「いかがですか、退院されてから」  
「…それが……」  
華江は一層顔を曇らせる。  
「人が変わられたようにふさぎ込んで…、暗い地下室に閉じこもっておられます。  
 お食事をお持ちしても、ほとんど……」  
老医は視線を落として幼かった患者を思い出す。  
 
「あのような事件の後では、致し方ありません…。彼にとって、身を切られるほどの  
 辛い出来事でしょう」  
「先生、そうは言いましても……。お顔が、日々おやつれになっていくのです。  
 暗い目をなさって、何もおっしゃらず…。私はもう、心配で」  
握りしめた手を震わせ、不安げな華江に、老医は穏やかに言葉をかける。  
「本来こういうものは、時しか解決できないと私は思います。医者にできることは、  
 その間の手助けに過ぎない。――本当は、彼自身が受診してくれると良いのだが」  
 
華江はあり得ないという顔で、首を振る。  
老医は事情を察し、頷いた。  
「…では、鎮静剤と、睡眠薬を出しておきましょう。少しでも眠らなくては」  
「無理をお聞き頂き、ありがとうございます…先生」  
「いや。私も案じています。いつでも連絡を」  
 
 
暖かな頃の、広い緑地。  
「お座り。……伏せ。――よーし、偉いぞ!」  
つぶらな目をした従順な犬の、大きな頭を撫でる。  
「待て。…そう…そのまま……。いい子だ」  
 
傍らに腰掛けた由香が笑顔で見ている。  
「……この子、本当にあなたが好き。散歩につきあってもらうのが嬉しいのよ。  
 犬って、犬好きな人が良く分かるのよね、不思議と」  
「俺もお前が好きさ。…な!……うわ!!」  
近づけた鼻先を、犬がべろりと舐めた。  
 
「あはは。お熱いこと」  
楽しそうに笑って、由香はハンカチを差し出す。  
俺は有り難く受け取ると、濡れた鼻を拭いた。  
「嬉しいが、熱烈すぎだ…」  
由香の隣に腰を下ろしてハンカチを返す。  
 
寂しくなったのか、犬も隣に来て頭を押しつける。  
「……どうした。別に怒ってないぞ」  
子供のように甘える大きな身体を抱いて、撫でてやった。  
 
犬と反対側にいる由香が、とん、と俺の肩に頭を乗せる。  
「……ん?」  
「あたしも…好きよ。あなたのこと」  
そんなことを言われるのは初めてだったが、意外ではなかった。  
なんとなくそんな気がしていたし、俺もずっと彼女が好きだったから。  
 
「――いつ…気づいた?…俺の気持ちに……」  
「いつだろう……。でもね、初めて会った時、漠然とだけど、この人好きだなあって、   
 この人も私のこと好きになってくれるかもって、思ったな…」  
「…………」  
「変ね。まるで犬と一緒」  
「……いや。…君の言う通りだ。たぶん、初めて会った時から好きだった…」  
「うん…」  
俺は由香の肩を抱いた。犬と俺と由香と、寄り添っていつまでも座っていた。  
 
 
長いため息。  
暗闇の中、氷室は椅子に身体を預けていた。  
能面のような顔、瞬きもしない目。  
 
どうして………由香がいない……。  
どうして……俺だけが、ここにこうしている……。  
何があったか全部分かっているのに、それでも理解できないのは何故だ。  
奇妙だ……。極めて奇妙だよ、由香。  
何度考えても理解できない。こんな事ってあるんだな…。  
 
お前を助けに行ったのに。  
無事に連れ帰る事だけを信じたのに。  
何故、お前が死ななければならなかったんだ。  
代わりに俺が死ねば良かったのに。  
 
表情を変えぬまま肘掛けを握る手の、指先がぎぎ、と木地にくい込む。  
 
被弾した瞬間、熱したナイフが肩を穿ったかと思った。  
背に弾を受けたお前はもっと痛かったろう…、…苦しかったろう……。  
廃虚の暗闇が、急速に近づいてくる死が、さぞ恐ろしかったろう…。  
 
かすれ、乱れた呼吸が次第に激しくなる。  
 
目の前にいる俺に、どんなに助けて欲しかっただろう。  
妹を、自分を、理不尽な暴力でおびやかした得体の知れない男から。  
冷たく、禍々しい、地獄のようなあの部屋から。  
………無へと吸い込まれて行く恐怖から。  
 
空を見つめる目は大きく見開かれ、全身が小刻みに震える。  
 
だ…が、夢にも思わなかったはずだ……。  
お前の身体に銃弾を撃ち込んだのがこの俺だと。  
救出に来たはずの俺が、お前を…殺したんだ。  
何故……、何故こんなことに………。  
 
額に浮いた汗の粒が、こめかみを伝い落ちる。  
「う……ぐ…っ…、う、ううぅ……っ!!」  
食いしばった歯の隙間から、押しつぶされた唸り声が漏れた。  
 
 
暗い廊下。瓦礫の散らばる床。歩を進めるたび、靴音が響く。  
 
この…次の扉だ……。その部屋に、由香が…。  
待っていろ、すぐに助ける……。  
 
扉に近づき、ゆっくりとノブを回す。  
「…由香……!」  
扉を開けて入ると、闇に包まれていた部屋が突然明るくなる。  
がらんと広い、寒々しい部屋。  
中央に寝台。  
白いシーツに覆われた、細く冷たい身体。  
二度と目を開けることのない、美しい顔。  
 
霊安室だった。  
 
「…う、うわ――っ…、あああ…ああ――っ!!!」  
 
暗い地下から、狂ったような叫び声が上がる。  
 
「こ、光三郎様…?!」  
華江が階段の上に辿り着いた時、ボブは転がるように階段を駆け下りていた。  
扉を叩いて氷室を呼ぶ。  
 
「Ko!! Hey, Ko…!! What happened?! Are you OK?」  
「…N…Nothing happened……I'm…all right……」  
「…ホントに、大丈夫?」  
「……ああ…」  
 
扉越しに氷室の様子をうかがうと、ボブはゆっくりと扉から離れ、階段を上る。  
「かわいそうに……きっと、悪い夢、見たね…」  
華江は夜着のまま、階段の上に立ち尽す。  
 
 
老医は穏やかに話しかける。  
「……少しは落ち着かれましたか、彼は…」  
華江は苦しそうな顔をした。  
「いえ、残念ながら…。お部屋で一日中何かを考え込んでおられるようです。  
 時折、…悪夢でもご覧になったのか、悲鳴や叫び声が聞こえたり……。  
 お食事は、召し上がってもごく少量だけ。私共と顔を合わせるのも避けたい、  
 というご様子で」  
「そうですか…」  
机の上で指を組んで、老医は何事か考えている。  
 
「――大きなショックの後に、抑鬱状態が続くのはままあることです。彼の場合、  
 事件の結果を自分によるものだと考えているようですね。その自責の念が…、  
 精神的な自傷行為となって、エスカレートしないといいのだが」  
「とおっしゃると」  
「…最悪の場合には、自殺も……」  
華江は唇を噛んだ。今の氷室の様子では、あり得ないことではない。  
 
その不安を拭うように、老医は笑顔を浮かべた。  
「大丈夫、彼は頭のいい子だ。短絡的な逃避は選ばないでしょう。今はつかず離れず、  
 静かに見守ることです。…あなたが昔からしてきたようにね」  
「はい」  
「少し強めの薬も出しておきます。様子を見て替えて下さい」  
「感謝致します、先生…」  
 
 
犬の散歩の帰り道の、公園のベンチ。  
座って手をつないだまま、言葉が途切れる。  
薄暮の木立の中、俺達二人だけがいた。  
 
「日が落ちたな。……そろそろ行こうか」  
「…うん……」  
そう言いながら、どちらも立とうとしない。  
 
梢を眺めていたら、絡めた指を由香が強く握った。  
その指を、俺も握り返す。  
 
視線を戻して由香の顔を見る。  
由香も俺を見ている。  
間近にある形の良い唇に、そっと唇を重ねる。  
 
「……………」  
 
一瞬のような永遠のような、不思議な時間。  
やがて唇を離し、互いの目を見る。  
由香はやわらかく微笑む。  
 
「光…三郎…。誰か来たら、どうするの…?」  
「……誰もいない。誰も見てないさ……」  
もう一度、ゆっくりと顔を近付ける。  
 
突然、大きな身体に似つかぬ甘え声で犬が吠えた。  
構って欲しいと尻尾を振って、恨めしそうに見上げている。  
 
「――そうだ、お前がいたよな。悪かった……」  
俺達は弾けるように笑った。  
 
 
「…光三郎様…。失礼致します……」  
華江は静かに声をかけて、扉を開ける。  
氷室は無言で椅子に座っている。  
 
「ご夕食、お下げしてよろしいでしょうか」  
トレーの上の手付かずの食事の中で、スープだけが無くなっていた。  
華江はやや安堵した顔でうなずく。  
「お口に合いました…?」  
答えはなかった。  
 
「お薬を。少しでもお休みになれると、先生が……」  
錠剤を乗せた小皿と水の入ったコップを持って、氷室のそばに行く。  
無表情にあさっての方向を見ていた氷室だが、華江がいつまでも動こうとしないので、  
仕方なさそうに薬を飲んだ。  
 
華江は小さく微笑んでトレーを片付ける。  
「また明日の朝参ります。…お休みなさいませ、光三郎様……」  
扉が閉まり、地下室に冷たい静寂が戻る。  
 
 
暑い季節。俺の部屋。それぞれ、画集でも見ていたのだったか。  
白い指が優雅に動き、耳に髪をかける。  
露になった横顔の、美しい顎の線。  
視線に気づいてこちらを見る。  
「……え?なぁに?」  
 
答えなど知らない。ただ近づいて、唇を重ねる。  
「こ……、…っ……ん…」  
驚いて硬くなった身体がすぐにほぐれ、手のひらが俺の背中を強く抱く。  
唇も、身体も、隙間なく密着する。  
――ひとつになりたい。  
 
「んっ……、ぅ…ん…」  
弾力のある腰を引き寄せると、由香の手が頬を押さえる。  
上下の歯の間を撫でながら、舌が入ってくる。  
ねじれ合う舌が、甘く、温かい唾液を混ぜ返す。  
粘膜の、滑らかで柔らかな感触。  
 
身体中の血がたぎり、目が眩む。  
由香を抱き締めたまま、畳の上に押し倒す。  
何か言おうとする赤い唇を深く吸ってから、首筋、胸元へ強く唇を当てる。  
淡い香水の匂いと由香自身のそれとが、心地よく香る。  
……すべてが欲しい……お前のすべてが。  
 
「光…三郎……」  
猛った身体をなだめるような細い声。  
組み敷いた華奢な身体を見下ろす。  
優しい瞳が、責めるでもなく見つめ返してくる。  
 
上昇し続けていた心拍数が徐々に下がり始める。  
「――すまない…。驚いただろう……」  
先に身体を起こし、そっと手を取る。  
起き上がった由香は、上品な仕草で髪をかき上げ微笑む。  
 
「ううん、嬉しかった。それに…こんなあなた、初めて…」  
「……からかうなよ。俺だって普通の…」  
言葉を交わしながら、平常に戻っていない自分の身体に気づく。  
下手に隠すこともできず、言葉に詰まる。  
 
察した由香がさり気なく言う。  
「それも普通の事よ。…あたしの身体だって、ちゃんと変化してるわ」  
「…え…っ?」  
「外から見えないだけ。……女は得ってことかな」  
「………」  
二つ年上の彼女がもっと大人びて見えるのはこういう時だ。  
 
「あなたの気持ち、嬉しい……。でも…来週まで待ってくれる?――今日は、もう、  
 直美も帰ってきてると思うし……」  
「あ、ああ…。別に…急いでない」  
「…ん。来週が待ち遠しいわ」  
俺の口元に軽くキスをして、由香はにっこりと笑った。  
 
 
胸が痛くなるほど懐かしい、柔らかな感触。  
氷室は無意識に唇に指を当てる。  
 
 
俺は一体何をしているんだ…。  
何故こうして生きながらえている?  
大切な人を死に追いやった人間に、何をすることがある。  
もう……すべて終わった。  
俺も終わってしまえばいい。  
 
背もたれを倒した椅子に身体をあずけて、黒い天井を見つめる。  
 
暗い廃ビル…。あそこで、スネイルを仕留めていれば。  
由香が、スネイルからの電話に出なければ。  
俺が由香を好きにならなければ。  
由香と俺が知り合わなければ。  
そもそも、俺さえ…この俺さえいなければ…。  
 
氷室は目を閉じ、深いため息をついた。  
 
もう、何をする気もおきない。何も出来ない。  
この地下室で、静かに朽ち果ててしまいたい。  
いや、もしかしたら既に朽ちかけているのかも知れない。  
丁度いい。俺に墓など要らない……。  
 
両手で顔を覆い、髪をかきあげて、氷室は死の甘美な誘惑を間近に感じた。  
静かに意識が薄れてゆく。  
「お前も…そう思うだろう……、…由香……」  
唇の先で小さく呟いて、地下室の住人は黒い眠りに落ちた。  
 
 
階段を降りて来る重い足音。  
扉の外に来たボブが、珍しく慌てた声で話す。  
「Ko, Hanae-san is just taking a phone call. I'm afraid it might be from  
 the Immigration Bureau or something…」  
「……What? …Tell her to wait until I come up, Bob」  
「Ok, I will…」  
 
氷室は咄嗟に扉を開け、上に向かおうとした。  
階段が、奇妙な質感でそびえている。  
果てしなく続く段の上の方は、光に溶けて見えない。  
頭の中がぐらりと揺れた。  
「……う…っ…」  
なんだこれは。  
不可解な表情をして、氷室は階段の下に崩れ落ちた。  
 
「――コウ?!」  
「……ぼっちゃま…!」  
異変に気づいた二人が、慌てて階段を下りてくる。  
氷室は完全に気を失って、ぴくりとも動かない。  
 
ボブは氷室を抱え上げると、扉の中に入り、ソファの上に寝かせた。  
華江はタオルを濡らして硬く絞り、氷室の額に乗せる。  
「光…三郎様……」  
少し苦しそうな顔をしたまま、氷室は寝息を立てていた。  
 
「呼吸は変じゃない。あまり眠れてないみたいだから、ちょうどいいね…」  
「本当に、ボブ様がいて下さって心強いです。何とお礼を申し上げていいか」  
「ん、ん。なに言ってるの。こんなこと、何でもない」  
ボブは真面目な顔をして首を振る。  
 
「ぼく、日本で頼る人、誰もいなかった。コウしか思いつかなかった……。  
 コウは黙って話を聞いて、ここにいろって言ってくれたね……嬉しかった。  
 『まさかの友が、真の友』…だっけ…?コウが困ってる時、そばにいられて  
 良かった…。今度は、ぼくの番。コウのためなら、何でもするよ」  
「……ありがとうございます…」  
 
 
「……もしもし。先生、お忙しいところ…」  
「構いませんよ。――彼に何か?」  
「地下のお部屋を出ようとなさったら、突然お倒れに。今は気がつかれたのですが、  
 とても気分がお悪そうで……」  
「……そうか…。とりあえず、安静にさせて下さい。…暴れたり、幻覚が見えると  
 言うようなことは?」  
「いいえ、それは。少し呼吸が乱れたりなさるようですが」  
「どうも不安障害のようだ。原因となる行為は避けた方がいい。…今回で言えば、  
 部屋を無理に出たりしないように」  
 
では、あの部屋にいつまで…。  
問いたい気持ちをこらえ、華江は医師の言葉を聞いていた。  
 
「発作のきっかけはまだあるかも知れない。もっと激しい発作が起きる可能性もある。  
 有効な薬は処方しましょう。――ただ長期的に見ると」  
「はい…?」  
「彼が地下室に隔絶されたままなのは、望ましいことではないね…」  
「…………」  
「最良なのは治療だが、そうでなくとも、他人や外界と少しずつでも接触しなければ、  
 たった一人で、苦しみを加重し続けることになるだろうから」  
 
老医は華江が言葉を失ったのに気づいた。  
「心配させてしまったかな。…大丈夫ですよ。焦らず見守りましょう…」  
 
 
「光三郎様……。お電話です」  
氷室は沈黙をもって拒否する。  
「…警視総監秘書室からで……どうしても直接お話をと」  
 
扉が開く。華江は子機を氷室に渡すと、階段を上って姿を消した。  
氷室は億劫そうに受話器を近付ける。  
「……氷室です」  
「どうも。手短にお伝えします。まず…、あなたが提出した辞表は、受理されません」  
電話の向こうの相手は、社交辞令もなく切り出した。  
 
「………」  
「あなたの上司に当たる数名が、警視総監に遺留すべしとの意見を述べたそうです。  
 総監も同意され、あなたには引き続き警視庁にて勤務して頂くことになりました」  
「……どういうことでしょうか」  
「経験は浅いが、あなたには犯罪捜査に関する豊富な知識と手腕がある。最新技術の  
 応用にも詳しい。それに米国留学・研修の経験…それらを活用せよとのご意向です。  
 ……あなたが将来を嘱望された、貴重な人材ということですよ」  
 
白々しい口調に氷室は再び沈黙する。説得がはかどらないと思ったのか、相手は  
さらに言葉を列ねた。  
「今回の事件は確かに失態でしたが…責任は不問です。経歴には傷もつかない。  
 寛大な措置だ。それに応えるお気持ちはあるでしょう。それに、あなたにこれまで  
 かけられたコストを、つまり税金ですね、還元しようとは思いませんか?」  
…それが本音か。氷室は心の中で冷笑する。  
 
「…氷室警部?」  
「お話はごもっともですが、重大な障害があり、お断りせざるを得ません」  
「障害…?障害とは?」  
「私自身ですよ。自宅から外に出られません。無理に出ようとして倒れました」  
 
「――まさか……」  
「信じるも信じないもご自由に。ただ、私はもはや、犯罪捜査も、組織への貢献も、  
 出来るような人間ではない、とお伝えしておきます。…失礼」  
氷室は電話を切った。電話の向こうで、相手が鼻白んでいるのが見える気がした。  
 
 
太陽の照りつける日。  
俺の部屋でふたり、向かい合って正座する。  
「言っておきたいことがあるんだ。迷惑だったら忘れてくれ」  
「…………」  
由香は小首をかしげ、瞬きもしない。知性的な黒い瞳が俺の心を読む。  
「将来を共にできる女性と、幸運にも巡りあえたと思ってる。――君とは、ずっと  
 一緒にいたい……。…俺の正直な気持ちだ」  
 
少し驚いたような表情が、切ない笑顔に変わる。  
「嬉しい。ありがとう…光三郎。あたしも、運命の人に出会ったと思ってた…」  
「…由香……」  
膝を前に進める。潤んだ瞳が近づく。たまらなく愛しい。  
「……家と同じで、古くさい奴だと思っただろ?」  
由香はぷっと吹き出して、泣き笑いの顔をする。  
「何言ってるの。あたし、この家好きよ。あなたの考え方も…、すごく好き」  
すぐに浮かんだ屈託のない笑顔に心が安らぐ。  
 
「愛してるわ……光三郎」  
低めの、しっとりした声。肩を抱いて、唇を重ねる。  
柔らかな唇を舌でなぞり、奥に滑り込ませると、由香の舌が絡みついて応える。  
「――ん…んっ……」  
心拍数が上がり始め、身体を巡る血流が勢いを増す。  
全身が熱を帯び、一点が苦しいほどに硬く凝固する。  
 
いつの間にか、由香の舌が深く入ってきて、俺の舌をくすぐる。  
「う…ぅ、…んん……」  
動物のように呻いているのは誰だろう。  
血が上った頭で考えながら、ゆっくりと折り重なって身体を倒す。  
 
華奢な身体の、丸い膨らみが俺の胸の下で弾んでいる。  
そっと手のひらで包み込み、押し揉む。  
「……あ…」  
由香の唇から、吐息のような甘い声が漏れる。  
その声すらも自分の物にしたくて、唇を塞ぐ。  
「…ん……、……」  
悩ましげにもがきながら、由香は俺の手に自分の手を重ねる。  
二人の脚が交差して、由香の服の裾がめくれ上がる。  
 
目を射る白さの太腿と、ひきつれた布地。  
「由香……、破けたらまずい…」  
「…えっ?――妙なことを気にするのね。でも、確かに」  
上になった身体をどかすと、由香は裾を直しながらくすっと笑う。  
「破れた服で出て行ったら、あなたにあらぬ疑いが」  
「…よせよ。冗談になってない」  
「脱ぐわ」  
 
短く宣言すると、横座りになってこちらに背を向ける。  
「え…」  
その意味に気づき、我知らず唾を飲み込んだ。  
髪を横に寄せ、そっとファスナーを下ろす。  
張りのある生地の、夏色のワンピースがぱくりと背中で割れ、中から美しい生き物が  
羽化したようだった。  
そのまま腕を抜き、身体を露にしてゆく。  
 
強い日射しを受け白く光る障子を背景に、細身のシルエットが浮かぶ。  
由香は後ろ手にホックをはずすと、胸を隠し下着を落とす。  
布の中からすいと立ち上がり、ベッドに腰をかけた。  
恥ずかしそうに微笑んで、黙ったままの俺を見る。  
 
ほうけたように由香の裸身を眺めていた俺は、我に返って目を逸らした。  
「…す、すまない。無礼だな」  
ふふ、と小さな笑い声が聞こえた。  
「…そんなことない…。――来て……」  
 
音を立てて脈が早まる。  
俺は自分の服をむしり取ると、ベッドに横たわった由香に重なった。  
柔らかく、儚げな、美しい身体。  
「由香……好きだ…」  
何度となくキスをする。  
「……ん……、…んっ……」  
首筋に、顎に、喉に、鎖骨に、唇を当てていく。  
 
由香の手が、俺の頭を抱く。  
「…光…三郎………」  
優しい声が俺の名を呼ぶ。苦しいほどに愛おしい。  
胸骨を下に、唇でなぞる。  
「あ……ぁ……」  
小刻みに震えて反応する身体を押さえ、みぞおちまで下りてから、胸にキスをした。  
 
「――んっ…!」  
俺の身体の下で、華奢な身体が跳ねた。  
一方の胸の先端を口に含み、もう一方の胸を手のひらで包む。  
「あぁ…っ…、ぅ…う…ん……」  
呼吸を乱しながら、由香は扇情的な声を上げる。  
しなやかな脚が折り曲げられ、俺の胴を挟んだ。  
「光三郎……、…光三郎……」  
 
名前を呼ばれるたびに、弾けそうな衝動が俺を襲う。  
「…由…香……」  
お前のすべてに触れたい。滑らかな肌に手を這わせた。  
柔らかな腹部、弾力のある太腿、引き締まったふくらはぎ。  
脚を少し広げて、しっとりした腿の内側。  
薄い布に包まれた部分。  
 
「…光…三郎……」  
囁き声に誘われて、布の下に指を滑り込ませる。  
温かく、柔らかく、濡れた襞があった。  
俺は上擦ったため息をつく。  
「…あなたを、待ってた……。ずっと前から…」  
「……俺もだ…」  
繊細な布地を傷めないように、由香の肌からそっと下着を剥がす。  
 
下着を取り去ると、俺は身体を起こした。  
「少し…待ってくれ。その……」  
由香が俺の腕を押さえる。  
「…今日は要らないわ。このままでいい…」  
「……えっ?」  
「そういう日なの」  
「そ…そうか…」  
由香は頷くと、戸惑う俺の手を取って、頬に当てた。  
「でも、ありがとう、光三郎。大好き…」  
 
俺は由香の上に覆いかぶさって、身体を近づけた。  
由香は軽く腰を浮かせ、俺の動きに合わせる。  
温かく濡れた身体が、優しく俺を迎え入れ、包み込む。  
「……は…ぁっ…」  
「…ああ……。由香……」  
名状し難い心地良さに、更に奥へ潜り込みたい衝動に駆られた。  
腰を前に進め、深く入る。  
 
「……んっ…」  
苦しそうな呻きを漏らし、由香がのけぞる。  
「悪い。痛かったのか?」  
「ううん……驚いただけ。なんだろう…すごく、幸せ」  
俺を見上げて、由香は聖女のように微笑む。  
「……由…香…」  
愛しい。愛しすぎて狂おしい。身体の奥が猛り、俺は身震いした。  
 
「――ぁ、あ…っ!」  
腰を引き、低速の長いストロークで前後させる。  
華奢な身体が連動して揺らぎ、目を閉じた由香は艶めいた表情を浮かべた。  
「…あぁ……、は…ぁ…、…ぅ…ぅん……」  
ますます熱く潤い、俺を捉えて放すまいと蠢く彼女の内側。  
 
切ないほどの快感が身体の一点に集中し、抗い難い衝動へと高まってゆく。  
壊してしまうのではないかと怖れながらも、深く、深く突き入れる。  
「…ん…んっ!……ふ、…ぅ!……ぁ…、…光…三郎…っ…!」  
俺の背中に爪を立て、由香が微かな悲鳴を上げる。  
加速する摩擦。切迫する呼吸。接合した部分が立てる濡れた音。  
 
「…ゆ…、由…香…、……由…香……っ!」  
頭がスパークした瞬間、俺は自分を解放した。  
「――う…ぅっ、…あ、ぁ…あ……っ……!!」  
制御を失った身体が、由香の熱い体内で機械のように震え続ける。  
俺の放ったものが濡れた襞の奥に流れ込んでいく。  
 
大きく息をつく俺を、由香は澄んだ眼差しで見つめた。  
「……愛してる。死ぬまで、あなたのそばにいるわ……」  
 
いつの間にか日が暮れ、すっかり暗くなっていた。  
俺の腕の中にいた由香が、半身を起こす。  
「もう、こんな時間……全然気づかなかった…」  
まだ手放したくない。もっと抱きたい。腕を取って彼女を引き寄せる。  
「気にするな。今夜は俺一人しかいないんだ」  
「――いけない息子ね」  
悪戯っぽく笑って由香はキスをする。  
 
「…お互い様だろう。君だって……」  
「ん…、直美は合宿中。…でも、家の方に電話してくると思うの。もう帰らないと」  
「……そうか…」  
だが帰ると言いながら、由香は何か考え込んでいる。  
「どうした?」  
「あの子、気づいてしまうかしら…」  
「……何故だ?…別に…やましいことじゃない。榊も認めてくれるさ」  
「うん……。そう、だよね」  
由香は自分に言い聞かせるように呟く。  
「起きよう。送っていくよ」  
俺はまだ夢の中のような気分だった。  
 
 
氷室は我に返る。  
暗い地下に、独り座している自分がいた。  
遥か遠い日の事のようでも、つい昨日の事のようでもある記憶。  
夢を見ていたのか、ただ夢想していたのか、自分でも良く分からない。  
しかし、どちらでも同じことだった。何一つ変わらない現実だけがあった。  
 
由香……。あの部屋を見ることはもうないだろう…。  
お前と共に過ごしたどこにも、もはや俺は行かない。  
どうやら俺は、この地下室に、自分で自分を幽閉したらしい……。  
我ながら上出来だよ。俺に相応しい人生だ。  
――そんなものがこの俺に残っているとするならば、だがな…。  
 
頬が引きつり、顔が歪む。  
己を嘲りたくても笑うことが出来ず、情けなさに泣きたくても涙が出なかった。  
愛する人に許しを乞いたくても、その言葉は決して届かない。  
 
……由香。俺は……、俺はどうすればいい…?  
気が狂いそうだ。狂えたらどんなに楽だろう。  
だが、それは安易な逃避だ。俺には…狂うことすら許されるべきじゃない…。  
 
 
扉をノックする音。  
華江が遠慮がちに声をかける。  
「……光三郎様…。総監秘書室から、またお電話が。いかが致しましょう」  
氷室は暗がりの中で舌打ちをする。  
「…お切りしてしまってよろしいですか」  
扉が開いた。  
「…出る」  
 
華江から受話器を受け取った氷室は、機械のように話す。  
「……氷室です」  
「秘書室の三井です。いかがですか、お身体の調子は」  
この前とは違う人物だった。  
「…先日お話した通りです。変わりありません」  
「そうですか……。今日は、その特殊な事情を考慮した結果をお伝えしようと、  
 お電話しました」  
氷室は無表情に、流れてくる言葉を聞いている。  
 
「このたび部署が新設され、あなたはそこに異動となります」  
「……ですから私は外には…」  
「設置されるのは、あなたが今いる場所です。……外に出る必要のないようにね」  
「…は…?」  
 
意表を突かれ、氷室は眉根を寄せる。  
「休職扱いにという意見もあったようですが、やはり何らかの形で勤務を、と。  
 今は通信機器も発達している。在宅勤務も可能でしょう」  
「そんな事、できる訳が……」  
「できるかできないか、それはあなたが証明すればいい。違いますか」  
厳しい口調が挑戦的に響いた。  
 
「部署名は『A級未決事件捜査特別室』。あなたは室長にして唯一の職員です。  
 捜査第一課の分課という位置付けだが、掌理するのは、一定期間後も未解決のもの、  
 著しく解決が困難と思われるもの、そして、警視総監が特に必要と認めるものに  
 限られます」  
「私は…」  
相手は氷室の言葉を遮って続ける。  
「例えばあなたが最後に担当した事件も、未解決のものに含まれるでしょうね」  
 
氷室は言葉を発しなかったが、空を睨んだ瞳の奥がぎらりと光を放った。  
ざわ、と毛が逆立つような、凍っていた血が沸き立つような感覚。  
 
「……再捜査の命令が出る可能性もある…。何にせよ、少しでも現場に関わっている  
 ことは、あなたにとって損にならないはずだ」  
「……私からもよろしいですか」  
「どうぞ」  
「捜査指揮権の全権委任、必要な捜査情報の全面開示、最低一名以上の人員配置。  
 これを保証して頂けるなら」  
「…保証しましょう」  
 
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いて、氷室は静かに答えた。  
「……では、謹んで拝命します」  
電話の向こうの相手は、当然のように話を続けた。  
「辞令は後日出ます。予算も承認済み、関係各課にも連絡済みです。装備課および  
 施設課と相談して、新設部署に必要な備品を申請して下さい。承認が出次第、――  
 常識の範囲内であれば全て承認されるはずです――そちらに設置されます」  
 
小気味いいほどの話の早さ、手回しの良さに、氷室は自嘲気味に呟く。  
「…承諾以外の選択肢はなかった。そういうことですね」  
「それが私の仕事でした。…が、個人的にも、あなたと話す機会が持てて良かったと  
 思っていますよ、氷室警部。ご活躍を期待する。では」   
氷室が言葉を返す間もなく、電話は切れた。  
 
音の消えた受話器を持って、氷室は扉の外に向かって呼ぶ。  
「ボブ、話がある。…下りてきてくれ」  
 
数日後、辞令が郵送された。  
 
 『刑事部捜査第一課 警部 氷室光三郎  
 
  下記のとおり発令する  
 
  昇任 警視  
     捜査第一課所属  
     A級未決事件捜査特別室 室長』  
 
 
 
内線電話の呼び出し音が鳴り、華江は受話器を取る。  
「――何でございましょう、光三郎様」  
「新しい部下の候補者が来る。また『試験』をしたい」  
「…はい」  
「開始時間を4時に指定した。よろしく頼む」  
「承知しました。今度は、どんな方です…?」  
不機嫌そうなため息の後に、短い沈黙。  
 
「環七署交通課交通執行係、巡査、彩木くるみ……だそうだ」  
「…可愛らしいお名前。女性の方ですか」  
「――理解しかねる人選だ」  
「きっと、いい方ですわ」  
「何でも構わんさ…使える人間ならばな」  
「そうですね…。では後ほど」  
 
内線電話を切ると、ファックスされた書類を机に投げ、氷室は椅子にもたれた。  
 
…こんな俺に出来る事はあるのか、…そもそも俺に生きている意味があるのか。  
発し続ける問いが、いつか答えに転じるかも知れない。  
今はそう思ってる。  
………由香。  
その時は来るのかどうか。  
だが…、それまで俺はここにとどまるつもりだ。  
 
――お前から遠く離れた、この深く暗い、地面の下に。  
 
 
                             〈完〉  

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