ぼけてるのか。休みを取ったならゆっくり休め!
私は忙しいんだ、切るぞ」
「あ…!なによ、話くらい聞きなさいよ、警視のバカ!もお〜、伸吾はいないし、
やることないよ〜!!…はあぁ……買い物でも行こっかな……」
翌日、小雨の降る中、くるみは再び教会を訪れた。
昨日はうっかりしてたけど、携帯で写真を撮って送ればいいのよ。
それを見たら、警視だってきっとびっくりするんだから。
それに、あの人ともう少し話をしてみたい…。
「あの…、昨日うかがった者ですが、春原さん、いらっしゃいますか…?」
事務室の女性は怪訝そうに答える。
「彼は昨晩ローマに発ちましたけど…何かお約束でも?」
「…………。いえ…」
うそ…もう日本にいないだって……。
なんだか昨日のこと全部、夢みたい…。あの人は、誰だったの……?
突然、昨日の彼の言葉が頭の中に響く。
(明日、その人に会えなくなるとしたら……)
くるみは唇を噛んで傘を広げ、白く煙る霧雨の中を走り出した。
くるみは勢いよく地下室の扉を開けた。
だが、広々と見渡せる室内に、氷室の姿は見当たらない。
…警視……い、いない……?!!まさか、そんな……、うそ!!
「け、警視!氷室警視!!」
くるみは絶叫した。
「……彩木君か?どうした?」
氷室が本を片手に書庫から姿を表す。
「あ……」
泣きそうな顔をして脱力したくるみを、氷室はまじまじと見る。
「雨の中を走ってきたのか。一体何があった?」
「え…、どうして、わかるん、ですか…」
「髪も服も濡れてる。君は息を切らせてる。誰でも分かるだろう、そんな事は。
ちょっと待っていろ」
奥からタオルを持って戻ってきた氷室は、くるみの肩にそれをかけた。
「拭きたまえ。風邪を引く……」
見上げた氷室の顔が、涙で滲む。
くるみはタオルで涙を拭いて、氷室の唇にキスをした。
数秒が経ち、十数秒が過ぎる。二人は唇を重ねたままでいた。
氷室は微動だにしない。
くるみは目をつぶったまま、氷室の険しい顔を想像した。
ああ……どうしよう…。警視、怒ってる、きっと……。
くるみがおずおずと唇を離そうとした瞬間、氷室の腕がくるみを抱きしめた。
離れかけた唇が強く吸われる。
二人の唇は、押し付けられては離れ、大きな音をたてた。
息が止まりそうで、くるみが思わず口を開くと、氷室の舌が滑り込んだ。
くるみの舌を横から押し上げると、ぐるりと舌同士を絡め、奥へ。
「…ん、んっ……」
上顎をなぞられて、くるみは立っていられなくなった。
かく、とずり下がったところを、氷室に抱きとめられる。
目の端に涙の粒を残したまま、くるみはぼおっと氷室を見上げた。
氷室は無表情を装って、視線をそらす。
「そんな目で見るな。私だって、石で出来てる訳じゃない…」
くるみは氷室の腕につかまって、脚に力を入れる。
「…警視……。私………、…っくしゅん!はっくしゅ!」
「――言わない事か。君が引くなら夏風邪だな…。来い」
ため息をついた氷室は、くるみの手首をつかんで引っぱって行く。
「それ…どういう意味ですか!」
洗面所で氷室は指示を出す。
「濡れた服は乾燥機に入れろ。15分程度で乾く。シャワー温度は高めにした。
熱い湯で充分温まってから出る事。以上だ」
「あ…、待って!き、着替えが……」
氷室はむすっとした顔でバスローブをよこす。
「これ…、警視の?」
「ボブのに見えるのか。早くしろ」
くるみはシャワー室で熱い湯を浴びた。
たちまち体中が火照り始める。
バスローブをまとったくるみがシャワー室から顔を出す。
洗面所にはだれもいない。
乾燥機を開けて服を入れたが、困った顔をした。
「警視……。あの…」
「なんだ」
ドアの外から声がする。
「乾燥機の使い方が分かりません……」
「そういう事は先に聞け!」
氷室がドアを開け、入ってくる。
無言で乾燥機に近づき、スイッチを入れた。
目を合わせにくくて、くるみは氷室に背を向ける。
「…彩木君」
背後から氷室の声が絡み付く。
「…もう一度聞く……何があったんだ」
くるみはうつむいて昨日からの事を思った。
「………。夢を……見たんです。警視がいなくなっちゃう夢……。
それで、恐くなったの。……バカ…ですね」
氷室の近づく気配がした。
振り向くのと同時に、顎を引き寄せられ、肩ごしにキスを受ける。
「ん…っ…」
くるみは背後から抱かれたまま、氷室と唇を合わせていた。
小さな音をたてて、やわらかく唇が押し合う。
氷室の舌はくるみの上下の唇をゆっくりとなでる。
微かな接触は心地よかったが、それ以上進んで来ない舌がもどかしかった。
くるみは焦れて、自分からそっと舌を伸ばす。
氷室の唇を舐め、さらに奥に進んで舌を探した。
待ち構えていたかのように、突然その舌を吸われる。
「…ふ…、ぅう…ん……」
くるみは体をよじった。
罠にかかったくるみが氷室の舌に翻弄されている間に、バスローブの紐が解かれて
身頃の合わせが左右に広がった。
氷室の手がくるみの胸元に滑り込む。
「んっ……、ふ…ぁ」
くるみはぴくんと震え、胸を覆う氷室の手を上から押さえた。
くるみの手の下で、氷室の指が乳首をもてあそぶ。
「ああ……、んっ……」
氷室の唇を離れたくるみの唇は小さな叫びを上げたが、ぐいと引き戻されて
再びキスを続けた。
顎を捉えていた氷室の手は、やがて下へ降りてゆく。
「ん……っ、あ……!」
下腹部を経て、密やかに湿った場所へと指がのびた。
浅いところでくるくると遊び、深いところに潜り込んでゆく指。
「あ…っ、待っ…、おねが……ぃ…」
くるみは必死に自分の手で氷室の手を押さえ、動きを止めた。
目を閉じて喘ぐ息が荒い。
そっと、氷室の手はくるみの手をすりぬけ、逆にその上に重なった。
マウスを操作するように、氷室はくるみに命令を出す。
氷室の中指がくるみの中指を押した。
とぷん、と温かな泉の中に指が沈む。
「は……ぅ」
指を曲げたまま、上に移動する。
「…んっ……あぁ…っ!」
人さし指と中指で固くなった部分をぐるりと押し撫でる。
はじめはゆっくりと、徐々に激しく。
「はぁあ、は…あーっ……」
刺激を求めているのか、反対に逃れたいのか、くるみは自分でも分からずに
腰をよじった。その動きは背後の氷室を一層たかぶらせる。
ぬらぬらと濡れた何本もの指が入り乱れて、エロティックな水音をたてた。
「あっ、あー…っ!…くっ……うぅ!」
再びぐいと押し込まれた中指で、自分の体が動くのを感じる。
くるみは体を突っ張り、氷室に体を預け、深いため息をついた。
ぴたりとくっついたくるみの背中に、氷室の心臓の鼓動が響く。
絡み合った指に、同じリズムで脈が流れていた。
氷室は絡んだ指を解いて、くるみから離れる。
「終了していたようだ…」
乾燥機に近づき、指が濡れていない方の手で蓋を開け、くるみの服を取り出した。
「…ゃ…っ」
くるみは真っ赤になって、バスローブの前を合わせ、氷室の手から服を取りあげると
逃げるように洗面所を走り出た。
その姿を氷室はぼんやりと見送る。
「彩木君……ここか……?」
くるみの姿を探して、氷室は自分の寝室に入る。
ベッドの上が丸くふくらみ、ヘッドボードにバスローブがかかっている。
部屋の隅のテーブルには、くるみの服が畳んで置いてあった。
氷室はベッドに近づき、静かに上掛けをめくる。
つややかな裸の背中がのぞいた。
氷室はまぶしそうに目をそらすと、言葉を絞り出す。
「……彩木君…、やはりやめておこう…。私の今の状況では、君に何もしてやれない。
君が傷付くだけだ……。――今さら卑怯な言い訳だがな。それに君は…」
上掛けが動いて、くるみがむくりと体を起こした。
「私…、何も望んでない。ただ、警視が…好きなの。今の警視が、好きなの。
それだけじゃダメなんですか……?」
「……彩木…君…」
くるみは手を伸ばして氷室の手を取り、自分の方へ引き寄せる。
「…何も心配しないで…。さっきみたいに、抱いて……」
氷室はゆっくりと服を脱いで、ベッドの中に滑り込み、くるみの上に重なった。
キスを受けながら、くるみは目を閉じる。
これが、答えだ……私の出した答え。
長い間…ずいぶん迷ったけど、あたし、やっぱり…警視のこと、ほうっておけないの。
今ごろになってやっと分かるなんて…。……許して……、伸吾………。
「あ…ん…、は……ぁあ…」
くるみの小さな声が部屋に響き続ける。
氷室の手と唇に全身くまなく愛撫され、途切れる間もない。
「…ん……うぅん……」
肌の触れ合うすべての部分が心地良く感じられた。
くるみの胸にあった氷室の唇が、くるみの唇に戻って来る。
しばらく唇を触れ合わせたあと、氷室は腕をついてくるみを見下ろした。
くるみも氷室を見る。
少し上気した穏やかな顔。
滑らかな筋肉が浮かび上がる二の腕。
厚みのある逞しい胸。
骨太の力強い指。
私、ずっと、警視を知っているはずなのに…。
ここにいるのは、初めて出会った、知らない人みたい……。
「…どうした?…不思議な目をして……」
氷室が鼻にかかった低い声で問いかけた。
くるみはちょっと驚いた顔をしたが、何も答えずに、にこ、と微笑んだ。
氷室の体を確かめたくなって、くるみは両方の手のひらを氷室の胴に当てる。
引き締まった脇腹を下がり、細い腰の腰骨に手を添わせていく。
そこにもう一つ、くるみの知らない氷室の肉体があった。
信じられないほど硬く、大きく、熱い。
指を回して手のひらに包み込み、くるみは目を閉じて吐息をもらした。
氷室も、はあっ、と短く息を吐く。
「……ああ……」
くるみの手をはねのけるように、それは力強く脈打つ。驚きと怖れが湧いてきて、
くるみはそこから手を離し、迷った末に、氷室の腕にしがみついた。
氷室がゆっくりと身を寄せる。
くるみを怯えさせたものは強い力で迫ってきたが、くるみの体に弾かれ、
ぬるりとその上を滑った。
「っ、はぁあ…!」
驚きと同時に、思いがけない快感にくるみは声をあげる。
氷室はくるみの膝を曲げ、左右に脚を広げた。
再び体を前に進める。
「…あっ、あーーっ…!!!」
くるみは顔をしかめてのけぞった。
氷室の腕に指をめり込ませたが、すぐに放して、頭の下の枕を握りしめた。
「んっ…、ん…、んー…っ!!」
歯を食いしばって、悲鳴を飲み込もうとする。手首がぶるぶると震える。
「…彩木…君!」
見かねてくるみの手をつかみ、氷室は自分の手のひらを当てた。
手のひら同士を合わせ、お互いの指を組む。
「け、けい…し……!んっ…、うぅ…っ!」
やがて、氷室の肉体がくるみの温かな体内にすっかり収まる。
氷室は動きを止め、ふうーっ、と長いため息をついた。
くるみは浅い呼吸をしながら薄く目を開ける。
「どう…したの……」
痺れるほど握りしめた指も、力が抜け、緩んでいた。
「少し、このままでいよう…」
氷室は、くるみの顔の両側に手を当て、耳を覆った。
目をつぶったくるみの唇にキスをする。
くるみの耳の中に血流の音と呼吸の音が、さらにキスの音が響く。
あっ……。キスって……こんな音がするの……。
なんだか、警視と二人だけで、水の中に…海の底に、いるみたい…。
………体が溶けそう……。
「んっ……ふぅ…ん…」
くるみの体がやわらかく弛緩してくる。
体の奥からは、熱くねっとりした蜜が豊かにあふれ出す。
くるみの体内にあってそれを感じ取った氷室は、手を離し、腕を立てて腰を引いた。
「……は…ああぁ……」
くるみが切ない声をあげる。
氷室はゆっくりと、すくいあげるように腰を動かす。
「あ…、んんっ!!」
くるみの腕が、氷室の腕に絡み、すがりついた。
しばらく緩やかなリズムで抜き差しが繰り返される。
「うぅ…ん…、あぁ…っ、はぁ…あ、けい…し…ぃ…、んーっ…」
腰は次第に小さくグラインドし、奥までくるみを貫いた。
「あぅ…っ! はあ…ぁん! くぅ、うー…っ!!」
悩ましげに目を閉じたくるみは、うわごとを言いながら腰を浮かせた。
「んー…っ、け、警…視っ…!はぁ……っ、…けい……、け…ぃ……」
「………彩木っ…、あや…き……く、……っ…!!」
くるみの体内で激しく絞り上げられ、氷室は大きく震えて射精する。
耳が痛くなるほど静まり返った部屋の中、二人は寄り添って横たわっていた。
「警…視……」
長い沈黙を破って、くるみが遠慮がちに口を開く。
「あの…聞いていいですか…。警視はずっと、ここに…いるつもりなの?」
氷室は目を閉じ上を向いたまま答える。
「――先の事はわからない…が、今はまだ、な。A別館にはかなりの裁量権が
与えられているし、何より人間関係が煩わしくないのがいい」
「……でも…。地下室にいるの、辛くないですか…」
「もう慣れた。慣れれば仕事に集中できて、それなりに快適だ。それに、ここには
……小さな窓があって、太陽の光も季節の風も、少しだが入ってくる」
「え、窓?窓なんて、ありましたっけ?」
くるみは不思議そうに氷室の横顔を見つめた。
氷室は目を閉じたまま答えない。
「…いいもん。華江さんに教えてもらうから……」
くるみは口を尖らせた。
「……君のことだ」
「え…?」
「外に出ようと思えば出られるさ。だが…思い出したくない事が完全に消え去った
訳じゃない。だから今の私には、君が時折運んでくる外の空気で充分だ。
なにしろ君は、仕事以外の話が多いし…」
くるみはむっとして、また口を尖らす。
「最初は私も苛立ったが……無用の用、というやつかな。――今では悪くないと
思えるようになった。いや、むしろ……」
「………?」
次の言葉を待ったが、それは語られない。
「少し喋り過ぎた、忘れろ」
「やだ、途中でやめないで!気になります!」
氷室が横を向いて、くるみを睨みつける。
「うるさい!まったく今日の君はまるで竜巻だ…訳の分からん内に巻き込まれる」
「……警視…。もしかして……後悔してるの?」
「君はどうなんだ」
「してません!見損なわないで…」
ふくれっつらをして言い返すくるみの目が潤んだ。
警視のイジワル…!あたし、後悔なんかしてない……!するわけない!!
知らない人に背中を押してもらったけど、答えを出したのは自分だもん。
たとえ、警視に抱かれるのが今日限りだって、あたし……。
「……いついかなる状況でも、ムキになるんだな、君は。ある意味、大したものだ」
「け、警視のばかっ!こんな時まで、口悪すぎ…!」
氷室は片頬で小さく笑ってくるみに覆い被さる。
くるみは歓びの波にのまれ、波間に溺れた。
二人が何度も激しく愛し合った後、部屋は再び静かになった。
くるみが目を開ける。
そっと起き上がって、氷室のそばを離れた。
ベッドから降り、音を立てないよう気をつかいながら服を着る。
着終わると振り返って、氷室の様子をうかがった。
氷室は目を閉じ、規則正しい呼吸をしている。
警視の寝顔を見るの、2度目だ……。でも、あの時よりもっと好き。
もっと、警視のために、なんでもしたいの…。
それがはっきり分かったから…あたし、今日のこと、後悔しない。本当に。
雨はすでに止んでいた。
雲の切れ間から夕日が顔をのぞかせ、空を染めている。
くるみは天を仰ぐ。
「……あ……」
空高く、淡い色の虹がかかっていた。
「写るかなぁ…」
バッグから携帯を取り出し、腕をいっぱいに伸ばしてシャッターを切った。
そのまま何も書かずに氷室に送信する。
携帯を閉じてバッグにしまうと、くるみはまっすぐに歩き出した。
〈完〉