「お母さん見て!お母さんの好きな花が咲いてるよ!」
「おにいタンー」
その服装から育ちの良さがはっきりわかる幼い男の子は花に向かって駆け出した。
それに続きいたって普通の服装をした男の子が彼を追った。
「はい、お母さんの好きなすみれの花だよ。お母さんにプレゼント!」
「ありがとう、攻爵さんは優しい子ね。大切にいつまでも取っておけるよう押し花にするわね」
上品な笑顔で息子からの花を受け取ると嬉しそうに母は言った。
「あっちにも咲いてるから一緒に行こう次郎!」
「わあっ痛っ!」
「大丈夫!?攻爵さん!」
弟に気を取られ転んだ攻爵の膝に優しくハンカチを当てた。
「家に帰ったら消毒して傷を手当てしないといけないわね」
黒塗りの高級車が止まり、険しい表情の威圧的な男が現れた。
「こんな所で何をしている!フランス語の会話の授業があるのを忘れたのか!」
「先生のご都合で今日はお休みという連絡を頂いたので、子供達を外で遊ばせようと」
「馬鹿者!休めばそれだけ遅れを取る。代理の教師を手配する機転も利かんのか。
しかも蝶野の家督を継ぐ攻爵にケガをさせるとは何事だ!母親失格だ!」
言い終わらないうちに父親は母を平手打ちした。
(やめてお父さん!お母さんにひどい事しないで!)
しかし余りの威圧感と恐怖感で子供達は心の中で叫ぶのが精一杯だった。
「坊ちゃま、車にお乗り下さい」
攻爵と父親を乗せた車が黒服の男の運転で動き出した。
「おかあタン…」
「お兄ちゃんは大事なお勉強があるのよ。次郎さんはおうちでお母さんと遊びましょうね」
次郎の手を握り締め、母は去り行く車を見送った。
しかしその目の焦点が微妙に定まっていない事など気付く者は誰もいなかった。
車中の攻爵は隣の父親を気にしつつそっと後ろを振り返った。母が心配だった。
そして視界の遠くに母にしっかりと手を繋がれた次郎の姿を見た瞬間、
何とも言えない濁った感情が攻爵に芽生えた事に気付く者も誰もいなかった。
―――わぁ、こんなキレイな場所があったなんて〜!みんな〜こっち〜!
遠くから聞こえた突然の声で眠りから醒めた蝶野。
春の柔らかな日差しの中、大樹にもたれひとり読書をしていたが
いつの間にかうたた寝をしていたのだった。
(何だか昔の嫌な夢を見たようだが……ま、どうでもいいか…)
読みかけの本を閉じて去ろうとした時
「あれ?パピヨンさんだ!お兄ちゃん、パピヨンさんだよ!久しぶり〜パピヨンさ〜ん」
手を振りながらこちらに少女が走ってくる。
「……お前は…武藤の妹」
「そう。まひろだよ。今日はみんなでピクニックに来たの。
見晴らしのいい綺麗な丘があるってブラボーさんに言われて初めて来てみたんだよー。
あ、パピヨンさんも一緒にどうかなぁ?お弁当いっぱい作ってきたからみんなで食べようよ!」
坂道を登ってきた他の連中も蝶野の存在に気付き、遠くから笑顔で手を振っている。
「武藤たちは今年3年だろう。受験勉強そっちのけで行楽とは余裕じゃないか」
「そうなんだけどね、なにせお兄ちゃん受験勉強の達人だから連日の特訓なの(受ける方)。
だから今日だけって事で息抜きに来たんだよ。パピヨンさんも一緒に来てくれたらお兄ちゃん喜ぶよ!」
だが蝶野は先程見た夢の影響か、談笑も飲食もする気にはなれなかった。
「武藤に伝えておけ。お前のアタマでは息抜きも程ほどにな、と」
そう答えると蝶野はさっと羽根を広げ飛び去って行った。
「おーい蝶野ー!お前も一緒に来いよー!せっかく平和な世の中になったんだぞー!」
カズキが呼びかけたが蝶野は返事もなく空に消えて行った。
「…パピヨンさん、何だか違った感じがした…」
「ああ、最近姿を見せなかったけどな。まさか病気が悪化したとかじゃなきゃいいが…」
街角で注目を浴びた一時期と違い、体の調子がおかしいのは確かだった。
薄暗くなった空をふらりと飛んでいた彼は、見覚えのある景色の上を飛んでいた。
遠くの方に解体中らしき建物と重機の類が見て取れた。
凄惨な事件の起きた実家の屋敷は取り壊し作業の途中となっていた。
おそらく遺産や金目の物は蝶野の親戚どもが我先に持ち去ったのだろうが、
それ以外はガラクタとしてまとめて廃棄されるという事か。ゴミ同然に。
無残に瓦礫となった屋敷跡に蝶野は降りたった。
土にまみれた小さな紙片がちらりと彼の目に留まったのは偶然の事だった。
そして彼はここに来た事を少し後悔した。
「栞…?」
色あせていたが栞にはすみれの押し花が貼られていた。
「まさかあの時の……でも何故…」
銀成学園に入学する前であったろうか、
母親は彼が4歳のとき精神と身体を患い実家に帰されたと父親から聞かされていた。
目的も果たせない役立たずだった、と。帰された半年後に母は亡くなり、
蝶野の家にあった母の持ち物はすべて処分されたはずだった。それこそゴミ同然に。
栞の裏には手書きの文字でかすかに「攻」の字が読み取れた。
−攻爵さんからの大切な贈りもの−
父さんも次郎も殺ったのを知らずに済んだのは、幸いだったのかもしれない。
蝶野は黒色火薬を使い栞に火を付けた。灰になったそれを見届けると空に舞い上がり
振り返ることなく薄暗い夜空に消えて行った。
「さようなら、母さん」
「さっきからそこで何をしているんだ。俺に用があるなら声をかけたらどうだい」
本のページをめくりながら顔を上げずに蝶野は言った。
「あははっ、ばれちゃった。そーっと近づいて驚かそうと思ったのにー」
と、木立ちの陰からひょこっとまひろは出てきた。
「バレバレだ。こんな静かな場所で気付かれずに人を驚かそうとするのがそもそも不可能だな」
「今日みたいに天気のいい日はまたパピヨンさんここに来るかなって思ったから、
時々ここに来てみてたんだ。やっと会えたから嬉しくてつい悪戯したくなっちゃったの。ゴメンなさい」
前にこの丘でまひろ達と会ってから2ヶ月以上経っている。
大樹にもたれかかり本で半分隠れた顔を視線だけまひろに移し尋ねた。
「何の用だ?」
「この前会った時にね、パピヨンさん調子が悪そうな気がしたの。お兄ちゃんも心配してたよ。
でね、元気になるようにと思って持ってきたんだ。私もお兄ちゃんもこれ飲んで元気一杯!
フルーツ牛乳よりずっと栄養あるんだから。」
ちょっと待てフルーツ牛乳はあれは風呂上りに飲むからこそ格別にうまいのであって何も俺は
大好物という訳でないというかフルーツ牛乳と比較するな、と心の中で突っ込んでいる間にも
まひろが勝手にストローをさしていく緑色の飲み物。
2つ同時に開封するという事は2人で一緒に飲もうという事であろう。普通の場合。
しかしこの娘の場合そうではないと蝶野は悟った。
一途な性格は武藤と同じだが、無茶なところはある意味上を行くのではなかろうかと思った。
「そんな物で体が良くなるなら幾らでも飲むがね。医者もさじを投げた病だ。
いつ何の前触れもなく苦しみが襲うかわからない。武藤から聞いているだろう」
立ち上がり飛び立とうとした蝶野だが突然の吐血と全身の痛みで倒れこんだ。
「…ぐっ…」
「ぐはぁっ…!」
「大丈夫!?私迷惑だった!?ごめんなさい!どうしよう!」
「…いつもの事だ…どうしようもない…無駄な事だ…」
苦痛に耐える蝶野の手をまひろは握りしめた。
徐々に蝶野が落ち着きを取り戻し表情が和らいだ頃、まひろがそっと語り掛けた。
「…あのね、本当はこれを渡したかったの。パピヨンさんって読書好きだよね」
上部に蝶結びのリボンが結ばれた栞。しかし驚いたのは貼られている押し花だった。
「お兄ちゃん達にもね、受験のお守りがわりに私が作ったの。勉強がはかどるようにって。
みんなそれぞれ違うお花にしたんだけど、パピヨンさんにはこれが一番似合うと思って。
気に入ってもらえると嬉しいんだけど…」
(…あの栞と同じ花)
「これからはナースまひろがパピヨンさんの看病するから絶対元気になってね。
私は看護の達人なのよ!治るまで一生かかっても私が看病するから」
「不老不死の俺に何を言いだす。お前の方が先に死ぬぞ」
「そんなの嫌なの!私、お兄ちゃんと斗貴子さんが話してるのを聞いちゃったんだ。
パピヨンさんが人間に戻れるかも知れないって。病気を治す研究もしてるって。
お兄ちゃんあまり多くは話してくれないけど、まひろはパピヨンさんの看病がしたいの!
パピヨンさんが大好きなの!…だから、だから…一緒にいてもいい…?」
目を潤ませ訴える少女の言う事を言葉通り単純に受け取る蝶野ではなかったが
もしこれを聞いたら武藤はどう思うだろう。
ブチ撒け女はどんな顔をするだろうか。
全身の痛みは無理に体を動かせるほど回復してはいなかった。
「…少し休む。看病する気があるなら好きにすればいい」
「うん、私ついててあげる!何があってもずっと守ってあげるから」
まひろはにっこりと笑いうなずいた。
初夏の陽気の木漏れ日の下でゆるやかな暖かい風が吹いていた。
やや暫くしてゆっくり木にもたれかかる気配と静かな寝息が聞こえてきたのを察した蝶野。
(まったく…兄妹そろって偽善者にも程があるな。看病する方が先に寝入ってどうするんだ。
まあ、どうでもいいがな…)
握られたまひろの手が彼から離れる事はなかった。
そして木の根元に横たわった蝶野ももう一方に栞を手にしたまま穏やかな眠りに落ちていった。
−END−