小さなサンライトハートを携えた小さなカズキ――にしか見えない小さな人形が、勉強机の
上にちょこんと乗っている。
少し離れたところに両手を腰に当てて仁王立ちするセーラー服の少女の人形。顔を横切る傷
痕や、足に装着された四本のアームにとんでもなく既視感を覚えるのは、出来れば単なる気
の所為だと思いたい。
そして少女の人形から更にずっと離れた机の端には、黒ずくめの人形がこちらに背を向け意
気揚々とポーズを取っている。背中にあしらわれた大きな蝶のデザインといい、後姿からで
もわずかに見える蝶の仮面といい、こちらはもう誤魔化しようもなくパピヨンのミニチュアだ。
自室の机の上を占拠するささやかなカオスに、斗貴子は目眩を起こしそうになる。
斗貴子も何度か足を運んだことのある某ファーストフード店が、あのパピヨンをイメージ
キャラクターとして蝶人キャンペーンなるものを始めた時には何を血迷ったのかと本気で呆
れたものだが、それが斗貴子の予想を大きく裏切り好評を博したのと言うのだから世も末だ
と頭が痛くなった。
斗貴子の常識とは相容れないとは言え、快く受け入れる人間が数多くいると言うのなら他人
の好みに口を挟もうとは思わない。
が、それが自分の身に関わってくるとなれば話はまた別だ。
客の要望に応える形で実施されたキャンペーン第二弾――正直、この事態は斗貴子の理解を
越えている――では、第一弾でも人気だったと言うオマケのパピヨンフィギュア“ver.2”の他に
二体のフィギュアが追加された。
その名も“ライバル・偽善くん”に“怪人・ブチ撒け女”――ご丁寧にもそれぞれの武装錬金まで
見事に再現した、カズキと斗貴子によく似た造形の人形がそれである。
無論、事前に相談があったわけでもなく肖像権の侵害もいいところだ。
キャンペーン初日、パピヨンに呼びつけられカズキと共に出向いた店頭で、自分達そっくり
なフィギュアを目にした斗貴子が即座にパピヨンをブチ撒けようとしたことは言うまでもない。
もしも核鉄を手にしていたら店ごと破壊していたことだろう。
斗貴子を激怒させておきながらパピヨンはいつもの調子で全く悪びれることもなく、よく出
来ているだろうなどと自慢を始める始末だし、隣りのカズキがフィギアを手に大喜びでそれ
に応じているのが尚一層斗貴子の怒りに火を注ぐ。
「特にこの“ブチ撒け女”の凶悪な面構えと、貧相な身体を再現するのに苦労したぞ」
「へぇ、やるなぁ。でも斗貴子さんはもっと可愛いよ。それにああ見えてすごく」
「カズキ!!」
そんなやりとりを交わしている内に気づけば店内の客の視線が三人に集中していて、「偽善
くんだ」「ブチ撒け女だ」とざわざわ騒ぎ始めるのに慌てて店を後にした。
その後も街中で子供達からやれ偽善くんだブチ撒け女だと指差されては叫ばれるという非常
に恥ずかしい日々が続いている。
元凶であるパピヨンはいずれブチ撒けると決意も新たにし、とりあえずあの店には近づくまい、
人形のことも記憶の彼方に葬り去ってなかったことにするつもりでいたのに。
フィギュアはきちんと三体揃って斗貴子の目の前に鎮座ましましている。
人形が目に入る度に、私が買ったんじゃないぞと誰に言うでもなく心の中で言い訳をしてし
まう状況にも拘らずこうして机の上に飾っているのは、これが他でもないカズキから貰った
ものだからだ。
斗貴子同様勝手に人形のモデルにされたカズキだが、その反応は斗貴子と正反対だった。
正義のヒーローになった気分でとても嬉しかったらしい。
こんなに似てると恥ずかしいね、などと言いつつその実少しも恥ずかしがっていないのは、
わざわざオマケがついたセットを幾つも買い込んで友人に配っていたくらいのはしゃぎよう
からも明白だった。
恥ずかしいからヤメロ!と止めようとした斗貴子だったが、「はい。コレ、斗貴子さんの分」と
カズキに満面の笑顔を向けられると、怒るどころか断ることすら出来ずに受け取ってしまって
現在に至る。
カズキにだけはからきし弱い自分が心底恨めしい。
一つため息をついて、斗貴子は机の上の“偽善くん”――小さなカズキに目を向けた。
別に人形自体が嫌いなわけではない。
ただあまりにも自分達に似ていて気恥ずかしいのと、パピヨンの無礼さに腹が立つだけだ。
何より名前が気に入らない。
“偽善”に“ブチ撒け”などとは失礼にも程がある。
確かに“ブチ撒け”は斗貴子の口癖だから百歩譲って目をつぶるとしても“偽善”は――
かつて、パピヨンが今際の際に放ったその言葉がカズキをどれだけ打ちのめしたか。
あの年頃の男の子があんなふうに涙を流すところを、斗貴子はあの時初めて見た。
ぼろぼろと零れ落ちるカズキの涙に言いようもなく胸が痛んで、思わず抱きしめたくなった。
カズキを異性として意識したのはあの時が最初だったかもしれない。
偽善という言葉に今でも過剰に反応してしまうのはきっとその所為だ。
もっともカズキ自身は誰かの代わりに、みんなの為に闘うと決意した時に、偽善と言う言葉
をも受け止める覚悟を決めたらしく、度々パピヨンから偽善者呼ばわりされても動じる様子
はない。
パピヨンにしてもカズキに対してのそれはどうやら褒め言葉のようだし、あれはあれで親愛
の表現であり、両者の間に信頼と友情が成立していることは、不本意ながら斗貴子も認める
ところではある――本当に、物凄く、どうしようもなく不本意ではあるのだが。
斗貴子は机の上から、“偽善くん”を手に取った。
両の手のひらにすっぽり収まる小さな人形は、見れば見るほどカズキとよく似ている。
意志の強そうな眉、真っ直ぐな瞳、屈託のない笑顔、溌剌とした元気いっぱいのポーズ。
斗貴子は手の中の人形に感慨深げな眼差しを向けた。
この人形の姿は恐らくパピヨンの目に映るカズキそのもの。
そしてそれは、斗貴子の心に鮮やかに焼きついたカズキの面影とも寸分たがわぬものだった。
――ヤツの目にもカズキはこんなふうに映っているのか……。
ひたすらに前向きな思考の持ち主で、決して希望を諦めないカズキ。
似姿からさえもその朗らかさがあふれ出してくるようだ。
人形の笑顔にカズキの笑顔が重なって、パピヨンに対しいつまでも怒りをくすぶらせている
自分が意固地で馬鹿みたいに思えてくる。
ずっと突っ張っていた肩の力が少しずつ抜けていく。
手のひらの中の、小さなカズキを見つめているだけで。
「……パピヨンめ。今度だけは見逃してやる」
まだ多少怒りの滲む声で低く呟く。
ホムンクルスとあらば問答無用で始末していた自分が、また随分と甘くなったものだ。
斗貴子は人形をじろりと睨み、ふ、と笑みを零した。
「……キミの所為だぞ」
指先でつい、と人形を突付く。
斗貴子さん、痛いよ、とカズキの声が聞こえそうな気がして、斗貴子はまた微笑むと揃えた
両手に顔を近づけた。
目を閉じて、小さなカズキにキスをしようとした、丁度その時――
「斗貴子さん、いる?」
ドアの外からカズキの声。
斗貴子は大慌てで人形を元通り机の上に戻し、自分はベッドの端へと素早く腰を下ろした。
何事もなかったように返事を返す。
「カズキか。どうした?」
「ごめん、起きてた?」
ドアから顔を覗かせたカズキはすまなさそうに小さく頭を下げる。
「ああ、気にするな。何か用か?」
「あ、うん。悪いんだけど、古典のノート貸して貰える? オレのノート、何が書いてある
かさっぱり読めなくって」
「また居眠りしてたのか。ほどほどにしないと、本当に進級危なくなるぞ」
「だからちゃんと自習しようと思ったんだってば」
苦笑しながら立ち上がる斗貴子に、カズキは人懐っこい印象を与える照れ笑いを浮かべた。
「判っているとは思うが、留年なんかしたら容赦なくブチ撒けるからな」
「大丈夫! 何を隠そう、オレは進級の達人!!」
「ハイハイ」
いつものカズキの達人宣言に斗貴子はくすくす笑い、勉強机の端に仕舞ってあったノートを
取り出してカズキに手渡す。
「信用している。だから、しっかり頑張れ」
「ありがとう、斗貴子さん」
素直な笑顔でカズキが頷く。
斗貴子は穏やかな微笑みを返してベッドに戻った。
と、カズキが同じ場所に立ったまま、勉強机を注視していることに気づく。
「どうかしたか?」
「あの人形。ちゃんと飾ってくれてるんだ」
「ああ……」
カズキが人形を指差し、斗貴子はぎくりとする。
先程の自分の行為などカズキは知る由もないのだが、見られていないと判ってはいても視界
の端を掠める“偽善くん”の姿に動悸が早くなる。
一刻も早く人形からカズキの注意を逸らしたいものの、咄嗟に別の話題が出てこない。
「斗貴子さん、この人形のこと嫌がってみたいだから、もしかしたら捨てられちゃうかと
思ったんだけど」
「……人から貰ったものをむげにするほど私は不義理な人間じゃないぞ」
正確には人から、ではなくカズキから、という点が重要なのだが、それは言わない。と言うより
言えない。
「そっか。そうだね、ゴメン。大事にしてくれて嬉しい」
カズキは無邪気に笑うと、机の上の人形の頭をやさしい仕草で撫でた。
ご機嫌なカズキの横顔を見つめていると、斗貴子の中でパピヨンの暴挙や人形に対する
わだかまりが見る間に薄れていく。
カズキが喜んでいるのならそれでいい。
カズキの笑顔が見られるのなら、もうそれだけでいい。
「キミは本当にその人形が気に入っているんだな」
「うん。だって嬉しいじゃない。蝶野の奴、オレ達のことちゃんと友達だって思ってるんだなって」
「……そうか?」
斗貴子には単なる嫌がらせ以外の何物にも思えないのだが、カズキのポジティブシンキング
にかかるとそういうことになるらしい。
「折角だからもっと増やしてくれたらいいのにな。ほら、ブラボーに剛太に秋水先輩、桜花
先輩、それにゴゼン様とかさ。にぎやかになっていいと思わない?」
「いや、それはどうかと思うぞ……」
件の店のカウンターにずらりと並んだフィギュアを想像して斗貴子は脱力する。
パピヨンならやりかねないのがまた怖い。
「それにさ」
カズキは“怪人・ブチ撒け女”をひょいと手のひらに乗せ、顔の高さまで持ち上げた。
「この“ブチ撒け”ちゃん、斗貴子さんに似ててホントに可愛いし」
「な……っ!?」
カズキの言葉に斗貴子は戸惑い、狼狽える。
“怪人・ブチ撒け女”などと名付けられた、パピヨン曰く“凶悪な面構え”をした人形に似ていると
言われるのはあまり愉快な気分ではない。
しかし、その後に「可愛い」と褒め言葉が続く以上怒るのも大人気ないし、かと言って「可愛い」に
だけ露骨に反応して礼を言うのも変だ。
そもそもカズキには悪気もなければ深い意味があって言っているわけでもないのだからと自
分に言い聞かせ、斗貴子はしばし悩んだ末に「そうか」とどちらとも取れる言葉だけを返した。
「うん。ホントに可愛い」
斗貴子の葛藤など露知らず、カズキは上機嫌で可愛いと繰り返し、そのままごく当たり前の
ように“ブチ撒け”ちゃんにキスをした。
「――!!」
それを見た斗貴子の顔に一瞬で血が上る。
以心伝心、一心同体。
さっき自分が人形のカズキにしようとしたことを見透かされたようで、また、斗貴子自身が
カズキにキスをされたようにも感じられてどうにも居た堪れない。
「あれ? どうしたの、斗貴子さん」
人形を机に戻したカズキが斗貴子を見て驚いたように声を上げる。
「顔、赤いよ。具合悪いの?」
「い、いや、なんでもない! なんでもないから気にするな!」
「そう?」
火照りを冷ますのも兼ねてぶんぶんと首を振る斗貴子に、カズキは却って不安を覚えたらしい。
心配そうに眉を寄せ、首をかしげながら斗貴子に近づくと、膝を曲げて目線を斗貴子の顔に
合わせた。
じっ、と見つめられ、斗貴子は思わず目を逸らしてしまう。
「やっぱり、なんか変だよ、斗貴子さん」
カズキは斗貴子の前髪をふわりとかき上げ、同じように前髪をかき上げた自分の額を斗貴子
の額にこつんとつき合わせた。
思いもよらないカズキの行動に、斗貴子は呼吸すら忘れてただただ大きく目を見開く。
「熱はないみたいだけど……」
「だからなんでもないと言っているだろう!」
殆ど悲鳴のように斗貴子は叫んだ。
カズキが本気で斗貴子の身を案じていることは判るし、それはとても嬉しい。
だが、斗貴子を乱しているのはカズキ本人で、しかも当のカズキがそれに気づいていないの
だから、これでは斗貴子の身が持たない。
「心配だなぁ。斗貴子さん、痛いとか苦しいとか、そういうのすぐ我慢しちゃうから」
「気をつける。でも、今は本当になんでもないから――」
それより早く一人にしてくれと、斗貴子は心の中で必死に念じる。
斗貴子の心の声が聞こえたわけでもないだろうが、カズキは「判った」と頷いた。
「でも、無理は駄目だよ。具合が悪い時は必ずすぐオレに言って」
斗貴子の肩に両手を置き、カズキは真剣な面持ちで斗貴子を見つめる。
仔犬のような、このひたむきなカズキの眼差しに斗貴子は何より弱い。
頬はその赤さと熱さを更に増し、頭の芯がぼうっとして何も考えられなくなっていく。
心臓は壊れたように早鐘を打つし、呼吸は止まりそうになるし、これはもう具合が悪いなん
てものじゃない。
しかし、まさかカズキの所為で今にも死にそうだなどと言える筈もなく、斗貴子は顔を真っ
赤にしたままこくこくと何度も頷いてカズキの言葉に了承を伝えた。
「良かった」
カズキが安心したように笑い、斗貴子はその笑顔にまた見蕩れてしまう。
「斗貴子さん?」
「ん? あ、ああ、なんだ?」
名前を呼ばれ、どぎまぎしながら斗貴子がカズキを見返すと、カズキは小さく笑って斗貴子
にキスをした。
斗貴子の思考が一瞬停止する。
「それじゃ、帰るね。遅くにゴメン。ノートありがとう。おやすみ、斗貴子さん」
カズキのはにかんだ表情だけがぼんやりと視界に映り、声は何重にもエコーがかかったよう
に反響して聴こえる。
「……おやすみ」
年上のお姉さんとしての意地がかろうじて意識を支え、斗貴子は努めて平静を装いながらお
やすみの挨拶を返す。
それが限界だった。
ばいばい、と手を振ってカズキが部屋を出て行きドアが静かに閉じられる。
遠ざかる足音が完全に聞こえなくなると同時に、斗貴子の身体はベッドに腰掛けた姿勢のま
ま、音もなく横ざまに倒れこんだ。
ばたんきゅー。
――死ぬ……。ホントに死ぬ……。
殆ど止まりかけていた呼吸を必死で整え、バクバクと異常な速さで脈を刻む心臓を宥めながら、
斗貴子はベッドの中で息も絶え絶えに悶える。
カズキの存在こそがどんな武装錬金すら凌ぐ最強の凶器だ。
いとも容易く、斗貴子の息の根を止めてしまう。
その内、本当にカズキに殺されてしまうのではないだろうか。
シーツを両手でぎゅっと掴み、顔を埋めた斗貴子は暫く死んだように動かなかったが、不意に
ふふ……と忍び笑いを洩らすと、やがてくすくすと何かに憑かれたように勢いよく笑い出した。
心の中で呟く。
――まったく、本当に可愛いことばかりしてくれる……。
純粋な心根そのままのカズキの言動にはどうしたって敵いようがない。
カズキに殺されるなら本望だ。
勿論、簡単に負けてやるつもりはない。
ひとしきり笑い続けて平常心を取り戻した斗貴子は、ベッドの上に身体を起こすと机に向かって手を伸ばした。
再び手にした“偽善くん”を睨みつけながら「カズキ」と呼びかける。
「来るなら来い。今度こそ返り討ちだ」
斗貴子は勇ましく宣戦布告をし、それからふっと表情を和らげた。
カズキが相手なら負けても少しも悔しくはない勝負。
胸に広がるこの甘い気持ちは、きっと幸せという感情。
その気持ちが求めるものに逆らうことなく、斗貴子は手にした小さなカズキにそっと口づける。
「おやすみ、カズキ」
斗貴子はそう言うと、人形を机の上に置いた。
元あった場所よりも真ん中に寄せて、少年と少女の人形が仲良く寄り添うように。
――了