俺は泣いていた。  
情けないとは思ったけど、情けないから泣いているんだった。  
どうにも出来ないという悔しさと、その悔しさをどうにもできないから、情けないとわかっていて、泣くしかなかった。 
「そう、泣くな」  
初めて会ったときとあまり変わらない口調で、斗貴子さんは俺を慰めてくれた。 
だけど、それがなおさら苦しかった。  
泣きたいのは本当は斗貴子さんのはずなのに、なんで俺が慰められているんだろう。 
 
斗貴子さんを助ける術は、全て尽きた。  
 
「キミは本当によくやってくれた。私一人では奴を倒せなかっただろう」 
蝶々覆面の創造主は倒したけど、斗貴子さんに取り憑いた「胎児」を解毒させることは出来なかった。 
今もバルキリースカートを展開して、体内を巡る進行を遅らせてはいるけど、明日には、斗貴子さんがホムンクルスになる。 
避ける術は、もう無い。  
「ごめん……」  
謝るということの無力さを嫌と言うほど思い知っても、泣く以外には謝ることしか出来なかった。  
「謝ることはない。元よりキミは巻き込まれただけだ。  
 守りきれなかったキミをここまで巻き込んでしまった私の方こそ謝らなければならない」  
「それでも、ゴメン……」 
「一週間前にも、同じ言葉を聞いた気がするな。 
だから、キミのせいではない」 
一週間前に時間を戻せたら、一週間前に戻れたら、今度こそ斗貴子さんを助けられただろうに。  
「学校を支配していた創造主は倒したのだから、以後は錬金術のことも私のことも忘れて暮らすといい。  
 大きな病にでもかからない限りは、核鉄が心臓の代わりをしていることも気づかれないだろう」  
「斗貴子さん……」  
何かを打ち切る準備でもするように、斗貴子さんは淡々と語った。  
身体には今も激痛が走っているはずなのに、その声は静かによく通っていた。 
でもその言葉は、わずか十日前に始まったとんでもない非日常を打ち切り、日常へ帰る準備だった。  
だけど、明日になっても記憶は無くならない。  
そして、絶対に記憶から消えることはないだろう、斗貴子さんは……  
「キミには、本当に世話になった。 
 おかげで使命を果たすことができたんだ。  
 何も報いてやることは出来ないが、心から感謝している」  
涙で視界が歪んでいて、何が起こったのかとっさにはわからなかった。  
首の周りに温かいものが巻かれ、鼻先と口元を柔らかいものが受け止めてくれた。 
「と、と、と、と、と、斗貴子さんっ?」  
目元を拭いてくれた布が、斗貴子さんのセーラーカラーだと視認して、何が起こったのかようやく理解したけど、頭の中が盛大に湯気を噴いてしまった。 
泣きたい状態は何一つ解決していないのに、心臓がどきばくして声がうわずっている。  
「ありがとう、カズキ。キミに会えてよかった」  
いいわけがない。斗貴子さんを助けることが出来なかったんだから。  
「この十日間、人生の最期にしては悪くなかった」  
また涙を堪えきれなくなって、思わず斗貴子さんの肩を抱きしめていた。 
初めて近くで見たときよりも、さらにずっと小さく感じられた。  
肩も、腕も、顔も、首も、戦士であることが信じられないほど細かった。  
その細い首筋に、おぞましい筋が通っている。  
斗貴子さんの腹から伸びる、「胎児」の触手だった。 
その触手の伸びている根本を見ようとして……身体と視線が止まった。 
俺を抱きしめているせいでよれたセーラー服の隙間から、白い下着が覗いていて、しかも、その奥が見えそうになっていた。  
まひろに比べるとずいぶん小さいけど、心臓を逆撫でするほど白いふくらみだった。  
そんなことをしている状況じゃないと解っていても目が離せなかった。  
しかし、そんな不自然な態度が斗貴子さんにバレないわけがない。  
「私に、欲情しているのか。カズキ」  
こんな状況になっても、斗貴子さんは正確無比だった。  
武装錬金には性格が出るというが、バルキリースカートそのもののような鋭い指摘だ。  
斗貴子さんが相手でなくても、バレバレなのかもしれないけど。 
しかし、もうすぐ斗貴子さんが死んでしまうというのに、その斗貴子さんに抱きしめてもらっているというのに、俺はなんてことをしてるんだ……  
「ご、ごめんなさい……」  
さっきとは謝る理由が大きく違っている。 
土下座しようとして、斗貴子さんを抱きしめていた手を離した。  
だけど、出来なかった。 
斗貴子さんは、まだ俺のことを抱きしめてくれていた。  
「錬金術のことを説明したときにも、少し私に欲情していただろう。 
 もっとも、あまりにストレートで悪い気はしなかったが」  
「ご、ごめん……」  
斗貴子さんは愉快そうに笑った。あまりにも、儚げな微笑みだったけど。  
「こんな私に、欲情してくれるのか。カズキ」  
「え……あ……うん。斗貴子さん、綺麗だし……」 
自分でも何を言っているのかわからないが、本音らしきものを口走っていた。 
「そうだな。一つだけ、キミに報いてやれるかもしれない。  
 もう、こんなことしかしてやれないが」 
斗貴子さんの細い腕から伝わってくる力が、少しだけ強くなって、それから、ふっと緩んだ。  
そのままでいたいなと思う気持ちをなんとかねじ伏せて、斗貴子さんの胸元から顔を起こした。 
丁度、斗貴子さんと真っ直ぐ見つめ合えるだけ、斗貴子さんの腕は緩められていた。  
潔いとすらいえるくらい短く切りそろえられた髪も、鋭くはあっても険は感じられない瞳も、夜そのもののように深い漆黒で、そのまま飲み込まれそうな気がした。 
明かりは、この廃工場にわずかに残った非常灯の電源と、星明かりだけ。 
その明かりの下で、斗貴子さんの頬がかすかに紅く染まったように思えた。 
気のせいだったのかもしれない。 
そのとき斗貴子さんの言った言葉が、そう思わせただけかもしれない。 
「なんとか夜明けまでは、私の身体も保つだろう。  
 報酬として弄び甲斐がある身体かどうかはわからないが、  
 一応、ホムンクルスどもは女だと見てがっついてきた。  
 せめてもの礼だ」  
一瞬で口が乾いたような気がした。  
「礼……って……」  
唾を飲み込んで、やっとのことで出た言葉はそれだけだった。 
「欲情したということは、私の身体が欲しかったのだろう。違うのか?」  
こんなときでさえ斗貴子さんはストレートだった。  
やっぱりさっき紅く見えたのは俺の気のせいだ。  
「違わ……ない」  
「なら、この身体はキミの好きにするといい」  
斗貴子さんにとって自分の身体は物体に過ぎないのだろうか。  
ホムンクルスたちのように、肉体など造られたものといえばそうかもしれない。 
でも、斗貴子さんはホムンクルスたちに触れられるのを嫌っていたようにも思う。 
「斗貴子さんは……」  
「どうした?」  
「斗貴子さんは、俺にそんなことされても平気なの」  
斗貴子さんは驚いたらしく、いつもは鋭い瞳を丸く開いて瞬きした。  
「なぜそんなことを聞く?」  
「何故って、いわれても……」  
わからない。  
ただ、助からないとわかった斗貴子さんが自棄になっているのが嫌なのかもしれない。  
俺の彼女扱いされることを嫌っていた斗貴子さんにとって、このとんでもない提案も、単純なギブアンドテイクの結果なんだろう。  
別に、斗貴子さんに好かれているというわけじゃない。  
「あとのことを気にする必要はない。  
 私がホムンクルスになる前に殺してもらわなければならないのだから、  
 逆に言えば、私の身体をどうしようと気にすることはない」  
斗貴子さんはフォローのつもりで言ったのかもしれない。  
だけど、その言葉は俺の心臓から脊髄まで貫くような冷たさがあった。  
俺が、斗貴子さんを、殺す……?  
俺が、斗貴子さんを……  
「カズキ、もしかして、避妊具を持っていないことを気に掛けているのか?」 
「ぶっっっっ!!」 
違う。断じて、そんなことで悩んでいるんじゃない!  
「最期まで世話を掛ける代償だ。好きにしていいと言っている。  
 それとも、ホムンクルスに取り憑かれたおぞましい女など要らないか……」 
自嘲気味に斗貴子さんが首筋をなぞったのを見て、思わず叫んだ。  
「違うんだよ!斗貴子さん!!」  
 
叫んでから、斗貴子さんの両肩に手をかけて、一旦両腕の分だけ距離を離した。 
自分で自分が何をしたいのか、こんがらがってわからなくなってきていた。  
ただ一つはっきりしていることは、斗貴子さんを助けられないということ。 
俺が、斗貴子さんを助けられなかったということ。  
礼なんて貰える立場じゃないし、  
これから死ぬという斗貴子さんを陵辱するなんてことが、許されるとは思えなかった。  
「カズキ……、私はどうすればいいんだ。 
 私はキミに本当に感謝している。  
 でも私はもう、キミに報いてやることも出来ないのか」  
斗貴子さんの睫毛が悲しそうに伏せられる。  
斗貴子さんは、心底俺に報いようとしてくれているのだった。 
それが嬉しいのに、どうしようもなく悲しかった。  
「カズキ。キミの性格を少しは理解してはいるつもりだ。  
 キミはきっと、私を殺すことに苦しむんだろう。  
 これほど世話になったのだ。せめて少しくらい報いさせてくれ」  
それはきっと、斗貴子さんにとっては精一杯の優しさなんだろう。  
その優しさを、俺には貰う資格なんて無いのに。  
でも、もうすぐ斗貴子さんはホムンクルスになってしまう。  
その前に俺は斗貴子さんを殺さなければならない。  
もう今夜しか残されていなかった。  
斗貴子さんが生きているうちに……。  
なんて外道な考えだろうと自分が恐ろしくなっても、それは否定できない思いだった。  
 
どうしてもっと早く自分に気づかなかったんだ。  
まひろや他の女子と近づいても、あんなに照れたり胸の奥が苦しくなったりはしなかった。 
偶然寄った廃工場にいた、儚い肩の女の子。  
今にも怪物に殺されそうとしている姿を見て、考えることなく突進していた。 
初めて会ったのに、何年ものつきあいのある友人たちを守るような気持ちでいた。  
まひろと斗貴子さんを天秤にかけて、まひろだけを選ぶことが出来なかった。  
それなのに、なんで、なんで、わからなかったんだ。 
俺は馬鹿だと、これほど痛感させられたのは、人生で二度目。  
蝶々仮面の支配者に、斗貴子さんを解毒させられなかったときに続いて、立て続けに二度目だ。  
自分の思いがこうだと、あと一日でも早く気づいていたら、 そのときすぐに、思い切り大声で叫ぶことが出来ただろう。  
そうすれば……そうすれば……  
全ては、後悔にしかならない。 
もう、全て取り返しのつかないことだった。  
「斗貴子さん」  
そして、それ以上に俺自身を落ち込ませているのは、 
こんなにも後悔しているのに、それとは無関係に、斗貴子さんの言葉に身体が反応していた。  
斗貴子さんが生きているうちに、斗貴子さんが欲しい。 
この一週間、斗貴子さんを助けるために、必死で無駄な努力をしていた分、いつもやることを忘れていた。  
それが、今になって祟っている。溜まり、積もり、我慢しきれない思いが、身体を後押しした。 
「斗貴子さんっっ!!」  
「っ!」  
斗貴子さんの名前を叫ぶと、斗貴子さんの左右の二の腕を掴んで引き寄せて、唇を重ねようとする。  
「……痛いな」  
至近距離で、斗貴子さんの呆れたまなざしが突き刺さった。  
勢い余って鼻の頭同士をぶつけたことを知り、やっとドラマで俳優が顔を傾けている理由がわかった。  
さっきまでとは別の意味で思いっきり恥ずかしい。  
「ご、ご、ごめん……っ、斗貴子さん」  
「まったく……。不器用だな、キミは」  
鼻の頭を撫でつつ、それでも斗貴子さんは少しだけ、笑った。  
きっと今でも、腹に巣くっている「胎児」のせいで全身が痛いはずなのに、  
もうすぐ、俺に殺されるというのに、  
斗貴子さんは、笑ってくれた。 
無責任で脳天気だとは思ったけど、それで心が軽くなった。  
いつも、寂しそうで、険しい表情をしている斗貴子さんの、優しい笑顔だった。 
「斗貴子さん……。俺、斗貴子さんにキスしたい」  
「わざわざ言わなくてもわかる。今しようとしただろう」  
「うん」  
「好きにするといいと言ったろう。いちいち断りを入れなくていい」  
「うん。そうする」  
今度は失敗しなかった。  
斗貴子さんの腕じゃなくて肩をしっかりとつかんで、斗貴子さんの唇にキスした。  
柔らかくて、どこまで力を込めたらいいのかわからなかったけど、とりあえず少し歯に力がかかるくらいで留めた。  
カサカサに乾いていた唇が、斗貴子さんの少し濡れた唇に、触れるというより溶けていくようだった。  
その溶けていくところが熱くて、やがて二つの唇が一つになったような気がした。  
触れあったところから、斗貴子さんの身体を全て溶かして、一つになれたら、 
斗貴子さんに取り憑いている「胎児」を無理矢理にでもはぎ取って、もう、誰にも渡さないのに。 
ずっとこうしていたいと思いながら、同時に、もっと先へ進みたいと思っていた。  
ただ今は、唇を離すのがもったいなかった。  
 
どれくらいそうしていたんだろう。  
目を閉じたままでいたから時間はわからないけど、そのうち息苦しくなってきた。 
もう少しだけ、もう少しだけこのままでいたいと思ったけど、やがて限界が来た。  
「ぜーーーーーーーはーーーーーーーーぜーーーーーーーーはーーーーーーー」  
「馬鹿だな。キミは……」  
唇を離して必死で酸素を吸い込む俺に、斗貴子さんの呆れた視線がもう一回突き刺さった。  
「と・・・・・、斗貴子、さん・・・は、どうして・・・・はーーーーーーー」  
「鼻で息をすればいい」  
キスすることに夢中で、そんなこと考えもしなかった。とにかく呼吸を整える。  
「斗貴子さんは……」  
「どうした?」  
「いや……、もう一回キスしたい」  
「だから、断らなくていい」 
斗貴子さんは、他の男とキスしたことがあるのか、知りたかったけど、聞けなかった。  
「じゃあ……」  
一回や二回じゃ収まらなかった。とにかく、思ったところ全部にキスをする。 
頬、あごの先、唇の下のかすかなくぼみ、鼻の頭、睫毛の先、まなじり、まぶた、 
身体が止まらない。  
鼻で息をしながらキスをするのは諦めて、キスとキスの間に息継ぎする。  
何十回めかのキスをしようとしたとき、斗貴子さんが軽く俺の胸を抑えた。  
「待て、カズキ」  
 
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