時間ばかりが徒に過ぎてゆく。
手にした古い書物にも目当ての記述は見当たらず、パピヨンは大きく舌打ちすると、役立た
ずと断じたその本を放り投げた。部屋の隅には同様の理由で投げ捨てられた大量の本が山と
積み上げられている。
徒労の証を前に、さすがにパピヨンも多少の焦りを覚えずにはいられなかった。
ヴィクター化した人間を元に戻す方法がある――数日前、漸くもたらされた一筋の光明は、
だがしかし、同時に厳しい選択をも武藤カズキに突きつけた。
パピヨンにとっては厳しくもなんともない選択だったが、あの底抜けのお人好しのことだ。
他人の為に唯一無二の機会を手放し、自身の死という愚か極まりない結果を招くだろうこと
は想像に難くない。
全くカズキは馬鹿だと思う。
馬鹿の偽善者だからこそカズキなのだとは思うが、決着をつけるという自分との約束を反故
にされたのではたまったものではない。
だから、カズキを人間に戻す為に必要なものをこの手で作り出してやろうと、バタフライの
残した邸宅に籠もって研究を始めたのだが、正直状況は芳しくなかった。
それは秘中の秘であったのか、或いは過去の様々な経緯の中で人為的に闇に葬り去られたの
か、バタフライが収集した錬金術に関する文献をいくら紐解いても、その生成方法は勿論、
存在を匂わす記述すら一向に出てこない。
膨大な量に上る蔵書全てを確認したわけではないが、調べる程に目的から遠ざかる確率が高
くなるばかりの資料漁りには見切りを付け、目先を変えた別の方法を探すべきか――。
持てる限りの知恵と知識を総動員して、パピヨンは新たな光をもぎ取ろうと、暗闇の中で手
を伸ばす。
全てはカズキと交わした約束の為、ただひとつのその約束を果たす為に。
かつて友の復活に百年の時を費やした曾々祖父と、自分が同じようなことをしているのかと
思うと奇妙な因縁を感じずにはいられなかったが、バタフライとは違い、パピヨンの望みは
あくまでもカズキと決着をつけることにある。
この手でカズキを倒し、そして、誰よりも高く羽撃くのだと――そうしたパピヨンの気勢を
削ぐように、彼の鼻先を甘い菓子と香ばしいコーヒーの香りが掠めた。
次いで、背後から聞こえてきた満足げな女のため息が、パピヨンのまとっていた緊張感をも
のの見事に破壊する。
一瞬、思考を停止させられ、不快指数が頂点に達したパピヨンは、鋭い爪が自分の手のひら
を傷つけるのにも構わず、ぐっと拳を握り締めておもむろに後ろを振り返った。
長椅子にゆったりと腰を掛け、白いカップを手にした女と目が合う。
「一段落ついたの?」
にっこりと、その名の通り大輪の花が開くように、桜花はパピヨンに微笑みかけた。
「桜花。貴様、何をしに来ている」
「何って、陣中見舞いよ。ほら、手土産だってこうしてちゃんと持って来てるでしょう?」
パピヨンが低く問うのに、桜花は優雅な手つきで目の前のローテーブルを指し示す。
テーブルの上には、色とりどりのフルーツで飾られた大きなホールケーキが丸ごとひとつ。
綺麗に八等分されたその内の一切れは桜花のすぐ前に、もう一切れは彼女の反対側、つまり
パピヨンの目の前に、コーヒーが注がれたカップを添えて置かれていた。
カップはやわらかな湯気を立ち上らせている。
「陣中見舞いというなら、菓子じゃなく、もっと食いでのあるものを持って来い。どっちに
しろ、俺はいらん。食うなり、仕舞うなり、さっさと片付けて帰れ。目障りだ」
「あらあら。随分、ご機嫌が宜しくないようね。だったら、尚更甘いものを摂った方がいい
と思うけれど?」
「帰れと言っている」
低い声でゆっくりと言い、パピヨンが上から睨みつけると、桜花はからかうような笑みを消
し、静かにカップをテーブルに置いた。
凛とした眼差しがパピヨンを見上げる。
「パピヨン。あなた、こちらに戻ってから殆ど休んでないでしょう。いくらホムンクルスだ
と言っても、あなたは体調が万全とは言えないはずよ。無理はしないで。少し休んだ方がいいわ」
「…槍でも降るか?」
桜花の言葉に、パピヨンは冷ややかに嗤った。
「面白いこともあるものだ。お前がそんな言葉を吐くとはな。まるで俺を心配しているよう
に聴こえるぞ」
「心配――しては可笑しい?」
理由も定かでない自身の感情に更に苛立ちが募り、それは思うように捗らない研究に対する
焦燥や不甲斐ない自分への怒りとも絡まり合って、パピヨンを酷く不愉快にさせた。
「ふざけるな」
一瞬の激情に駆られ、パピヨンは声を荒げる。半分以上は八つ当たりだという自覚があった。
「何を企んでいるのか知らんが、今は貴様と腹の探り合いをしている暇はない。さっさと消
え失せた方が身の為だぞ?」
声を押し殺しながら、パピヨンは顔の横に上げた手を大きく広げるようにして、ぼきりと骨
を鳴らした。
「言い方が気に入らなかったようね」
パピヨンを見上げ、桜花は小さくため息をつく。
「私の企みなんて今はひとつだけよ。あなたにもしものことがあったら、武藤クンを救うこ
との出来る人がいなくなる。だから、あなたに休んで欲しいと言っているの。これでいいかしら?」
淀みない口調で言い、桜花はテストの結果を確認するように理知的な眼差しをパピヨンに向けた。
脅しにも動じない冷静な態度と事務的な言葉は実に桜花らしく、心配しているなどと言われ
るより余程納得できる答えだったのだが、パピヨンはほんのわずか、失望を覚えている自分
に気づく。
何に、と自問するのも面倒で、軽く首を振って靄のようなその感覚を頭から追い払った。
カズキの名を耳にしたことで心は急速に落ち着きを取り戻し、そうして顧みれば些細なこと
に心を乱された今しがたの自分が可笑しくなる。実にらしくない。
認めたくはないが、やはり疲れているのかもしれない。
ふと桜花を見れば、彼女は真剣な面持ちでパピヨンを見つめたままだ。
心からカズキの身を案じ、その未来を憂いている。
決して同じとは言い難いが、それでも自分と非常によく似た感情の下に行動している彼女の
信念だけは、不思議と疑う気が起こらなかった。
カズキの為に、という想いがある以上、パピヨンが桜花の求めに応じない限り、彼女は頑と
して引き下がらないだろう。
たとえ、その身を引き裂かれたとしても。
毅然とした桜花の姿に、パピヨンの胸中をある種の感慨がよぎる。
目の前にいるのは、自身の鏡とも言うべき存在。
恐らくは、この世でただひとつだけの。
言葉を尽くし、それなりの敬意を払っても間違いではない筈の相手だった。
「…忠告は有難く聞いておいてやる」
今日一番穏やかな声でパピヨンは言った。
能面のようだった桜花の顔が少女らしくふっと和む。
先程までの厳しい顔つきの方が桜花の整った美貌を際立たせるが、今の方がいいとパピヨン
はぼんやり思った。
視線で席に着くよう促す桜花に、パピヨンは、だが、と言葉を継ぐ。
「今の状況が読めない程、お前も愚鈍な女ではあるまい。コトは一刻を争う。俺には休んで
いる暇などない。その必要もない。――桜花」
パピヨンは力強くはっきりとした声で、桜花の名を呼んだ。
「俺は、時間が惜しい」
仮面の下の黒い双眸が、真摯に桜花を見つめる。
桜花もまた同じような表情でパピヨンの視線を受け止めた。
お互いに無言のまま、見つめ合う時間が数秒あった。
「…お前だから言うんだ」
これ以上の譲歩は出来ないと言外に告げ、パピヨンは桜花に背を向ける。
緩く首を振って苦笑を隠す桜花の表情は、聞き分けのない子供を相手にしているかのように
慈愛に満ちてやさしいものだった。
「天才と呼ばれる人にも休息は必要だわ」
桜花はパピヨンの背中に声をかける。
「時間が限られていることは私も判っているつもりよ。だからと言って、急いて事を仕損じ
たのでは、結局意味がなくなってしまうでしょう?」
「だから休めと? それは凡人の理屈だ」
「そうね」
肩越しに振り返ったパピヨンに、桜花は微笑みながら頷く。
「だけど、もう一度言うわ。あなたの為じゃなくて、武藤クンの為に言っているのだと言え
ば、少しは譲歩する気にならないかしら」
あくまでもカズキの為だと強調し、やわらかく笑う桜花に対し、パピヨンは苦虫を噛み潰し
たような顔をした。
パピヨンに譲歩を迫りながら、やはり桜花の方に譲る気は全くないらしい。
このまま平行線を辿るばかりの会話を続けるより折れてしまった方が楽だという気がする。
「…だから貴様は腹黒だと言うんだ」
腹立たしさを隠そうともせず言い捨てると、パピヨンはソファにどっかりと腰を下ろした。
手前に置かれたカップに手を伸ばす。
「一杯だけだぞ。これを飲んだらすぐに帰れ。いいな?」
「仰せの通りに」
くすくすと楽しそうに笑う桜花を見ないようにしながら、パピヨンはカップを口に運んだ。
不毛な言い合いをしている間に多少冷めてしまってはいたが、一口含んだだけで口中に広
がった香ばしい苦味は悪くない。一息に飲み干すつもりでいたパピヨンだが、ついゆっくり
と、香りを楽しみながらそれを味わった。
パピヨンの真向かいに座る桜花は、コーヒーについて感想を求めることもせず、ただ黙って
パピヨンの様子を見つめている。
心地の良い静寂がそこにはあった。
やがて、空になったカップをテーブルのソーサーに戻し、パピヨンは顔を上げた。
帰れと言う為に口を開き――しかし、その言葉を発することなく、不意に大きく揺らいだパ
ピヨンの身体は、糸の切れた操り人形のように、そのままことんとソファの上へと崩れた。
「…あら?」
突然の事態にも、桜花はさして意外そうにもなく呟く。
「あらあらあら…?」
テーブル越しに様子を窺えば、パピヨンは顔を下に向け、腕をだらりと落とした体勢でぴくり
ともしない。
コーヒーに忍ばせた睡眠薬が思いの外よく効いたようだ。
入院中に医師から処方されたものの残りが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
ホムンクルス相手にどの程度の効果があるか不明だし、コーヒーで味覚は誤魔化せるだろう
と、用心の為に適量の三倍程を放り込んだので副作用が気掛かりだったが、まあ死ぬことは
あるまい。
桜花は膝にかけていたブランケットを手に立ち上がり、テーブルを回ってパピヨンの傍らに
膝をついた。ソファに沈み込んだ無防備な身体にブランケットを掛け、寝顔を覗き込む。
薬の影響ばかりでなく、桜花が思うより、また、パピヨン自身が自覚するよりずっと、パピ
ヨンの肉体には疲労がたまっていたのかもしれない。
不治の病に冒された不完全なホムンクルスである彼は、元より無理の出来る身体ではないのだから。
休んで欲しいと、休ませたいと願ったのは、単なる自己満足だと桜花自身よく理解している。
それが、カズキの為なのか、守りたいものを同じくする同志としての使命感なのか、或いは
全く別の気持ちに起因するものなのか、そこまでは彼女にも判らない。
仮面の間から覗く、深く閉ざされたまぶたは青みがかる。
桜花は手を伸ばし、そっとパピヨンの髪に触れた。
白い手は母親が幼子を慈しむように、漆黒の髪を撫で、青白い頬を撫でる。
「パピヨン…」
深い眠りの中にいる相手に、切なげな響きを滲ませた声が呼びかける。
「お願い、武藤クンを助けて…あなたにしか出来ないの。私に出来ることがあるならなんで
もするから…あなたに喰い殺されても構わない。だから、お願い…パピヨン…お願いよ…」
桜花は跪き、俯いた肩を震わせながら祈った。
見たこともなければ信じたこともない神などにではなく、目の前の、強い意志の力をその身に
棲まわせた人外の男へと。
ただ、ひたすらに。
――了