「くるみ先輩、何かイイコトありました?」
初夏の陽気の昼下がり、くるみは同僚たちとカフェで過ごしていた。
のんびり食事とおしゃべりを楽しんでいる。
テラスのテーブルに肘をつき、くるみは目を細めて空を見上げる。
お天気が良くて、気持ちいい日…。
………警視は…今頃どうしてるのかな……。
一瞬だけ遠くに思いをはせた時、突然問われたのだった。
「……え?どういうこと?そんなふうに見える?」
「見えますよぉ。先輩ってば、しっとりして、潤ってるぅ、って感じだもの。
…あ!もしかして、駐禁くんとついに……エッチしちゃったとか?!!」
何も意識していなかったくるみは、その言葉にひどく慌てた。
「ど、どっ、どうしてそういう……!!そ、そんなわけ……!」
「ですよねぇ。先輩は結婚までエッチ禁止ですもんね。あたしはそんなこと
言わないんだけどなあ。あーん、早く彼氏欲しーい…」
くるみはバツが悪そうに周囲を見回す。
「もう…薫ちゃんたら、こんなとこでエッチエッチ言わないでよ…!」
「だけどさあ、くるみ。あんたもだけど、それに付き合ってるカレも天然記念物
もんだよ。いまだに式の予定、たってないんでしょ?」
「…うん…」
「いつになるかわからない結婚までおあずけって、それキビシクない?」
「そっ…そうかな……」
「そうよぉ。ま、ひきこもり警視と玉の輿決めちゃうって言うなら、話は別だけど」
くるみは心臓が止まりそうな気がしたが、平静を装って笑った。
「や、やだあ、なによ、それ…」
「え!乗り換えるんですか、くるみ先輩!そしたら、あたしに駐禁くん下さい!!」
「もう…カンベンしてよ、二人とも……。ほら、コーヒー来たよ!」
顔には笑顔をはりつけていたが、胸にダーツの矢が何本も刺さったような気分だった。
やだ…やだ……あたし、そんなに顔に出てるのかな……。ヤバいなあ……。
…警視とは一度しか――でも、あのとき、何回も…した…けど……。
――じゃなくって!それって、そんなに、わかっちゃうもの……?!
しかし、それだけは誰にも気取られてはならなかった。
食後のコーヒーを飲みながらおしゃべりに花を咲かせ、会計を済ませて、
くるみは同僚たちと別れる。
「じゃ、またね、くるみ」
「うん。また一緒にランチしようね」
「くるみ先輩、お仕事頑張って下さーい!ウワキしちゃダメですよ!」
くるみは引きつりながら手を振った。
「はあ……」
気疲れした体を引きずってA別館に向かう。
「失礼しまぁす…」
くるみが扉をあけると、巨体が目の前にあった。
「ハーイ、ハニー!」
「ボブさん」
くるみは救われた気持ちになる。
あれ以来、氷室と二人きりになるのは、正直気詰まりだった。
氷室はポーカーフェイスを押し通していたが、くるみには真似できない。
身体にも心にも、強烈な記憶が深く刻み込まれていて、思い出さずには
いられなかった。熱くなる顔や汗ばむ身体にひたすら気づかぬふりをして、
氷室の指示を聞きもらすまいと努力するしかなかった。
もとより後悔はないが、予想もしなかった事態にくるみは途方にくれていた。
だが、他に誰かがいれば、空気の重さは全く違う。
「んー、くるみちゃん、今日もキュート、スウィート、パーフェクトね!
なにかイイことあった?」
「え?何にもないですよぉ。でも、今、すっごくいいお天気なの」
「あー、だから、そんなにキラキラしてるんだね!」
「……それくらいにしておけ、ボブ。彩木君が本気にするぞ」
モニターを見たまま、氷室がぼそっとつぶやく。
「あっ、ひどい。お世辞だってことくらい、わかってます!」
氷室と雑談をするのは久しぶりだった。
「ノーノー、お世辞じゃナイよ。本心よ!」
ボブが氷室の方に向く。
「女のコは、見られて、ほめられて、可愛がられて、キレイになるんだから。
コウだって、経験あるでしょ?」
ボブの意味深で挑発的な言い方に、くるみは息が止まりそうな気がする。
「………」
だが、氷室はもうボブを相手にしなかった。
うわあ、横で見ててもヒヤヒヤするよぉ…。友達だからなんだろうけど、警視に
あんな言い方、よくできるなあ……。それにしても、ボブさん…何か気づいてる?
ボブさんも鋭いから、なんとなく、わかっちゃうのかな………。
「彩木君、来てくれ」
どきん、とくるみの胸が高鳴る。
「……はい!」
くるみ!いい?普通に…、平常心で…、なんでもないって顔して……!
特に今日は…ボブさんが見てるんだからっ!!
氷室はくるみの方を見ずに話をする。
「都下で、奇妙な誘拐未遂事件が頻発しているらしい。まだ正式にこちらに回って
来たわけではないが…、可能性はある。承知しておいてもらいたい」
「わかりました。…誘拐、ですか……」
「今、資料をまとめているところだ。出来たら渡す」
話し続ける氷室の横顔が、気のせいか疲れているように見えた。
「あの、警視…、ちょっと、顔色が悪いみたいですけど…?」
氷室は鬱陶しそうにくるみを見る。
「……そういうお節介は華江さんだけで充分だ。君までやめてくれ!」
「心配だから、そう言っただけでしょ!なによ、お節介って!」
「健康管理くらい自分でできる。他人に心配してもらわなくて結構だ」
「…そうですか!警視のへそまがり!つむじまがりっ!!」
声を荒げて言い合う二人を見て、ボブは肩をすくめ、首を振った。
「今日はもういい。帰りたまえ」
くるりと向きを変えた氷室は、自分の仕事に没入して、言い争いを一方的に終えた。
「失礼します!」
くるみも踵を返してさっさと帰り支度をする。
地下室を出て階段を上ると、ボブが追ってきてくるみを呼び止めた。
「くるみちゃん!」
「…なに?ボブさん…」
「コウ、たぶん、『誘拐』で、無意識にナーバスになってる…。許してあげて」
ボブの細かい心遣いに、くるみはにこっと笑ってうなずく。
だが、氷室邸を出たくるみは、もやもやとした思いを抱えていた。
誘拐…誘拐事件。直美さんと由香さんのあの事件では、警視も犯罪被害者……。
愛する人を亡くした傷は…癒えないだろうな…。きっと、一生忘れられないよね、
由香さん…のこと。……あたしは…、――そうよ…、他人よ……。
くるみは携帯を出し、電話をかける。
「あ……、伸吾…?今日…、会えるかな…?」
「今日?いいよ、8時には上がれるけど、うち来る?」
「うん。じゃ、適当に伸吾のとこ行く…。あのね、明日早い?」
「いや、普通。昼前に行けばいいの。…なんで?」
「今夜……ずっと、一緒にいて欲しいの……」
「……わかった!おれ、飛んで帰るから!」
「ふふっ…ちゃんと歩いて帰ってきて。じゃ…後で…」
あたし……、バカみたい。警視と由香さんに、嫉妬してる…。
嫉妬したって、どうしようもないのに。そんなことわかりきってるのに。
それで、伸吾に助けてもらおうなんて、嫌な女。
だけど…こんな気持ちで、一人でいるのは辛いよ……。
時間を見計らって、くるみは伸吾の部屋を訪れた。
「……待ってたよ、入って」
「ごめん、突然。ご飯まだでしょ?…あたし用意するね」
玄関で、伸吾はくるみの肩に手を置き、正面から目を見た。
「くるみ。ほんとうに、いいの?」
くるみは伸吾の目を見たままうなずく。
「そうか!」伸吾はにっこり笑った。
いつもそうするように、二人は食事をした。
軽いアルコールを飲み、他愛の無い雑談をし、笑い合って食事が終わる。
「ごちそうさま。おれ、片付けておくから……くるみ、シャワー浴びておいで。
出たら、何飲む?アイスコーヒー?烏龍茶?」
「んと…烏龍茶…。じゃあ、お先に……」
くるみは服を脱いで、バスルームに入った。
中の鏡に、物言いたげな女の顔が映っている。
シャワーを浴びはじめると、それは白く曇って消えた。
ピンクのバスローブを着て出てきたくるみを、伸吾は愛おしそうに見る。
「可愛いよ、くるみ…」
「伸吾……」
くるみはゆっくり伸吾に近づいて、その胸に顔を埋めた。
伸吾はくるみの体に腕を回し、髪をなでる。
「いい匂い。早く食べたいよ、くるみのこと」
「やあん、エッチ…。伸吾も、シャワー、浴びてきて……」
「もうちょっとこうして……、いっ、いて、いてて!!大きくなりすぎた…。
だめだ、行ってくる…」
バスルームに伸吾を見送り、くるみはソファにかけて烏龍茶を飲んだ。
からん、と、金色の液体の中で氷が音をたてる。
くるみはぼんやりとグラスの中を見つめていた。
ほどなく白のバスローブを着た伸吾が出てくる。
「お待たせ…。あー、あちー!喉かわいた…」
自分のグラスを出し、氷を入れて、烏龍茶を注ぐ。
グラスを持ってくるみの隣に座り、ごくごくと音をたてて飲み干した。
「あーっ、うま!……あ、悪い…。おやじっぽい?」
くるみはくすくすと笑う。
「ううん。伸吾だから、好き…」
伸吾はふっと真顔になって、くるみの肩を抱き、キスをした。
「んんっ……はあぁ…」
たちまち顔が汗ばんで、二人は喘いだ。
「ふう……、暑いね。……そうだ」
伸吾が空のグラスの氷を口に含む。
そのままくるみにキスをして、氷を口移しにする。
くるみの口の中の氷を、二人の舌が転がしては奪いあった。
「ふぅ…ん、…んっ、……んん」
氷の冷たさが心地良くて、くるみは夢中になって伸吾と舌を絡める。
「……ん、ぅ…ん……っ、……きゃ!」
氷がこぼれてくるみの胸のあたりに落ちた。
「やぁん…、冷たいよぉ!」
思わず襟元を広げて、中を覗く。
が、あらわになった胸に伸吾の視線を感じて、慌てて襟を合わせた。
「くるみ。恥ずかしがらないで」
伸吾はそっと、くるみの耳元に、襟から覗くむき出しの肩に、キスをする。
「あぁ…ん…、ここじゃ、ダメ…」
「わかった。あっちに行こうな……」
伸吾はひょいとくるみを抱きあげて、ベッドへ歩いた。
お互いの表情がやっと分かる暗さの中、ベッドの上に座らされたくるみは、
ためらいながらもローブを脱ぐ。
「くるみ……愛してるよ…」
立ったままバスローブを脱ぎ捨てた伸吾が、くるみをゆっくりと押し倒した。
伸吾の唇は、徐々にくるみの肩先から胸へと下りてきて、固くなった乳首を捉える。
「あ…っ、しん…ごぉ……」
ぺろ、と先端を舌で舐め、強く吸う。
「は……ぁん、ああぁ……」
伸吾は少しずつキスを下に移動させながら、くるみの両脚の小さな隙間に、
そっと指を差し込んだ。
「ぁん…っ!」
そこはすでに温かな潤いに満ちあふれている。
「…くるみ……」
「やっ、見ちゃイヤ!」
「大丈夫、見えないよ…」
伸吾はその部分に顔を寄せ、キスをした。
「…あ…っ!」
慌てて狭めた腿を優しく広げ、伸吾は舌を伸ばす。
「あ、あぁん…!だめぇ…、だめぇ……っ!!」
温かい舌は、体の奥まで入ってうごめいたかと思うと、外に出てくるみの鋭敏な
ところを舐め回し、こね上げた。さらにそこを、唇が吸い上げる。
「やぁ…っ、いやぁ…!あっ…、あたし、…おかしく、…なっちゃ…ぅ…!!」
くるみは悲鳴をあげて、伸吾の髪を握りしめ、ぶるぶると震えた。
目を閉じて喘ぐくるみの髪を、伸吾は優しく撫でる。
「きれいだよ、くるみ。もっと、いっぱい感じて……」
「あぁ……しん…ご…」
くるみは伸吾の首に腕を回す。伸吾もくるみの上になって、体勢を整えた。
「くるみ、いい……?おれ、もうこれ以上、我慢できない…」
「……ん…」
くるみは小さくうなずいた。
脚を広げられ、伸吾の身体が入ってくる一瞬、くるみの脳裏を氷室の顔がよぎる。
くるみはぎゅっと目を閉じて、首を振った。
「う…っ、んー…っ…!!」
「ああ…っ…、くるみ……好きだよ…!」
「んっ…、あー…っ…!!…し、しん…ご……!」
「痛いの…?ごめんね、そっとするから…」
「だ…いじょうぶ…。伸吾の、いいように、して…」
「…くるみ……!」
伸吾はくるみを気づかいつつ、控えめに腰を動かし始めた。
痛みに耐えながら、それでも口元に笑みを浮かべて、くるみは伸吾の背を抱く。
心は思い出すまいとするのに、氷室に抱かれた時の感覚が体中に蘇った。
だめ!警視のこと、思い出しちゃ…!警視の心は、由香さんのものなんだから…。
――そう…、警視だって由香さんと、こんなふうに愛し合った……はずだもの。
お願いよ、伸吾…、忘れさせて。もっと激しく…、何も考えられなくして…!
「あぁっ…、伸吾…!」
くるみは伸吾を抱く手に力をこめた。
伸吾は動きを速め、自分の身体をくるみの奥まで突き入れる。
「んー…っ、あん……、はぁ…っ、しんご……、しんご…ぉ…!!」
くるみは苦痛とも快感とも分からぬまま、伸吾の腰を脚ではさみ、引き寄せた。
「あ…っ、く、くるみ、くる…みぃ……!愛…してる……!」
くるみの体の動きに吸い込まれるように、伸吾は絶頂を迎える。
「しん…ご…。あたしも……」
しばらく二人はぐったりと動かなかったが、やがて伸吾が口を開く。
「…くるみ。おれたち……、ずっと一緒にいような…」
「……うん…」
「でもって…、もう1回しても…いい?」
「…ん…。…いいよ……」
くるみは差し込む朝日で目覚め、慌てて身支度をする。
「伸吾…、伸吾……!ゴメン、あたし、もう行かなきゃ…」
「ん……。もう朝…?くるみ、朝メシは?」
「食べたいけど…、遅れちゃうもん…!」
伸吾はのそのそと起きだし、冷蔵庫を開けた。
「身体に悪いよ。オレンジジュースくらい、飲んでいったら…?」
「ありがと…」
くるみはグラスにつがれたジュースを美味しそうに飲んだ。
「おれ、8時に帰るけど、今夜も…来れる?」
「うん。今日は駐禁取りだけだから」
「鍵持ってるよな。先帰ったら入ってて」
「わかった。じゃ伸吾、いってきまぁす!…ん!」
くるみは伸吾の頬にキスをすると、勢いよく出かけていった。
小走りに帰ってきた伸吾は、部屋の中に灯りを認めると、ドアまでダッシュした。
「た、ただいま、くるみ!」
ドアを開けると、エプロン姿のくるみが出迎える。
「お帰りなさい、伸吾。ご飯できてるよ」
「ああっ、くるみ……。おれ、なんだか幸せすぎる…」
「大げさね。さ、早く食べよ!」
キッチンで準備するくるみを、伸吾は後ろから抱きしめた。
「…このまま、くるみが欲しいよ…」
「あん、ダメだってばぁ……」
突然くるみの携帯が鳴る。
「…うっ、またいいところで…」
くるみはなにか嫌な予感がして、慌てて電話に出た。
「あ、彩木です…!」
「夜分に申し訳ありません、くるみ様…」
氷室の声ではなかった。
「え………?!!」
「私がこの電話を使っていることで、普通の事態でないことがお分かりかと
思います…。今詳しいことは申せませんが、くるみ様、すぐにこちらに来ては
頂けないでしょうか。このままでは…、もしかしたら光三郎様が……」
「…わっ、分かりました、今すぐ行きます!」
「ゴメン、伸吾。大変なことが起こったみたいなの。あたし、行かなきゃ!」
くるみの深刻な表情に伸吾は気押される。
「う…うん…、なんかすごい事件みたいだね。気をつけて、くるみ!」
くるみはエプロンを脱ぎ捨て、バッグを抱えて飛び出していった。
全速力で走りながら、タクシーを探す。
警視に…、警視に何かあったんだ!怪我…?病気…?
昨日顔色が悪かった…。やっぱりあの時具合が……だから、だから言ったのに…!
「華江さん、彩木です!!」
「くるみ様…!来て下さって、ありがとうございます……」
姿を現した華江も、心労からか、顔色が悪い。
「…警視は?警視に一体何が?!」
「こちらへ」
二人は地下へ下り、氷室の寝室に入る。
ベッドに氷室が寝ていた。
「け、警視……、警視……!」
氷室は目を閉じ、静かな呼吸をしているが、その顔は蒼白だった。
「眠っておられます。たぶん、昨夜から……」
「…え?!」
「昨日の夕食には少し手をつけられました。でも、その後、光三郎様が動かれた
形跡がないのです…。正確に言うと、昨夜、ご入浴なさったあと、何かが原因で
お倒れになったか、眠り込まれたのではないかと。…時間は分かりませんが」
「…普通に寝て、ずっと寝てるんじゃなくて?」
「几帳面なぼっちゃまが、バスローブのままお休みになるとは思えません」
「でも、お布団がかかってる……」
「それは私が掛けました。お体がとても冷えていらしたので…」
「じゃあとにかく、お医者か、救急車を呼んだ方が」
「――それが……」華江は言い淀んだ。
「光三郎様から仰せつかっているのです。もし何かあっても、どちらも無用だと」
「それって…、病気で死んじゃってもいいってこと…?」
「…敢えて延命はしたくないと云うことかと」
「そんな!華江さんはそれでいいの?!」
華江は涙ぐんで首を振る。
「決してそんなことは!でも…くるみ様、私はどうすれば良いのか…」
その疲れ切った表情を見て、くるみは華江の方も心配になった。
「華江さん、ずっと寝てないんでしょ…。あたし替わりますから、少し休んで…。
もし警視の様子がおかしくなったら、独断で救急車呼んじゃうし。ずうっと
そばで見てるから、絶対大丈夫。安心して…!」
くるみは華江について上に行き、仮眠を取らせる支度をした。
すぐに地下室に戻って、氷室のそばに行く。
「警視……」
くるみはそっと氷室の頬に触れてみた。
寝ているにしては、温もりが感じられない。
ずっと前、死体を触ったことを思い出し、くるみはぶるぶるっと頭を振った。
やだっ、あんなに冷たくない!…でも、こんなに体温が下がってるなんて……、
どうすればいいんだろう…。何か、体を温めるもの……。…お酒とか?
くるみは寝室を出て、氷室の部屋をぐるりと見回した。
「このへんかな…」
あたりをつけて扉を開けると、ワインのボトルが並んでいた。
少し迷ってから赤を選んで、一本取り出す。
近くにあった小ぶりのソムリエナイフを使って、苦労しながら栓を開け、
グラスに注いで味を見る。
「うん……、おいし…」
「警視…、警視……。起きられますか……?」
耳元で小声で呼んでみるが、氷室は反応しない。
くるみはしばらく考え込んで、グラスのワインを口に含み、氷室の顎に手を添えて
少しずつ口移しにした。
小さく喉が動き、ゆっくりと氷室の口の中の液体が消えていく。
くるみは唇を離して様子を見た。
異常がないことを確認すると、そのまま同じことを数回繰り返す。
ふいに氷室が軽くせき込んだ。
「…いけない……!」
くるみは洗面所からタオルを持ってきて、その口元に当てる。
けほっ、と小さな咳をすると、氷室は目をしばたかせた。
「あ…、警視……」
重そうな瞼から、虚ろな目が覗く。
「誰だ……。……由…香…?……由香、なのか……?」
くるみの背筋が凍った。
氷室の瞳に、目の前のくるみの姿は映っていないらしい。
違うともそうだとも言えず、くるみは氷室の頬に手のひらを当てた。
氷室はのろのろと腕を動かして、くるみの手に自分の手を重ねる。
「ああ……、やはり君か、由香…。良かった、無事だったんだな……俺はてっきり…」
くるみは小さく震え、叫び出したい衝動を押さえた。
いつもの氷室ではない。
「…どうしたんだ、由香……?返事を、してくれ……」
ごくりと唾を飲み込んで、くるみは口を開く。
「……こっ、…光三郎……」
果たして声は似ていたのだろうか。氷室は目を閉じて小さく微笑んだ。
「安心したよ…。俺も大したことはない。すぐに元通りさ…」
「…う…っ…!」
くるみの目から涙があふれだし、唇からはこらえ切れずに嗚咽が漏れた。
「由香…、泣いているのか…?…馬鹿だな、泣くことはないだろう…」
「だ、だって……」
あとの言葉が続かず、くるみは氷室の唇にそっとキスをした。
氷室は下から押し上げるようにキスに応える。
しばらく唇を重ね、二人ははあ、と吐息を漏らした。
微かにワインの香りが立ちのぼる。
枕元についたくるみの腕をつかんで、氷室が囁く。
「……由香…。君に触れたい…。抱かせて…くれないか…」
くるみは涙を拭って氷室の顔を見つめた。
「……うん。…いいよ……」
くるみは立ち上がって、少しベッドから離れ、服を脱ぐ。
着ているものすべてを床に落とすと、するりとベッドに潜り込み、氷室の横に
ぴったり体を寄り添わせた。
力を入れて、氷室が肩を起こそうとする。
それを押しとどめて、くるみは氷室の耳元に言った。
「あなたは、動いちゃだめ…」
氷室は素直に言うことを聞いて、上を向く。
くるみは氷室のバスローブの紐を解き、前を開けると、自分の上半身を重ねた。
氷室の体はほんのり温もってはいる。しかし、この前くるみが抱かれた時の、
熱のかたまりのような熱さではなかった。
「寒くない…?」
「…いや…」
少し安心して、くるみは氷室の頬にキスをする。
氷室もくるみの頬に唇を当て、徐々にずらして唇同士を重ねた。
「……ん…っ」
唇がわずかに離れ、二人は舌を伸ばして互いの舌を、唇を舐めあう。
唾液の絡む湿った小さな音が響く。
「あ……はぁ……」
体の芯が疼き始めて、くるみは熱い息を氷室の首筋にかけた。
そのまま首に唇を這わせる。
首筋から、鎖骨、胸板へと、くるみはやわらかくキスをした。
自分がそうされたことを思い出し、氷室の乳首を唇で包み、吸ってみる。
「…う……」
氷室はぴく、と動いてうめき声を漏らす。
舌を尖らせて舐めると、氷室の体がまた動き、ため息が聞こえた。
くるみは引き締まった筋肉に唇を当てながら、ゆっくりと体をずらす。
上掛けの下に半ばもぐって、腹部に達したところで、熱いものが頬に触れた。
くるみは顔の向きを変え、そこに手を添えてキスをする。
「ふ…、うっ…」
押し殺し損ねた氷室の声。
今度は唇ではさみ、きゅ、と力を入れる。
「ぅ…っ…!」
ふいに愛しさがつのり、くるみはそれを口に含んだまま舌を這わせた。
「ん……、ん…っ」
くるみの髪が氷室の腰をくすぐる。
「ああ…っ、駄目だ、由香……」
氷室の指が伸びてくるみの髪にもぐり、頭を押さえる。
「ん…っ…、んん……、ふぅ…っ…、…う…んん……」
隅々まで舌で愛撫したあと、くるみはできる限り深くそれをくわえ、あふれかけた
自分の唾液をごくりと飲み込んだ。
「ゆ…由香…、駄目だ……。終わってしまう…」
苦しそうな声にくるみは慌てて口を離す。
「ごめんなさい…」
「いや…、いいんだ……。……来てくれ…」
腕を取られ引かれるままに、くるみは体を氷室の上に重ねた。
「…重いでしょ…?」
「重くないさ」
くるみは膝をついて、氷室の細身の腰をまたぐ。
いま口で愛したものが、くるみの下で固くぬめった。
「あ…、あぁん……」
氷室の上で四つん這いになったくるみは、ゆっくりと腰を動かして、正しい角度を
探す。ぴちゃっ、くちゅっ、と濡れた音をたてて、くるみの体は何度目かでやっと
氷室を捉えた。
そのまま腰を落とし、熱い体内に氷室の体を沈み込ませる。
「はぁっ……ああ!」
「う、うっ……」
二人はうめき声をあげ、しばらく荒い息をしていた。
やがて呼吸が穏やかになる。
「ああ……。温かい……」
そういうと、氷室は目を閉じて幸福そうな表情をした。
それを見下ろすくるみは、胸を突かれる。
……警視……、こんな顔もできたのね、由香さんが生きている頃は…。
「あ…んっ!」
突然下から押し上げられ、くるみは悲鳴をあげた。
「…少しくらい、動いてもいいだろう?」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、氷室が言う。
「……少しだけ、なら…」
答えが終わらぬ間に、強く、弱く、突き上げられて、くるみはまた声をあげた。
「…あ…、あー…っ!ん、……あぁ…ん!…ああっ…、はぁ…ぁっ!」
くるみの腰をつかんで押さえ付ける手のひらが熱い。
「だっ……、だめ…ぇ、少し、だけって……!」
喘ぎながらくるみが叫ぶと、動きが止まった。
「少し…だけって、言った、でしょう…」
奥まで貫かれて、くるみは腰が砕けそうだった。言葉がもつれる。
「……すまない。…怒ったのか……?」
くるみが聞いたこともない声音で氷室がたずねる。
氷室に頬ずりしてくるみは答えた。
「ううん…。体が溶けるかと思ったの……」
くるみの背中を抱いて、氷室はそっと声をかける。
「後は……、君の言う通りにするよ…」
くるみはうなずくと、氷室の頬にキスをして体を起こした。
脚に力を入れ、体を浮かせてはぐいと落とす。
「あっ……!はあ……ぁ!あぁ、あ…んっ…!」
切ない声が部屋に響く。
「辛いんだろう。…無理するな…」
氷室はくるみの手を握って引き寄せる。
その手に体重をかけて前傾すると、体が少し楽になった。
「……は…ぁ……」
ため息をつくくるみを、氷室は愛しそうに見る。
「ゆっくりでいいんだ……。もう…少しだから…」
氷室の手に導かれながら、くるみは緩やかに腰を動かした。
「ああ……、由香………」
頂点へと上ってゆく心地良さと、ほんの少しの悲しさが入り混じった声。
二人の腰は一つのもののように寄り添って動いた。
「由香…、愛してる……。ずっと一緒に…、俺のそばに、いてくれ……」
「…うっ、う、うー…っ!!」
くるみは我慢ができなくなって、激しく嗚咽した。
涙があふれ、ぼたぼたと氷室の裸の胸に落ちる。
二人に嫉妬する気持ちは微塵もなかった。
氷室がいま口にしたささやかな望みは、もう永久に叶うことがない。
そう思うと、運命の残酷さが、その理不尽さが、ただただ、悲しかった。
「どうした…、なぜ泣くんだ、由香……」
訝しげに問う氷室に、くるみは焦った。
神様!神様…!!…今だけでいいから、あたしを、由香さんにして下さい!
どうか、最後まで、警視があたしだって気づかないようにして!!お願い!!!
「…由香……?」
「……ごめんね、嬉しくて…。あたしも愛してるよ…、光…三郎……」
くるみはそう言って、氷室の口に深くキスをした。
舌を絡めると、氷室の喉からくぐもった呻きがもれる。
次の瞬間、氷室の腰がぐいと持ち上がり、熱いものがくるみの中でほとばしった。
「んっ…、あぁー…っ!」
衝撃に悲鳴をあげて、くるみがのけぞる。
「…く、う…っ……!」
氷室も顔をしかめて衝動に身をまかせた。
くるみは腕をついて、氷室の上にまたがっている。
氷室は射精すると、目を閉じて、再び眠ったようだった。
だが、その体は前よりずっと温かく、顔にも血色が戻っている。
少し安心して、くるみは静かに体を離した。
「……ぅ!」
氷室の体がくるみの体内から抜け出る。
同時に二人の体液もあふれて、氷室の腹部を汚した。
くるみは手早く服を身に着け、枕元のタオルをつかんで洗面所へ行く。
温水でタオルを濡らして固く搾ると、氷室の顔と体を丁寧に拭き清めた。
バスローブの前を合わせ、紐を結び、上掛けをそっと上げる。
再び洗面所でタオルを洗い、バーにかけた。
寝室に戻り、床にぺたんと座って、ベッドに頬杖をつき氷室を見守る。
「…………」
氷室は目を開ける。
しばらくまばたきをして、だるそうに体を起こした。
自分の体を見て、バスローブで寝ていたことに気づく。
「…………。夢を、見たのか……由香の…」
片手で顔を覆い、微かな記憶を辿ろうとする。
「いや…、今さら、何だというんだ………」
思い出す努力を中断しようとし、ふと下腹部に疼きを認めた。
途端に、ぼんやりした夢の記憶が手繰り寄せられる。
やわらかな、温かな体。愛する人と触れ合う歓び。優しい言葉。鋭い快感。
女性器の生々しい感触。熱い喘ぎ。泣きたいほどの愛しさ。落ちてきた涙。
一時に迫ってきた記憶に目眩を覚え、氷室は頭を振った。
視線を遠ざけると、自分の足元に頭を乗せてくるみが眠っているのが目に入る。
「なんだ…、なぜ彩木君が、ここに……」
その顔に、涙の跡が幾筋もあるのを見て、呼吸が一瞬止まる。
「…まさ…か……」
小さな声を絞り出し、氷室はふううっ、と深く息をついた。
「……ん…」
くるみは目を覚まし、頭をあげる。
目の前の上掛けがめくれており、ベッドの上に氷室はいなかった。
「……警視!?」
慌てて立ち上がると、肩からふわりと毛布が落ちる。
痺れた足をさすりながら寝室を出たところで、机の前の氷室を見つけた。
「警視……!起きたりして、大丈夫なんですか…?」
「……ああ」
氷室は少しだけくるみの方へ顔を向け、短く答えた。
「ああ、って……、本当に?」
「体に不調はない。寝不足続きだったんで寝過ぎたんだろう。さっき、華江さんと
内線で話した。二人には、ずいぶん心配をかけたようだな……悪かった」
くるみはきょとんとして氷室を見つめる。
「――それから…彩木君、ついていてくれて、ありがとう…」
くるみの瞳から、みるみる涙があふれた。
「……あ、あたし、心配しました。すごく、恐かった……。おっ…お願いですから、
死んじゃってもいいとか、思わないで……!だって、警視が死んじゃったら……
だれが由香さんのこと、思い出すんですか……?」
氷室はぴくりと身じろぎをし、手を止める。
「あ、愛する人がいなくなったら、生きてる方が辛いのかも知れないけど……、
…でも生きて欲しいの。その人の分まで幸せになるために、生きて欲しいの。
由香さんも、きっとそう思って、警視のこと、かばったんじゃないかなって、
そんな気がするんです、あたし…。だ、だから……」
体を固くして押し黙っていた氷室が口を開く。
「…もういい、わかった……。心配するな、死のうとは思ってない」
「本…当…?でも、あたし、やっぱり警視のこと、心配です…。心配しちゃう…」
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうな言い方とは裏腹のあたたかな声に、くるみの涙がやっと止まる。
氷室は立ち上がって、内線電話のスイッチを押した。
「……はい」
「華江さん…、彩木君が目を覚ましたんだが、空腹で気が立っているらしい。
何か用意してやってもらえないだろうか」
電話の向こうで小さな笑い声が聞こえた。
「かしこまりました。…ぼっちゃまはいかがなさいます?」
「そうだな……。ついでだ、一緒に頼む」
「承知しました。では、すぐに…」
「なんか、ひっかかる言い方!」
「まあいい…。ところで、赤が一本開栓されているが、これは君か?」
昨夜開けたワインのことらしい。
「は、はい…。あの、気付け代わりに、警視に飲ませました…」
「気付けに……これを」
「いけなかったですか…」
「いや……。いい」
華江がサンドイッチと果物と紅茶を運んでくる。
「ご朝食です、どうぞ……」
ふと、氷室のそばのワインの瓶に目をとめた。
「ぼっちゃま、それは、ヴィンテージの…」
「ん……今朝、由香の夢を見てね……。懐かしかったよ」
華江は目を細め、何ともいえない表情をして氷室を見る。
「それは…良うございました……。さ、お二人とも、召し上がれ…」
華江が去ると、氷室はすっと立ち上がって、棚からワイングラスを2脚取り出す。
件のワインを静かに注いで、ひとつをくるみの前に置いた。
「せっかくだ。君も飲みたまえ」
「あ、ありがとうございます……いただきます」
氷室らしからぬ行動にとまどいながら、くるみはグラスを顔に近付ける。
まろやかな、あたたかな香りが、ふわりと漂う。
くるみは上目づかいで氷室を見て、何気なさそうにたずねた。
「…警視…。由香さんの…夢を、見た…んですか?」
「ああ……。君のおかげだ」
くるみはうろたえる。
「えっ!?…あ、あたしは、ただワインを飲ませただけで、べ、別に何も…」
その様子を横目で見ながら、氷室は言う。
「夢は良く憶えていないんだが…。そのワインは、由香の生まれ年のものだ。
君がそれを選んだことと、夢を見たことと、…関係があるように思えてな」
「……!あたし、そんな大事なものを、開けちゃったの?!」
「構わんさ。たとえ一瞬でも、由香に会えたんだ……」
穏やかにくるみを見る氷室の顔。
くるみはまた涙が滲んでくるのをこらえながら、小さく微笑んだ。
〈完〉