津村斗貴子嬢は少々困っていた。  
先程から、迷子らしい仔犬が彼女の後をついて離れないのだ。  
「私はキミの飼い主じゃないんだが…」  
斗貴子がため息をついてしゃがみこむと、仔犬は待ってましたとばかりに彼女の膝に飛び  
ついた。  
犬種はゴールデンレトリーバー、生後三ヶ月と言ったところか。  
短い尻尾をぶんぶんと振り、小さい身体で精一杯の好意をアピールする仔犬をそのまま捨  
て置けるほど、彼女は冷酷な人間ではない。  
何より、まっすぐに斗貴子を見つめる仔犬の視線、一点の曇りもなくキラキラと輝くつぶ  
らなふたつの瞳を前にして、何故か呪縛にでもかけられたように、その小さな身体を振り  
払うことが出来ないのだ。  
――なっ何故だ?  
特別に犬好きと言うわけでもないのにと、斗貴子は自分の反応に戸惑った。  
仔犬は斗貴子のことを"遊んでくれる人"と認識したらしく、身体の割には太くしっかり  
した両の前足で彼女の手をつかまえてじゃれつき始める。  
ミルクの匂いのする舌で舐められたり、きちんと生え揃った歯にあまがみされるに任せな  
がら斗貴子が子犬を観察したところ、首に首輪の跡があった。  
恐らく何かの弾みで首輪から首が抜け、仔犬は飼われている家からちょっとした冒険に出  
たのだろう。艶のある毛並みと言い、丸々と太った身体つきと言い、とても大事にされて  
いるに違いない。子犬の不在に飼い主が気づいているとすれば、今頃必死で探している筈  
だ。仔犬の元気な様子からはそう遠出をしてきたとも思えず、だとすれば飼い主もこの近  
所の人間だろう。じきに迎えに現れるだろうと考えて、斗貴子はそれまで箱の仔犬の相手  
をしてやることに決めた。  
愛犬家ではなくとも、無条件の信頼と愛情を寄せて甘えてくるこの小さな生き物はやはり  
可愛い。ふわふわとしたやわらかな毛並みに触れていると、それだけでとても心が満たさ  
れる気がする。  
それは、斗貴子が少し前まで忘れていたやさしい感覚だった。  
思い出させてくれたのは、そう――  
「…そうか、わかった」  
じゃれつく仔犬を振り払えなかった理由に思い当たり、斗貴子は呟いた。  
「キミは、彼に似ているんだ…」  
 
いつも一生懸命で、迷いのない瞳をした彼に。  
嘘偽りのない感情を、まっすぐ斗貴子にぶつけてくる彼に。  
――斗貴子さん。  
時折、甘えるように斗貴子の名を呼ぶその声を思い出し、斗貴子は自分の頬が俄かに熱く  
なるのを感じた。  
 
「おかえりー、斗貴子さん。ちょっと遅かったね」  
寮に帰った斗貴子を、ちょうど玄関先にいたカズキの笑顔が出迎えた。  
ほんのわずかな共通点からカズキを連想させた仔犬と同じ、だが威力はその数百倍と言っ  
たカズキの笑顔に、斗貴子の心拍数は一気に跳ね上がる。  
湯気が出るばかりに頬を紅潮させながら、かろうじて「ただいま」を言うと、斗貴子は早く  
なる動悸に胸許を拳で押さえた。  
その手にカズキが目を留める。  
「斗貴子さん。どうしたの、その手っ」  
「え? わっ、な、なんだっ?」  
いきなりカズキに両手で手を掴まれ、斗貴子は更に顔を赤くした。  
「傷だらけじゃない。まさか一人でホムンクルスと戦ってきたんじゃ…」  
「ん?」  
カズキに指摘されて斗貴子が自分の手を見ると、確かにそこには細い蚯蚓腫れが何本も  
走っていた。子犬に遊ばせていた方の手だから、その時に鋭い歯で傷ついたものだろう。  
「馬鹿を言え。ホムンクルスがこんな可愛い傷をつけるものか」  
本気で心配しているカズキの剣幕と傷の些細さの落差がおかしくて、そして、カズキのや  
さしさが愛しくて、斗貴子は笑った。  
仔犬は、あれから間もなく現れた飼い主の元に無事戻った。若い母親と、幼稚園くらいの  
少女は斗貴子が恐縮するらい何度も礼を言い、大事そうに子犬を抱いて帰って行った。仔  
犬を抱いた少女の安堵の表情と、彼女の腕にすっぽりと収まった仔犬がくんくんと鼻を鳴  
らす様子に良かったと胸を撫で下ろす一方、斗貴子は一抹の淋しさを覚えながら彼らを見  
送ったのだった。  
斗貴子が事の顛末を話して聞かせると、カズキはまた無邪気な笑みを浮かべた。  
「そっか。斗貴子さん、やさしいね」  
「わ、私は別にやさしくなんかないぞ。…それより、そろそろ手を離して欲しいんだが…」  
「あ、うん」  
 
頷いたものの、カズキは斗貴子の手を離そうとしない。  
じっと斗貴子の手に視線を注ぎ、そして、おもむろにその指先に口唇を押し当てた。  
かかる吐息、暖かな体温、羽のような淡い口づけ。  
「な」  
斗貴子の頬が再び朱に染まる。せっかく落ち着いていた動悸はメーターを振り切る勢いだ。  
「ななななな何をするんだ! キミは私を殺す気か!?」  
「おまじないだよ。斗貴子さんの手の傷が早く治りますようにって」  
斗貴子がカズキに掴まれていない手をぶんぶんと振り回して抗議するも、カズキはことも  
なげに答える。  
彼の行為に嘘や駆け引きは欠片もなく、その純粋さが斗貴子の心をかき乱してやまない。  
「…やさしいのはキミだ」  
斗貴子はカズキに向かって微笑んだ。  
「ありがとう、カズキ。おかげで早く治りそうな気がする」  
今度はカズキの顔が心持ち赤くなる。  
「そう言われちゃうと、なんか、その…」  
カズキは口ごもり、ゴメンと呟いて斗貴子に背を向けた。  
「カズキ? どうかしたか?」  
「…あの、ヤキモチ、妬いただけだから」  
「? 何の話だ?」  
「だから、その、あの、さ。…イヤだったんだ。仔犬でも、オレ以外の誰かが斗貴子さんに  
触ったり、傷つけたりするのが。だから…あの、消毒って言うか…」  
自分の行動の意味について告白するカズキの耳は真っ赤だ。  
それを見つめる斗貴子の瞳が穏やかに和む。  
斗貴子はカズキの背中に、こつん、と軽く額をぶつけた。  
「と、斗貴子さん?」  
照れるカズキの背中に、斗貴子はそっと囁く。  
「…キミ、やっぱり私を殺す気だろう」  
「ええ? そ、そんな、滅相もございませんっ!」  
必死の声で否定するカズキに、斗貴子はくすりと笑った。  
カズキは知っているだろうか。  
ただそばにいるだけで騒ぐ心を。  
胸に湧き起るそのざわめきは、きっと幸せの音色をしている。       了  
 

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