私と彼が出会ってから一年が経った。  
 
        Nameless Song  
 
 
三人娘のめがねっ娘。これで大体の人は私の顔を想像できる。  
一部のクラスメイトと親しい友人は、私のことをちーちんの愛称で呼ぶ。  
 
「オハヨー、ちーちん。今日も早いね。」  
まひろは今日も私をちーちんと呼ぶ。まだ寝惚けている沙織も同じ、呼び方はちーちん。  
「おはよう。ほら、いい加減起きなさい沙織。」  
「んあー、オアヨーちーちゅん…」  
「言えて無いって。」  
洗面所から出て食堂に向かう。途中上の階から降りて来た先輩達と挨拶をする。  
「まひろ大変だっ!実は俺達兄妹が韓国人だったって夢を見た!」  
「お兄ちゃん私達日本人だよ!だって日本語喋ってるもん!」  
朝からこの兄妹はテンションが高い。  
いつもなら斗貴子さんがツッコむ所だけど、斗貴子さんは今この寄宿舎に居ない。  
「ちーちゃん、さーちゃんもオハヨー。うーさむっ、早く朝メシ食って暖まろう。」  
4バカ+三人娘、このグループ内ではみんな私をちーちんかちーちゃんと呼ぶ。  
この愛称が気に入っていない訳じゃない。  
親しみを込めた呼び方だから、心地よく感じる時もある。  
「おはようまひろちゃん、沙織ちゃん、千里ちゃん。今日も冷えるね。」  
 
彼は私をちーちんと呼ばない。  
理由を聞いたら「恥ずかしいから」と眉間を掻きながら言っていた。  
 中村剛太先輩  
武藤先輩と斗貴子さんの戦友。  
少し頑固で現実的、でも本当はすごく優しい人。  
 
「おはようございます中村先輩。今日は学校行くんですか?」  
「あー、うん。一応俺、受験生だし。」  
彼と初めて出会ったのは一年前の冬。  
何か痛みに耐えているような顔がひどく印象的だった。  
 
大人数で食堂に入る。  
いつも使っているテーブルで、もう一人の友達が私達を待っていてくれた。  
「皆さん、おはようございます。」  
一年前、彼と一緒に転入してきた毒島華花ちゃん。  
控えめで引っ込み思案、お人形さんのように可愛い子。  
武藤先輩は彼女を仲間だと言っていた。  
戦友と仲間。私には分からないけど、何か言葉に差があるような気がした。  
 
「オハヨー、はなちゃん!今日もふわふわぁー。」  
「ま、まひろちゃん、やめて…」  
華花の髪の毛にまひろが頬擦りする。  
転入してきた華花に、武藤先輩達の知り合いという理由でまひろはよくまとわり付いた。  
始めは戸惑っていた華花も、時間をかけて打ち解けてくれた。  
まひろと沙織に振り回される華花を私が保護する。そんな関係。  
夏休み、真っ赤な顔の華花から「好きな人がいる」と聞かせてもらった時  
私達は本当の友達になれたような気がした。  
ちなみに最近では三人娘から四人娘に格上げされているらしい。  
 
「まっぴーズルイ!わたしもー。」  
「あっ、あぁ、や、やめて…」  
「いつまでやってんの。ほら、ごはん取りに行くよ。華花も早く。」  
じゃれ合う三人を連れて厨房に朝食を貰いに行く。  
おぼんを持った彼とすれ違う。焼き魚のいい匂いがした。  
自分達の分を持って彼が待つテーブルに戻る。  
定位置に座り両手を合わせて食べ始める。いただきます。  
 
周りに比べてこのテーブルはあきらかに騒がしい。  
話す内容は他愛の無いもの。学校のこと。勉強のこと。次の日曜日のこと。  
味噌汁をすすりながら、斜め向かいに座る彼の横顔を眺める。  
武藤先輩のボケを冷たく流す彼。  
この二人、仲が悪い訳じゃ無い。  
武藤先輩は彼をとても信頼している。そして彼も。  
上手く言葉に表せない、斗貴子さんを含めた親友同士の関係。  
あえて言うなら武藤先輩がボケて、斗貴子さんがツッコみ、最後に彼が仲裁するトリオ漫才。  
はっきり言って面白い。彼はちょっと不服そうだけれども。  
 
朝食をしっかり食べたあと、部屋に戻り作務衣から制服に着替える。  
玄関の前でまひろが来るのを待つ。いつもあの子が最後に靴を履く。  
登校は女の子四人一緒に、男子達より少し早く寄宿舎を出る。  
私達四人は運良く同じクラスになれた。それはもう楽しい高校生活を送ってる。  
来年もみんな一緒だといいな。  
 
「ああっ!!今日、日直だったの忘れてた!職員室行かなきゃ!」  
学校に着くなり沙織が騒ぎだして、言い終わらない内に走り出した。  
「じゃあ教室でねー。」  
「まだ時間あるから、走らなくても……行っちゃった。」  
ブンブン手を振るまひろと、立ち尽くす華花の前を歩き出す。  
「さ、私達も教室行くよ。」  
 
クラスは同じでも席はみんな微妙に離れてる。  
いつも真面目に聞いている授業もなぜか今日は耳に入って来ない。  
窓の外をぼんやりと眺めながら、頭は勝手に彼のことを考えてる。  
 
彼の笑顔には影がある。  
管理人さんに彼のことを紹介されたとき、まずそう思った。  
理由は自分でも分からない。  
でもなんとなくそんな気がして、私は彼を目で追うようになった。  
 
彼は誰とでも同じように接する。でもそれは誰にでも壁を作るということ。  
まひろと沙織の質問責めにも彼は笑って答えていた。  
でも肝心な所ははぐらかし、自分の敷地に他人を入れたがらない。  
自分と他人の線引きを必要以上にする人。そう見えた。  
そんな彼が武藤先輩と斗貴子さん、管理人さんの三人にはなんにも飾らずに接している。  
彼と武藤先輩達に何があったのか私は知らない。  
たぶん私の想像も付かない何かがあって、今の彼らの関係があるんだと思う。  
でも、少しうらやましい。  
 
私は彼を気にするようになった。  
この気持ちが恋なのかどうかは分からない。  
でも少しでも彼のことが知りたいと思う気持ちはだけは本物。  
まず知りたかったのは彼の痛み。  
何がそんなに辛いのか、何をそんなに我慢しているのか。  
誰にも知られたく無いことかもしれない。  
でももし、もし私が力になれることなら、何かしてあげたい。  
そんなことばかり考えている自分に気が付いた。  
 
すぐに私は彼の痛みの正体を知ることになった。  
夜、トイレに行く途中彼と斗貴子さんの会話が聞こえてきた。  
斗貴子さんの部屋の前で、彼が斗貴子さんに何か言っている。  
会話が終わったようで斗貴子さんは部屋の中に入る。  
斗貴子さんが入った部屋のドアを見る彼の横顔を見たとき、すべてが判ってしまった。  
 
私はそのまま自室に戻り、ベットに腰掛けマクラを抱いた。  
さっきの彼の顔、影の無い笑顔。  
……彼は斗貴子さんが好きなんだ。  
武藤先輩と斗貴子さんのことは私も知っている。  
彼はどんな気持ちで二人を見ているんだろう。  
彼はどんな想いで斗貴子さんと話していたんだろう。  
頭の中がこんがらがる。何を考えればいいのかすら分からない。  
目の前が滲み、マクラに水滴が落ちる。  
あれ、なんで私が泣いてるの。本当に泣きたいのは彼のはずなのに。  
ああ、そっか。やっと何が知りたいのか分かった。  
……私は彼が好きなんだ。  
 
マクラに顔を押し付けて私は泣いた。  
一人しかいない部屋で誰にも聞かれないように声を殺して泣いた。  
それはスピーカーから流れる歌を、無理矢理押さえ込むようなこと。  
どんなに力を込めて押さえても、歌が終わるまで音は勝手に溢れていく。  
私の恋は誰にも知られること無く終わりを告げた。  
 
 
「明日は小テストするぞー。お前らしっかりヤマ張って来いよ。」  
いつの間にか授業は終わっていた。周囲のブーイングが私を現実に戻してくれる。  
「うえぇー、なんでテストなんてするのよぉ。最悪ぅ。」  
「まぁまぁさーちゃん元気出して!それよりみんな楽しみ、お昼ごはんの時間だよ!!」  
「まっぴーなんでそんなに元気なのよぅ。テストだよテスト。」  
「何を隠そう私はヤマ勘の達人よっ!!」  
「あの、先月もそう言って全部はずしていたじゃないですか。」  
昼休みに入り、教室内は一斉に活性化する。  
ビニール袋をぶら下げたまひろが近づいてきた。  
「ちーちん、ごっはんだよ!早く行こっ!」  
「そんなにはしゃぐとまた転ぶわよ。ほらちゃんと前見て!」  
私は出来るだけいつも通りにふるまって、屋上に向かった。  
 
屋上のドアを開けると、彼と先輩達が私達が来るのを待っていてくれた。  
いつの間にか昼食はみんなで屋上に来て食べるようになっていた。  
季節の所為か他の生徒はいない。私達の貸切。  
私は彼から少し離れた所でパンの袋を開ける。いただきます。  
 
「はなちゃんこれちょーだい!」  
「あ、わたしこのムニエル!前食べて美味しかったんだぁ。」  
「どうぞ食べて下さい、あの、良かったら千里ちゃんも。」  
小食の華花が多めのお弁当を作ってくるのはこの為。  
華花の料理は絶品だからいつも奪い合いになる。華花は嬉しそうにそれを眺めている。  
本当にいい子だと思う。  
「ありがとう、頂くね。」  
 
「だって剛太授業中寝てたじゃん。」  
「うるせぇ、昨日勉強してたんだよベンキョー。」  
彼と武藤先輩の会話が耳に入る。  
「受験もうすぐだろ?やっぱり斗貴子さんに勉強教えて貰えば?」  
「くどい。俺は自分で大学受けるって決めたんだ。先輩の力は借りねぇ。」  
 
私は彼に惹かれている。  
それは自分でも分かっている。勝手に一人で終わらせたはずの恋、それも分かっている。  
それでも友達として傍に居られたら、後輩として憧れるだけなら、ずっとそう思っていた。  
見ているだけで良かった、でも  
彼は卒業してしまう。  
 
卒業後みんなの進路は別々。  
4バカは武藤先輩以外は進学、でもみんな違う大学を受ける。  
武藤先輩と斗貴子さんは就職。例のナントカって所に雇って貰うらしい。  
斗貴子さんの学力なら名門大学にだって行けるのに、少し勿体無い気がしたけれど  
「まだ世界には、困っている人や苦しんでいる人がいるから。」  
二人はそう言っていた。武藤先輩と斗貴子さんらしい選択。  
あと、これは直接聞いた訳じゃないけれど、二人は卒業したら結婚するみたい。  
隠しているつもりなんだろうけどバレバレ。  
大方、武藤先輩は私達を驚かそうとしていて、斗貴子さんは恥ずかしくて言い出せない。  
そんな所だと思う。  
 
彼は進学を選んだ。  
理由を私は知らない。武藤先輩達はたぶん知っている。  
でも武藤先輩達も始めは驚いていた。  
一緒に就職するものだとばかり考えていたんだと思う。  
大学に通いながら、武藤先輩達の仕事も手伝うと彼は言っていた。  
なぜ大学に行くのか?と彼に聞いてみた。  
彼は苦笑いで「なんでだろ?千里ちゃん分かる?」とはぐらかされた。  
「若宮さん」だった頃より、私と彼の距離は縮まったと思う。でもまだ遠い。  
なぜ彼は武藤先輩達と別の道を選んだのか。  
結婚した二人をどんな気持ちでこれから見ていくのか。  
それは彼だけが知っていること。知りたいけど、私が知る必要の無いこと。  
だって私は、卒業した学校のただの後輩になるのだから。  
 
午後の授業も聞き流し、気が付くと放課後になっていた。  
途端にまひろが騒ぎ出す。  
「さーちゃんクレープ食べに行こっ!駅前の美味しいトコ!」  
「むぅー、今月はもうお金が無いからなぁ。まぁいっか!行こ行こっ!」  
「あ、ごめんなさい。私ブラボーさんに呼ばれていて…」  
「そーなん?ちーちんは?」  
「私もパス。あんた達そんなに食べるとまた」  
『言わないでッ!!』  
ハモった。  
「……二人で行って来なさい。私達はまた今度でいいから。」  
「すみません…」  
買い食いに行く二人別れ、私と華花はまっすぐ帰路に着いた。  
 
「管理人さんと何か話でもあるの?」  
「私と剛太さんに、手伝って欲しいことがあるんだそうです。」  
彼の名前が出てきて私は動揺した。  
さっきから彼のことばかり考えている。  
彼に何の用があるんだろう。三人で何かするのかな。  
「…千里ちゃん?どうかしましたか?」  
「ううん、ごめん。何でも無い。」  
ちゃんと笑えているだろうか。  
彼と華花は仲間同士。たったそれだけで華花に嫉妬するなんて、どうかしている。  
 
自室で机に向かいシャーペンを走らせる。  
明日の小テストの予習。でも頭の中は彼のことで支配されている。  
今頃何をしているんだろう。  
華花と管理人室にいることは知っている。  
何をしていたのかは、聞いても教えてくれないんだろうな。  
 
私はよく音楽を聴きながら勉強をする。  
最初は集中できると思ったから。科学的な効果が無いことは最近知った。  
でも私はこの勉強方を気に入っている。  
好きな歌を聴いているだけで気持ちが落ち着く。焦らずに勉強ができるような気がする。  
今日はヘッドホンを付けていない。好きな歌も今は聴く気になれない。  
 
機械的にシャーペンを動かしていると、小さく控えめなノック音がした。  
「あの……毒島です…」  
「華花?開いてるわよ、入って。」  
俯いたままの華花が入ってくる。何か申し訳無さそうにドアの前に立ったまま動かない。  
「華花……どうかしたの?」  
少し小さめの声で華花に問い掛ける。  
顔を上げ、何かを決意したように私の目を見ながら華花は言った。  
「ちょっと、お話ししませんか…」  
 
ベットに座らせた華花と向かい合う。  
話しを聞こうとしたら、また俯いてしまった華花にこちらから語り掛けてみる。  
「何かあったの?悩みがあるなら聞くけど。」  
微かに顔を上げ、始めは視線を泳がせながら華花は答える。  
「あの、違うんです。……私じゃ無いんです。」  
そして、その小さな身体からは想像できないほど力強い瞳が私の目を射抜く。  
「千里ちゃんこそ、悩みがありませんか。」  
 
息が詰まる。動悸が激しくなっているのが分かる。  
「………どうして?」  
私の返事を聞いて、華花は私の手元に視線を移しポツリポツリと喋り出す。  
「最近、変だなって思っていたんです…」  
「最初は体調が悪いのかもしれない、と考えていたんですが。」  
「上の空と言うか、何か考え込んでいると言うか。」  
「その、心配…なんです。」  
 
気付かれていた。普段と同じに、今までと同じにしていたつもりなのに。  
「間違っていたらごめんなさい…」  
そんな顔しないで、華花は悪くない。  
悪いのは私。いつまでも自分の気持ちを整理しきれない私。  
「その…まひろちゃんも沙織ちゃんも気にしていて…」  
そうだったんだ。心配掛けていたんだね。  
「話したく無かったらいいんです。…でも、もし…」  
華花も悩んでいたんだ。  
でも原因は私。私の所為で華花もまひろも沙織も苦しめていた。  
「もし私が力になれることなら、何かしてあげたいんです……」  
 
何で相談しなかったんだろう。  
華花はこんなに私を気に掛けてくれている。  
華花だけじゃ無い。まひろも、沙織も、私が心を開くまで待っていてくれている。  
こんなにいい友達が近くにいるのに、笑わずに聞いてくれる親友がいるのに。  
何だって、話せたはずなのに…  
「……聞いて、くれる?」  
 
ひとつひとつ確かめるように話した。  
好きな人がいること。その人にも好きな人がいること。何も告げずに諦めてしまったこと。  
その人がもうすぐ離れて行ってしまうこと。……本当は諦め切れていないこと。  
「その人って……剛太さん、ですか?」  
「なんだ、やっぱりバレてたんだ。」  
「えっ、違います…。その、今、解っちゃて…」  
「なんで華花が赤くなってんのよ。本っ当に可愛いわねこの子は。」  
両手で顔を隠し「うぅ」と項垂れる華花を見て自然と笑顔がこぼれる。  
 
さっきまで、華花は彼と一緒に居たことを思い出した。  
華花は私より彼のことを知っている。華花だったら知っているかもしれない。  
「華花、中村先輩が大学に行く理由、知ってる?」  
突然の私の問いかけに華花は戸惑いの表情を見せた。  
下を向いて少し考えた後、弱々しい口調で返事が返ってくる。  
「ごめんなさい…私は知りません…」  
「誤ること無いって。」  
次の質問をするかどうか私は迷った。  
聞かない方がいい。聞かない方が傷付かずに済む。でも、今は少しでも  
彼のことが知りたい。  
「じゃあ、斗貴子さんとのことは?」  
 
華花の目が大きく見開かれる。驚かせることは分かっていた。  
「中村先輩の好きな人、斗貴子さんよね。」  
自分で言って傷付いた。心が痛い。  
「何か、知ってることがあったら……」  
言葉が続かない。涙が出そうになる。  
今は我慢しないと、私から聞いたんだから。  
 
「ごめんなさい…それも……私は知りません…」  
言葉を選ぶようにゆっくりと華花は答える。  
「直接、剛太さんから聞いた訳じゃ無いので…」  
「でも…初めて剛太さんに会ったとき…」  
「剛太さんは、津村さんのことが好きなんだって…すぐに分かりました。」  
華花の言葉が途切れる。俯いたまま顔を上げない。  
聞きたく無い。でも、聞きたい。  
「……それは、何で?」  
 
「私と剛太さん達は…詳しくは言えませんが、対立していました。」  
「対立?」  
「はい、事情があって敵同士だったんです。  
 本当は仲間同士なんですけれど…ごめんなさい、上手く言えません…」  
「いいの。それで?」  
「剛太さんは津村さんを身を挺して守ったんです。言葉通り、命懸けで。」  
「その時の、剛太さんの表情が全てを語っていました…」  
「私は…自分の任務を忘れて、津村さんを……うらやましいとさえ、思いました…」  
華花の声が震えている。泣くのを我慢しているような声。  
「誰かに、あんなに想って貰えるなんて……うらやましいって………」  
華花が口を閉じた。両手でスカートを強く握っている。  
全部話してくれたんだ。私の為に嘘を付かずに、最後まで泣かずに。  
「ありがとう。華花。」  
硬く握られた華花のこぶしの上に、一滴の雫がこぼれた。  
 
「突然お邪魔してすみませんでした。あの、また明日…」  
そう言って華花は部屋から出て行った。  
悩みを私一人で抱え込まずに、必ず相談することを約束して。  
でも今は、一人になりたかった。  
華花が聞かせてくれた彼の想いの深さ。  
やっぱり彼が好きなのは私じゃ無い。  
やっぱり私は斗貴子さんには勝てない。  
彼が、私を好きになることは無い。  
 
蛇口を捻ったように涙が溢れる。  
部屋を出て行く時の華花の辛そうな表情は、私が泣くことを知っていたから。  
どんなに泣いても何も変わらない。それは一年前から分かっていた事実。  
それでも今は泣きたかった。泣くことで少しでも楽になりたかった。  
部屋中に泣き声が広がる。  
声だけでも抑えたい、でも抑え切れない。  
自分の意思とは関係無く、私は嘆きを歌う。  
私はこんな歌を聴きたく無い。  
こんな悲しい歌を歌いたく無い。  
 
机の上のヘッドホンを耳に当て、音量を最大にする。  
大好きな歌を聴きながら、大嫌いな歌を私は歌う。  
私しかいない部屋には、二つの歌がいつまでも流れ続けた。  
 
 
一晩中泣いた所為だろうか、頭が痛く身体が重い。  
自分の顔を見て絶望した。学校に行けるような顔じゃない。  
鏡の前で固まっていると、ノックが聞こえ返事をする前にドアが開いた。  
「ちーちん、朝だよってうわぁ!!どうしたのその目!!」  
「まひろ…いきなり入って来ないでよ。ビックリするじゃない。」  
「ご、ごめん。洗面所にいなかったから、まだ寝てるのかなって…」  
そういえば鍵をかけないで寝てしまった。迂闊。  
 
「どうかしたのか?」  
半開きのドアから顔を覗かせたのは、今二番目に会いたく無い人。  
私達には言えない人助けをする為に、しばらく銀成に居なかった人。  
「斗貴子さん……おかえりなさい。」  
私の顔を見て斗貴子さんは驚く。自分でも酷いと思える程だからしょうがない。  
「……何か、あったのか?」  
静かな優しい声。私を気遣ってくれているのが分かる。  
「なんでも無いんです。昨日映画見て大泣きしちゃって、酷い顔でしょ?」  
苦しい言い訳、私だったら絶対に信じない。  
 
「ちーちん、でも」  
「分かった。今日は無理せず休みなさい、学校には私から上手く言っておく。」  
やっぱり斗貴子さんは優しい。  
「すみません迷惑掛けて。この顔で学校行く勇気はちょっと無くて。」  
「いや、いい。……困ったことがあったら何時でも言いなさい、それじゃ。」  
駄目だ。この人には敵わない。  
 
「まひろも、早くごはん食べに行きなさい。」  
「うん…分かった……」  
暗い表情のまま、まひろは部屋を出ようとする。  
「ねえ、まひろ。」  
ドアノブに手を掛けたまひろが振り向く。  
まひろも、私のことで悩ませていたんだよね。  
「全部話せるようになったら、私の話、聞いてくれるかな?」  
まひろの顔が見慣れた笑顔に戻った。  
「当然っ!私達、大親友だもんっ!!」  
 
一人になった部屋で考えることは、懲りずに彼のこと。  
私は斗貴子さんのように強くなれない。  
斗貴子さんの強さは、戦う力だけじゃない。  
心の深さ、誰かの為の優しさ、それが斗貴子さんの本当の強さ。  
一人の部屋で惨めに泣き続ける私は、彼の横に立っても何も出来ない。  
彼には強い女性が必要で、それは私じゃ無い。  
 
 
目が覚めたらお昼を回っていた。ベットに突っ伏したまま眠ってしまったらしい。  
鏡を見る。少しは良くなっていたけど、まだ人前には出たくない。  
ベットの上であらためて考えてみる。  
今、私は初恋をしている。  
 
今まで人を好きになったことが無い訳じゃない。  
いいな、と思った男の子が何人か居た。  
でもこんなに一人を好きになって苦しい思いをしたことは無い。  
一人の男の子で頭がいっぱいになったことなんて初めて。  
大切な私の初恋。  
どんな形でも、もう終わらせないといけない初恋。  
また涙が出そうになる。  
こんなに弱い私は、もう彼を好きでいることは出来ない。  
 
夕焼けのオレンジが窓から刺す時間になった時、気付いて欲しそうな小さ過ぎるノックが聞こえた。  
聞かなくても分かる。華花だ。  
ドアを開けるといつも以上に縮こまった華花が立っていた。  
私の顔を見て、辛そうな表情で俯いてしまった華花を部屋に招く。  
「どうぞ、入って。」  
 
昨日と同じ。華花はベットに腰掛け、私は椅子に座り向かい合う。  
「あの、昨日はごめんなさい…。私が…あんなこと、言ったから……」  
思い詰めたような華花の微かな声。  
「私……千里ちゃんのこと、傷付けましたよね………」  
今にも泣き出しそうに華花の顔が歪む。  
「そんなこと無いよ。華花は、私が知りたかったことを隠さずに話してくれたんだから。」  
偽りの無い本心を華花に伝える。昨日のお返し。  
「苦しかったけど……嬉しかったよ。」  
やっと華花の笑顔が見れた。  
 
「諦めるんですか…」  
また辛そうな表情に戻った華花からの質問。  
華花は全部分かっているんだ。私がどうしようとしているのか。  
「うん。……諦める。」  
そう、私は諦める。この初恋を過去にする。  
華花の顔に更に影がかかる。静かすぎる部屋の中、華花は小さく呟いた。  
「私は、諦めて欲しくありません。」  
 
聞き取り辛い小さな声。でもはっきりとした主張。  
「諦めて…いいんですか…」  
時間を掛け、絞り出すように華花は続ける。  
「好きなんですよね、剛太さんのこと…」  
きっと華花は私の答えを知っている。それでも私に問いかける。  
「どうして……諦めてしまうんですか……」  
「……私は、斗貴子さんとは違うから。」  
 
「斗貴子さんみたいに強く無いから。」  
「斗貴子さんと違って弱いから。」  
「斗貴子さんには、なれないから。」  
私は彼の好きな人になれない。だから彼から好かれることは無い。  
それが十分に分かったから諦める。諦めていつも通りの私に戻る。  
そうすれば、また四人で楽しい毎日を送れる。  
 
「私は、嫌です…」  
華花の小さなこぶしが強く握られている。  
「私は…千里ちゃんが好きです……」  
その上に大粒の涙が次々と滴り落ちる。  
「千里ちゃんが…苦しむのは……嫌、です……」  
段々華花の口調が弱まっていく。  
「初めて、出来た……友達…だから………」  
もう華花は泣くのを我慢しない。  
「…大切……な、友達……だから………」  
感情のままに言葉を出し続ける。  
「……でも……諦めて、欲しく………ない……よぉ………」  
 
遂に華花は大声で泣き始めた。  
ああ、そうか。何もしないで彼を諦めたら、私が後で後悔することを華花は知っている。  
諦めないでも、私が彼のことで悩み続けるのを華花は知っている。  
どっちを選んでも華花を苦しめるんだ。  
だったら、私はもう迷わない。  
椅子から立ち上がり優しく華花の頭を包み込む。  
「ごめんね華花。私、諦めない。」  
 
私の胸の中で華花は泣き崩れる。  
私に包まれながら心の中の苦痛と歓喜を華花は歌う。  
私の為に作られた、歌詞すら無い歌。  
華花の柔らかな髪を撫でながら、私はひたすら華花の歌に酔いしれた。  
「私、諦めないから。」  
 
 
二人で散々泣いた後、お互いの顔を見合わせて私達は笑った。  
華花の綺麗な顔が台無し。私も相当酷いことになっているんだろうな。  
「明日、学校が休みで良かったですね。」  
「そうね。華花のそんな顔を見ていいのは私達だけなんだから。」  
この子が居てくれて本当に良かった。私はまだ頑張れる。  
 
私と華花は二人だけの秘密の約束をした。  
お互いの恋を隠さず報告しあうこと。  
想いを告げるまで諦めないこと。  
どんな結果になっても、後悔しないように最後まで頑張ること。  
華花も随分と難儀な恋をしているらしい。  
まひろにも沙織にも内緒の約束をして、華花は笑顔で部屋から出て行った。  
 
すっかり暗くなった夜空を窓から眺める。  
真っ暗な空を見上げて、これからのことを考える。  
諦めない、それは決めた。  
でも私と彼の距離は何も変わっていない。  
近づけるにしても、あまり時間は残っていない。彼の卒業まであと三ヶ月も無いから。  
それまでに、せめて想いを伝えよう。  
 
 
「雪…」  
始めは小雨だと思った。でもすぐにそれが弱い雪だと気付いた。  
去年は振らなかったし、この辺りでは振ること自体が珍しい。  
窓を開けると冷たい風が入って来る。  
「もうみんな、寝てるよね。」  
頭を冷やすには丁度いいかもしれない。  
作務衣の上に半纏を羽織り、私は寄宿舎の中庭に向かった。  
 
星の無い空から落ちて来る白い結晶。  
私はただその光景を見続けた。  
粉雪は地面に落ち、土に吸い込まれて消えていく。  
私みたいだと思った。  
どんなに想っても、彼の心に私は残らない。  
どんなに泣いても、彼の心に私は積らない。  
消えて無くなるだけ。  
思考がまた悪い方向に向いて、自分の肩に両手を回す。  
身体の寒さと心の寒さ、その両方を暖めたくて私は私を強く抱きしめた。  
 
 
「どうしたの?」  
「きゃあ!!」  
振り向いた私はそのまま固まる。  
会いたかったけど、会いたく無かった人。  
「廊下歩いてたら見えたから、驚かせた?」  
驚いた。こんな近くに彼が居ることに。  
「いえ、そんなことは…」  
彼の顔が見れない。何を言っていいのか分からない。  
俯いたままの私。…彼の前から逃げ出したい。  
 
「元気無いよね、最近。」  
彼が何を言っているのか分からなかった。  
「結構前からさ、そんな気がしてて。あぁ、俺の勘違いならごめん。」  
「でもさ、千里ちゃんてあんまり人に頼んないじゃん。」  
「悩みとかだったら、誰かに聞いて貰うだけでも…」  
私と目が合って、彼の言葉が止まる。  
今私はどんな顔をしているんだろう。  
目が腫れた醜い顔なのは分かってる。でも彼の驚きが違う所にあるのは分かる。  
 
彼は私を見てくれていた。  
元気が無いと気付いてくれていた。  
悩んでいるんじゃないかと気に掛けてくれていた。  
彼の心の中に、私は存在していた。  
今の私にはそれだけで十分。  
 
「……俺には言いたく無いことみたいだね。」  
笑顔を浮かべたまま、彼はそう言った。  
「えっ、違います!……違います…」  
それは違う。一番聞いて欲しい人は彼。  
私がどんな表情をしていたのかは分からない。  
でも彼が読み取った答えは間違い。彼の勘違い。  
 
「話したく無いなら無理に話すことないって。俺も無理矢理聞いたりしないし。」  
何て答えていいのか分からない。彼の顔を真っ直ぐに見れない。  
「男が嫌なら、女友達に相談するとか。まひろちゃんとか斗貴子先輩とか。」  
斗貴子さんの名前が出て、騒ぎっ放しの心臓が凍り付く。  
「あ、ごめん勝手なこと言って。誰にだって隠したいこと位あるのに。」  
私の気持ちを聞いて貰いたい。でも、振られるに決まっている。  
だって彼が好きなのは斗貴子さんだから。  
彼の前なのに泣きたくなる。もう、このまま雪と一緒に消えてしまいたい。  
 
頭に浮かんで来たのは華花の笑顔。華花との約束。  
頑張るって、諦めないって、そう決めたんだ。  
これからじゃ駄目。今、約束を守らないと。  
「…中村先輩、聞いて貰ってもいいですか……私の、悩み。」  
 
 
彼の部屋に通される。  
何度か来たことはあったけれど、一人で来たのは初めて。  
凄く緊張しているのが分かる。  
「あー、その椅子に座ってて。コーヒーでいい?」  
マグカップを用意しながら彼はこちらを伺う。  
「はい、御馳走になります。」  
小さく頭を下げながら答える。  
身体がだいぶ冷えている、温かい物が欲しい。彼の淹れた物なら尚更。  
 
「はい、暖まるから。」  
彼からマグカップを受け取る。  
彼はブラック、私は砂糖とクリームの入ったホットコーヒー。  
「美味しいです…」  
「そう?まだ苦かったら言って。」  
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。」  
彼は「いいって」と手を振り、私と向かい合うような形でベットに腰掛ける。  
思っていたより距離が近い。更に緊張する、顔が熱い。  
 
マグカップを見つめながら、私は固まっている。  
困った、何を話すのか考えて無かった。  
聞きたいことも、言いたいことも山ほどある。  
でも言葉が出て来ない、……怖い。  
不意に彼が口を開いた。  
「随分、泣いたみたいだね。」  
私の顔を見ながら、作り笑顔で彼は続ける。  
「俺に言える範囲でいいから、言ってみて。」  
子供を安心させるような口調でそう言って、彼は私の言葉を待つ。  
彼の優しい言葉で私は落ち着き、何かが吹っ切れた。  
こんな顔まで見られたんだ、もう飾ってもしょうがない。  
思うがままに言葉にしよう。  
「中村先輩は、何で進学しようと思ったんですか。」  
 
いきなり自分のことを聞かれて彼は戸惑う。  
私自身、何でこの質問をしたのか分からない。口が勝手に動いた。  
「何でって、……今度はちゃんと答えなきゃ駄目かな。」  
前に一度私をはぐらかしたことを覚えていたみたい。  
「聞かせて貰えませんか?」  
「うん、いいよ。話せる範囲でなら。」  
言い手と聞き手が逆転してしまった。  
 
「斗貴子先輩と武藤が就職することは知ってるよね。」  
「知っています。」  
「二人の就職先がどんな所か、大体は分かるかな?」  
「何と無くですけど。何をするのかまでは知りません。」  
私が知っているのは、二人が正義の味方だということ。  
そして彼も、二人と一緒に戦っていた戦友だということ。それだけ。  
「それで、俺も何時かそこに就職するつもりでいるんだ。」  
「……何時か、ですか。」  
「ああ、今すぐじゃ無い。今の俺じゃ、あの二人の横に立てない。」  
 
「俺はさ、あの二人に比べたらすげぇ弱いんだ。」  
「えっと、腕力とか?」  
「いや、喧嘩とかじゃ無くて心が弱いんだ。情け無い話なんだけど。」  
まったく悔しく無さそうな顔で、彼は続けた。  
「武藤は他人の為に平気で命を賭けられるし、  
 先輩は先輩で根が優しいから誰かの為に傷付くことを厭わない。」  
一旦間を置く。マグカップを床に下げてから、彼は私に語り出す。  
 
「先輩も武藤も、誰かの為に戦っていた。」  
「俺は自分が守りたいものさえ守れれば、それで良かった。」  
「それこそ、他人がどうなろうと知ったこっちゃ無かった。」  
「あの二人と俺は、根本から違ってるんだ。」  
私は彼がどんな辛い戦いをして来たのか知らない。  
でも彼が命を懸けてでも守りたかったものを、私は知っている。  
「今の俺は、まず二人に追い着くトコから始めないといけないんだ。」  
「でないと、俺は此処から先に進んで行けない。」  
その言葉を聞いた時に分かった。  
彼は、斗貴子さんを諦めようとしている。  
 
「守ればいいじゃないですか。」  
彼が私を見つめている。私は顔を上げない。  
まるで何かに取り憑かれたように私の口は動く。  
「これからも、守り続ければいいじゃないですか。」  
斗貴子さんのことを命懸けで守った彼。  
斗貴子さんのことが好きなはずの彼。  
「このまま、一緒に居ればいいじゃないですか。」  
武藤先輩から奪ってでも、諦めず傍に居続ければいい。それなのに、何で。  
「何で、諦めるんですか。」  
 
「俺じゃ駄目だから。」  
迷いの無い、力強い彼の言葉。  
「俺じゃ本当の笑顔にしてあげれないから。」  
どうして笑って言えるの。辛いはずなのに。  
「それでも俺は、先輩に幸せになって貰いたいから。」  
 
「それが大学に行く理由。今の俺が先輩と武藤の傍にいても、二人の邪魔になる。  
 まずは俺が先輩を吹っ切る。二人から離れて、新しい生き方を考える。  
 で、心底二人を祝福できるようになったら二人の所に戻る。  
 それでやっと、俺は一人でも前を向いて歩ける。」  
武藤先輩と斗貴子さんはこれから二人で歩いて行く。  
 
「まあ、離れるって言っても二人の仕事手伝うこと多いだろうから、嫌でも顔合わせるし。  
 俺の前であんまりイチャつくようなら、そこは邪魔してやりたいし。」  
彼は一人で歩いて行こうとしている。  
 
「それにしても千里ちゃん、俺が斗貴子先輩のこと好きだったの知ってたんだ。  
 隠してたつもりなんだけど、もしかして皆にバレ…」  
すっかり冷めたコーヒーに、私の涙が混ざった。  
 
「千里ちゃん?」  
「知ってます。」  
彼は強い。好きな人の幸せを何より望める程に。  
「……知ってます。」  
でも、彼の好きな人は彼の隣りを選ばない。  
「ずっと見てましたから。」  
せめて、私が彼の隣りに居てあげたい。  
「ずっと、好きでしたから…」  
 
「私、中村先輩のことが……好きです。」  
 
 
「ごめん。」  
分かっていた。  
私は振られる。分かっていたはずなのに、涙が溢れてくる。  
せめてこれ以上彼を困らせ無いように、まぶたを強く閉じる。  
それでも涙は流れ続け、私の頬をつたい落ちる。  
その流れを止めるように、私の左頬に彼の右手が触れた。  
 
「俺のこと、気に掛けてくれてるって知っていた。」  
私の前にしゃがみ込み、私の頬を撫でながら彼は続ける。  
「全然気付いて無かった訳じゃ無いんだ。」  
涙で霞んで良く見えないけど、彼の顔が凄く近くにある。  
「俺の所為で、ずっと悩んでたの?」  
折角彼が拭いてくれたのに、また涙が出てくる。  
彼の所為じゃ無い。でも、原因は彼。  
口を結んだまま、私は小さく頷いた。  
 
「ごめん。」  
「……謝らないで、ください…」  
泣き声混じりの声しか出せない。でも、ちゃんと言わなくちゃ。  
「私が…勝手に……好きになったんです。…中村先輩は、悪くありません。」  
「いきなり、こんなこと言って………ごめんなさい。」  
「そうじゃ無いんだ。」  
急に目の前が暗くなった。  
 
何時間か前に私が華花にしたように、彼は自分の胸の中に私の頭を包み込む。  
「せっ、先輩!?」  
「千里ちゃんの気持ちには答えられない。」  
言葉とは裏腹に、彼は私の頭を強く引き寄せる。  
「俺が一番好きなのは、斗貴子先輩だから。」  
私は何も言えない。ただ彼の胸の中で、黙って耳を傾ける。  
「だから、今はごめんなさい。」  
 
「好きな人が居るんだ。」  
私の頭を放し、微笑みながら彼は言った。  
「俺の中で二番目に好きな女の子。」  
「今はまだ斗貴子先輩が一番だけど。」  
「いつか、絶対にその子が俺の一番好きな人になる。」  
彼と私の目が合う。  
「勝手なことだって分かってる。でも、その時が来たら…」  
 
「俺の方から言わせてくれないかな。」  
彼の胸に飛び込んだ。  
 
彼の身体にすがり付きひたすら彼の胸元に染みを作る。  
彼は何も言わずにただ私を抱き締めてくれている。  
私の喉はもう悲しみを鎮める狂詩曲を奏でない。  
今私が歌っているのは初めて歌う恋歌。  
彼の為だけに歌う、名もなき歌。  
 
そっと私のめがねを外し、彼の親指が私の目尻を拭う。  
目の前の彼は、優しい笑顔で私を見つめている。  
彼に想いを伝えたくて、この喜びを届けたくて、  
彼の首に両手を回し、触れるだけの幼いキスをした。  
 
「あー、思ってたより早かった。」  
「……何が、ですか?」  
初めて見る彼の凛々しい笑顔。  
この陰りの無い笑顔を見ているのは、私と粉雪だけ。  
 
「俺、千里ちゃんのこと━━━」  
 
 
彼にだけは聞かせたく無かったはずの歌。  
もう彼の前だけでしか歌えなくなってしまった歌。  
私はこれからもこの歌を歌い続けるだろう。  
でも一人で歌うことは無い。私が歌うのは場所は彼の胸の中でだけだから。  
 
 
何時までも彼の隣りで彼に捧げる、『名もなき歌』  
                                      了  
 

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