スーパーのすぐ前の道路で、信号待ち。
武藤カズキと武藤斗貴子は、夕食の買い物を終え帰路につこうとしていた。
「斗貴子さん、俺が荷物持とうか?」
「いや、構わない。これ位平気だ」
「じゃあ半分だけでも」
いや本当に構わないから、と言う斗貴子の制止を無視して、カズキは袋の持ち手を片方だけ握った。
「おかしな事を…」
斗貴子はくすくすと笑う。
「私はキミと手を繋ぎたかったんだがな……」
「え?そーだったの?」
それなら、とカズキは斗貴子の手を取った。持ち手は両方とも二人の手の間にある形だ。
「これならいいよね!」
「…どうして最初にこれを思いつかなかったんだか」
斗貴子はまだ笑っている。鈴を転がす様な笑い声を聞いて、カズキの心は大いに安らいだ。
――斗貴子さん、結婚してからよく笑う様になったな。
そんな事を思う。
「ねぇ斗貴子さん、今日の夕飯は結局何にするの?」
「秘密だ」
斗貴子はきっぱり言った。
「えぇー?教えてよ、ヒントだけでも!」
「駄目だな。帰ってからのお楽しみという事にしておけ」
カズキはやや不服そうにはーい、と返事を返した。
もう陽は傾き、夕暮れに染まる町並みが美しいと感じられる様な時間帯である。
手を離すことなく、ゆったりと歩いている二人を、自転車が追い越していく。
外苑沿いの道はレンガで出来ていて、踏みしめた感覚も心地良いとカズキは思った。
――このレンガ道を、もう何度斗貴子さんと歩いたのかなぁ?
ふと、彼の脳裏にそんな疑問が浮かんできた。
二人が祝言をあげたのは高校卒業時なので、もう七年程が経っている。
現在彼らが生活を営んでいる銀星市内のマンションに越してきたのも同じ時期だ。
カズキの仕事が休みである土日は、必ずと言っていい程一緒に買い物をしている。
――家事は斗貴子さんに任せっきりなところがあるからなぁ。
休みの日ぐらいは、ね……
それでも斗貴子さんに付いて来てもらってるんだから一緒か、などと思い直して
カズキは一人、空を見上げて小さく笑った。
そうすると、いつもは気にしない電柱に吊下げられた電線が視界に飛び込んでくる。
――何だかアレ、音符書くときの線みたいに並んでるな……
カズキが思い浮かべているのは所謂「五線」の事だが、彼はその名を知ってはいなかった。
それもそのはず、彼は音楽関係の趣味を持ち合わせてはいないのだ。
精精カラオケに行く程度、そんなカズキが電線を見て五線を連想したのは、全くの偶然だった。
――もし俺が作曲とか出来たら、どんなの作るだろ……
カズキの連想ゲームは続く。
――やっぱり…最初に、斗貴子さんへ向けた歌かなぁ……
って事になると、ラブソングか……
「ちょっと気障っぽいかな…」
「何が気障っぽい、だ」
思わず出たカズキの独り言に、斗貴子は幾分棘の目立つ口調で言い放った。
「さっきから黙ってばっかりかと思ったら…急に何を言ってるんだ?」
どうやら、カズキが思いつきで遊んでいる間も、斗貴子は何事かを語っていた様だ。
「キミが私を無視するだなんて、珍しい事もあるもんだな」
斗貴子の方も、珍しく嫌味たっぷりな言葉を発する。
勿論彼女の不機嫌は飽く迄も表面的なもので、別に本気で怒ってなどいないのだが。
それでも、ここまで言う彼女に気圧されたカズキはかなり慌てふためいていた。
とことん素直で単純な男である。
「ち、違うよ斗貴子さん!今日は偶々、斗貴子さんの事考えてただけだって!」
斗貴子の顔が疑問に歪む。
「…それはどういう意味なんだ?」
「何て言えばいいのか俺もよくわかんないけど…とにかく、ちょっと考え事してただけだよ。
別に斗貴子さんの話を聞きたくなかったとか、話したくなかったとかじゃ無いんだって!」
「………まあ、今日はそういう事にしておいてやろう。今度こんな事があったら…」
わざと意地悪を言う斗貴子に、カズキは斗貴子さぁんと情けない声を上げた。
「ほんと、本当にゴメン!もうこんな事絶対にしないからさ!機嫌治して?ね!?」
真摯な眼が、斗貴子の瞳を射抜いてくる。
斗貴子は自分の負けを悟った。彼女はこの眼差しに恐ろしく弱いのだ。
「…分かった、分かった。もう言わないから、ショボくれた顔するのは止めなさい」
それを聴いた瞬間、光が射したかの様な笑顔がカズキの満面に宿る。
「ありがと斗貴子さん!!」
つられて斗貴子も笑い出した。先程と同じ様に、心底楽しそうな声を上げながら。
握り合う指先には、先程以上の力を込めあいながら。
――そうだ。
カズキの中に、不思議な確信が生まれた。
――これからずっと、斗貴子さんと一緒に生きていくんだ。暗い顔なんかするべきじゃない。
それよりも……
「ねぇ、斗貴子さん」
「どうした?」
「これからもさ、沢山の思い出を作っていこうね!」
やっぱりキミは唐突だ、と前置きをしてから斗貴子は続けた。
「無理に思い出作りなんかしようとしなくても……私は幸せだぞ?
今、キミがそばにいてくれる瞬間が…な」
「……斗貴子さんっ!」
斗貴子の言葉に感極まったカズキは、人目も憚らず斗貴子に抱き付いた。
「あ、コッコラ止めなさい!!」
真っ赤になって抵抗する斗貴子だったが、こうなっては彼の独壇場である。
「斗貴子さんキレイ!かわいい!」
「だから止めなさぁい!公衆の面前なんだぞ!?」
しかし、当の『公衆』の方は特に彼らを気にしていなかった。
もうこの二人の事は、銀星市民ならば周知の事実なのである。
「もうっ!」
カズキの両腕を振りほどいた斗貴子は、一人さっさと歩き出した。
「あ、待ってよ斗貴子さん!!」
「知らん!」
カズキが追いかけようとするが、斗貴子はどんどん足を速めていく。
紅い住宅街に、カズキの声が響く。
「斗貴子さぁん、斗貴子さぁーーん!お願い、待って斗貴子さぁーーーん!!」
その日の夕飯は、牛肉と野菜たっぷりの斗貴子特製のカレーだったそうだ。
Million Films―――了