「カズキ、朝ごはんができたんだが」  
 見ると焚き火の前にしかれた可愛い刺繍のはいったテーブルクロスの上には、飯盒で炊かれたご飯とそばの川でとった魚の塩焼きと、斗貴子さんの自前の梅干が皿に盛られていた。  
 和風だった。これが食卓に並べられていたらもっと様になるのに。石の敷きつめられた川原だし。  
「文句でもあるのか?」  
 ブンブンと首を振る。それを見ても斗貴子さんはぶすっとしたままだ。や、本当に文句はないのだけれど。  
 何気なしに出そうになる溜め息を、なんとか飲み込んだ。こう、なんか、ギスギスした空気がたまらないというか。ていうかキツイ。  
 全面的に俺が悪いというのだから、さらにたまらない。俺はなにをしているんだ?  

 

 斗貴子さんの体にホムンクルスの胎児がとり憑いて四日。  
 俺と斗貴子さんの二人はホムンクルスの創造主を探し出すことと、俺が武装錬金を使いこなすための修行を集中的にするために、学校裏の山でキャンプを張ることにした。  
 朝早くおきてから特訓、昼を過ぎても特訓、日が沈めば創造主を手がかりを捜しに街へ出かけ人を襲っているホムンクルスを退治する。  
 最初に言い出したのは俺だった。一週間なんて下手をすればあっという間に過ぎてしまうし、もし間に合わなくて斗貴子さんにもしものことがあればと考えるといてもたってもいられなかったから。  
 学校なんかそっちのけだった。かなり強引な俺の提案に、斗貴子さんも困惑しながらも、少しだけ優しげにうなづいてくれた。  
 そして四日が経つ。敵は、まだ同じ場所に居る。斗貴子さんの体にも、俺の心の中にも。  

 

 体力的のも精神的にもお互い限界に来ているのかもしれない。苛立ちが、つのった。  
 二日目の夜、斗貴子さんの呻き声で目を覚まし、けれどなにも出来ずに、自分の不甲斐なさに悔し涙さえ出そうになった。  

 

 俺の突撃槍がバルキリースカートにいなされて、川原の岩を盛大に砕き散らした。  
 叱責が飛ぶ。  
「違う! 武装錬金を腕力だけで振り回そうとするなといっただろう!」  
 初日から言われていることだった。  
「ああ、ごめん……」  
 たまらず、唇を噛み締める。そんな俺を見て、斗貴子さんがいう。  
「核鉄を意識すればおのずと動いてくれる。自分の一部だと、ちゃんと認めるんだ」  
 こういうときの斗貴子さんの物言いはひどく優しい。それは俺の苛立ちをちゃんとわかってくれているからだと、理解はしている。  
 けれど優しさが、申し訳なさ過ぎてつらい。きっと、痛いのに。  
「さあ、私は次は横で見ているから、一人で武装錬金を扱ってみろ。核鉄を、意識するのを忘れない」  
「やっぱり、痛む?」  
「心配は、要らない。君が弱すぎるから怪我をさせてしまいそうで怖いんだ」  
「そういうこというかなぁ」  
 苦笑する。斗貴子さんはバルキリースカートを収納して、ひときわ大きい岩の上に座り込み、さぁ、と俺を促した。  
 左手はわき腹を抑えている。たまらなかった。  
 心を落ち着かせ、ヒドク晴れた空に手をかざし、武装錬金、と俺は叫んだ。  

 

「今日はここまでにしようか」  
 カラスの鳴き声が山々に響いたのを合図と決めていたかのように、斗貴子さんがいった。  
 俺はと言うと川原にへたりこんで、まともに返事を返すことも出来ないほどにへばっている。  
 ひっきりなしに荒い息を吸っては吐き、赤く染まった夕焼け空を虚しい思いでしばらくながめた。  
 また一日が終わろうとしているのだ。二度とは戻ってこない四日目が、終わろうとしている。そして俺はまだ自分の武器を扱うことすら満足にできない。  
「そんなに落ち込むな、というのは気休めにしか聞こえないのだろうな」  
 見ると斗貴子さんが俺の横に座り込んでいた。キレイに切りそろえられた前髪が、風に揺られて額を柔らかくなでている。  
 疲れて息を荒げているのを勘違いされそうで、短い間しか見つめることが出来ずに、ゴツゴツとした川原のうえに寝そべった。顔が赤いのを聞かれたら疲れているからと答えようと心の中で思う。  
「カズキはよくやっている」  
「嘘は、やめてよ斗貴子さん」  
「よくやっている。嘘じゃないから撤回などしないぞ」  
 心が安らいでいく。斗貴子さんと話すだけ癒されていくのがわかる。  
 柔らかいものが頭をなでた。それが斗貴子さんの手の平だなんてすぐにはわからなかった。  
「誰にでも、こういうことするの?」  
 むっ、と斗貴子さんがこっちをみた。むしろ睨んでいる風だ。  
「ふん、あいにくだが、私には君以外の男の知り合いがいない。だから私が異性にこんなことをするのは君だけだ。喜んでいいぞ」  
「へへっ」  
 嬉しかった。まるで子供をあやすかのような撫で方だったけど、全然嫌な気にはならなかった。  
 時間が止まればいいとスゴク思った。こうして、斗貴子さんとずっと一緒にいられたらどんなに幸せだろう。  

 一緒にいるという意味を考えて、また赤面しそうになるのをなんとかこらえる 
 夕方。川原の石の上、流れにむかって腰を下ろした二人。斗貴子さんはロマンチックだと感じているだろうか?  
 俺はドキドキだった。  

 さっきから俺と彼女が話し合っているのは、やっぱり武装錬金についてだった。  
「斗貴子さんがバルキリースカートを自由に扱えるようになった時、どんな感じだった?」  
 しばらく、うーむ、と悩んで彼女は答えた。  
「おぼえていない」  
「えー」  
「どうだろうな。しかし」  
 また、うーむ、とうなる。  
「多分一つのことしか考えていなかったとおもう。核鉄を感じ、たった一つのことばかりを念じて、そうしたら自由に扱えるようになった気がする」  
「一つのことって?」  
「今も昔も変わらない」  
 ホムンクルスに対する怒りなのだろうか。強くなりたいという思いなのか。  
 武装錬金が思いを乗せて強くなるのなら、俺の願いは薄っぺらくて安っぽいものでしかないのか。  
 ちらりとのぞいた斗貴子さんの横顔はどこまでも無表情だった。  
「結局は、心の問題か」  
「そうなる」  
 溜め息が出る。そのせいで微妙に気まずくなった。自分の無責任さ加減に心底いやになってしまう。  
 斗貴子さんの機嫌を損なった、と思ったけれど彼女は相槌のように軽い溜め息を返してきた。  
「君のやる気には正直驚いている。とてもありがたいとも思っている」  
 やる気だけじゃな勝てない。  
「それに前向きだ。こっちも力をわけてもらっているような気がする」  
 気持ちじゃ守れない。  
「だから落ち込むな」  
「……ごめん」  
「謝るな」  
 ぽちゃん、ぽちゃんと水の音がする。斗貴子さんが川面にむかって石を投げ入れていた。  
 俺も気を紛らわそうと同じように投げた。  

 ぽちゃん。  

 

 二人して、石を投げ入れ続ける。ぽちゃんぽちゃん。ぽちゃんぽちゃん。  
 バカみたいにひたすら石を投げていた。ぽちゃん。  
 投げ入れながら斗貴子さんがいった。  
「素直になれ」  
 ぽちゃん。  
「素直?」  
 ぽちゃん。  
「素直、だ。自分の思っているとおり、素直に願うんだ。無理したり、捻じ曲げられたりした想いでは武装錬金は上手く扱えない。ような気がする」  
「素直……」  
 ぽちゃん。  
   
 何を考える前に俺は立ち上がっていた。見上げてくる斗貴子さんの視線を背に感じながら、息を大きく吸い込んだ。  
 素直になる。自分がなんでここにいるかを、真正面から認めて受け止める。  
 素直になる。自分の気持ちを、一番強く思っていることをはっきりとさせる。  
 強くなりたいとか、そんなことを考えずに思うままに想うこと。やってやる。  
 ヤッケクソな気分になっていた。後は野となれ山となれ。チクショウ。  
「カズキ?」  
 不思議そうな斗貴子さんの声に振り返り、一度だけ俺はニヤリと笑って、  
 川原をダッシュした。  
「カズキ!」  
 足場の悪いデコボコもいいところの石の上を、捻るのも折れるのも何にも考えずに、何かを振り払うように全力で走りぬけ、  
   
 川面に飛び込んだ。  

 冷たい水が全身を打った。衝撃は心地よかった。  
 息が苦しくなる。腰から上を水から出すと、服がひどく重く感じられたがどうでもよかった。  
 水の流れは思ったより急で危うく流されそうになる。下半身でしっかりと川底をとらえ、俺は川の真ん中で仁王立ちをした。  
 やってやる。そう強く決心した。  
 川べりで斗貴子さんが真剣な表情でなにか叫んでいたけれど俺には届かない。俺はニヤリと笑って、  
   
 そしてありったけの力で叫んだ。  

「うおおおおおおーーー!」  

 木々に止まっていた鳥たちが驚いたように飛び立っていく。  
 それを見届けてひどくいい気持ちになった。素直になる。今俺の頭の中はそれだけだ。  
 もう一度肺に空気を溜めて、もう一度叫んだ。本番だ。聞いてくれ。  

「俺は!! 斗貴子さんのことがぁ!!! 好きだーー!!!!」  

 肺の空気が根こそぎなくなるまで俺は余韻を叫び続けて、ありったけの思いを辺りにぶちまけた。  
 斗貴子さんの方をみる。いつもの無表情でただ立ち尽くしていた。  
「カズキ、風邪を引く。早く上がらなければ」  
 いつもとまったく変わらない口調で彼女は言う。俺は水で濡れた冷たい体を岸へと引きずって、くしゃみを一つした。  
 彼女の柔らかい手がタオルで頭をわしゃわしゃと拭いてくれた。  
 ひどく寒かった。けれど清々しくて、その後のことも考えずに、素直っていいなと、バカみたいに思っていた。  

「君は馬鹿だな」  
「うぐ」  
 わしゃわしゃと俺の頭をタオルで拭きながら斗貴子さんは言った。  
 今になって恥ずかしくなり、俺はなんにも言い返すことが出来ない。むしろ彼女の言葉にひどく同意している。  
 俺、バカだ。  
 濡れた体をタオルで拭きながら、ときおりくしゃみを出して俺は斗貴子さんの言葉を待った。  
 なにか言って欲しかった。たとえそれが哀しい結果だとしても、生殺しだけは勘弁だった。  
 どこかで、期待している自分がいた。願ってさえいた。  
 けれど斗貴子さんは沈黙を守り続けた。  
 息苦しい時間がのろのろと過ぎていく。耐えられなくなりそうで、もう一回川に飛び込んでやろうかと思ったけれど、それをしたら正真正銘本物の馬鹿でしかない。  
 体を拭き終わった。まだ服が濡れていて重く気分が悪かったが、タオルは一枚きりだしどうしようもない。  
 お互いがしばらくの時間を持て余した。五分くらいだったか、俺には死ぬほど長い時間だった。  
「斗貴子さん」  
「夕食の買出しにいってくる」  
「え?」  
「火を焚いて、よく温まっておきなさい。こんなことで風邪を引いたら許さない」  
 斗貴子さんはそう言い残すと、何事もなかったのように立ち上がりスタスタと下山道へと歩いていった。  
 返事も出来ないまま俺はただ座っていたけれど、やがて暗い絶望感がのしかかってきた。  
 完璧フラれた。ていうか軽蔑された。あれは馬鹿をみる目だった。  
 どうしようもないくらい気分が滅入りそうになる。やっぱり期待は裏切られるのが常だと妙に悟ってしまいそうになる。  
「ハクシュン」  
 そして俺はもそもそと焚き火の準備をした。  
 なれた手つきで薪を組み上げ火をつける。  
 濡れた服を火のまわりに並べて新しい服に着替え、膝を抱き寄せてパチパチと音を立てる火を眺めた。ぼんやりしているうちに辺りは暗くなっていつの間にやら夜になっていた。  
 斗貴子さん遅いな、そう思った矢先、コツコツと靴が石を叩く音が聞こえて顔を上げると、両手にビニール袋をぶら下げた斗貴子さんが立っていた。  
「ただいま」  
「お、おかえり」  
 不自然な挨拶がひどく情けない。そんなことはどうでもいいという風に、斗貴子さんは焚き火を挟んだ向かいに腰を下ろした。  
「体は温まった?」  
「ああ、うん。服も着替えたし」  
「そうか」  
 気まずい雰囲気も気にせずに、斗貴子さんはビニール袋から取り出した野菜を、ドサドサと鍋へ落とした。  
 にんじん、たまねぎ、じゃがいも。  
「今日はカレーにしようと思う。思えば食事には手を抜いてばかりだったから。君は育ち盛りの男だし」  
 カレーは嫌い? と小首を傾げてきいてくる彼女に、俺はブンブンと首を振った。  
「そうか。よかった。ついでだったんで野菜は家で切ってきた」  
「カレーは全然大好物だし、うん。ありがとう」  
「ああ……うん」  
 ペットボトルの水を鍋へと注ぐ。気まずい雰囲気はどうしようもないな、と半ば諦めて俺は黙って鍋に押しつぶされたような火だけを見ることにした。  
 ちりちりっ、ちりちり。火はゆらゆらと踊っている。  
 テキパキと段取りを進めていく斗貴子さんの手がときおり見える。だけどあとは煮るだけになったのか、斗貴子さんも動く気配を見せなくなった。  
 ちりちりっ、ちりちり。  
 しばらくするとグツグツと沸騰する音が聞こえ、斗貴子さんがおたまで鍋をかき回した。  
「もうすぐ出来ると思うから」  
「斗貴子さん」  
 弾かれたように顔を上げた彼女の頬が赤いのは気のせいなのだろうか。  
 俺は聞く、そう決めた。やっぱりこれは生殺しだ。はっきり聞きたい。俺のことをどう思っているのか。  
 流石に斗貴子さんは目を背けたりはしなかった。カタカタと音のする鍋を挟んで二人して見つめあう、  
 俺は聞く。立ち止まるのは、多分斗貴子さんも嫌いだろうから。  
「俺は斗貴子さんのことが好きだ」  
 きっと、それは初めて会った時から。命を救われた時から。  
「ああ、聞いた」  
「斗貴子さんの」  
 深呼吸を一度した。  
「気持ちを聞きたい」  
 待った。斗貴子さんは目をつむって考えるような仕草をした。答えるまで、長い時間だったような気がする。  
「私は、今までずっとホムンクルスどもと闘ってきた。私は君がおもっているような」  
「そんなことは関係ない」  
 炎を見つめながら、俺は続けた。  
「斗貴子さんの、素直な気持ちが知りたい」  
 今までにないほど、自分が緊張しているのがわかった。ホムンクルスと闘っている時でも、こんなに神経が張り詰めたりはしないだろう。唾を飲む音が聞こえた。どちらが出したのかさえ、わからないほどに張り詰めている。  
 目をつむりそうになるのを我慢した。自分でまいた種がどうなるか、見届けないほど無責任じゃない。  
 一度、咳をしてから斗貴子さんが口を開いた。  
「嫌いじゃない」  
「それは答えじゃないよ」  
「好きといえばどうなるんだ?」  
 声を荒げているわけじゃなかってけれど、口調には静かな迫力があった。  
「手を繋いでキスでもするか? デートでも? 一緒に遊んで人生の青春の記念にでもする?」  
 いつもの、俺を助けた時と変わらない無表情で、そんな悲しいことを斗貴子さんは言い続ける。  
「私は数日後には死ぬかもしれない」  
「そんなことはない」  
「事実だ。私は死ぬかもしれない」  
 いつもの無表情で、斗貴子さんは震える声を吐き出す。  
 初めて聞く彼女の弱音なのかもしれない。小さな肩がより一層、炎の向こうで消え入るほど小さく見えた。  

 

「私を好きだなんて想いは捨てるべきだ。カズキ、今ならまだ間に合う」  
「もう手遅れだよ。好きなんだ」  
「いうな」  
「何度でもいう。君が好きなんだ」  
 その小さすぎる彼女の体があまりにも心を打って、俺は飛び出していた。  
 鍋を蹴飛ばしてしまった。湯がこぼれて火にかかり蒸気が立つ。それを乗り越えて、俺は彼女の震える肩を抱いた。  
「カズキ、離せ」  
「いやだ」  
「ダメだ」  
「本音を言って、斗貴子さん」  
 スネを軽くコツンと蹴られた。諦めたような顔をして斗貴子さんは俺の胸に顔を埋めた。  
「ヒドイ、男だな君は」  
 好きだと、耳元で囁いた斗貴子さんをさらに俺は抱きしめた。  
 ひどい心残りを我慢して、俺たちはどちらともなく離れた。  
 顔が真っ赤になってしまうのも今日一日でもう慣れた。これからはいちいち顔を赤くなんてしてたら身がもたないから少し困りものだった。  
 ふと、斗貴子さんが川原にしゃがみ込んで俺が台無しにしたカレーを片付けていた。  
 じゃがいもとにんじんを鍋に戻す。そんな単なる共同作業がなぜか嬉しくてたまらない。  

 二人、少し大きめの石に腰を下ろして静かに炎を眺めていた。  
 横にはじゃがいもやらニンジンやら、カレーになり損なった野菜たちが鍋の中で湯気を立てている。火は赤々と燃えている。  
 川原。確かに二人だけの世界になった辺りを、沈黙が支配していた。  
 けれどけっして気まずいわけではなく、穏やかで、どこか癒されるような雰囲気に、幸せってこんなものなんだなって感じたりした。  
 斗貴子さんの方を見ると、俺と同じようなことを考えているみたいで、やっぱり柔らかい表情で焚き火をながめていた。  
 満ちたりた気分で彼女の横顔をながめていると、俺の視線に気付いたのか、少しムッとした表情で見返された。  
「なんだ。私の顔になにかついているのか」  
「いや、別になんにもついてないけど」  
「ならあんまりじろじろ見るな。どうにも落ち着かない」  
「ゴメン。でも、もうちょっとだけいいかな。もうちょっとだけだから」  
 じろりと、にらんでくるような斗貴子さんの目におっかながりながら俺はお願いした。  
 斗貴子さんは一度だけふぅと溜め息を吐いて、君も物好きだな、と呟いた。  
 俺も小さく、やった、と呟いて斗貴子さんの顔を堂々と眺めた。  

 

 キレイな顔だった。ちりちりと踊る炎の影に照らされて、赤く染まった頬が妙に可愛らしかった。  
「俺、斗貴子さん守るから。なにがあっても守るから」  
 口にした言葉は無意識にでたものだったけれど、俺のまっすぐな気持ちだった。  
「うん。わかっている。君の気持ちは、ちゃんと私に伝わっている」  
「素直になれって言われた時、自分の一番大事な気持ちってなんだろうって考えたんだ。そしたら斗貴子さんの顔が浮かんできた」  
「私はそういう意味で言ったんじゃなかったと思うんだが」  
「いいじゃん」  
 クスクスと声を押し殺して笑いあう。闇夜の向こうで鳥の鳴き声がする。  
 この静寂を破らないように、お互い顔を近づけて、声をひそめてひとしきり笑い続けた。  
 ちりちりと、焚き火は燃えている。  

「そういえばカズキ、君は私がせっかく作ったカレーを目茶苦茶にしたな。今夜の晩ご飯はどうするつもりなのかな?」  
「うわぅ! そうだった!」  
 狙い済ましたかのように、俺のお腹の虫は絶好のタイミングで鳴った。  
「お腹が空いてるだろうと思って一生懸命作ったんだが?」  
「ご、ごめん……」  
「ん、いい。空腹を我慢するのは君だしな。ただ明日の夕飯は、私とじゃがいも達へのお詫びもかねて君に外食をおごってもらうことがすでに決定している」  
「強制!?」  
「文句があるのかな?」  
「め、滅相もないです!」  
 よろしい、と頷いた斗貴子さん。脅迫めいた口調と迫力は反則だと思います。けれど言えるはずもなく。  

 

 そんなこんな、かなりの時間を二人して他愛もなく過ごした。  
 火に手をかざしながら笑いあっていたけれど、不意に、斗貴子さんが真剣な表情になるのを俺はみた。  
「カズキ、真面目な話をしたい」  
 俺は頷いた。斗貴子さんの深呼吸の気配が伝わってくる。しっかり聞かなければと居住まいを正した。  
「私は助からないかもしれない。待てカズキ、少し、聞いて欲しい」  
 とっさに反論しようとした俺は、開けかけた口を閉じて彼女の話を聞くことにした。  
「胎児が私にとり憑いたのは四日前だ。幸い君がかばってくれたおかげで脳からは遠い場所に憑かれたのですぐにホムンクルスになることはなかった」  
 今思い出しても不甲斐ない。俺が無音無動作で武装錬金を発動できたのなら斗貴子さんを苦しめることもなかったと思うと、やりきれない。  
 斗貴子さんはつづける。  
「一週間持つと最初は思っていたんだがな。甘く見ていたんじゃないかと、だんだん自信がなくなってきた」  
「そんな」  
「持っても二日だろう。もしかしたら明日にでも醜い牙で君の喉笛を噛み千切ろうするかもしれない」  
 見たら早い、そういってまくりあげたセーラー服の下には、こぶしほどにまで成長した胎児とそいつの頭部から上へ上へと伸びている、まるで斗貴子さんの体に生まれた亀裂のような触手が、うごめいていた。  
「ほんとはスゴク痛いんだ」  
「斗貴子さん」  
「カズキには嘘をつかないことにした。私は君を好きだから。それに素直になれといったのはもともと私だ」  
 斗貴子さんの見せる、泣き笑いのような顔。  
「本当はスゴク怖い。ホムンクルスになるだなんて考えるだけで、色々と嫌なことが頭に、でもこうやって平静でいられるのは君のおかげだ。だから、カズキ、泣きそうな顔をするな」  
 あまりに理不尽だった。  
 どこまでもヒドイ悲劇だ。まだ日数は残っている思っていたのに、実は希望なんてものは糸の細さほどしか残されていなかったなんて。  
 小さく、彼女が本音を言ってくれたことに大しての喜びが心のどこかにあるけれど、それを覆い尽くして握りつぶしてしまうほどに俺の胸のうちを支配しているのは、怒りと悲しみだった。  
 俺には、涙を我慢することしかできないのか。  

 ちりちりと、焚き火は燃えている。  

 

「それで、話には続きがあるんだが」  
 突然、斗貴子さんが口ごもった。  
 嫌な予感が俺を襲った。なんでもはっきりという彼女が言いよどむほどのこと。重大なことに、違いはない。  
「俺、力になりたい。絶対に後悔もしたくない。だからなんでも言って欲しい」  
「そうか。気持ちはすごくありがたい」  
 けれどついに斗貴子さんはうつむいてしまった。髪が顔を守るかのようにかぶさって、表情をうかがうこともできない。  
 俺は待った。斗貴子さんは強い人だ。だからきっと、ちゃんと説明してくれるに違いない。  
「あのな、その」  
「うん」  
「頼みごとがある」  
「なんでもいってよ」  
「笑うな。キスしてほしい」  
 キス? と思わず聞き返してしまいそうになるのをなんとかこらえた。ひどく冷たい目をした斗貴子さんがなにも言うなと声もなく語っていたから。  
「冗談でもなんでもない。さっきいった。こう見えても私だって怖いんだ。好きな人に、元気をわけてもらいたいときくらい、ある」  
 さっきまでうつむいていた顔を上げ、斗貴子さんはまっすぐにこっちを見ていた。俺も見つめ返す。  
 見つめあった。ただ見つめあうためだけの時間が過ぎていく。  
 強い斗貴子さん。それでも不安はある。恐れもある。  
 だから、俺が支えないと。  
 肩が並べていた姿勢から、腰を浮かして俺は斗貴子さんの方へと向きなおった。彼女も体ごとこちらを向いた。  
 それはひどくゆっくりとした動きだった。けれど確かに、俺と斗貴子さんの顔が近づいていく。  
 瞳。黒くて強い意志の宿った瞳。すぐそばにある。鼓動がひどく高鳴った。熱いものが胸を駆け巡った。  
「カズキ、手をつないで」  
 触れ合う両手。いつまでも一緒にいたいという思い込めて握りしめた。  
 壁に隔たれた二人が額を寄せ合うように、俺たちはキスをした。  
   
キスがこんなにもドキドキするものだなんて、思ってもいなかった。  
 斗貴子さんの温もりが唇と、手の平を通じて伝わってきた。顔に血が上っていくのがわかる。  
 鼻をくすぐったのは新鮮なシャンプーの香り。それはそのまま女の香りだった。  
 これ以上ないというほど近くにいる斗貴子さんの全てが、俺の、大切なものへと変わって胸に染みこんでいく。  
 ただ幸せすぎて、唇が離れた時にはとても儚い夢が終わってしまったように感じた。  
「キス、しちゃったね」  
 言ってみても、言葉にはなんの現実感もなかった。ただ残っている唇の温もりと、いまだ離れない両手が現実の全てだった。  
 斗貴子さんがもう一度顔を寄せてくる。キスじゃない。  
 俺たち二人はお互いの頬をすりよせて、愛する人がちゃんと目の前にいるという確かな現実をもとめた。さらに香る、トリートメント。  
 耳のすぐ横で斗貴子さんが囁くようにいった。  
「こういってはなんだが」  
 くすりと、笑う。  
「カレーが台無しになってよかった。カズキとの初めてのキスがカレーの匂いにまみれたものだなんて、想像するだけでもヒドすぎて耐えられない」  
「ごめん、斗貴子さんそれ傑作だ」  
 思い浮かべて、我慢したが耐えられずに吹きだした。お互いが握り合っていた手を離して腰に回した。抱き寄せて、頬をすりよせて、今日何度目か数える気にもならない笑いが生まれた。  
 ああやっぱり好きなんだなと実感する。もう一度大声を張り上げて、好きだ、と叫びたくなったけれどきっと斗貴子さんは、バカ、と言うに決まっているから止めた。  
 支えるって決めたんだ。バカは、たまーにだけ言われよう。  

 

 ちりちりと焚き火が消えていく。  
 薪はもう激しく燃え上がりはせずに、くすぶるような火をまとったままじわじわと消え入っていく。  
 焚き火がたった一つの照明だったので、明かりはもうほとんどどこにもない。塗りつぶしたような闇が沈殿していた。  
 時間は、そろそろ日付が変わる頃だろうか。ひたすらに暗い。お互いを見失わないように、俺と斗貴子さんは手をつないでいた。  
「そろそろ寝ようか。朝は早い」  
「うん」  
 焚き火に砂をかけた後、立ち上がってテントへと向かった。  
 結構いいテントなのか、中はだいぶ広めで二人が並んで寝てもまだ少し余裕がある。慣れた手つきで斗貴子さんが吊ってあるランタンに火を点した。  
 不思議だ。テントの中に灯る明かりというものは、なんでこうも幻想的なんだろう。  
 なんで、人の気持ちを揺さぶるんだろう。   
 オレンジ色の光をまとった斗貴子さんが。テントの隅から二人分の毛布を引っ張ってきて、一つを俺に渡した。  
「子供みたいに毛布を蹴飛ばしたらダメだぞ。特に今日は川に飛び込んだりしたんだからな」  
 じゃあおやすみ。そう言って斗貴子さんはクルンと体を丸めて毛布にくるまってしまった。  
 俺も後を追うように毛布を体にかけて寝転がる。さぁ寝よう。風邪なんか引いていられない。寝よう寝よう。  
 寝よう。寝よう。寝るんだ。  
 眠れ。眠れ。眠れって俺。眠れ眠れ。眠れ。寝ろ。  
 溜め息。  
 眠れる、わけがない。  
 今まではこんなことはなかった。昨日とはまるで違う心持ちだ。しかも変わってしまったのは俺の気持ちばかりじゃなく、二人の関係もだった。  
 眠れるわけ、ないじゃないか。  
 頭に血が上りすぎて、キンキンという音が聞こえてきてしまいそうなほど俺は昂ぶってしまっていた。  
 はっきり言う。斗貴子さんと、一つになりたい。  
 だけど……  

 

 ええい、ダメだダメだ。  
 別に恋人同士でもないんだから、そんな。キスはしたけれど彼氏彼女になったわけじゃ……  
 ……あーもー、だーかーらー。  
 頭から邪念雑念煩悩卑猥な妄想その他もろもろを、まとめてひっくるめて放り出そうとする。  
 だからでていけー、でていけってー!  

「カズキ、起きてるか?」  
 心の中でそんな騒動を繰り広げていた時、いきなり当の斗貴子さんに話しかけられたものだから、それこそ口から核鉄が飛び出てしまいそうになった。  
「お、起きてる」  
 思わず声まで上ずってしまう。  
「寝付けないのか、私もだ。今日は、色々あったからな」  
「……うん」  
 いろいろって、告白してしまったり、抱き合ったり、手をつないで、キスとかして……  
 ……でていけって。  
「カズキ?」  
「な、なに?」  
「いいたいことがあるなら、はっきりいえ」  
 ドクン、と核鉄が鳴った。  
「さっきから横でモジモジしているから、気になる」  
 逃げ場がなくなった。いまこんな精神状態でまともな嘘がつけるわけがない。  
 もう一度、ドクンと核鉄が。  
「いえ」  
 深呼吸をした。言う。言おう。  
 言えるのか?  
「えとさ、斗貴子さん。あ、あの」  
「なんだ?」  
「こんなことをいったらすごく軽蔑されてしまうかもしれないけど、あのさ、えと」   
 声が小さくなっていく。斗貴子さんが顔をしかめている様子が、見なくてもわかった。  
 斗貴子さんにだけは嫌われたくない。けれど……  
 ああ、もう。後のことは言ってから考える!  

 

「斗貴子さんが、欲しい」  
 だけどもっと何か言い方があるだろう。自分で何を言ってるんだと言ったそばから後悔した。  
 雰囲気も何もない。それこそ頭から血の気が引いていく。確実に軽蔑された。  
 斗貴子さんの言葉を待つ。嫌な汗が背中にびっしりと浮き上がってきた。  
 目が充血してしまいそうになるほどの緊張に耐えながら、しばらく待った。すると、  

 パカン。  

 ほんとに音がなっちゃうほど、とても鈍器みたいなもので強く頭がはたかれた。  
「い、いたっ……!」  
 めちゃめちゃ痛い。  
 見ると顔のすぐ前に嫌な光かたをするバルキリースカートが俺を睨んでいた。  
「お、おこってる?」  
 おそるおそる聞く。  
「怒ってなどいない」  
「怒ってるんだ……」  
「怒っていないと言ってるだろう。しつこい。そうか刺される方がよかったか」  
 ぶすっ、という音が聞こえてきそうなほど斗貴子さんの機嫌が悪くなってしまったというのがよくわかった。  
 刺す、というのもきっと冗談なんかじゃない。  
「ご、ごめん。もう寝るから、おやすみ……」  
 毛布を頭まで引っ張り上げて逆の方へ寝返りを打った。  
 恥ずかしさと申し訳なささで自分に対する怒りに似た感情が湧きあがっていた。自分はなんてバカなんだろう、と。  
 そして哀しさ。自分が少なからずしていた期待という、勘違いに対する哀しさ。  
 泣きそう。  
「だから、ほんとに怒っていないんだ。すねるな」  
 たしなめるような斗貴子さんの声。再び期待がむくりと起き上がる。けれど決して信用するまいという気持ちも同時にあった。  
「君の言い方が、あんまりだったから……ああもうもっとマシな言い方があるだろう!」  
「やっぱ怒ってるじゃないか!」  
 振り下ろされるバルキリースカートを手で受け止めて俺は叫んだ。  

 

 容赦なく振り下ろされてくる刃をかいくぐったり受け止めたりたまにかすったりして、攻防が止んだ頃には二人ともはぁはぁと息を荒げていた。  
 息が整うのを待っていたのか、ふぅと息を吐いて斗貴子さんは言った。  
「仕方ないだろう。あんな言い方されたら、恥ずかしいに決まっている! 少しは、言葉を選ぶという事を考えろ……」  
 斗貴子さんの台詞はそのまま、うぅ、と尻すぼみになっていった。  
 俺も、う、と言葉が詰まる。確かに言い方については完璧に謝るしかない。  
 だけど。  
「だけど、俺の素直な気持ちなんだ」  
「ああ、わかっている」  
 そして訪れる沈黙。  
 ランタンの光が揺れる。  
 さっきとは比べようもないほど重く、叫びだしてしまいそうなほどな気まずさ。  
 ひょっとしたら斗貴子さん、寝てしまったんじゃないかと思ったとき、彼女は言った。  
「カズキ、私は君が怖い」  
 静かな口調に、口を挟む隙間はなかった。その一言だけでたくさん聞きたいことがあったけれど、黙っているべきだと思った。  
「君は、出会ってほんの数日しか経っていないのに、君は私の心の一番奥深くにまで入ってきてしまった。それも土足で上がりこむのではなく正面玄関を堂々と笑顔でノックして、だ。このままでは私はどんどん弱くなってしまう。  
 ふふっ、という呆れたような笑顔。  
「弱くなることが怖いんじゃない。弱くなることにあまり抵抗しなくなってしまう、自分が変わっていくことが、怖いんだ。カズキ、君のせいだ」  
 だから、と斗貴子さんは続ける。  
「君には私を弱くした責任をとらなきゃならない」  
 今度は俺が発言する番だというのに、なにを言えばいいのかわからない。  
 斗貴子さんの言ったことを、上手に頭の中で整理ができない。  
 どういう意味かを聞くだなんて、出来るはずもない。けれど確信を持つ、自信もない。  
 だから。  
「好きだ」  
 そうとしかいえなかった。  

 

 うん、という斗貴子さんの返事。 
 それはつまり、了承ということだという返事。ニブイ俺でも疑いようのない返事。 
 なにか行動を起こさなければと、とりあえず伏せていた体を起こして、穴だらけになってしまった毛布の上に座り込んだ。 
 けれどそのあとが続かない。 
 具体的に何をすればいいのか、わからない。あぐらをかいて考え込むけれど、時間が経てば経つほど気まずくなってしまうのは目に見えている。 
 焦りがどんどん募っていくなか、伏せていた斗貴子さんがムクリと起き上がった。 
「君は、大胆だと思うときもあれば妙にしおらしいときもあるし。面白いな」 
 しゅるりという音とともに斗貴子さんがしていることに、俺は目を疑った。 
 ランタンのオレンジの光の中で、彼女が服をぬいでいる。 
 その様子はあまりにもなめらかで、ただ俺は目を奪われて、食い入るように見つめ続けるしかなかった。 
 キレイだった。その背中はキレイすぎて、動けなかった。下着をぬいでいくさまなんか、覚悟を決めていなければ直視もままならないほどだった。 
 キレイな背。そう、斗貴子さんは俺に背中を向けている。 
「斗貴子さん?」 
「私にばかり恥をかかせる気か?」 
「そんなつもりは」 
「君が、脱ぐまで私はあっちを見てる」 
 音を立ててツバを飲んだ。その声は扇情的で俺の気持ちの昂ぶりをさらに強くする。拗ねたような声、斗貴子さんは俺がどんな風になるか知っててそんな声を出しているのだろうか。 
 自分の服を脱ぐ。といっても下着にズボンとシャツだからそんなに手間取らない。今さらだけど焦っていると思われたら嫌だから、わざとゆっくり脱いだ。 

 

「脱いだよ」 
 二人とも一糸もまとわない、生まれたときの姿だった。そうか、と斗貴子さんが返す。 
 俺と斗貴子さんとはたった二歩の距離だった。天井にぶつからないよう背をかがめて近づいていく。 
 そしてもう目の前に斗貴子さんの背中がある。興奮が絶頂に達してしまいそうだった。股間はもう今までなったことがないほど固く、ギチギチと音がなりそうなほど緊張していた。 
 なにも恥ずかしいとは思わなかった。斗貴子さんだから。 
 華奢な肩に腕を回した。ビクリと震えるのがわかる。そのまま抱きすくめた。 
「斗貴子さん」 
 腕を掴まれて、振り解かれた。一瞬拒絶されたのかと本気で焦ってしまうところだった。 
 彼女は座ったままこっちにゆっくりと振り返った。おもわず胸に目がしまった。可愛い、まばゆくらいほんとに可愛かった。 
「カズキ」 
 首に腕が回されて彼女の顔が近づいてくる。斗貴子さんが香る。 
 近い、指一本分ほどの距離だった。潤んだ瞳、柔らかい唇、横一文字の傷。吐息が頬をくすぐった。 
 斗貴子さんが言った。 
「先に言っておくが当然初めてなんだ。優しくしてくれないと後で君が泣きを見ることになる。私のバルキリースカートがどんな時でも正確無比なのは、よく知っているだろう?」 
 やっぱり斗貴子さんだと、笑ってしまう。それでこそ、カッコいい斗貴子さんだ。 

 初まりは、キスからだった。 

 川原でしたキスみたいに淡白じゃない。お互いが激しく求め合うキス。 
 斗貴子さんも激しく求めてくる。舌が絡まり、唾液が交じり合い、体が触れあい、気持ちが溶け合う。 
 ひとしきり深いキスを続けたあと、斗貴子さんの柔らかい体を抱き寄せて、そのまま毛布の上に静かに押し倒した。白かった胸が上気してほんのりと赤くなっている。 
 潤んだ瞳が俺を見つめている。 
「カズキ、優しくするの、忘れるな?」  
 だから、そんな目をしながらそんなことを言うから、俺は自分を見失ってしまいそうになるんだ。 
 暴走してしまいそうになるんだ。 
 斗貴子さん、なんでそんなすがるような目を向けるんだ。 

 

 胸を愛撫する。ゆっくりと柔らかさを確かめるように、右手で丘をなぞる。 
「手つきがやらしいぞ、こら」 
「やらしいことをするんだから、やらしいに決まってるよ」 
「それはそうだが」 
 ついばむようなキスをしてそのまま耳に口をうつした。軽く息を吹きかけると、斗貴子さんがびっくりしたような声を上げた。 
「耳、好き?」 
「好きだとか、嫌いだとかじゃないくて、こそばゆい」 
 そう、といって耳たぶを唇でかんだ。 
「ひゃっ」 
 さらに空いている左手でフトモモを撫でる。今度こそはっきりと斗貴子さんは嬌声を上げた。 
「カ、カズキ……そこは」 
「わかった、フトモモがいいんだね」 
 ちがう、と言い募る斗貴子さんを無視して、耳から首、鎖骨を舌で舐める。うずくのか、うぅん、という小さく息をもらしながら体の下で斗貴子さんは体をよじらせた。 
 左手も休まずにフトモモを撫でている。ときおりおしりの方へ動かそうとすると、かたくなに斗貴子さんは拒んだ。 
 だんだん自分の抑制が効かなくなっていくのがわかる。鎖骨のあたりをしつこく舐めながら、右手は胸を揉みしだいている。小ぶりなオッパイが形を変えてしまうほど強く。 
「うぅ、あ……ん、少し強い、ぞ」 
 口をさらに下げていく。白い胸が目の前ににある。気が狂いそうだった。 
 舌で胸の周囲を縁取るようになめまわして、やがてランタンの光の中でもピンク色に染まっているのがよくわかる、小さないただきを口に含んだ。 
「あ、うぅ……!」 
 わずかに隆起した突起、なめまわし、吸う。そのたびに斗貴子さんが、ビクリと体を反応させていた。右手ももう小さな突起に触れていた。手の平では胸全体を揉んでいるというのに、人差し指と親指だけはコリコリと乳首をいじり続けた。 
「んぁっ! あ、くぅ……」 
 優しくなどない愛撫。ただ斗貴子さんの、柔らかさと反応がたまらない。 
 そして左手は、とうとうフトモモに飽きはじめて、足の付け根へと撫で上がり、固く閉ざされたそこへと触れようとした。 

 

「そ、そこはまだダメ、だ……!」 
 関係ない。ピタリと閉ざされた足の間に強引に手を入れ、力任せにそこに触れようとする。 
「カ、カズキ!」 
 斗貴子さんは両手をもって俺の左手の侵入を防ごうとする。それでも単純な力任せなら俺の方が強かった。斗貴子さんの両手と俺の左手の力はちょうど拮抗している。 
 俺は口に含んでいた突起を、歯で少しだけ強めに噛みついた。 
「きゃ、ああぁ!」   
 途端に弱くなった力を押しのけ、俺は左手を進めた。さらに再び閉じれないように足の間にヒザを入れる。 
 最初はそっと触れた。かすかに感じる柔毛、汗ばんでいるような湿り、温もり。 
「や、だめ……」 
 ぴったりと閉じられていた門をおしあけ、俺は中指を斗貴子さんの秘所へと進めた。 
 これ以上というほど、ガンガンと頭の中で音が鳴っていた。血管が破れてしまいそうな、それこそ絶頂へと達してしまいそうな興奮。 
 挿しいれた指を少しだけ動かす。 
 まったく隙間のない秘所の中で、中指がそこを広げるようにゆっくりと曲る。 
 すごく、熱い。ツバを飲み込んで、喉が鳴った。 
 同時に胸を愛撫するのも止めない。口の中の乳首はふやけてしまうのではないかと思うほど、なめまわされて吸われている。 
 反対の胸は一度たりとも同じ形を維持しない。グニグニと形を変え続け、乳首ももう痛いほど硬くなっていた。 
 左手の中指をさらに奥へといれていく。ゆっくりと、少しだけかき混ぜるように。 

 やめて、という斗貴子さんのつぶやき。 
 だから、そのセリフが俺を暴走させるんだ。 

 

 斗貴子さんが拒めば拒むほど、困れば困るほど、俺はさらにそそられていく。 
 挿しいれた指を曲げて、キュウと締め付けてくる壁を引っかけるようにして刺激する。 
「あ、ぁあ!」 
 よがる斗貴子さん。そろそろ俺は耐えられなくなってきたが、まだそこは十分に濡れていない。 

 だから舐めてやることにした。 

 乳首に吸いついていた口をそろそろと下へとおろしていく。 
「あ」 
 丘を下り、お腹を舐めながら目的地へと向かっていく。ときおり肌に歯を立てて、よがる斗貴子さんの反応を楽しんだ。 
「カ、カズキ……何を?」 
 はぁはぁと息を荒げながら、恐る恐るといった風に斗貴子さんが言った。 
 俺は返事をしない。ただ斗貴子さんの匂いのする肌に舌を這わせ、小ぶりな胸を揉み、熱い膣を指で広げるだけだ。 
 あうぅ、と声が上がる。もっと、もっと声が聞きたい。もっと乱れてほしい。 
 さらに指の動きを早くしていく。徐々に徐々に、愛液が滲んできたような気がした。 
 もうすぐそこに口付けて斗貴子さんをさらに乱れさせることができると思うと、もうたまらない。 
 斗貴子さんはもう俺を止めようとはしない。全てを受け入れてくれたようだ。多分気持ちいいんだろう。だから許してくれたんだろう。 
 とてもありがたい。だからもっと指と手を動かした。口はもうヘソの辺りまで来た。秘所はすぐそこだ。斗貴子さんも嬉しいのか、泣いているような嬌声を切れ切れに上げた。 
 息を荒げて、ただ欲望に突き動かされて俺がそこに辿り着こうとした時。 

 眼が合った。 

 それは人の体のどの部分とも共通点のない、あまりに異質なもの。 
 汚れた鋼のような色をした、それは人間の命を食い荒らす化物。 
 ギョロリとその目が動き、動物のように愛撫をしていた俺の目とあった。 
 そいつが、にやけたような気がした。 

 俺はただ、吐き気をこらえて斗貴子さんから離れた。 

 

 鈍器を殴られたような衝撃が全身を突き抜けた。 
 こみ上げてきた吐き気はなんとか喉の辺りで抑えこんだ。 
 毛布の敷いていない、ゴツゴツとした石の感触のするビニールの上で、俺はうずくまって自分の愚かさを呪った。 
 はぁはぁと荒い息が聞こえる。斗貴子さんはまだ何の反応も返さずに寝転がっている。 
  
 胸の奥、ただそこには昏い絶望が横たわっていた。 
 自分が何をしていたのか。優しくしてほしいという斗貴子さんを無視して、ただ体が欲しくなって嫌がる彼女を獣のように抱こうとした。 
 恥を、知らないのか俺は。斗貴子さんは俺を信じてくれたというのに。 
 そして理性のない俺が見た理性の欠片もない胎児の微笑み。 
 あれ、あれは。 
 同族を見る目だった。 
 ただ斗貴子さんを食らおうとするホムンクルスと、俺は同じ事をしていた。 
 絶望は、ただ昏くそこにあるだけだ。そして無言で俺を罵っている。 
 ゴメンと、謝ることすら俺は出来なかった。  
 斗貴子さんが起き上がったのは、俺が飛び離れてしばらくしてからだった。 
 少しは落ち着いたようだけれど、まだつらいようではぁはぁと息は荒いままだ。 
 オレンジ色のランタンの明かりに照らされたその顔は、気丈だ。 
 お腹には触手を伸ばした胎児が棲んでいる。 
「正気に、戻ったのかカズキ」 
 いつものように斗貴子さんは俺の名前を読んでくれる。 
 けれど俺は彼女の顔を直視することすら出来ない。 
「優しくすると約束したのに、君はそれを破ったのだな」 
 ふむ、と斗貴子さんは考える振りをする。そしておもむろに俺に向けてかざしたのは、斗貴子さんの核鉄だった。 
 バルキリースカート。 
 いっそ八つ裂きにして欲しい。 
 気のすむまで殴ってくれたなら俺の気持ちも少しは晴れるかもしれない。 
 だけれど、斗貴子さんはその大事な輝く核鉄を、テントの隅の方へと無造作に放り投げてしまった。 
「安心しろ、別に私は怒ってなどいないから。だから泣きそうな顔をするな」 
 男は少しくらい押しの強い方が良いと思う、そんなことを彼女は言う。 
 思わず見上げた斗貴子さんの顔。それはたまにしか見せない、笑顔だった。 
 自分の胸に手を当てる。確かに動いている、彼女に授かった命。 
 いいひとだと、心の底から思う。 

 斗貴子さん、だからなおさら俺は自分が許せないんだ。 

 
 

 斗貴子さんを正面から見据える。 
 薄明かりの中で、彼女の体には俺がつけた幾筋もの唾液のすじが流れていた。 
 片方の胸はあまりに強く握られて赤くなり、もう片方の胸のいただきには滴るほどにはっきりと、唾液がてらてらと光っている。 
 それらは全てが俺がやったことだ。俺が斗貴子さんを無視してやってしまったことだ。 
 一筋、斗貴子さんの胴に走った鋼の線の根元には胎児が眠っている。目が合ったなんて見間違いに決まっている。錯覚以外のなにものでもない。 
 けれど、俺にとっては錯覚を見たというだけで、十分すぎるほどだった。 
「次は、ちゃんと優しくしてくれるな?」 
 あんなヒドイ事をしてしまったというのに、斗貴子さんは俺を許してなお、そこまで言ってくれる。 
 しかし俺は何も言い返せない。何もできない。 
「カズキ……?」 
「斗貴子さん、俺」 
 ただ申し訳なくて、ただ自分が許せなくて。 
「ダメだよ、俺できない」 
 拒むことしか出来ない。 
 終わったと思った。自分は最低なのだ、約束も守れない口だけ男だ。 
 湧いてくる想いは空しいくらいに情けない。 
 そんな俺に斗貴子さんはいう。 
「そうか。わかったもういい。確かにこんな、化物になりかけの女など、気持ち悪いと思って当然だ」 
「違う!」 
 叫んでいた。彼女は何も悪くない、彼女が傷つくのだけは耐えられない。 
「違うんだ……斗貴子さんを好きだっていうのは嘘なんかじゃない……斗貴子さんは何も悪くない。俺、自分が怖い……触れてるだけで今まで考えたこともないような、危ないことが頭に浮かぶ……」 
 握りこぶしが震えていた。脳裏に浮かぶケタケタとあざ笑うような、胎児の歪んだ死気の目線。 
 吐き気がぶり返してきそうになる。 
「胎児と眼が合ったんだ……仲間を見るような目で見られた。俺は、斗貴子さんを怖がらせる、化物になってた」 

 

「君はホムンクルスじゃないだろう」 
「同じようなことを、俺はしようとしていたんだ……」 
「別に死ぬわけじゃない」 
「でも、ヒドイことに違いはないよ」 
 しばらく言い合いが続いたが、お互いが一歩も譲らないまま互いの意見は平行線を辿り続けた。  
 やがて斗貴子さんが漏らした、はぁ、という溜め息。俺にあきれているのだろう。 
「わかった。君は最低なんだな?」 
 うなずく。  
「最悪の男で間違いはないな?」 
 うなずく。 
「私との約束も守れない、情けないバカなんだな?」 
 うなずくしかない。斗貴子さんが俺を責めるのは、至極当然のことだ。 
 斗貴子さんはもう一度、はぁ、という溜め息を吐いた。 
「ほんとに君は、頭が下がるくらいに不器用だな」 
 心の底からあきれた時の声。けれどそれは想像していた口調とは違って、軽くて何気ないもので拍子抜けがした。 
「確かに優しくしてくれと約束はしたが、絶対に守るとも思っていない。あれは……その、手順、みたいなやつだろう。男と女が……関係をもつときとかの」 
 あさっての方を見ながら斗貴子さんは少し照れたような感じで言った。 
「でも」 
「ああ、もういい。わかった。そこまで強情なら私にも考えがある」 
 斗貴子さんは俺の方にずいっと近づいてきて、目の前でピン、と人差し指を立てた。 
「最低最悪で約束反故にするバカに罰を与えよう。私がいいというまで動くんじゃない。たとえナイフが目の前に突き出されても、まばたきもするな。当然文句はないな、カズキ?」 
 俺がぎこちなくうなずくと、斗貴子さんは、覚悟するんだな、と言ってさらにずいっとすり寄ってきた。 
 ふふ、と笑いながらも何故か斗貴子さんの顔は赤かった。 

 
 
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