東京都渋○区代○山町のとあるマンションの一室…
ドアの横には『防人 衛 千歳』という表札が飾られている。
防人は機嫌良さ気に口笛を吹きながら、両手に下げた買い物袋を片手に持ち替え、ドアを開けた。
そして、靴を脱ぎながら、大きな声で妻に呼び掛けた。
「帰ったぞー、千歳ー!」
しばらく間が空いてから「……は〜い」という力の無い声が奥から聞こえてきた。
その声で状況を察した防人は、買い物袋を下げたまま、大股で寝室に向かった。
「ただいま」
そう防人が声を掛けた先には、青白い顔でタブルベッドに横たわるパジャマ姿の千歳がいた。
「……おかえりなさい。ごめんね、すぐご飯の用意するから…」
起き上がろうとする千歳を制して、防人が言った。
「いいよ。寝とけ、寝とけ。メシなら俺が作るよ」
千歳は起き上がり掛けた身体をまたポテ、とベッドに倒した。
「……悪いわね」
「まあ、居候の身分だからな。これぐらいはしないとな」
「フフフ、そういうこと言わないの」
千歳の購入したマンションに転がり込んだ防人は、入籍した今でもどこか遠慮がちだった。
亭主関白なノリの男は大嫌いな千歳だが、こうしおらしくされるのも少し寂しい気がした。
「まだ調子悪そうだな。大丈夫か?」
「……う〜ん、もうそろそろ軽くなる時期のはずなんだけど…」
防人は買い物袋をゴソゴソしながら、夫婦の会話を続ける。
「しかし、男の俺には分からんが、子供ができるというのは大変だな」
千歳はさっきからやたら寝返りを打っている。
「つわりがこんなひどいものだとは思わなかったわ。これなら任務で戦闘や調査をする方がまだ楽かもね…」
防人は今イチ、ピンと来ない顔をしていたが、やがて笑いながら言った。
「でも、子供を作るなら早い方がいいだろ? あまり仕事優先にしてると高齢出産…ぐぉ!」
防人の肝臓あたりに千歳のバール突きが入った。
「あなたってホンット、デリカシーが無いわね! そういえばプロポーズもラブホテルでだったし!」
防人はうずくまって動けなくなっている。
「……げ、元気じゃないか、お前…」
「ええ、おかげ様で血圧まで上がりそうよ!」
千歳は起き上がってパジャマの上からカーディガンを羽織ると、買い物袋を引ったくってキッチンに行ってしまった。
「お〜い、あんまり無理するなよ〜」
防人は心配そうに後を追い掛けた。
二人のここ最近の夕食時の会話は、もっぱら結婚式と新婚旅行についてだった。
どちらも千歳が安定期の五ヶ月目に入ってから、というとこまでは決まっていたのだが、それ以上の具体的な話となるとまるで進まない。
しかし、今日の防人はいつになく饒舌で、積極的に意見を出してきた。
食欲の無い千歳はグレープフルーツをつつきながら、夫の話に耳を傾けている。
「ひとまず新婚旅行については、もう少し保留でいいと思うんだが…。俺の方が休みが取れるかどうかも分からんしなぁ」
「……そうね、それでいいと思うけど」
「あと披露宴会場のホテルなんだが、よく考えたら戦団の運営施設や関連施設でもいいと思わないか? 普通のとこは今からじゃ予約がいっぱいだし、こっちの方が何かと融通が利くだろう?」
防人は手元の書類を読みながら、いつもとは別人のように話を進めている。
「……いいアイディアだと思うけど。……ねえ、どうしちゃったの?」
千歳は夫の心境の変化と、意外な手際の良さに目を丸くしていた。
「何が?」
「だって、いつもは『分からない』『任せる』ばかりなのに…」
防人は照れ臭そうに頭を掻いた。
「いや、円山に『こういうことは男もちゃんと協力するべきよ』なんて懇々と言われてな。んで今日一日、色々と調べてた訳だ。あいつが言うと妙な説得力があるからなぁ」
「……ん? 今日、一日?」
「ああ、今日一日」
「……仕事しないで?」
「ああ、仕事しないで」
千歳はテーブルに突っ伏してしまった。
「…………してよ、仕事」
しかし、防人は快活に笑っている。
「しかし、こういう時の本部は便利だな。メインコンピュータにアクセスしたり、情報部の諜報員に頼んだり…」
「スケールの大きい公私混同しないで!」
千歳は呆れながら、立ち上がって食器の片付けを始めた。
「まったく、もう…。明日、本部に行ったら一緒に調べてあげるから、もうそういうことはしちゃダメよ」
「……え、身体は大丈夫なのか?」
千歳は溜め息をつく。
「良くはないけど、いつまでも休んでいられないでしょ? 産休が取れるのは産前四週からだし…」
「なんだったらそのまま専業主婦になってもいいんだぞ?」
防人は腕を組んで、笑いながら言った。
千歳は食器をガチャリと乱暴に、キッチンの流し台に置いた。
そして、防人の側に来ると、氷の笑顔で彼の頬をつねくり回す。
「ああら、そう。頼りになる安月給の旦那様だわ。何ならマンションも車もあなたの名義に変えて、支払いを全部お任せしちゃおうかしら」
「いででででで、ごめんなさいごめんなさい」
「……まったく、先が思いやられるわ」
千歳は不機嫌顔で再びキッチンに向かった。
防人はそんな千歳の後ろ姿をしばらく眺めていたが、やがて彼女を後ろから抱き締めた。
「……俺は先が楽しみだけどな」
そう言うと、防人は千歳の頬にキスをした。
千歳は顔を赤くして、何も言えずにいた。
二人の『先』はまだまだこれから。