武藤カズキと戦団に関する今後の行動について打ち合わせを済ませると、早坂桜花は  
すっと立ち上がった。  
「それじゃ、私は病院に戻るわ。精々いい子にして情報を引き出してきますから、期待して  
いて」  
「ああ」  
椅子に腰を掛け、不遜に頬杖をついたままのパピヨンの目の前で、桜花の髪がさらりと  
揺れる。  
黒い髪。癖のない、艶やかな長い髪。誘うようにさらさらとこぼれる。  
どこかで同じ光景を見たように感じるのはきっと気の所為だろう。  
パピヨンは手を伸ばして、目の前にある髪を一筋掴んだ。  
「…なに?」  
強く引っ張られたわけではないが、桜花は足を止めてパピヨンに訊ねる。  
けれど、パピヨンは桜花の声も聴こえない様子でただじっと手の中の髪に視線を注ぐだけ  
だった。  
桜花は仮面に遮られて表情のよく判らないパピヨンの顔を無言で見下ろす。  
ややあってから、パピヨンは桜花の髪から手を離した。爪の鋭く伸びた指の上を、桜花の  
細い髪が名残りを惜しむようにゆっくりと滑り落ちる。  
最後の一本が指先を離れるまで見送ることなく、パピヨンはふいと横を向いた。  
「――別になんでもない」  
ようやく吐き出された声に彼らしい覇気はない。  
「…さっさと行け」  
言葉は酷く素気なく、直前の引き止めるような行為と突き放した愛想のない声との落差は  
少なからず桜花を戸惑わせた。  
命じる言葉とは裏腹にこの場を立ち去る気を削がれた桜花は思案顔で、もう彼女を見よう  
ともしないパピヨンの横顔を食い入るように見つめる。  
やがて、少しの逡巡ののち、桜花は身をかがめ、パピヨンの頬に右手を添えながら、長目  
の前髪から覗く彼の額にそっと口唇を押し当てた。  
突然の桜花の予想外の行動に、さすがのパピヨンも驚き、大きく目を見開く。  
しかしそれ以上の感情は面に出さず、パピヨンは冷ややかな笑みを浮かべて桜花を見上げた。  
「…弟にしか欲情しない異常性欲者だと思っていたが」  
パピヨンが遠慮のない揶揄をぶつけても、桜花は顔色を変えない。  
 
パピヨンは嘲笑を引っ込め、鋭い威嚇の眼差しを桜花に向けた。  
「何の真似だ?」  
「泣いている子供を慰めただけよ」  
叩きつける声音に、桜花は脅えもせず静かに答える。  
パピヨンは鼻を鳴らし、盛大に顔を歪めた。  
「性格だけじゃなく、目まで悪いのか。俺が、何だと?」  
桜花は人形めいた小さな顔をほんの少しだけ、悲しげに曇らせる。  
「自分が泣いていることも判らないのね。…可哀そうな人」  
桜花の声にも表情にもパピヨンを嘲る響きは欠片もない。  
だが、否、だから、というべきか、それが癇に障り、パピヨンは音もなく立ち上がると  
躊躇いもせずに桜花の首に手をかけた。  
片手に余るほどの細い首に爪が食い込み、白い肌の上を赤い糸が走る。  
更に力を入れると桜花は苦しげに呻いたが、パピヨンの手を払いのけようとはしない。  
ガラス玉のように透き通った黒い双眸がパピヨンを映した。  
「死に損ないに同情される覚えはないぞ」  
「同情じゃ…ないわ」  
「ではなんだ」  
パピヨンの詰問に、桜花は淡く笑う。  
「やさしくしたくなったの。…誰かに」  
桜花の意図がつかめずに、パピヨンはただ彼女を睨みつけた。問いを重ねる代わりに指の  
力を緩める。  
「憧れている、人がいるの。あなたもよく知っている人よ。私達姉弟を命がけで守ってくれ  
た、新しい世界の扉を開けてくれた人。…あんなふうに、誰かにやさしくしたかったのだ  
けれど…」  
そこで桜花は言葉を切り、自嘲気味に微笑んだ。  
「…やっぱり慣れないことはするものじゃないということかしら」  
その笑みは不思議と卑屈には見えず、パピヨンは忌々しげに目を細める。  
「貴様が何を考えようと勝手だが、つまらん勘違いで俺に構うな」  
ぶっきらぼうに吐き捨て、パピヨンは桜花の首から手を離した。  
気丈に振る舞っていた桜花の口唇から安堵のため息が漏れる。  
 
さっきまで彼が発していた激しい怒りはもう感じない。名前を出すことこそしなかったも  
のの、桜花が誰のことを語っているのか気づいた瞬間、仮面の中の目がはっきりと色を変  
えるのを桜花は見た。  
それはまるで、果てない闇に夜明けを知らせる朝陽が差し込むように鮮やかに。  
やはり目の前のこの男も彼のことを好きなのだと改めて実感し、桜花は複雑な気分になる。  
自分達と同じように彼を好きな人間がいるということは、子供じみた独占欲の所為だと  
判っていても少し面白くない。  
それでいて、同じ気持ちを持つ人間の存在は限りなく心強く、また、大勢の人間から彼が  
愛されていると思うとわけもなく嬉しかった。  
桜花は両の瞳を和ませて、パピヨンに微笑みかけた。  
「…バタフライ様に、あなたが何故彼のことを言わなかったか、判る気がするわ」  
「うるさい女だ」  
パピヨンは煩わしげに呟いて、再び桜花に向かって手を伸ばす。  
けれどその声に先程までの険はなく、彼の手が触れたのも赤く血が滲む桜花の首では  
なかった。  
パピヨンは指先で桜花の顎を捉えると、やや強引に上を向かせておもむろに自らの顔を  
近づけた。  
「少し黙れ――」  
反駁するいとまを与えず、桜花の口唇を自分のそれで塞ぐ。  
桜花は一瞬息を呑み、それから目を閉じると両腕をパピヨンの首に廻した。  
求めるようにきつく抱きしめ、意外とやわらかな黒い髪に指を絡ませると、少しの間を  
置いてパピヨンの手が桜花の腰に回る。  
まるで愛し合う恋人同士がそうするように、二人は抱き合い、口づけを交わした。  
同情ではない。まして恋愛感情などがある筈もない。  
それでも二人は同じ感情を確かに共有していた。  
一人の人間に強く焦がれ、その存在を守りたいとひたすらに願う――  
お互いを信じることすら出来なくとも、希む目的だけは決してたがいようがない。  
口づけは無言の誓約。  
お互いがそれぞれの、たった一人の共犯者だと確認するように、二人は口づけを  
深くした。  
 
                                               了  

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