「お兄ちゃ〜ん、入るよ〜」
まひろが部屋に入ると、カズキは机に向かい数学の宿題と格闘しているところだった。
「あれ〜、珍しい! お兄ちゃんが勉強してる〜!?」
カズキはノートに眼を落としたまま、まひろの方へは振り返らない。
「……ああ、まひろか。そりゃ、オレだって宿題くらいはするよ」
「ふ〜ん。ねえ、斗貴子さんは?」
後ろから近寄ったまひろは、カズキの両肩にそっと手を置いた。
カズキはピクリと僅かに反応する。
「で、出掛けたよ。何か用事があるんだってさ」
「……ふ〜ん、そうなんだぁ…」
そう言うと、まひろは後ろからおぶさる様にカズキの首に両腕を回し、耳元で囁いた。
「……じゃあさ、久しぶりに…しよ?」
カズキは背中に当たるまひろの豊満な乳房を感じながら、慌てた様子で言った。
「な、何言ってんだよ…!」
まひろはカズキの耳に息を吹きかけながら、囁き続ける。
「だってぇ…。お兄ちゃん、最近まひろの事、全然構ってくれないんだもん…。ね、しようよ…? いいでしょ?」
「……やめろって」
カズキは不機嫌そうに突っ放した。
まひろは気にする様子も無く、カズキの耳を甘噛みしながらなおも囁き続ける。
「どうしたの…? ……あ、分かったぁ。疲れてるんでしょ。じゃあ、今日はわたしが上になってあげるね…」
「……やめろって…やめろって言ってるだろ!」
突然のカズキの怒鳴り声に、まひろはビクッと身体を離した。
「お、お兄ちゃん、どしたの…? ねえ、何で怒ってるの? わたし、何かした…?」
まひろはオドオドとした眼でカズキに尋ねた。
何故自分が怒られているのか、まったく理解できない様子だ。
カズキはフゥ、と溜め息をついて言った。
「なぁ、まひろ…。オレ達…やっぱりこんな関係、普通じゃないよ」
まひろの眼にパァッと輝きが戻り、にこやかな笑顔を浮かべた。
「そうだよね!? わたし達、フツーの兄妹とは違うもん。わたし達、特別なんだよね?」
まひろはカズキの言葉を完全に取り違えている。
カズキはやや苛立ちながらも、丁寧に諭した。
「……だから、そうじゃなくて。オレが言いたいのは、こういう関係は……もう終わりにしたいって事なんだ。兄妹で身体を重ねるなんて、やっぱり間違ってたんだよ…」
その言葉を聞いている内に、まひろの顔からは笑顔が消え、眼に涙が溜っていく。
「……え? 何で…何で…? 何でなの…?」
そんなまひろの顔を見ていると、カズキは今まで自分が重ねてきた罪の重さに、胸が絞めつけられた。
「……まひろ」
「……何でそんなこと言うの? 二人は愛し合ってるから、そんな事言っちゃダメなんだよ…? わたし、お兄ちゃんの事、愛してるんだから…」
「……まひろ」
「……お兄ちゃんも何度もわたしを愛してくれたでしょ? わたし、ファーストキスも……処女もお兄ちゃんにあげたんだよ。 二人はね、結ばれる運命なんだよ…? だって、二人は血が繋がってるんだから…」
「……ごめん、まひろ。……ごめん」
まひろは顔中を涙で濡らしながら、フラフラと後ずさり、カズキのベッドに力無く腰を下ろした。
カズキもまた、まひろの涙に誘われる様にベッドの横に立っていた。
「……まひろ、オレの事を許してくれとは言わない…。オレはまひろの気持ちを利用してたんだから…。でも、まだ、今だったら間に合うと思うから…。間違いを正す事ができると思うから…。普通の兄妹に、戻ろう…?」
しかし、まひろの耳にカズキの言葉は届いていなかった。
顔はまだ涙で濡れていたが、新たな涙が湧き出てくる事は無く、瞳の奥から歪んだ光を放ち始めている。
「……斗貴子さん、でしょ…?」
「……え?」
カズキは自分の妹が何を言い出したのか、一瞬理解ができなかった。
まひろは虚ろな視線を床に向け、ブツブツと呟いている。
「……わたし、分かったよ…? 斗貴子さんがお兄ちゃんに言わせてるんだ…。だって、お兄ちゃんがわたしにこんな事を言うわけないもん…。わたしを愛してるんだから…」
「お、おい、まひろ…」
「……なんで? お兄ちゃんはわたしの恋人なのに…。もう十五年も一緒にいるのに…。年上のくせに……ルールも順番も守れないなんて…」
「まひろ!」
カズキはまひろの両肩を掴み、強い声で言った。
まひろはハッ、と顔を上げて、カズキを見つめた。
カズキはつい口調が荒くなっていく。
「斗貴子さんは関係無い。これはオレ達、二人の問題なんだ。そんな事……二度と言うんじゃない…!」
嘘だった。
新しい恋人を傷つけない為に、古いおもちゃを傷つけ、捨てようとしている。
実の妹と関係を持ち、しかもその妹は生来の愛情で、兄に対して無垢な信頼を貫き通している。
カズキは自分の嘘と汚いずるさに、自分の頭を打ち砕いてやりたい気分だった。
まひろは、悲しそうな顔をして自分には理解できない事を言う、兄の胸に抱きついた。
「……いや、お兄ちゃん…まひろを捨てないで…。一人にしないで…。わたし、お兄ちゃんがいなくなるんなら、死んだ方がマシだよ…」
「……まひろ」
カズキは悲しみに暮れるまひろの身体を、つい抱き締めてしまった。
いつもの様に優しく抱かれた喜びに、愛情を錯覚したまひろはそのまま眼を閉じ、唇を差し出した。
薄桃色の唇が、甘い髪の香りと柔らかい肢体の感触と共に、カズキに迫ってくる。
カズキもまた、喜々としてまひろの身体を貪っていた頃の熱を思い出していた。
ただし、こちらは錯覚ではなかったが。
カズキは長い時間、戸惑い、悩みつつもまひろの唇に口づけてしまった。
カズキは情と欲に、負けた。
まひろはすぐにカズキの唇を割り、舌を絡ませた。
「……んむぅ…あふっ……あむ…ふぁ……んん…」
相手の舌も歯も上顎も唇も、自分の舌が届く場所には、隅々まで舌を這わせる。
長い年月の間、実の兄に教え込まれた事だ。
そして、まひろはカズキの手を取り、自分の胸に服の上から強く押しつけた。
相手を性的に興奮させる事だけが愛情の表し方なのだと、正常な恋人同士の営みなのだと、まひろは悲しく勘違いしている。
全ては、幼いと表現してもよいくらいの年齢から、ずっと続けられてきたいびつな愛情の表れだった。
カズキはまひろの胸に当てた手に力を込め、リズミカルに揉みしだく。
「……んあぁ!…はぁ…あっ……おにいちゃぁん…あぁ…うれしい……あん…」
まひろは久しぶりの愛しい兄の手や指に悦びを感じながら、カズキの股間に手を伸ばした。
その時、戸を叩く音と共に、聞き慣れた声が響いた。
「カズキ、いるのか? 入ってもいいか?」
斗貴子だった。
その声を聞いたカズキは途端に正気に戻り、急いでまひろから身体を離した。
そして、すでに涙を滲ませているまひろに、顔をそむけて冷たく言った。
「……帰るんだ」
まひろは愛しい兄に手を伸ばし、何か言いたげだったが、やがて下唇を強く噛んだまま戸口に向かった。
ガラリと戸を開けると、眼の前に少し驚いた斗貴子の顔があった。
まひろは一瞬だけ、斗貴子に歪んだ光を放つ眼を向けたが、すぐにそらして聞き取れない程の声で何事か呟いた。
「こ…して…るから」
「え? まひろ、どうした!? おい!」
まひろは斗貴子の制止の声も聞かず、自室へ走っていった。
カズキの部屋に入った斗貴子は不審気に尋ねた。
「まひろは一体、どうしたんだ? 泣いていたみたいだぞ」
カズキは苦笑いしながら答えた。
「……うん、あんまりワガママ言うからさ、つい強く怒っちゃってね…」
「そうか…。キミ達、兄妹にしては珍しいな。まあ、何にせよ妹を泣かす真似は、あまり感心しないな…」
「……うん。……ねえ斗貴子さん、こっち来てよ…」
カズキはうなだれたまま言った。
「……うぅ…うぅっ…うううぅぅ…うえええぇぇぇぇ…」
自室に戻ってきたまひろは、すぐにベッドに突っ伏して、激しく泣き出した。
泣いても、泣いても、泣いても、次々に眼から涙が溢れてくる。
「……ううぅ…うぅっ…おにいちゃぁん…おにいちゃぁん……うああああぁぁぁん…」
どんなに激しく泣いても、悲しさはまったくやわらがない。
それどころか、心の奥から、ドス黒い何かが滲み出してくるの抑えられなかった。
「……斗貴子さんなんか、いなくなっちゃえばいいんだ…斗貴子さんなんか、死んじゃえばいいんだ…死んじゃえば…」
ふと顔を上げると、カラーボックスの上に置いてあるヌイグルミが眼に入った。
数日前に皆でゲームセンターで遊んだ時に、斗貴子がUFOキャッチャーで取って、まひろにくれた物だった。
もっとも、まひろにとっては迷惑この上無かった。
帰ってきてすぐに捨てたのをカズキに見られ、ひどく叱られた為、こうしてしょうがなく飾ってあるのだ。
それを見た瞬間、まひろの感情が爆発した。
ヌイグルミを掴み取り床に押しつけると、ペン立てから取り出したカッターナイフを勢いよく突き立てた。
「……死んじゃえ…」
まひろは涙を溢れさせながら、何度も何度もカッターナイフを突き立てた。
「……死んじゃえ…死んじゃえ…死んじゃえ…死んじゃえ…死んじゃえ…」
勢い余って自分の手に突き立ててしまい、血が吹き出しても、痛みなど感じなかった。
やがてヌイグルミが原型を留めていないのを見て、まひろはガックリと肩を落とし、カッターナイフを手から離した。
そして少しも消えていない悲しみと、遅れて襲ってきた手の痛みに、まひろはまた激しく泣いた。
しばらくそのまま泣いていると、戸の向こう側から親友の千里と沙織が心配そうに声を掛けてきた。
「……まひろ、どうしたの?」
「……ねえ、まっぴー、大丈夫?」
まひろは何も言葉を返す事ができなかった。