貴方は時間を掛けて彼を疵付け、そして私を傷付けた。
The continuous rainy against You.
空気の籠もった室内で平積みの資料とデスクトップパソコンを交互に睨み付ける。
もう何時間座り続けているのか、腰と肩が痛い。
随分前から湯気の立たなくなったコーヒーを一口含み、文字の羅列に目を落とす。
あと半刻程でこのデータ集計も終了。気を入れ直し、再び青白いディスプレイを凝視する。
キーボードを叩く音が支配する無音の空間に、着信を知らせる振動音。携帯電話を開く。
防人 衛
スライド式の椅子を身体ごと横に回し、目の前のグラフから通話相手に意識を向ける。
特段、動揺したと言う訳では無い。只、珍しいと思っただけ。
「はい、千歳です。」
『俺だ。あー、今大丈夫か?』
前に貴方の方から電話を掛けて来たのは何時だったかしら。
「平気よ。でも仕事中だから、手短に。」
『明日の事なんだが、管理人の方の用事が入ってな。俺が戦団に行くのは午後からになった。』
「そう、わかりました。」
特に明日、連れ立って戦団本部に向かう様な約束はしていない。
私は通常業務、彼は事後報告。明日会わなくてもお互いの業務に差し障りは無い。
会わなくても、何も困らない筈なのに。
「私は自分の個室に居るから、良かったら顔を出して。」
『ああ、明日メールでも入れる。じゃあまた明日。』
「ええ、明日。」
短い通話時間が表示されている液晶画面を、私は暫く眺め続ける。
何を喜んでいるの?
彼と会う、それだけの事なのに。子供じゃ在るまいし。
完成した何枚かの書類をファイルに収め、パソコンの電源を落とす。
廊下で擦れ違う同僚達に簡単な別れの挨拶を告げながら、自家用車を停めてある駐車場へ向かう。
車に乗り込みキーを回す。聞き慣れたエンジン音が耳に入ると同時にアクセルを踏み込む。
薄暗い地下駐車場から屋外へ。
車が外へ出て初めて気が付いた。
強い雨が降っている。
大量の水礫が降り注ぐフロントガラスを、一定の間隔でワイパーが往復する。
一瞬だけ広まる視界、それも直ぐに次の雨粒で狭められる。
…あの日もこんな雨が降っていた。
八年前の、あの日も……。
照星部隊、唯一の失敗任務。未熟だった私達の、決して忘れる事の出来無い過去。
大勢の罪無き子供達の命が無残にも奪われ、自分の幼さと弱さを露呈する事しか出来なかった夜。
あの嵐の夜から私の世界は変わった。
照星部隊は程無くして解散。私は別働隊に組み込まれ、新たな任務を与えられた。
彼は、防人衛は防人衛で在る事を棄てた。弱者である防人衛を過去に放置する事を選択した。
其れは彼の悲壮なる覚悟。喪われた魂達へのせめてもの償い。
防人衛は名を換え、守り切れなかった者達へ赦しを請うかの様に激化する戦渦に身を投じて行った。
会おうと思えば、私は何時でも彼に会えた。
会いたかった、会いに行けなかった。
彼は自らの過去をあの日に置き去る事で、一つでも多くの未来を守ろうとしている。
私は彼の過去の一部、彼の決意を鈍らせる原因に為り兼ねない。
それに、防人衛はもう居ない。
過去の傷を癒し、彼を忘れる事で、私は私の未来を目指そう。あの頃は、そう考えていた。
でも、防人衛は消滅していなかった。彼は彼の侭、一人で業を背負い続けていた。
誰にも知られる事無く癒えない古疵を隠して死地へと向かい、その身体に新しい疵を付けていた。
知っていたのは私だけ。
謝罪の涙を、繰り返し口から洩れる懺悔の言葉を認識していたのは私だけ。
私はもう、八年以上も彼を遠くから見ている。
声を掛ける事も、胸の内を聞く事もせずに、ただ離れた場所から傍観している。
貴方が防人衛を棄て切り、別の誰かとして今を生きていたならば、
私は貴方を、過去にする事が出来ていた。
貴方を愛した私をあの日に置き去りにして、別の私として生まれ変わる事が出来ていた。
目覚まし時計が鳴るより早く、窓を激しく殴打する雨音に起こされた。
カーテンを開けても、漆黒に染まる闇の空から私の部屋に光が差し込む事は無い。
身体が重く感じる。
疲れの所為じゃ無い事は、自分でもわかっている。
軽めの朝食を取り身支度を済ませ、私以外の帰りを待たない静寂な部屋に出発を告げる。
台風でも来ているのだろうか。
昨晩より確実に雨量が増し、排水が追い付いていない道路を車で駆ける。
早く止んで欲しい。
そう思いながら戦団本部の駐車場に入り、昨日と同じスペースに車を止める。
彼は何時頃、此処に来るのだろう。
彼の事ばかり考えようとする思考に嫌気を差しつつ、私はエレベーターに足を踏み入れた。
幾つかのデータを一つに纏めて保存する。そこから必要な分だけをプリントアウト。
随分と早く報告書が完成してしまった。まだ正午にもなって無い。
早急に処理すべき課業は、今の私にはもう無い。
一冊のファイルを開き、後回しにしても構わない潜入調査資料の整理を始める。
帰宅しても良い筈なのに、私は彼の来訪を待っている。
何を期待してると言うのか。自分が無様に思えて来る。
日暮れ間近の時間になった頃、左手にビニール袋を提げた待ち人が部屋を訪れた。
「よう、お疲れ。」
久方ぶりに見た彼の顔。
直ぐに視線をファイルに戻し、短く答える。
「いらっしゃい、適当に座って。」
「土産買って来たんだが、食うか?」
ビニール袋から数種類のおにぎりとペットボトルの緑茶、一房のバナナを取り出して笑顔を向ける。
「もう少し、色気のある物を選んで来たらどうなの?」
貴方らしいと言えば貴方らしい補給品。栄養分とエネルギー効率重視。
「そう言うな、ほれ。」
私の目の前に緑茶を突き出す。
「……いただくわ。」
「それで、今日はどうしたの。」
質素な間食を終え、一息付いた頃に私から発せられた質問。
何の目的も無く貴方はこの部屋に来たりしない。それは誰より私が知っている。
多分、貴方よりも。
「斗貴子の件で礼を、と思ってな。」
その一言で貴方が何故此処に来たのかを理解した。
でも、敢えて聞いてみる。
「お礼を言われる様な事はして無いと思うけれど。」
「それでもだ。ありがとう千歳、あいつ等の為に。」
お願い。私の前でその顔をしないで。
「俺はずっと学園の方に居たからな、何も知らなかったんだ。」
貴方は気付いているの?貴方が今、どんな顔をしているのか。
「あの二人が新婚旅行にすら行かず、任務に明け暮れていたと聞かされた時は呆れたぞ。」
貴方は気付いているの?貴方は今、あの頃と変わらない笑みを浮べている事を。
「カズキ君には、私から確り御灸を据えておいたわ。」
「幾らでも叱ってやってくれ。カズキには斗貴子を幸せにする義務が有るからな。」
カズキ君の話をする時の貴方は、八年前の貴方と同じ顔をする。
あの日捨て去った筈の涙を、春先に行われた結婚式の日に斗貴子さんの前で貴方は見せた。
私ではあの頃の貴方を引き出せ無いの?
あの子達だけが、貴方を防人衛に戻せるの?
私は知っている、あの日に創痍した貴方の疵痕から時折鮮血が流下している事を。
私は知っている、その疵を貴方が癒そうとしないのは過去の罪を忘却しない為の枷だという事を。
私は知っている、その罪を貴方自身が赦す刻は永遠に訪れ無い事を。
私は知っている、世界中の誰もが貴方を赦しても貴方は罪人として生き続ける道を選ぶという事を。
「防人君はどうなの?」
冷気を帯びた声が、彼の耳に進入する。
「誰かを、幸せにしたいって……思わないのかしら。」
僅かに表情が変わった彼。
その笑顔の変化に気付くのは、恐らく私だけ。
防人衛からキャプテンブラボーへ、現在の自分に戻った彼が何も無かったかの様に話し出す。
「俺は一人でも多くの命を守る事で、一人でも多くの人達が幸せになれると、そう信じている。」
そう、何も無かったのだ。
彼は自分の変化に気付いていない。
自分があの頃と変わらない笑顔をあの子達に向けている事実を、彼自身が一番気付いて無い。
「私が貴方の目の前で、大勢の民間人を手に懸けようとしている。貴方ならどう対処するかしら。」
私が知りたいのは、この問い掛けに対する回答では無い。
「……止める。全力で。」
「止まらないわ。私を殺めるしか、止める方法が無いのよ。」
一年前の夏、一つの命を犠牲にする事で一つでも多くの命を救う事を貴方は選択した。
「その場で決断しないといけない…貴方の、答えは?」
仮にあの時の再殺対象がカズキ君では無く私だったとしても、貴方の決断は変わらない。
私がカズキ君と同じ状況に陥った時、貴方は何方の貴方で私の前に立つ言うの。
「その時は俺がお前を、楯山千歳を、この手で葬る。」
………どうして…………防人衛の顔になるの?
何故今になって私が防人衛を引き出せたの?
貴方にとって私は守るべき大多数の一部じゃ無かったの?
何故今になって貴方が私に防人衛を曝け出す必要が有るの?
貴方にとって私はカズキ君や斗貴子さんと同じ特別な存在だとでも言うの?
私は今でも、防人衛を女として愛しているのよ?
彼の座る椅子の前まで歩を進め、彼の首を抱き込む様に両腕を絡める。
彼が言葉を発する前に、屈み込む様にして彼の唇に自分の唇を押し当てる。
一旦顔を離し、もう一度彼に覆い被さる。
今度は吐息を混合させる様な、唇同士の愛撫。
二回の口付け。
八年前は羞恥から躊躇していた、私から彼を求める時の合図。
私達二人だけしか知らない密事の中から生まれた、抱いて欲しいと言う沈黙の台詞。
より深く彼の身体に体重を預けようと、彼の膝の上に座ろうとしたその時、
彼の両掌が私の両腕を解き、そのまま私の両肩を微弱に押し返した。
「千歳……」
八年越しで初めて経験した、貴方からの拒否。
「…どうして?」
貴方がどう返答するのか、私にはわかる。
「あんなに愛してくれたじゃない。」
だから貴方の言葉を誘導する事も、私には出来る。
「……俺はもう、昔の俺じゃ無い。」
「嘘」
貴方は嘘を付いた訳では無い。ただ、貴方は無知なだけ。
「何故貴方は、私が貴方を防人君と呼ぶ事を認めているの?」
何も言わない貴方に、私は自論を質問に変化させて貴方に投げ掛ける。
「何故一年前、貴方は防人衛として武藤カズキの前に立ち塞がったの?」
貴方の表情は変わらない。でも私には、貴方の心裏が手に取る様にわかる。
「貴方が防人衛では無いのなら、何故そこまで武藤斗貴子の幸せを切望するの?」
反論しようと口を開けた貴方より速く、私の喉から貴方の知らない真実が述べられる。
「貴方はキャプテンブラボーというコートを着込んだ、防人衛なのよ。」
「千歳、俺は」
「わかっているわ。」
貴方の事なら、何でもわかる。
「貴方の痛みも、苦しみも、哀しみも。」
貴方の事なら、何でも知っている。
「でもね、あの日心に傷を負ったのは、貴方だけじゃ無いのよ。」
貴方は私の、何を知っていると言うの?
貴方は知っているの?私がどんな気持ちでこの八年間貴方だけを想い続けて来たのかを。
貴方は知っているの?一年前再会した夏の日私がどれだけ冷静を装い貴方と接していたのかを。
貴方は知っているの?私が心底に隠蔽した瘡蓋をこの一年間で何度貴方の笑顔が剥ぎ取ったのかを。
貴方は知っているの?穢れてく精神の鈍痛に耐え切れず私がどれだけ多く枕に滲跡を造ったのかを。
あの日貴方と同一の個所に負った私の傷口を、貴方は無意識に抉り拡げて化膿させた。
止血も消毒も受けずに放置された傷口は、雑菌の侵蝕を容易に許し腐朽した。
そしてその紅く爛れ膿んだ傷口を、私は今貴方の目の前に突き付けている。
「私の傷も、貴方と同様に癒されていないのよ。」
「……すまない。」
その辛辣な表情も予想していた。
私から視せ無くても、貴方は何時かこの傷に気付きその原因を知った筈。
貴方は今、この傷を自分が負わせた物だと理解し過去の防人衛を非難しているのでしょう。
これ以上自分を責めないで。
防人衛はあの日に残留して、止まない雨の中慟哭し流涕し十分に罰を享けた。
それでも貴方は自分を赦さ無い。
天国からの涙を全身に浴び、震える防人衛に罵声を浴びせ続けている。
私は防人衛を愛している。嘘偽り無く言える。
だからあの日に取り残された防人衛を、雨と孤独の寒さから護りたい。
そして今迄の八年間を否定せずに、大切なあの子達に貴方が向ける無垢な笑顔を守りたい。
叶う事なら、雨具と成って貴方を包み込んでしまいたい。
「止めて。」
私の首筋に触れようとした彼の右手を払い除ける。
八年前の私では想像も付かない、貴方への拒絶。
「…………すまない。」
「いいの、わかっているわ。」
今私を抱けば、貴方は必ず後悔する。
彼の右胸に顔を埋め、体温と男性の匂いを堪能した後、ゆっくりと彼から離れる。
もう二度と、彼の鼓動を感じる事も無いだろう。
これが私の選択。
今の私が貴方と、防人衛の為に出来る事。
ごめんなさい。私は何もかもわかっていて、貴方の苦悩を増大させた。
でも、これだけは約束する。
貴方以外になら、何にだって誓う。
「忘れて。私は、大丈夫だから。」
貴方が貴方を赦さ無くても、私は貴方の全てを赦す。
その後何の会話も無く、時間は流れて行った。
私は自分の椅子に戻り形だけペンを走らせる、彼が居る方向には一切目線を移す事無く。
暫く微動だにせず座っていた彼は、無言のまま立ち上がり廊下に続く扉へと足を動かす。
「また、会いに来る。」
反射的に顔を上げ、扉の前で振り返る彼と瞳が合う。
私の返事を待たずして、彼は踵を返し私の視界から消えて行った。
右前腕で目元を覆う。
確りしなさい。この程度の痛み、慣れている筈でしょ。
貴方を想う事で私の傷は熱を帯びる。
防人衛が私にとって過去では無い証拠。
私は貴方への想いを棄てる事は出来ない。
どんな苦痛にも耐え防人衛を愛する事を放棄しない。
私の想いは貴方を悲しませる結果となった。
この傷を作ったのは貴方だから、この痛みをここまで悪化させたのは貴方だから。
人一倍責任感の強い貴方がこの傷を知ったらどうなるか、私にはわかっていた。
この傷の治療法を知らない貴方は、私の傍から距離を置く事を選ぶだろう。
私に貴方を忘失させようと、私の周囲からの断絶を考思しているだろう。
だから私から遠退いた。
楯山千歳は防人衛を愛し続けるから。
病的なまでに私は貴方を渇愛しているから。
貴方の疵を塞ぐ為にも、私の所為で最愛の笑顔を消失させ無い為にも、私から貴方に別れを告げた。
わかっていた。貴方の痛みは私の其れと比較出来無い程重度で深刻だと言う事を。
わかっている。貴方は痛みを容受する事で現在の貴方を創出し悔恨の中で生涯を終え様としている。
わかって欲しい。貴方の痛みを和らげる為なら、貴方以外の全てを犠牲にしても私は後悔しない。
貴方が望んで自ら拡張した疵を、私は無理矢理縫い合わせる。
貴方に怨まれも、拒絶されても、愛され無くても、貴方の疵を治せるのなら私は一向に構わない。
また貴方の顔が見れ無くなってもいい。
貴方が何処かで、新しい大切な人とあの子達に笑顔を向けているならそれで構わない。
また貴方に会え無くなってもいい。
時折顔と名前を思い出し、昔の女と懐かしんでくれる時が来るならそれで構わない。
私の傷なんて、どうでもいい。貴方の疵さえ癒せるのなら、本当にどうでもいい。
日が落ち外の空間が昏黒した頃、パソコンの電源を落とし帰り支度を始める。
自宅に帰っても私は一人、それでも戦団内よりは残心の整理が付くだろう。
昨日と違い誰も居ない通路を闊歩し、エレベーターの前で立ち止まる。
扉が開いたが、私の待つ下り行きでは無い。
「戦士千歳。」
降りて来る人影を避け様とした時、正面から憶えの有る声がした。
「……津村さん。」
あの日、無情なる殺戮の中たった一人生存者が居た。
それがまだ子供だった津村斗貴子。
一番苦辛な経験をしたのは、彼や私よりホムンクルスの被害に遭った彼女だろう。
彼が発見した時は身心共に衰弱し、戦団が保護した物の非常に危険な状態だった。
それでも、心底と顔面に深傷を刻まれ、記憶の一部を失ってでも尚彼女は生き延びた。
そして今彼女は大人に成長し、戦士として弱者の救済に勤めている。
「現在は、津村では在りません。」
成熟した女性の雰囲気を漂わせながら、斗貴子さんはそう言って微笑んだ。
「ごめんなさい、もう随分経つのにね。」
「御気に為さら無いで下さい。私自身、未だ間違う事がありますから。」
二十年近く慣れ親しんだ姓が替わるとは、どの様な心境なのだろう。
「では此れで、失礼します。」
エレベーターの前だという事もあってか、彼女は頭を垂れ早々に立ち去ろうとする。
その凛とした後姿を見た瞬間、あの頃の面影が私の瞳に投映された。
「待って。少し、いいかしら。」
数分前無人に成った筈の個室に主が戻る。
彼との痛酷な会話の名残だろうか、初夏なのに気温が低く感じる。
調査報告に向かった斗貴子さんを、二杯のアイスティーと共に待つ。
呼び止めたは良いが、当然彼との情事は話せ無い。
只一つだけ、彼女の口から教えて欲しい事が有る。
あの日を経験した彼女から、どうしても聞きたい言葉がある。
「失礼します。」
考えが纏ら無い内に、斗貴子さんが室内に踏み込んで来た。
「ごめんなさいね、突然付き合わせちゃって。」
「いえ、特に予定がある訳では無いので構いません。」
着席しようとしない彼女を正面に座らせる。
彼女と二人切りになる事など、そう多くは無い。
どう切り出せば不審がられずに済むかと思案していると、意外にも彼女の先手で対話は開始した。
「そう言えば、まだお礼を言っていませんでしたね。」
飲んで、とカップに掌を向ける。
「カズキに提言して下さり、ありがとうございました。」
目を伏せ、旋毛を見せる。
「いいのよ。女として、放って置け無かっただけだから。」
楽しめた?と問うた私の網膜は、静穏で美艶な微笑を返す彼女に魅了された。
「御蔭様で、有意義な休日を堪能させて戴きました。」
もしあの日彼が彼女を発見して無かったら、私はこの笑顔を見る事は無かった。
「聞いてもいいかしら。」
幾つもの死地を渡り乗り越え、彼女はカズキ君と出会いそして結ばれた。
「貴女は今、幸せ?」
過去を過去として、あの日の悪夢に呑まれずに現在を過ごしている。
「………幸せです、怖い位に。」
彼の信念が救った命は、今こうして眩いばかりに輝いている。
彼は斗貴子さんの幸せを八年間ずっと渇望していた。
あの日平穏を奪われた彼女が、何時か幸せな日常を取り戻せる様にと常に尽力していた。
カズキ君と言う伴侶を得て、彼女は至福の絶頂に居る。彼の切願はようやく叶ったのだ。
今度は私が、彼の為に最大限の努力を試みる番。
きっと彼も、彼の疵を理解し、彼の痛みを和らげる事の出来るパートナーと必ず巡り合う。
あの日から一歩でも前に進めば、彼自身が幸福を体感する時は必然的に訪れる。
だから、彼の為に出来得る限りの微力を尽そう。
他愛も無い雑談だったが、斗貴子さんとの会話は思いの他盛り上った。
カズキ君の愚痴でも出るかと新婚生活を尋ねてみたが、次々と襲い掛かる惚気に私は白旗を揚げた。
カップの底に転がっていた氷が完全に溶け消えた頃、名残惜しそうに彼女は席を立った。
「私はそろそろ御暇しますが、何か用件があったのでは…」
「良いの、十分にわかったから。」
貴女はもう、あの日を乗り越えたと言う事が。
私にとっても、貴女は特別な存在だと言う事が。
車で送ろうかと提案したが、彼女は「寄る所がある」と丁寧に断り帰路に付いた。
机の上の水滴を拭き、今日二度目の帰り支度を済ませる。
沈下していた希望も、少しだけ浮かんで来た様な気がする。
無人のエレベーターに乗り込み、地下に着く僅かな間瞼を閉じ改めて私自身を諭す。
彼は近日中に、もう一度私の前に顔を見せる。
防人衛としてか、キャプテンブラボーとしてか、何方の彼で会いに来るかは私にもわからない。
彼は私に、赦しを請うたりはしない。
ただ自身を叱責し、私からの厳罰を要求するだろう。
私は彼を恨んだりはしない、あの日亡くなった全ての子供達の代弁者として彼の総てを認容する。
そしてどんな手段を使ってでも、彼をあの日から先へ進ませる。
彼を斗貴子さんと同様の未来へ歩かせる為、彼の背中を無理矢理にでも押しあの日から動かそう。
二度と過去を振り返ら無い様に、彼の旅立つ後姿を土砂と瓦礫の上から見送り視覚に焼き付けよう。
一度未来を見据えて歩き出せば、昨日に引き摺られる事無く防人衛として明日を目指すだろう。
彼があの日から去り足跡が雨捌に梳られ泥濘になった頃、私は彼への想いを心の奥底に封印しよう。
でも私は彼を愛さずには生きて行けない、楯山千歳は防人衛の居ない世界では生存出来無い。
だったら私は楯山千歳以外の何者かに成る。
彼の疵口が再び裂開せぬ様に、私の傷痕を見て過去の深痛を呼び起こさせ無い為に、
彼への想いを胸に秘めながら、私は私で在る事を棄てよう。
今朝より雨脚は弱まった様だが、ボンネットを弾く雨礫の喧しさと視界の悪さは相変らず酷い物だ。
雨跡によって彼方此方に造られた水溜りの集合が、川となり車道を飲み込んでいる。
スピードの上昇が事故に繋がる危険な道路と化した勤務路を、私の車は低速で進んで行く。
月は雨雲に隠滅され、僅かな街灯と私の前方を照らすライトだけを頼りに車輪は廻る。
信号の赤が車の動きを停め、私は雨垂れる窓越しに夜の帳を眺める。
曾て飲食店が取り壊され、長い期間廃墟と化していた空地に、豪雨の中立ち尽す人影が見て取れた。
薄暗さと距離で顔は確認出来無い。でも、私には誰だかわかる。
私が彼を見間違える筈が無い。
「防人君。」
雨声に相殺されぬ様、強い声量で言葉を掛ける。
「………千歳。」
雨空を見上げ続けていた彼の顎が緩やかに下がり、私と彼の視線が絡み合う。
彼の鎮痛な眼差しで直ぐにわかった。
彼は今、防人衛だ。
「こんな天気の中傘も差さずにいたら、幾ら貴方が頑丈でも風邪を引くわよ。」
「お前こそ、風邪引くぞ。」
車から降りて数分で全身が水浸しになった。
彼はもう何時間この場所に居るのか、問ても返答は無いだろう。
「私の車に乗れば?…此処で話すのも、何だから。」
わかっている。彼は此の儘、私から逃避したりしない。
今直ぐ私に対して、けじめを付ける。
「いや、此処で良い……此処が良い。」
私が風邪を引いても構わないのね。
私はあの日から八年以上自分を譴責し続ける彼に、私が既知する全てを詳明に語った。
何時迄も己を厳責し、喪亡した子供達の供養になればと疼痛に耐える彼に私の痛みの全容を告げた。
陳謝する彼を宥めながら、私も、墓石に眠る子供達も、誰もが彼を赦している実状を伝えた。
「自分を赦せとは言わないわ。」
「でもこれだけはわかって。私も、天国に居る子供達も、防人君の善行を見続けて来たのよ。」
「皆、貴方を赦したの。恥じる様な生き方は、して無い筈でしょ?」
わかっている、其れでも貴方は赦宥しない。
「俺は、あの罪を過去には出来無い。」
世界が貴方を善と言っても、貴方は悪と首を振る。
「だったら、私も貴方と同罪よ。」
私の言霊を切っ掛けに、寄り一層雨勢が強まった様な気がした。
「防人君一人の責任じゃ無い。私にも火渡君にも責任は有る。」
「わかっているでしょう。あの任務が失敗した原因は、私のミスが大半を占めている事を。」
「貴方が自分を罰すると言うのなら、私の事も断罪して。」
これが私の切り札。私自身が目を背けて来た過謬。
彼の爪が、自らの掌低に食い込んでいる。
「俺は…疾うの昔にお前を傷付けた。」
「ええ、痛かったわ。今でも、痛いもの。」
歯を喰い縛る彼。悔恨が渦巻いているのがわかる。
「……もう一度言うわ。自分を赦せとは言わない…私には、言う資格が無い。」
これで、彼があの日から解放されると信じている。
「それでも私は貴方を赦す。私を傷付けた事も含めて、自分を赦さ無い防人衛を赦すわ。」
埃塗れの雨下から、やっと彼を今日に連れ戻せる。
「だから一つだけ、貴方を赦す代わりに、私の願いを聞いて頂戴。」
あと一言で、永かった貴方との縁も事切れる。
「これから絶対幸せになるって、約束して。」
今出来る最高の笑顔を、最後に貴方に見せよう。
「分かった、約束する。」
祈る様に胸の前で指を絡め、声を出さずに歓喜する。
ようやく、彼は報われるんだ。
「だがその前に、為すべき事がある。」
私の小さな拳を、彼の大きな両手が包容する。
指頭の冷たさに驚く間も与えず、彼は私の心臓を氷結させた。
「俺は、千歳をあの日から引き摺り戻す。」
わからない。
「お前は俺の所為で、あの日に取り残されたんだ。」
貴方が何を言っているのかわからない。
「俺があの日に残ったから、お前は俺の後ろから動けずにいるんだ。」
何故私の知らない事を貴方が知っているのかわからない。
「今でもお前は、俺の背中で泣きじゃくっているんだよ……千歳。」
唖然と呆ける私の身体を彼は強引に懐抱し、強靭な両腕で締め付ける。
「この八年間、お前はずっと俺の近くに居てくれた。」
「散々お前を傷付けた俺は、早くお前の傍から離れないといけない。」
「解っている、判っているんだ。」
固着した状態の儘、予想外の状況に混乱する脳中で彼の言葉を理解しようとする。
「お前の痛みを緩める事が出来るなら、喜んでお前の前から去ろう。」
「しかし俺が居無くなる事でお前が苦しみ続けるのならば、俺はお前から離れたく無い!」
私の知らない縋る様な彼の叫号は、暗雨の中を響き渡り、真っ先に私の元へ届いた。
「愛しているんだ!お前を……楯山千歳を心からっ!」
ああ、わかった。
彼は私と同じだ。
同情でも惜別でも無く、底意から私を求めているんだ。
未だに私の事を想っていて、他の誰でも無く切実に私だけを必要としているんだ。
彼は八年間も、私を愛し続けてくれていたんだ。
「私では、貴方の疵を癒せないのよ。」
顔を覗かれ無い様に、彼の喉仏に額を密着させる。
「俺もだ、お前の傷を癒せない。」
両手で私の頬を固定し、見せたく無い顔を彼は熟視し堪能する。
「酷い人ね、貴方は。」
お互いを慰め合うだけの関係でも、貴方が私を傍に置いてくれるのならそれ以上私は何もいらない。
彼の指甲を伝った水滴が、雨雫なのか私の涙なのか、それ知っているのは私だけ。
凍えた彼の唇からは、雨水の味以外何もしなかった。
「私が、防人君の罪を半分背負いたいと言ったら、貴方はどうするのかしら。」
無精髭の感触も、あの頃の私は知らなかった。
「千歳にだけは背負わせ無い。例え今以上の罪を背負う事になっても、お前の為なら後悔しない。」
雨曝し中、誰よりも罪を嘆く彼が語った本当と嘘。
「本当に、酷い人ね……残酷な程、優しい人………」
私が貴方の盾に成っても、シルバースキンを身に纏う貴方の役には立て無い。
私が貴方の剣に成っても、貴方は戦場で私を握る事無く安全な場所に収納してしまう。
私が貴方の傘に成ったとしても、貴方は私を差さずに自ら濡れる事を選ぶ。
だったら私はあの雨に成る。
慈雨に成り貴方の頭上に降る事で、不治の心痛から流れる貴方の涙を隠してしまおう。
だからお願い、貴方の身体に降り注ぐ本の少しの雨粒だけでいいから、
コートの隙間から入り込む微量の雨滴分だけでいいから、
どうか、私の想いと痛みを受け容れて。
了