そこだけピントが合っているような、でなければ光が当たっているような…、
そんなふうに、大勢の中で一人だけが目に飛び込んで来た。
夕闇の雑踏の中に、あの人がいた。
まだ半分信じられなくて、ゆっくりと近づく。
でも間違いない。警視と同じ顔、同じ姿。
たたずんで前を見てる厳しい横顔がそっくり。
声をかけたい…けど…、私のこと、忘れてるかも……。
その時、あの人がこっちを見た。
「――やあ…。…あなたは……」
少し驚いた顔の、目元と口元がほころぶ。
「おぼえてて…くれたんですか…」
「もちろん、憶えてますよ。…今日ここで再会するとは思わなかったけれど」
「私も。びっくりした…」
「……失礼ですが、これから何かご予定が?」
「え?…いえ、何も。仕事が終わって帰るところ、です…」
「もしお急ぎでなければ、コーヒーでも飲みませんか」
「え…っ、あの…、…はい……」
すぐにはい、って言ってしまった自分に、少し驚いた。
でも…このまま別れてしまうのは残念な気がしたんだもの。
うす暗くなった街角を、連れ立って歩く。
もしも警視が外に出たとしたら……こんな感じ?
やだ、私、変なの…。なんかちょっと、ドキドキしてる……。
初めてだけど、雰囲気の良さげなお店。
中は暗くて、テーブルの上にはキャンドルの光がゆらめいていた。
二人用のテーブルに案内されて、席につく。
向かい合わせに座って間近に顔を見ると、何を話していいのかわからない…。
「……うっかりしていた。もう夕食の時間でしたね」
彼がメニューを見て言った。
「いいですか、食事にしてしまって」
「ええ」
おなかがすいてきたところだったので、私はうなずく。
「食べられない物は?お酒は飲めますか?」
「何でも大丈夫です。…おまかせします」
彼は手際良く注文をする。料理の名前を言う抑えた声が、警視とそっくり……。
「どうも時間がずれて困る。なかなか直らないな」
「…それって…、時差ボケですか?日本に戻られたばかり…?」
「――なぜそれを?」
彼が驚いたように私を見た。少し鋭い視線。
「実は私、あのあと、もう一度教会に行ったんです。……だけど、イタリアに
いらしたって……会えなくて」
「そうでしたか。ええ、時差には慣れたのですが、生活時間帯が少し違うので…。
向こうだと夕食には少々早い時間なんです」
「そうなんだ…。…あの、あちらへは、留学で…?」
「…そんなところかな」
そこにワインが来て、二人のグラスに注がれる。
「では、再会を祝して」
小さく乾杯、と言って、私は不思議な気分でワインを飲んだ。
「おいしい…」
「良かった。……ええと…、何でしたか、お仕事は…」
「え……。えっと、あの…公務員です」
ウソをついたわけじゃない…。なんとなく、警察官って言いたくなかったの。
「上司の方とは、その後うまくいっていますか?」
胸がどくん、と音を立てた。
「よ、よくおぼえてます…ね」
少しあわてている私を、彼は笑顔で見ている。
「おかげさまで…。あの時、アドバイスしてもらったこと…、感謝してます。
なんていうか、迷いが消えたっていうか…、自分の気持ちがはっきりして……」
そうして、私は、警視と……。…やっ、そこまで言うことないんだってば……!
暗いから目立たないだろうけど、顔、赤くなってるかも…。……お酒のせい?
「そうですか。少しはお役に立てたのかな」
「もちろんです、すっごく」
「…だが…、結婚は先に伸ばされたようですね」
また、どきん、と胸が鳴った。
「ど…、どうして、わかるんですか…?」
彼がにやっと笑う。
「――確か、『結婚したら仕事を辞める約束』とおっしゃっていたでしょう。
指輪はしているけれど、まだお仕事を続けているようなので、そうかなと」
……すごい記憶力…。心を見透かすような瞳も、なんだか警視みたい。
あなたは、いったい誰?……そう尋ねればいいのに、それが言えない…。
料理が運ばれてくる。どれも目新しくて、おいしそう。
私たちは食べながら話を続けた。
「…結婚という結論を急ぐことはありません。特に教会で挙式したい場合はね。
建前上、初婚のみというところもありますから」
「え、そうなんですか?」
「カトリックは離婚を認めていませんので、2度目の結婚はあり得ない訳です」
「あ…そっか。厳しいんだ……」
言葉の続かない私を、彼はいたずらっぽい目で見る。
「まあね。でも、例えばイタリア人が、生涯一人の伴侶しか持たないと思いますか?」
「え?…うーん…、イタリアの人って、恋愛体質っぽいイメージが……」
くすっと笑って、彼がうなずく。
「でしょう。西欧の中では離婚率が低いのですが、裏を返せば不倫率が高いらしい。
ローマ・カトリックの中心地でありながらね。ま、本音と建前の使い分けですよ」
「え……?」
なんか、ちょっと、きわどい話題。思わず胸に手を当てた。
「愛し、歌い、食べる…という気質は享楽的とも取れますが、生きることに積極的
なのだとも言えます。人生を楽しむその姿勢は、魅力的だと思う。文化・芸術に
限らず、経済・産業においても、それはイタリアの強みです。なぜって、自分が
楽しくなければ、価値のあるものや人の感動するものは作れないでしょう?」
穏やかに、にこやかに、だけど、熱っぽく語る顔。
(…いつだってリーダー格で、みんなを引っぱって、男らしくて。
でも優しくて、感受性が豊かで……)
胸がきゅんとした。どうしてここで、直美さんの言葉が思い浮かぶの。
変だよ、くるみ…。この人は、警視じゃないのに。
…警視も、昔はこんなふうに、楽しそうに話をしてた……?
「……失礼。話し過ぎたかな」
「いえ、そんなこと」
エスプレッソが来て、それぞれの前に置かれる。
デミタスカップなんて持ってると、ホントに警視みたい。
私、今、誰と話してるんだろ?やだ、飲みすぎちゃったかなあ…。
「えーと、あ、あの…留学中は、どんなことを?」
「哲学、宗教美術史、社会心理学、醸造学…など」
「は、あ…。じゃ、今後は、教会でお仕事、ですか…?」
彼はカップを口に運んで、私を見た。
少しひんやりした、まっすぐな視線。
息が苦しくなるような気がしたけど、目をそらせない。
彼は私を見たままエスプレッソを飲み、にこ、と笑った。
「神のみぞ知る、です」
どちらのカップも空になる。
「……そろそろ、行きましょうか?」
「あっ、あの、すみません、私、化粧室に…」
「どうぞ、いってらっしゃい」
暗い店内を歩いて化粧室に入り、鏡を見る。
酔ってはいないはずだけど、頬が赤い…。
ええっと…軽いノリで「記念に写真撮りませんか?」なんて言ってみたりして。
「コーヒーもう一杯」…う、入んない。「カラオケ行きます?」…無理矢理だなぁ。
やっぱ不自然だよね、変にひきとめたりするのは……。
結局何も考えられずに、口紅だけ直して化粧室を出た。
「お、お待たせしました…」
「いいえ。では行きましょう」
彼はレジを素通りして外に出る。
「あ、あの、お支払いは?私、まだ…」
「済みました。こちらがお誘いしたのですから」
「え…っ、で、でも……」
「いいんですよ。それより、もう少しおつき合い頂けますか。…夜景が見たくて」
「え?」
私が答えを考えている間に、彼はタクシーを止めて乗り込んでしまった。
あわてて私も車に乗る。
車は、ますますにぎわう夜の街を縫って、高いビルに着く。
ここの展望室って、たしか有料…。っていうか、デートコース……なんだけど…。
高層階へと上ってゆくエレベーターの中は薄暗い。
どこを見てればいいか分からなくて、黙ってうつむいた。
なんだか、胸のどきどきが大きくなってきたみたい…。
…バカね、意識し過ぎ……。
展望フロアは、ほの暗い空間。そのかわり、窓の外は星空のよう。
ガラスに駆け寄って外を見る。
「わ……きれい………!」
「本当だ」
私達はしばらく言葉もかわさず、きらめく夜の街に見とれていた。
「こうして見る風景は悪くないな。いい思い出になる」
「え…?」
思わず、隣にいる彼の横顔を見た。
「明日ローマに戻ります。……不思議ですね。前にお会いしたのも、日本を離れる
時だった」
「…………」
彼が私を見る。薄明かりに照らされた、私の良く知っている人と同じ顔。
目の前にすると、何も言えない。何も…きけない……。
彼は目を細めて首をかしげ、少し切なそうに微笑む。
「なぜ、そんな風に、私を…?」
そう言うと、顔が近づいてきて、唇と唇が触れた。
ほんの少しの間そのままいて、顔が離れる。
警視と同じ形の唇は、同じように柔らかだった。
「…どうして……名前しか、知らない人…なのに」
体が震えて…重い。
「私は、あなたの名前すら知らない…」
彼が間近で囁く。
「教えてくれますか…?」
「……くる…み。彩木、くるみ……」
「あやき…くるみ……。素敵な名前だ」
ワインが今ごろ効いてきたの…?こめかみが、どくんどくんと音を立ててる。
ふらりとよろけた私の背を、彼の腕がそっと支えた。
「いけない。――気をつけて…」
薄暗い部屋。広いベッド。なめらかなシーツ。――ここはどこ…?
「……あや…き……く………」
あ…。私、警視の寝室にいたんだ…。
体を起こして声の方を見た。
裸の警視が、ベッドに上ってくる。
横座りになった私の前に来ると、そっと私の前髪をかき上げ、額にキスをした。
「………」
唇が離れる。間近に、優しい瞳、やわらかな表情。
……警視、少し笑ってる…?
穏やかな顔をじっと見ていたら、唇が重なってきて、私は目を閉じた。
肩から背中にあたたかい手のひらが回って、抱き寄せられる。
「……ん…」
ぐい、と唇が押し付けられる。私もその唇を押し返す。
少し唇が開いて、私の唇を軽くはさむ。私もそっと、その唇をはさむ。
くり返し、くり返し、押してはかすかに離すキス。
ちゅ… ちゃぷ…
小さな音が耳にひびくたび、頭の芯がとろけてゆく。
「…ん…、ふ……」
警視の背中に手を回して、体を強く押し付けた。
たくましい胸板の上で私の胸がひしゃげ、かたくなった乳首がくるんと転がる。
「……ぁあ…」
切ないような気持ちよさに、ため息まじりの声がもれる。
少し離れた警視の唇が、今度はむさぼるように私の唇を吸う。
熱い舌をからめられ、気が遠くなる。
「…ん、……んっ…」
私も警視の口の中に舌をのばす。
とろりとあたたかな唾液が混ざりあう。
好き…。すごく……好き。
ちゃぷっ… ぴちゃっ…
動物みたいに、舌を出しておたがいの舌をなめる。
「ん、…ふ…っ…」
警視の唇が横にずれて、私の頬、耳たぶに触れた。
耳の下から首筋へとキスが続く。
「あぁ…っ……」
胴を抱いている手が軽く私を持ち上げ、私はひざ立ちになった。
胸の谷間に唇を当てる警視の頭を見おろす。
「ぁ……、は…ぁあ…」
片方の胸にやわらかく手が添えられ、もう片方の胸を唇が吸う。
さっきのキスのように、熱い舌が乳首にまとわりつく。
「ぁん…っ、…ふ…ぅう…!」
私はのけぞって、警視の後頭部に手を回した。
唇を離し、鼻先でなぞってみたり、指の間にはさんで力を入れてみたり。
「…あぁ…んっ、…ん、ん……」
小さな二つの部分から体中に快感が走り、そのたびに私は震えた。
警視の手が、荒い息をする私の脇腹を抱き、腰をすべり、腿におりる。
脚の間に入ると、手の甲が腿の内側をなで上げる。
「――は……ぁ!」
私のそこに、片手がはり付く。
少し持ち上がった中指が、ぬぷり、とひだのまんなかに埋もれる。指の付け根は
ふくらんだ先端を押し、指先はお尻の穴に触れた。
手はぴったり吸い付いたまま、小さく前後する。
「は…、…うぅっ……、ん…ふぅ…!」
そこがかあっと熱くなって、体の奥から何かがあふれ出す。
手が動くと、ちゅくっ、ちゅくっ、と音が聞こえる。
「…あ…はぁ…ぁ、…んっ、んー…っ…」
いつの間にか、手の動きに合わせて腰を突き出していた。
そうして下さいと私から誘うように。
「ぁ…あっ!…は…ん、んっ…!」
つかまっている警視の肩に、爪を立ててしまう。
腿ががくがくして、倒れそう。だめっ…これ以上続けたら、私……。
その時、ぬちゅっ、と音を立てて警視が手を離した。
「ぁふ…ぅ!」
その手が透明な液体で濡れている。
私のそこからあふれたものが、軽く広げた指の間で、ねっとりと細く糸を引いていた。
「…ぃゃっ…」
恥ずかしい。思わず目を閉じて首を振る。
「…嫌?…何が…?」
ふふっと小さく笑いながら、警視が問いかけた。
答えようがなくて、私はただ首を振る。
手が私の腰をつかんで引き寄せ、上に乗るよううながす。
私は警視の腰にまたがると、硬いそれに手を添え、腰を下ろした。
「……んっ…、ぁ、あ……っ!!」
熱い塊が、ぬかるんだそこを押し広げて入ってくる。
頭をそらし、悲鳴を上げた私の喉を、熱い舌がなめた。
「……嫌、か…?」
低い声で問われ、私はまた首を振る。
「…うぅん…、す、好き…。すごく…好き……」
「――よし」
後ろに片手をついた警視が、く、と腰を上げる。
「…ひ……っ…!」
何度も何度も突き上げられるたびに、体の奥が燃えさかった。
「ん…んっ…!……ぁ、うっ……!…は、ぁあ…っ!」
ひきつけるように息をする私を見て、警視は動くのを止める。
「……いけなかったな。少し休もう…」
震えながら、私は小さくうなずいた。
ゆっくりと呼吸していると、体の中でとくん、とくん、と打っている脈を感じる。
これは…私の?それとも、…警視の……?
ぼんやりと考えながら警視の瞳を見つめる。
警視は口元に笑みを浮かべ、少し首をかしげて私を見ていた。
私が動こうとすると、警視は私の腰に手を当て、軽く引く。
「……さっきのようにすればいい」
「…え…っ……」
「ほら」
警視が私の乳首をつまむ。
「あ!」
私がぴくんと腰を動かすと、警視はくすくすと笑った。
「そう…上手だ」
いじわる。でも…好き。大好き……。
警視の目の前で、私はゆっくりと腰をくねらす。
私の動きに合わせて、警視も小さく腰をゆらし始める。
「……あ…っ。…あぁ…ん……」
警視は軽くあごを上げ、ふうっと息をつく。
「…ああ…。上手だ……」
嬉しい。私も…気持ちが、いいの…。
「…ん、…ぁあ…っ、…警視……、す、き…」
「――くるみ…。素敵だ、とても…。あやき…くるみ……」
「……え…?」
頭がくらっとした。警視は、そんなふうに話さない…。私を名前で呼ばない。
…まさか…、まさかこの人は……。
動かなくなった私を、目の前にいる警視は笑みを浮かべて見る。
「……どうした?」
警視の口がそう言っている。ただし、声はすぐ耳元で聞こえた。
同時に後ろから肩を抱かれる。
「………っ!」
警視がいた。
「――どうした?彩木…君」
「…警視…?!ど、どうして…。どっちが、警視……?」
私を隔てて鏡に映ったような二つの姿を、息をするのも忘れて見比べる。
耳の後ろに唇が触れ、手のひらが脇腹をなでる。
「どちらも私だろう。…君がそう思う限り」
低い声が耳にひびき、私は小さく首を振った。
「…私…、…そんな、こと…」
前にいる警視は私の頬をなで、私の腰を抱え上げてゆっくりと体を離した。
大きくて、熱いものが出てゆく。体の一部がなくなるような感覚。
「は、…ぁう…!」
ひざ立ちになった私の背中が、後ろにいる警視の胸に触れる。
力強い腕で私の腰を抱きしめ、首筋をなめながら、警視が問う。
「どう…して欲しい?」
片手が胸をまさぐり、あごをつかんで、人差し指を私の口に差し込む。
もう一方の手はおなかを下り、二本の指でぬるつく私のそこを広げた。
「…ん、ふ…っ!…ん…んっ……、……て…」
「何…?」
「して……。このまま、…後ろ、から……」
警視は無言で私の体を前へ倒す。
斜めになった私を前にいる警視が抱きとめ、私はその腕にすがる。
後ろから私のお尻を抱えた手が、お尻の肉を広げた。
さっきと同じ熱い塊がひだの間に当たり、重みをかけてめり込んでくる。
「く、ふぅ…っ…!ん…、はぁ…あっ…!」
締まった腹筋がお尻に触れ、警視の体が苦しいほどに深く入った。
「あ…っ…、ふ……、う…ぅっ…」
私の息が少し落ち着くと、警視は腰を引き、下からぐい、と突き上げる。
「ぁ、…あ…!…ん、ぅっ…!…ふ、ぁ…!」
胸が上下に揺れる。体が熱くしびれる。
体の中がどろどろにとけて、警視にかき回されているみたい…。
目の前にいる警視がそっと唇を重ねて、私のうめき声を吸う。
「……んっ、ん…ふ…、ぅう…っん…」
いじわるな警視が好き。優しい警視が好き。どんな警視でも好き。
いつもそばにいて。ずっとこのままいて。いつまでもこうしていて。
警視の声がささやく。
「……私と君は二人で一人だ…そうだろう、彩木……」
…嬉しい…。あたし…、警視のためなら、何でもする…。
警視が大きく腰を引くたび、熱い塊が出ていってしまいそうで、私は体に力を入れる。
ひだの奥がきゅうっとして…、痛いくらいに、気持ち…いい…。
…あっ……、もう…、…だ、めっ……。
「…ぁ…、ああぁ…っ!!」
自分の声で目が覚めた。そこが、びくん、びくんと収縮している。
今のは…、ゆ…め…?…夢だ……。な…んて…、なんて夢なの…。
あの時、肩を抱かれて、ぼおっとしていて…。
「送りましょうか?…それとも私の部屋に来ますか?」
「…え…?」
「明朝、チェックアウトまではゆっくり眠れますよ。もちろん…眠らなくてもいい」
「……い、いえっ!…全然大丈夫、帰れますっ、一人で」
彼は静かに笑って、私の頬に軽くキスをした。
「残念だな。でも、また会えるような気がします。…お元気で」
……要するに、からかわれたのね、あの人に。…あの後、どうやって部屋まで帰って
きたんだろ……。ああ、頭、痛い。
…警視と同じ顔の人が、楽しそうに何度も笑ってた……笑いかけてきた…。
それで、きっと……警視の笑顔を、見たくなったんだわ……。
今すぐじゃなくてもいい――いつか、警視にも…笑って欲しい。
無性に会いたくて、胸が苦しくなる。早く、朝になればいいのに。
「彩木です、失礼しまぁす」
扉を開けると、机に向かっている警視がこっちを見た。
「――ああ…」
そっけなく、もうモニタの方を向いてる。でもいいの。
ボブさんと同じように、私もここにいるのが自然っていう空気。それが嬉しい。
「もしかして、仕事ですか?」
警視の後ろから、モニタを見る。
「ただのニュースさ」
「ふうん…。『テロ対策 警備体勢強化』、『官庁内部に不正アクセス』…、
『伊の盗難美術品、都内に流入か』…、伊って、何でしたっけ?」
「…イタリアだ」
胸がどきんと鳴って、体が少し熱くなる。
あの人…今頃はきっと飛行機の中ね。夢みたいだった夜と、変に生々しかった夢と…。
あん…どうしよう、思い出しちゃった…。
「……で?」
急に警視が振り向く。
「きゃ!…な、なんですか、急にっ」
「君こそ何だ。呼んだ覚えはないから、どうしたと聞いている」
「え……。あの、怒らないで下さいね…。警視、お休み取ったらどうかな、って」
ほんの一瞬だけ、きょとんとした顔。でもすぐに眉を寄せる。
「…四月一日はまだまだ先だぞ」
「冗談じゃないですってば。…今、素敵な季節ですよ。せっかく仕事が入ってない
時くらい、外に出てみたらどうですか?……じゃなかったら、一日仕事を忘れて、
好きなことをしてるとか…。私、電話番くらいならできますから」
警視は無表情に横を向いた。
「息抜きくらいしている。妙な気を遣うんじゃない」
「…ごめんなさい…」
「ところで、いつまでそんなものを抱えてる?」
「あ…お花屋さんの前を通ったら、きれいだったから。花瓶ありますよね?」
「…以前誰かが置いていったな。あの棚の中だ」
花瓶に水を入れて、色とりどりの花を活ける。
「よし、っと。…ん…いい香り…」
振り向くと、警視がちょっと目を細めて、花を見ていた。少し…切ない瞳。
私の視線に気づいて、目をそらす。
「――まったく…わざわざ自分の仕事を増やすこともなかろう」
「…え?」
「私は忙しいんだ。花瓶の水にまで手が回らんからな」
こっちを見ないで、少し怒ったような声。
でも…、ほんとは違う。私、わかるの。警視がなんて言っているか。
「私、やりますから。毎日お水を取り替えると、花が長持ちするんですよね」
「……任せる。好きにしたまえ」
「はい!」
その時、ピーッと音を立てて、ファックスが受信を始めた。
「…事件でしょうか?」
「かも知れんな」
「あ…、警視、なんだか楽しそう」
「何を言ってる…」
警視はあきれたように私を見た。その目が、口元が、軽く笑っている。
……そんな気がした。
〈完〉