閉店時刻を過ぎ、シャッターの下りたロッテリや店内では働き者の女子店員が一人、売上の  
計算や店内の掃除といった雑用を精力的にこなしていた。  
蝶人キャンペーン第二弾の効果で売上は上々、帳簿をつけ終えた彼女はにっこりと笑う。  
数ヶ月前、何とも妙な客が続けざまに訪れるようになり、店は『変人バーガー』と仇名され  
大勢いた店員も次々と辞めていった時には彼女も本気で退職を考えた。  
実際退職届も提出したのだが、運悪くその時点で最後の店員になっていた彼女は店長の強い  
引止めにあい辞めることが出来なかったのだ。  
客足はすっかり遠のき売上は激減、その癖変人さん達が常連となって店にお金を落としてい  
くものだから経営不振による閉店にまでは至らず、彼女にとってはまさに生かさず殺さずと  
いう非常に有り難くない状態は数ヶ月続いた。  
来る日も来る日も変人さんを相手にしていれば変人さんに対する耐性はつくし、店員は自分  
一人という責任感から店に愛着も湧く。  
やがて、店に最初に現れ今も週に一度は来店する変人さんが“蝶人・パピヨン”として世間  
の注目を集め出したと知った彼女の耳許で天使が――或いは悪魔が――そっと囁いた。  
毒を食らわば皿まで、毒を盛って毒を制す。  
変人さんで失った客は変人さんで取り戻せとばかり、彼女は“蝶人・パピヨン”を店のキャ  
ンペーンに利用することにしたのだ。  
変人さんへの拒否反応からか彼女のアイデアに難色を示し最初は逃げ腰だった店長も、その  
頃には既に店長と同等以上の働きをしている彼女の熱意に折れざるを得なかった。  
かくして彼女はこのキャンペーンに限り店長代理として各方面に東奔西走し、キャンペーン  
を開催、以前の客を取り戻すだけでなく新規の客を呼び寄せることにも見事成功したのだった。  
 
客の要望を受けての今回のキャンペーン第二弾ではオマケも増やしたし、何より当の“蝶  
人・パピヨン”が一日店長として来店していた効果で売り上げは前回を大幅に上回る勢いな  
のだから、彼女の表情が緩むのも無理はない。  
一息ついた彼女は店の専用カップでコーヒーを二つ入れると、一つをカウンターに展示して  
いる“蝶人キャンペーン第二弾フィギュア 蝶人パピヨンver.2”の前に置いた。  
そして、手にした自分用のカップをカウンターのカップに軽くぶつけて乾杯の真似をする。  
「テン蝶、お疲れ様です」  
背中を向けたままの小さなパピヨンを見つめ、彼女は小さく笑った。  
人は見かけによらないとよく言うが、その言葉を彼女は最近しみじみと実感している。  
人かどうかは怪しいものだが、パピヨンもまたあの奇妙な外見からは想像もつかない、否、  
外見から想像しうる限界を越えた性格の持ち主だった。  
たまたま来店した彼に一日店長を依頼した時、彼女は半ば断られることを覚悟していた。  
だがパピヨンは二つ返事で彼女の依頼を承諾し、あまり報酬が出せないことを切り出しても  
意に介することはなかった。  
たまには偽善者の真似事をしてみるのも一興、なとど独り言を呟きながら、案外楽しそうな  
様子でメニューやオマケについて意見を出してくれたりもした。  
ちなみにオマケが二つ増えたのは彼のアイデアだ。出来上がった二つの人形が誰かに似てい  
るようなのは気にしないことにしている。更にちなみに、制服も彼のコスチュームに合わせ  
てはどうだと自信たっぷりにオススメされたのだが、それは丁重にご辞退申し上げた。人と  
しての最低限の尊厳というものだ。  
彼女はキャンペーンが開催されてからここ数日のことを思い返す。  
 
パピヨンは実に協力的だった。  
当初の予定では、店内での写真撮影やテーブルサービスなど客への愛想が一日店長としての  
パピヨンの主な仕事だったのだが、店が混雑してくるといつの間にかカウンターの中に入っ  
て接客をする傍ら、調理場には的確な指示を送りあっという間に客をさばく。  
かと思えば、頼まれもしないのにフィギュアと同じポーズを取って店内の客ばかりか外を歩  
く通行人からも拍手喝采を浴びたりと、その活躍ぶりは企画発案した彼女の予想を遥かに越  
えるものだった。  
彼は一日店長の仕事がそれなりにお気に召したらしく、契約した以外の日にも来店しては“テン  
蝶”の名札をつけて閉店まで店内で過ごしていくことがある。  
今日も、最後の客が帰るまで店にいて、先ほど帰ったばかりだった。  
じゃあな、と言ってあっさり立ち去る彼の背中に向かって掛けた労いの言葉は届いたかどうか。  
だから、せめて彼の分身に、とコーヒーを入れてみた。  
初めて彼を見た時は取って喰われるんじゃないかと本気で怯えたものだったが、今では  
“蝶人・パピヨン”の存在は彼女にとってとても頼もしいものになっている。  
あの時、辞めなくて良かった――彼女は心からそう思う。  
辞めたいと思うきっかけになったのはパピヨンだが、仕事でこんなにも充実感を得る喜びを  
知ったのも彼の存在があってこそだ。  
「……明日も、来る、かな……」  
小さな声で呟く。  
来て欲しい。  
逢いたい、なんて思ってしまう。  
そろそろと、彼女は自分の気持ちを自覚し始めていた。  
我ながら趣味が悪いと思う。  
悪いどころか相手は変人、もとい蝶人だ。  
どうやら人間ではないらしい。  
だけど、いい人だ。  
何度も接して、それを知った。  
決して自分の趣味は悪くない、きっと、すごくいいとすら思う。  
 
気がつけば、あの背筋が真っ直ぐに伸びた背中を見つめている。  
忙しさに目眩を起こして足許がふらついた時、よろけた肩を難なく抱いて支えてくれた大き  
な手のひらに心臓が早鐘を打った。  
思い出して頬が熱くなる。  
彼女は赤くなった頬を両手で包み、ふるふると首を振った。  
自分の他は誰もいないことが判っている店内をそれでも見回し人気がないことを確認する。  
それから、パピヨンのフィギュアを両手でそっと抱え上げると、ぎゅっと目を閉じて口唇を  
寄せた。  
人形とはいえ口唇に触れる勇気はなかったから、いつも見ている背中に軽くキス。  
それだけでも緊張し、しばらくたってから目を開けた彼女はつめていた息をふっと吐き出した。  
手のひらの中の人形は彼女の想いなど素知らぬふりで決めポーズを取ったまま。  
人形なのだから当然だ。  
彼女の想いに気づかないのは、人形だけでなく本物の彼も多分同じ。  
彼女は力なくため息をつく。  
「……馬鹿みたい」  
「まったくだな」  
「!?」  
誰もいない筈の店内に突如響いた低い声に、彼女は文字通り飛び上がらんばかりに驚く。  
思わず取り落としそうになった人形は根性と気合で死守し、それを強く握り締めながら恐る  
恐る振り返れば、そこには腕組みをして立つまごうかたなきパピヨンの姿。  
「ぎゃああぁぁっ!!」  
恋い慕う相手と遭遇したにしてはあんまりな悲鳴が彼女の口からほとばしる。  
「パ、パピヨンさんっ! 帰ったんじゃなかったんですかぁ!?」  
「帰ったが、今日は蝶人セットを喰い損ねたことを思い出してな」  
「ああ、今日は忙しかったですものね。お疲れ様です」  
条件反射的に営業モードに切り替わり、実に礼儀正しくお辞儀をした彼女だが、刹那、はっ  
と我に返り、  
「って、鍵は! 私、ちゃんと鍵閉めた筈……」  
「この蝶天才の前に鍵などあってなきが如しだ」  
なんてことをするのだ、この人は!  
彼女は両手で頭を抱え声なき叫びを上げる。  
 
とある虫は紙一枚の隙間を出入りするという嫌な話を思い出し、いや、この人はアレじゃな  
くて蝶だし、とよく判らないツッコミを自分に入れる辺り、彼女は目一杯混乱していた。  
好きな人によく似た人形にキスなど、恋する乙女としては至極可愛らしい行為ではあるもの  
の、当の好きな人に目撃された場合、恥ずかしい場面であることは間違いない。  
だが、もしかしたらはっきり見られたわけじゃないかもしれないと、彼女は一縷の望みを  
かけてパピヨンに訊ねる。  
「パピヨンさんは、い・ま、戻ってきた所ですよね? 何も見てないですよね……?」  
両手を胸の前で組み、縋りつくような視線を向ける彼女に、パピヨンは表情も変えず平然と  
言った。  
「人気のない職場で人形と乳繰り合うとは変わった趣味だな」  
「イヤアァァァ!! テンチョーーー!!!」  
全部見られてる!!  
ショックのあまり、一時期癖になった絶叫が復活する。  
いっそ倒れてしまいたかったが、好きな人の前ということと、ここが職場だということがす  
んでのところで彼女を踏み止まらせた。  
パピヨンの腕をがしっと掴み、  
「忘れて! お願いだから忘れて下さいっ!」  
涙目になりながら必死の形相でパピヨンに訴える。  
好きな人の腕を掴んでいるという状況を認識する暇があればこそ、それにときめきを覚える  
余裕などある筈もない。  
 
一方のパピヨンは研究材料でも見るような冷静な眼差しを彼女に向け、心底不思議そうに問う。  
「人形なんぞにキスをして楽しいのか?」  
「え、えーと……」  
恋する乙女心に理屈を求められても困る。  
彼女は俯き、重ね合わせた指先を無意味にもぞもぞと動かしながら口篭った。  
「それはえーと、その、楽しいと言うかなんと言うか……」  
「応えもしないものを相手にしたところで面白くもなんともあるまい」  
パピヨンの一言が彼女の胸に鋭く突き刺さる。  
「……そう、ですね……」  
そうだ。だからさっきも淋しくなった。  
何の反応もない人形を見ているのが淋しかった。  
パピヨンも同じだと思うことが淋しかった。  
今も、淋しい。  
「貴様の考えることは理解し難いが、中々興味深くはあるな」  
「はい?」  
パピヨンの声のトーンが変わり、何を言われているのかと顔を上げた彼女の顎にパピヨンの  
指先が伸びる。  
――あ、指、冷たい……。  
指が触れた瞬間、彼女の意識はその温度にだけ集中した。  
長い指が彼女の小さな顎を捉え、そのまま上を向かせる。  
至近距離に迫るパピヨンの顔を瞬きすることなくじっと見つめる彼女は、蝶を模したその仮  
面の下の素顔はどんなだろうとか、どうしてこんな間近に彼の顔があるのかということにば  
かり気を取られていて、パピヨンの口唇が彼女のそれに触れた時も真っ先に感じたことはや  
はりその冷たさだった。  
――口唇も冷たいんだ。  
そう思い、それから何故彼の口唇の冷たさを知っているのかと自問し、その後になって漸く  
キスをされていることに気づく。  
「――え?」  
口唇は離れていたが、まだ息が掛かるほどの距離にあるパピヨンの顔を、彼女はきょとんと  
して見つめた。  
ニヤリ、とパピヨンが不敵に笑う。  
「生身の方がずっと良かろう?」  
 
「――!?」  
彼女は両手で口許を押さえ、ぱっと後ずさるようにしてパピヨンから離れた。  
その途端、身体中から力が抜けてへなへなと座り込んでしまう。  
湯気が出そうなほど顔を真っ赤にし、呆然とパピヨンを見上げることしか出来ない。  
パピヨンはカウンターのコーヒーに目を留め、それを取り上げると一息で飲み干す。  
「おい、店員。いつまでも座り込んでないで、俺の蝶人セットを作ったらどうだ?」  
無断で人の口唇を奪ったというのに、パピヨンの態度はいつもとまるで変わりがない。  
人をこんなに動揺させておいてと思うと、悔しさと腹立たしさがこみ上げてくるが、なんだ  
かちょっと幸せな気分なのも確かで、結局文句の一つも言えそうにないのがまた悔しい。  
彼女は店員の使命感からも立ち上がろうと床に手をつくが、ろくに感覚のない手足は動いて  
もくれなかった。  
「……む、無理です。腰が抜けて立てません〜……」  
「やわな奴だな」  
「誰の所為ですかっ!」  
「俺の所為だとでも言いたいのか?」  
他にいるなら教えて欲しいところだ。  
彼女はきゅっと口を結んでつーんとそっぽを向く。  
「ふむ……俺は腹が減っているんだが」  
ふくれっ面の彼女をしげしげと見下ろし、何事か考え込む様子を見せていたパピヨンは、や  
がて妙案を思いついたらしく意味ありげな視線を彼女に寄越した。  
「お前が作れないと言うなら、そうだな。代わりにお前を喰ってもいいんだが、どうする?」  
「……は?」  
パピヨンの言葉が持つ含みに気づかないほど彼女も子供ではない。  
一瞬遅れて、頬に再び赤みが差す。  
「――どうする?」  
パピヨンの口許に浮かぶ意地の悪い笑みでからかわれていることが判り、ますます赤面した彼女は  
金魚のように口をぱくぱくさせ、パピヨンはそんな彼女の様子を見ては愉快そうに笑うのだった。  
 
                                                     ――了  
 

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