ハイヒールの踵が立てる靴音が暗い路地に何処か神経質に響いた。
夜の住宅街は既に人気もなく、等間隔に並んだ街灯の灯りだけが家路を急ぐ女の足元を頼
りなく照らす。
その街灯の一つの蔭から、冷ややかに女を見つめる視線があった。
「――先生」
聞き覚えのある声にそう呼びかけられて、女は足を止める。振り向いた先に知った顔を認
めた女の目に煩わしげな色が浮かび、すぐさま媚びるような愛想笑いがそれを上手に打ち消した。
「どうしたの、攻爵君? こんな時間にこんな所で」
女はわずかに首をかしげ、艶のある長い髪を耳の上にかき上げながら教え子である青年―
―蝶野攻爵に問い掛ける。そうした仕草が自分をより魅力的に見せ、まだ初心な年下の男
の優位に立つのに効果的だと知った上での行為だった。
さらさらと流れる黒い髪、白い指先とマニキュアに彩られた爪の綺麗な赤。
蝶野の瞼に焼きついた、誘惑の色。
「…先生こそ、こんなに遅くまで大変だね。次郎の家庭教師は楽しい?」
蝶野は女の問いには答えず、逆に問い返した。
女は少しだけ困ったように眉を寄せたが、それも恐らくは演技だろう。彼女は本来蝶野の
家庭教師だったが、今は彼の弟の個人教授も同様に務めている。それを長兄である蝶野が
不満に感じ、子供じみた嫉妬からわざわざ皮肉を言いに来たのだと思えば、高慢で自己愛
の強い彼女にとって気分の悪い筈がなかった。
案の定、女は余裕の笑みを浮かべて、出来の悪い生徒に言い聞かせるように優しく囁いた。
「そうね。教え甲斐はあるわ。…でも、やっぱり攻爵君の方がずっと飲み込みが早くて優秀な生徒よ」
――嘘吐きだね、先生。
次郎の前では俺よりあいつの方が優秀だと言っているくせに、と蝶野は声には出さずに女を罵る。
「ねぇ、身体の具合はどう? 安静にしてなくていいの?」
本気で気遣うような女の口調に、蝶野は笑い出したくなった。
彼女が心配しているのは蝶野の家とその莫大な財産を継ぐ人間であって、決して蝶野自身
ではない。蝶野が病に倒れ家督を継ぐことが困難だと判断された後、もう蝶野には何の価
値もないと、これからは弟の方と親しくしておくつもりだと、彼女が友人に話しているの
を蝶野は自分の耳で聞いているのだ。
蝶野に対する女の必要以上の親切が下心あってのものだということにはとうに気づいてい
たが、そうとも知らず年下の男を手玉に取ったつもりでいる女の浅はかさも、自らの欲望
にすこぶる忠実に振る舞うその様もいっそ爽快で気持ちが良いほどだった。
女の艶やかな笑みを映した蝶野の双眸が、静かに濁り始める。
「…そうやって、今度は次郎を誘惑するわけ?」
蝶野に仕掛けたのと同じように。
「それとも、もう落としてるのかな。先生御自慢のその綺麗な顔と身体でさ」
甘く囁く声で、ひんやりとした指先で、紅く濡れた口唇で、熱い肌で。
蝶野に触れた、そのすべてで――
「…いけない口ね」
はっきり色仕掛けだと指摘されたことが気に障ったのか、或いは図星を指されて動揺した
のか、女の目許が不快げに歪んだ。蝶野を見返す眼差しに侮蔑と嘲笑が入り混じる。
「どこでそんな悪い言葉遣いを覚えたのかしら?」
彼女の口調は上から見下ろすそれだった。
彼女はまだ蝶野が自分の手の中にあると信じて疑ってはいないのだ。
世間知らずのお坊ちゃんなど、自分の言葉一つで簡単にあしらうことが出来ると本気で信
じている。彼女の言葉にも仕草にも、初めから何の魔力もなかったというのに。
蝶野は笑いを噛み殺し、そっと顔を伏せた。学生服のポケットに忍ばせた手の中で小さな
物体を握り締める。
「先生。さっき、どうしてオレがここにいるのかって訊いたよね」
「え? ええ…」
「先生にお別れを言いに来たんだ」
「お別れ?」
「そう」
きっと彼女は怪訝な顔をしているだろう。蝶野の言葉の意味を彼女が理解することは永遠
にない。そう思うと可笑しくて、蝶野は笑いながら顔を上げた。
「――今夜が先生の最後の夜になるんだから」
死の宣告をすると同時に蝶野はポケットから手を出し、手の中のものを彼女に向かって投げつけた。
「きゃっ! な、なにっ!?」
“それ”は意思を持ったようにまっすぐ彼女の額にぶつかり、そしてそのままその場所にぴっ
たりと貼りついた。肌の上をもぞもぞと蠢いて、皮膚を突き破りその小さな身体を食い込
ませていく。
「いや…っ。なんなの、これ…あ、あ、ああぁっ!!」
女が悲鳴を上げた。髪を振り乱し、顔を掻きむしるようにして自分の中に侵入してくる何
かを引き剥がそうと必死にもがく。だが、そんな抵抗もむなしく"それ"は既に女の手の
届く場所からは消え失せていた。
"それ"が骨を通過し脳を侵蝕していく苦痛と、理解することなど到底叶わない得体の知
れない恐怖に女は絶叫し、全身を震わせながらその場にくずおれた。
両手で頭を抱えた女が激しく首を打ち振り、断末魔の呻き声を立ててのたうち回る姿を、
蝶野は瞬き一つせずただ黙って食い入るように見つめる。
彼の作り出した脆弱で小さな命が生きる為の場所を求めて別の命を食い尽くそうとしてい
る、その奇跡のような一瞬を。
やがて女はぴくりとも動かなくなった。乱れた長い髪がアスファルトの上に広がる。
「…失敗した…?」
蝶野は微動だにしない女を見下ろし、呆然と呟いた。
古い資料を基にした独学による研究ではやはり無理があったのだろうか。
研究の成果を試すこの実験が成功すれば、女は寄生したそれにより新たに生まれ変わる筈
だった。それを製造した際の基となった薔薇の化物として。
基礎に薔薇を選んだことに大した意味はない。実験の第一段階として動物よりは細胞が複
雑ではない植物が妥当だったことと、薔薇が手に入れ易い環境にあった、ただそれだけの
ことだ。女を実験対象にしたのも、両者が似通った性質の持ち主だったからに過ぎない。
その美しい姿で人を誘い、触れれば鋭い棘で傷つける――そっくりではないか。
尤も寄生された人間の精神は残らないから、自分が化物と呼ばれる存在になったことを女
に思い知らせることも出来ないのだが、実験が失敗に終わった今となってはそれも意味の
ないことだった。
「…やり直し、か…」
蝶野は酷く落胆していた。三年間の研究が実を結ばなかったからか、それとも――
「…う…」
微かな呻き声が蝶野の耳朶を打つ。
はっとして瞠目する蝶野の目の前で、女の指先が小さく痙攣し、倒れ伏したまま動かなかっ
たその身体がビデオのスロー再生のようにゆっくりと起き上がった。
そして、蝶野はぎこちない動作で顔を上げた女の、乱れた髪の間から覗く額に章印と呼ば
れる化物の証をはっきりと見た。
女の虚ろな目が徐々に焦点を結び、女は蝶野をまっすぐに見上げて笑みを浮かべた。
忠誠と畏敬の念に溢れたその笑みは、今まで女が蝶野に見せたことのない表情だった。
蝶野は女が完全に死んだことを知った。実験は成功したのだ。
創造主、と女は蝶野に呼びかける。生成の過程で発生した薔薇の意識は蝶野を絶対的な支
配者と認識しているようだ。
「新しい命を与えてくださって、ありがとうございます」
女は姿勢を正し、蝶野に向かって恭しく頭を下げた。
「…ただの親切でお前に命を与えたわけじゃない。俺の為に働いてもらうぞ」
「どうぞ何なりとご命令を。心よりお仕え致します」
蝶野の言葉に女は従順に頷く。
そこにいるのは蝶野がよく知る女の姿をしていても、もはや元の女とは全く別の生き物だった。
人外の力を持った、忠実な彼の僕。
彼女が甘えるように蝶野の名を呼ぶことは二度とない。柔らかな指先が悪戯めかして蝶野
の肌の辿ることも、決してない。
実験は成功し、蝶野は自らの望みに一歩近づいた。女の死すらも蝶野の望みだった筈だ。
けれども今蝶野の胸を占めるのは言いようのない空虚だけで、実験の成功に対する喜びや
達成感などはまるでなかった。
心の中にぽっかりと大きな穴が空いている。底の見えないその闇の中ではただ風だけが荒
れ狂い、びゅうびゅうという誰かの泣き声に似た風の唸りを蝶野は聴いた。
この隙間を埋めるものが何処かにあるのだろうか。
それを得ることが出来れば、この空っぽの心も満たされるのだろうか。
――馬鹿馬鹿しい。
つまらない感傷だと、蝶野は自分を嗤った。
そんなもの、俺はいらない。
欲しいのは自分が生き延びる為の力、他のものは何もいらない。
「行くぞ。行動開始だ」
蝶野は女に背を向けて歩き出した。立ち上がった女が少し遅れてその後を追う。
背後から、ほんのわずか甘い香りがした。
嗅ぎ覚えのあるそれは蝶野の鼻腔をくすぐった刹那、夜風に攫われるようにして消える。
女が好んでつけていた香水の、最後の残り香だった。
――了