『潮騒の町で』
晴れている。空は真っ青だ。窓から差し込んでくる陽射しがひどく力強い。
プシュー、という音を立てて前のほうの扉が閉まった。
今降りたおばあさんは俺と斗貴子さん以外ではたった一人の乗客だったので、つまりもうバスの乗員は運転手を含めて三人という事になる。
バスは三人を乗せてのろのろと走る。のどかな田園の中、まるで変化を起こすことはいけないことだ、とでもいう風にまたタラタラと走る。
終点までは停留所を多分あと五つほどスルーしなければならないのだけれど、この調子なら特に誰も乗ってくることはないだろう。
前方、海まで続くアスファルトの周囲は辺り一面三百六十度、森と田んぼと野原しかない。まるで緑祭りだ。
見慣れないのどかな田園風景には、普段すごす景色には必ずあるはずのものがなくて何だか新鮮だった。電柱すらないのだから、もう笑っとけって感じだ。
ふと、横を見ると斗貴子さんが窓にもたれてうとうとと居眠りをしていた。さっきまでは起きていたのに。どうやら、結構疲れてるらしかった。
俺は風邪を引かないようにと、斗貴子さんの頭上のクーラーの冷気がもれてくる排気口を向こうにそらして、財布から一人分の乗車賃を取り出す。
二人分じゃないのは、斗貴子さんがおごるとかおごられるとかが嫌いなんだというのを、最近になってしっかり学んだからだった。
降りるまでは多分あと二十分くらい。三分前になったら斗貴子さんを起こそう。
ギリギリまで寝させてあげたい、けれど直前に起こしたならきっと怒る。三分というのは、そんなことを考えたうえでの妥協点だった。
そして俺は、斗貴子さんと二人して、住みなれた街から電車やらバスやらをたくさん乗り継いで、遠く離れた海辺の町まで来ることになったいきさつを思い浮かべた。
「カズキ、明日から連休だったな」
いつものように窓から入ってきて第一声。斗貴子さんは遠慮することも気にすることもなく、手馴れた仕草で靴を脱いでベッドの上へと座り込んだ。
俺もだいぶ慣れたもので、慌てることもなく、飲みかけの青汁から手を離し、イスを回して斗貴子さんに向き合った。
「土、日、祝日、創立記念日。あわせて確かに四連休だけど」
だから? と俺はわけがわからない。斗貴子さんの話はたまに単刀直入すぎて、付いていけないことがある。
「予定は?」
「岡倉たちと連れ立って映画見に行ったりするけど?」
「キャンセルだ」
予定聞いた意味ないじゃん、とは思うけれどこういう時の斗貴子さんには何をいっても無駄なので黙っていることにする。対斗貴子専用接待スキルが最近成長いちじるしい。
「で、なんで暇にしとかなくちゃダメなんでしょう?」
「私がキミを誘う理由など一つしかないだろう?」
デート。きっと違うんだろうなぁ、とは思いつつも。
斗貴子さんはポケットから取り出したメモ用紙を、かっこいい仕草でシュパッと投げてよこした。
折られている紙を広げる。紙面にはここから少し離れた温泉と海水浴場で少々知られている海辺の町の名前が書かれていた。
「ええっと……」
まさか泊まりでデート? 海?
バカを見るぞ、なんて頭の中の誰かが言うけれど、どうしようもなく期待はしてしまう。泊りがけで海に旅行。二人、二人っきりで。
「先に言っておくが遊びじゃない。もう一つ言うがきっと楽しくもない」
やっぱりだった。
うん、わかってる。わかってたけれど。やっぱり、全部わかっててもガックリくる。あう。
「最近その町で自殺者と行方不明者の数が多くなっている。噂にもなっているんだが君は知らないようだな」
どうにかショックから立ち直った俺は、知らないよ、といつもの平静さで返す。
「全てが全てホムンクルスのせいにするのは強引だとは思うが、念の為だ。もしもは許されないからな」
斗貴子さんの顔は真摯だ。深いかげり。彼女は右手で、そっと顔に刻まれた傷をなでた。知り合ってそれなりに時間は経ったけれど、俺はまだその傷ができた経緯を聞けないでいる。軽々しく踏み込んでいい話じゃないと、感じたからだった。臆病だからなのかもしれないけど。
「というわけでキミに手伝ってもらいたい。泊りがけだ。色々と準備があるだろうけれど急いで欲しい」
ああ、と。忘れていたとでもいう風に斗貴子さんは付け加えた。
「どうしても嫌だ、というのなら言ってくれ。正直付いてきて欲しいんだが、無理に戦わせるのは、酷だから」
けれど、できれば一緒に来て欲しい。最後に斗貴子さんはそう言って窓の外へと目を向けた。
出会ってすぐの頃の斗貴子さんなら、俺に相談なんかせずにふらっと行ってしまっただろう。誘ってくれた上に、できればついてきて欲しいだなんて、俺も少しだけ、頼りになるかもしれない、ということだろうか。
答えはきまっている。というか斗貴子さん、俺を気持ちよく行動させるの上手すぎ。断れるわけない、断ろうということさえ頭に浮かばない。
斗貴子さん、と呼びかけた。うん? といって窓の外から俺の方へと目線を移す。
自信をもって返答を返すと、そうか、といって控えめに笑った。
その笑顔が、俺をもっともっと強くさせるのだ。
はっ、と気付けば終点から一つ手前の停留所を通り過ぎたところだった。次で、降りるのだ。
頃合だろう、と思って斗貴子さんの体を揺する。ん、と吐息をもらして斗貴子さんは目をあけた。
「ついたのか?」
「そろそろ」
そうか、といって何故だかヒドク可愛いマスコットキャラクターの顔をした財布から、小銭をチャラチャラと取り出した。
斗貴子さんはジーンズに黒いTシャツという普段見ないラフな格好で、俺にはちょっと新鮮でドキドキとしてしまう。白くて眩しいにの腕がなんというか、強烈だった。
ほどなくバスはゆっくりと止まった。年季の入った運転手さんに会釈して階段を降りる。
ぶわっ、という浜風にあおられて少しよろめいた。海の香りがする、海の風だった。
「海だな」
うん、と返す。停留所はなだらかな坂の上にあって、青くてどこまでも広い海原は眼下にある。
町はさほど大きくはなかった。浜辺はスプーンでくりぬいたようになっていて、海岸線を目で辿ると右手に岬があり、そのさらに向こうには白い灯台が立っていた。水平線近くにはタンカーが見える。
さらに風が吹きつけてくる。気持ちいいな、と思って斗貴子さんを見ると、睨みつけるようにして町を見回していた。
そうだった、と俺は思いなおす。遊びにきたわけじゃなかった。この町のどこかにホムンクルスがいるのかもしれないのだ。
左手でリュックを持ち直す。右手は自然と、心臓の辺りを掴んでいた。
斗貴子さんが案内するというからしばらくついて行くと、どこにも着かなかった。というか迷っているようだった。
「カズキ、そんな目で見られるのは、不愉快だ」
不満そうにしている斗貴子さんから地図を受け取って建物の位置を確認する。別に地理感覚に詳しいわけじゃなかったけど、一人で迷うより二人で迷う方が見つかりやすいと思ったから。
しばらく二人してダラダラと町中を歩く。あっちでもないこっちでもない、ぶつぶつ言い合いながら旅館を探す。
そうしている内に、町の建物の具合とか様子とか、道がどこに続いているかとかなんとなく把握していった。何が起こるかわからない、だから知っておくに越したことはない。
そしてようやく目的地に辿り着いたときには、二時を少し回ってしまっていた。ちなみにバスを降りたのは昼過ぎである。
「……お腹すいた」
「……私もすいた」
へろへろとした足取りで旅館に足を踏み入れる。それでも斗貴子さんはしっかりと歩いていて、流石だと思う。
あんまり大きくない民宿で、少し大きめの家をそれ用に改築したといった感じだった。親海荘、という看板が小さく掲げられている。
ガラガラと引き戸を開けて敷居をまたぐと、俺たちに気付いたようで、着物に割烹着の女将さん風のおばさんがパタパタと駆け寄ってきた。
「あら、いらっしゃいませ。津村さんでございますね?」
「うん、お世話になる」
親海荘にようこそ、そう言いながら荷物を持とうとするのを斗貴子さんは拒否した。大事なものが入っているから、という。
ここは敵地なんだ、というのがやっぱり頭の中にあるらしい。斗貴子さんが自分で荷物を持つのに俺が預けられるはずもなく、リュックを今一度背負いなおした。
女将さんは別に機嫌を悪くした様子もなく、こちらです、といってパタパタと二階に上がっていく。
通されたのは、畳五畳ほどの広さで海に面した部屋だった。
「それでは、ごゆっくり」
ふふふ、という笑みを残して女将さんは出て行った。少し不思議に思いながらも俺はリュックを下ろして畳の上に寝転がった。
なんだか少し疲れている。何時間も電車とバスに揺られたからだろうか。
「だらしないぞ」
そんことを言いながらも、斗貴子さんだってペタンと畳の上に座り込んであまつさえ壁にもたれている。
それなら、と俺は敷かれている布団の上に寝転がった。畳の匂いが新鮮だった。段々と、いい気持ちになっていく。
「あー……気持ちいいー……」
しばらくそうしてダラダラとしたが、ふと、俺はあることに気付いた。気付いたというか、不思議に思ったというか。
俺は斗貴子さんに聞いた。
「なんで布団が二つなのかな?」
窓から入ってくる風に気持ち良さそうにしていた斗貴子さん、ん? とわからないといった様子で小首を傾げた。
「だから、布団が、二つ」
「……ん、ああ。そのことか」
ふむふむ、と斗貴子さんは一人で納得した感じでうなずいている。俺はというとわけが分からない。
どっちかが部屋を間違えているのかもしれない。斗貴子さんかもしれないし、もしかしたら俺かもしれない。そうならさっさと出て行かねばならなかった。
「相部屋なんだ」
さらりと、斗貴子さんは言う。
「部屋は一つしかとっていない」
わかったな、無言でそう告げて斗貴子さんは再び風に目をつむった。
俺はというと、彼女の言ったセリフをいまいち理解できていない。上手く、噛み砕くことが出来ない。
何秒か固まって、さらに何秒かの時を理解に費やして、ようやく頭の中ではっきりと理解することが出来た。
そして俺の絶叫が民宿の中にこだまするのであった。
「大声を出すんじゃない。迷惑だろう」
まったく、なんて言いながら斗貴子さんはショルダーバッグの中身を整理し始める。
俺はいたって冷静な斗貴子さんに、何故だかひどく動揺した調子でさらに続けた。
「で、でも俺一緒の部屋だなんて聞いてないよ!」
「言ってないからな」
斗貴子さんはなんでもない様にいう。何か困るのか? と逆に聞かれて俺は口ごもった。困るというか何と言うか、一応男と女なわけで、一晩どころか何泊もするわけで、目のやり場も色々と考えないといけないわけで。
プスプスプス、と不完全燃焼をする俺を放っておいて斗貴子さんはチャッチャと荷物を整理し終えて、すっくと立ち上がった後に言った。
「やましいことなんか起こらないだろう。キミを信頼しての相部屋だ。ふむ、だがそこまでキミが嫌がるのなら考え直さないわけじゃない」
なんとなく、少し寂しそうに見える横顔だった。俺はなんとか冷静さを取り戻そうと、一言ずつゆっくりと言う。
「別に、嫌なわけじゃないんだ。ただ何ていうか、だからその、斗貴子さんを女の人として、意識しないっていうのが、無理っていうか……」
そうか、と言って斗貴子さんは笑った。
「なんだかそんなことを真正面から言われるのは恥ずかしいな」
「う、あ……ぅ」
言った本人だって恥ずかしくなってきてしまう。
さ、行くぞ。斗貴子さんは立ち上がった。
この話は帰ってきてからだ、言い残してから振り返りもせずに部屋を出て行った。
俺はあわてて後を追っていく。なんだか言い訳を考えたい気分になった。慌てて靴を履いて外へと飛び出ると、夏の陽射しの中、斗貴子さんは海を背にして俺を待っていた。
田舎の町らしい、細くて曲がりくねった道をゆっくりと回っていく。途中見つけたそば屋で腹ごしらえをしてから、さらに丹念に町の探索をしていく。やっぱり狭い町なので、一時間半もあればほとんど全部回ることが出来た。
「斗貴子さん、なんかわかった?」
額に浮き出た汗をシャツの袖で拭いながら俺は聞いた。
「いや、特に何も感じはしなかった」
いつの間に買ったのか、グビグビと烏龍茶を喉に流し込みながら斗貴子さんが答えた。
「だが、まだ時間はある。焦る必要はない」
「前から聞こうと思ってたんだけど、ホムンクルスがいるかどうか、確認する方法は?」
「匂う。やつら独特の、くさい匂いがする」
俺はふと、思いついたことを口にした。
「ホムンクルスじゃなかったらどうしよう」
「奴らはどこにでもいる」
ぽん、と俺の方にペットボトルを放り投げて、斗貴子さんは言葉を続ける。
「それこそ、どこに行ってもいるんだと疑ってかかってお釣りがくる。やつらは、ゴミだ」
全てのホムンクルスが憎いから。
いつか聞いた斗貴子さんの心の闇。ヒドクどす黒くて、底が見えないくらいの深い憎悪。
その理由も、やっぱり俺は聞けないでいる。それは俺と斗貴子さんの現在の関係を、全部コナゴナにしてしまいそうな、そんな決定的な力を持った質問のように思えたから。
前に進むのが怖いんだ。何があるかわからないから。
臆病カズキめ。
ヤケクソのように烏龍茶を一気飲みのして立ち上がる。なんだか燃えてきた。腹も立っていた。それ以上にじっとしてはいられなかった。
「行こうよ斗貴子さん」
「どうした? 急にやる気になって」
「なんか、じっとしてられない。動いてないと調子悪くなりそうだ」
「キミは変わってるな」
苦笑して斗貴子さんが先を歩き出した。向かう方向には海がある。町はほとんど回ったから、次は海へ行くというのは当然だった。
俺は斗貴子さんの横に並ぼうと駆け出した瞬間、愕然として思わず足を止めた。
斗貴子さんが口をつけたペットボトルのお茶を飲んでしまった。これってもしかして……
浜辺を一通り歩いて、旅館へと戻ったのは太陽が水平線に姿を隠す少し前だった。
砂浜にはそれなりに海水浴客がそれぞれに楽しんでいた。自殺者、事故死なんて不吉な噂が出回っているいわくつきの海水浴場だけれど、なるほど、噂にもニュースにも無頓着な人はやっぱりいるんだな、と場違いな関心を抱いてしまった。
猫の額、とまではいかないけれどせいぜい犬の額くらいの砂浜を何度か行ったり来たりして、磯釣りが出来そうな岸壁のそばにいくつもまとめて沈めてあるテトラポットの隙間をのぞいてみたり。
船の整備をしていた漁師さんに噂についてもう少し何か知らないかと訪ねている内に、なんとなく怪しそうな目星はついてきた。
岬。そして灯台。
自殺者はもっぱら岬からの飛び降りらしいし、事故死の半分は灯台付近の急カーブでの自動車事故、もう半分は岬のふもとの岸壁での水難事故らしかった。
そこまで分かったのは、初日にしてはなかなかな成果だと思う。斗貴子さんなんか冷静な顔しながらも、明日は岬を徹底的に調べるぞ、なんてすでに息巻いている。
靴を脱いで敷居をまたぐと、割烹着の女将さんが笑顔で出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。楽しんでこられました?」
はい、と答える。斗貴子さんと一緒にいるだけでも楽しいので、別に嘘じゃない。
「それはよかったですね。あ、お食事は何時になさいますか?」
斗貴子さんを見ると、別に何時でもいい、といった感じで肩をすくめていた。
「何時でもいいんですか?」
「ええ。あんまり遅くてはなんですが……」
「うーん」
こういうのに答えるのって何だか気を使ってしまう。今は大体六時くらいで晩ご飯にはまだ早いし。だからといってお腹が空いてないわけじゃないから。ああ、斗貴子さんがスパッと答えてくれたら楽なのになぁ。
「じゃ、今から温泉に入ってこられたらどうですか? 上がってこられる頃には準備は整ってますでしょうし」
女将さんがぽんと手を打って案を出してくれた。温泉か。
「あ、じゃあそれでお願いします」
なんだか助かった。
「温泉は少し離れたところにありまして。表の通りを海に向かって、二つ目の角を右に曲ってすぐのところです」
はーい、と返して、俺と斗貴子さんはトントンと階段を上がって部屋へと向かった。
と。部屋の前に着いたところで斗貴子さんが俺を押し出すようにして中に入れてくれない。
「や、なんで?」
「浴衣に着替えるからに決まっているだろう」
ああ、なるほど。浴衣に着替える、という考え自体がまず俺の中に無かったから、なんだかすごい新鮮な気分になった。斗貴子さん、浴衣も似合うのかな。なんだか申し訳ない想像になりそうだったから、あわてて打ち消した。
「しばらくここで待ってなさい。次にこのふすまが開くのは、私が着替えて出てくる時だ。だから何があっても、あけるな。いいな? もしも、不埒なことを考えた、そのときには」
ぶわぅっ、と斗貴子さんの背面から殺気に満ちたどす黒い瘴気が滲み出す。凄惨な微笑み。ガクガク、なんて音を立てて膝が震え上がった。
「キミを、コロス」
ギラリと錬金の戦士の目になって斗貴子さんが告げる。恐怖に抗うように必死に冷や汗まみれの頭を縦に振る俺を見てから、よし、と納得してようやくふすまを閉めた。
それからしばらく拷問が続く。ふすまは薄く、部屋の音を容易にこちらへ伝えてくる。軽い、衣擦れの音。ガソゴソ、なんて音にまで余計な意識が回って変な想像が働いてしまう。
そして斗貴子さんが着替え終わって出てくる頃には、風呂に入る前だというのにすでに茹で上がったように真っ赤な顔をした武藤カズキが一丁上がり、となっていた。
旅館から歩いて五分もかからない、温泉はいい感じに古びてて何となく落ち着いた雰囲気が出ていた。
じゃまた後で。そう言い交わして中へと入る。
どうやら『親海荘』を利用している客専門の温泉らしくて、脱衣所には誰もいなかった。着替えを入れるかごの中身も全部空だったから、温泉独り占めだった。
さっき締めたばかりの帯をいそいそと外して、浴衣も投げ捨てるようにしてかごに放り込む。焦りすぎてパンツを脱ぐ時思わず転びそうになる。
温泉は久しぶりでわくわくする。風呂や銭湯が大好きな俺としては、温泉はもはや楽園に等しかった。一度温泉めぐりなんてやらかしたい、なんて思ってる。まひろはオヤジくさいなんて言うから、斗貴子さんを誘おうかな。来るかな。どうかな。
タオルを掴んですりガラスの扉を勢いよく開けた。
想像していたよりかなり広い、岩風呂だった。夕焼けの残る空へと立ち昇る白い湯煙。薫る硫黄。遠くに聞こえるさざ波の音が一つになって雰囲気をかもし出している。一気に気に入った。
辺りを仕切っているのは青竹を並べて作られた壁だった。斗貴子さんももう入っているのかな、なんて思って大声を上げた。
「斗貴子さーん、いるー?」
「まったく……大声を出すんじゃない」
ガラガラ、と隣りの引き戸を開けて呆れた調子の斗貴子さんが姿を現した。
……あれ?
しばしポカンとする。あれ? なんだか頭がよく回らなかった。ちょっと、あまりに、わけが分からなかった。
あれ? なんで? 斗貴子さん? え?
タオルで前を隠した姿勢のまま、斗貴子さんもしばし固まっていた。状況を理解するには、お互いに、しばらく時間が必要だった。
先に正気に戻ったのは斗貴子さんだった。カッ、と顔を真っ赤に染めて、バッと後ろを向く。それでも根本的に解決してないのは、斗貴子さんも混乱しているからだ。
次に、後ろを向いた斗貴子さんの、可愛いお尻が目に入って、俺も意識を取り戻した。自分でも何を言ってるかわからない叫びを上げて脱衣所に飛び込む。
バクバクと心臓の高鳴りが耳うるさく響く中、目に入ったのは脱衣所のすみの洗面台の脇にまるで隠れているようにさり気なく貼られた上が半分取れかかって被さっている……
つまりマトモに文字を確認も出来ない張り紙だった。指でつまんで持ち上げて見る。
『混浴です』
さり気なさすぎだ!
俺をはめた忌まわしき貼り紙をクシャクシャにしてから丁寧に手でシワを伸ばして分かりやすい場所に貼りなおしていると、すりガラスの向こうから斗貴子さんの声が聞こえてきた。
「カズキ」
「なっ、なにっ?」
思わず声が上ずる。頭に浮かぶのは斗貴子さんのあられもない姿、そして恥ずかしさで真っ赤に染めた顔。
不意に耳に鮮明に甦ってくる、十分ほど前のセリフ。
キミをコロス。
怒気を濃厚に溜めたそのセリフ。
俺はコロサレル。臓物をぶちまけてコロサレル……
四方八方から襲いかかってくるバルキリースカートが目に浮かぶ。死は、まぬがれない。
こんなことならもっとしっかり見ておくんだったなぁ。もう一度青汁が飲みたいなぁ。そんなものすごい勢いで現実を逃避し始めた俺の耳に届いたのは、予想外に落ち着いた声だった。
「入ってきなさい。風邪を引いたら、ダメだから」
恥じらいを抑えこんだその口調に思わずドキッとする。
「で、でも……」
「大丈夫だ。見えないところにいるから。それより、私が上がるまで裸で待っているわけにはいかないだろう?」
うっ、と言葉が詰まる。反響して届く斗貴子さんの声には、なぜか抗えないような響きがあった。
「じゃ、じゃあ……」
腰にタオルを巻きなおして、隙はないかどうか入念にチェックを入れた後、目をつむってゆっくりと引き戸を開けた。
二度目の浴場はさっきより狭く見えた。空の色なんか目に入らない。温泉の匂いなんてしない。さざ波の音なんて全然聞こえなかった。
深呼吸をして、ゆっくりと湯船を見回してみる。
真ん中ほどの大きな岩の陰に、斗貴子さんの白い肩が見えた。ヒドク、緊張していくのが分かる。
洗面器でかかり湯を浴びてから、静かに湯の中に身を沈めていく。いい湯だった。温かさで、なんとか気持ちが落ち着いてくる。
俺は岩に囲まれた湯船の中をゆっくりと体を滑らしていく。そして大きな岩を背にして溜め息をついた。岩の向こう側には斗貴子さん。
なんだか間抜けな構図だなぁ、と思って知らず知らず苦笑がもれた。
しばらくお湯に体を預けていると、内側からじわじわと温まってきた。思わずもらした、ふぅ、という吐息が重なった。
海から流れてきた風が湯煙をさらっていく。硫黄の薫りがつんとした。
「……いい、湯だな」
「……うん、気持ちいい」
段々と暗くなってきた空、さざ波が鮮明だ。
二人して長々とつかって、ようやく着替え終わって出た頃には辺りは真っ暗で月が水平線近くで輝いていた。
月を背に、自分たちの影を踏みながら宿へと戻る。
カランコロンという下駄の音。涼風に身をゆだねているうちに暑さは引いていった。月から見守られながら旅館へと戻っていく。
今さらながら、浴衣を着た斗貴子さんは何だかすごく似合ってて可愛かった。ほんのりと上気した頬が色っぽく感じる。
裾とか、ダメだと分かっているけれど思わず目がいってしまう。
「……どこを見てるんだ?」
「ご、ごめん!」
「ほんとに、男の子というのは……」
呆れたという風に斗貴子さんはいう。
「や、だって斗貴子さん……色っぽいし……」
「……だから、そういうことを軽々しくいうんじゃない」
「ご、ごめん……」
そんなことを話しているうちに旅館に着いた。待ってましたという女将に先導されて部屋へと入ると、部屋の隅に立てかけられていたテーブルが部屋の真ん中で、デン、と居座っていた。
そしてその上にはさらに、デデン、と舟盛りが居座っていたりする。鯛だ。鯛だった。
「おかわりなら、たっくさんありますから」
テーブルの足の横には、デデデン、とおひつが存在を主張している。
唖然とする俺と斗貴子さんを尻目に、女将さんは自信に満ち溢れた調子で言った。
「若いんだから、もりもり食べないと。元気出して、精をつけて、子供をたっくさん作らないと!」
ばんばんと俺の背中を叩きながらウフフと袖で顔を隠しながら笑っている。
俺は、なんというか、固まってしまった。こ、子供!?
「それでは、後ほど片付けに参りますのでごゆっくり……」
スッポンもありますから。コッソリ言い残して嵐のような女将さんは去っていった。
残されたのは豪華な料理と少々気まずい雰囲気。もそもそと席に着いて、斗貴子さんによそってもらったご飯を片手に刺身に箸を伸ばす。
「うまいっ!」
「いちいち声を出すんじゃない」
そんなこといいながら斗貴子さんだって、ほぅ、とか、ほほぅ、とか言ってる。まぁそれほど美味いのだ。
夢中で食べて、気が付くとおひつが空になっていた。舟盛りはつまの大根も含めて一切れ残さず平らげてしまった。
女将さんがしつこく勧めるスッポンの血は、丁重にお断りした。
遊びに来たわけじゃない、と斗貴子さんは言うけれど、彼女と過ごす時間はとても楽しかった。
そして嬉しい。
今だけ、ホムンクルスも全部忘れてただ、一緒にいる喜びをかみしめたかった。
「ああっ!」
まるで絶望したかのように斗貴子さんは顔を歪めて叫んだ。気持ちはわかる。手にとるようにわかる。
それは失敗。それはつまづき。それはうろたえ。
それは敗北への序曲。
「へっへー、しくじったね斗貴子さん」
くっ、と悔しがる素振りを見せて斗貴子さんは手を使って隠した。後ろを向いて、俺に見えないようにしながらゴソゴソと手元を動かしているのがよくわかる。上か下か、右か左か。
「くぅ……」
切羽詰っているのだ。それでも、俺の攻撃を受けねばならない。どこを攻められるかも分からない。だからこそ恐ろしい。彼女の悩みを俺は全て見透かしている。
「そんなことをしても無駄無駄無駄。なにせ武藤カズキは……」
「ええい黙れっ!」
やがて、観念したのか斗貴子さんは念入りに気を配りながらもう一度こちらを向いた。
「さぁ、どこからでも来るがいい」
うわべだけだとしても、自信有りげに笑っている。俺はゆっくりと手を伸ばした。
左の方へ。次は右へ。しかし途中で折り返して真ん中で止める。俺の指が少しでも動く度に、斗貴子さんの表情は微妙に変わっていく。
俺がどちらに手を伸ばすのか、悪い想像が頭に浮かんでいるのだろう。
斗貴子さんの白い喉が、ゴクリと鳴る。
一瞬の隙。手を伸ばした。弾けるようにそれを手にし、めくる。
「ああっ!!」
そしてハートのAとスペードのAが俺の手から滑り落ち、斗貴子さんの手には不敵に笑うジョーカーだけが残った。
「何を隠そう! 武藤カズキはババ抜きが大の得意!」
10連勝である。そんなバカな、と呟きながら畳に突っ伏す斗貴子さんの顔には二個目の落書きが書き足されることになっている。
『罰ゲーム:五敗ごとに落書き一回』
そして俺の手から描き出された美しき曲線。
ブツブツと文句を言いながら顔の汚れを洗い流している斗貴子さん。俺は部屋の窓から海辺の方をながめている。
潮騒の香り。何故だか懐かしさを感じるそれは、昔々の、思い出せないくらい昔の記憶が呼び起こさせているのだろうか。
この穏やかな海に面した町で、良からぬ事が起きている。そしてその原因は多分ホムンクルスで。
偽善者だと告げた蝶野の顔が一瞬浮かんでは消えた。正しいことをしているのか、ただの偽善なのか、戦士となった今でもその答えを見つけることは出来ていない。ただ、それが正義なのだと信じて闘おう。そう決めてから少しの時間が経とうとしている。
窓から見える町並み。いま一つの明かりが消えた。それでもそこには人が生きていて、誰かが暮らしていて、また明日が来るのが当たり前の日常。それを守りたいな、と思う。
その気持ちは、偽善じゃないはずだ。
「まったく、よりによって油性マジック……」
手ぬぐいで顔をゴシゴシしながら斗貴子さんが洗面所から戻ってきた。
「カズキ! 一体なんだあの『肉』の文字は! だというのにドジョウヒゲ! 何と何のミックスだ!?」
「和中折衷といったコンセプトで」
毒づきながらもしっかりと綺麗な顔に戻している辺り斗貴子さんも中々。負けた腹いせに不貞寝するかのように、斗貴子さんは布団の中へともぐりこんだ。
「明日は朝から出かける。キミも早く寝なさい」
敗者にかける言葉ナシ。この場合何を言っても神経を逆なでしてしまうことは経験上よく知っているので、斗貴子さんのいうとおりにしておく。立ち上がって、電灯のスイッチに手をかけた。
一瞬窓から目を離した。背中で聞く、嫌な音色。それは不意打ちのようで。俺はバカみたいにその音に反応した。
赤色灯はグルグルとこちらを照らして、サイレンは心臓に圧力をかけてくる。
何台ものパトカーは、海岸線に吸い込まれるように、岬へと向かっている。
急いで着替えて一階に駆け下りると、女将さんと従業員の人たちが玄関口でなにやら話し合っていた。こちらに気付いた女将さんが、しまった、という風に顔をしかめてやってくる。
「お騒がせしてしまったようで申し訳ありません。大事ではないですから……」
「女将、なにがあった」
理由も言い訳も求めずに、事実だけを斗貴子さんは聞く。
「いえ、物騒なことではないですから」
「自殺騒ぎは日常か?」
はっ、と女将さんの表情が変わる。それを答えと受け取ったのか、斗貴子さんはふむと腕組みをして何やら考えている風だ。
自殺騒ぎ。ホムンクルス。
俺は今すぐにでも飛び出していきそうになったけれど、斗貴子さんの答えを待った。俺たちはパートナーで、錬金の戦士だから。戦士は、冷静でなくちゃならないと、ブラボーに厳しく教えてもらってもいる。
「あの、他のお客様には」
「あ、大丈夫です。別に言いふらそうだなんて事はないですから」
俺の答えに女将さんは、ほっと溜め息を吐いた。やっぱり景気が悪いのかな、と何だか気の毒に思う。
そわそわと落ち着かない女将さんや従業員さんたちの中で、斗貴子さんだけが冷徹な戦士の判断をくだそうとしている。やがて口を開いた。
「行こう、カズキ。ここは行動するべきだ」
「よし!」
女将さんが制止する間もなく、自転車レンタルを言い残して俺と斗貴子さんは民宿を飛び出した。
後ろに斗貴子さんを乗っけて自転車の二人乗り。ママチャリは軽快にチェーンを回して、岬までは五分とかかるまい。
胸の核鉄が熱い。
曲りくねった上り坂を立ちこぎで何とか乗り越えると、すぐに事件現場に出くわした。不気味に回る赤色灯がすごくわかりやすい目印になっている。不謹慎か、思い出すのは火曜の夜9時。
自転車を止めて岬の先へ。ゴクリとツバを飲み込んだ。背筋が震えて、悪寒は痛々しく首の周りを這いずり回っている。
夜の闇の中でバシャバシャとフラッシュが焚かれているのだけれど、浮かび上がる造形は赤いハイヒール。それ以上足を進めることは出来ない所に脱がれた、真っ赤なハイヒールだった。
自殺の痕跡だった。
「まだそうだと決まったわけじゃない。気を抜くのは禁物だ」
俺の心を見たように斗貴子さんは釘をさした。確かにまだ自殺と決まったわけじゃない。しっかりと気を保つ。
しかし願わくば、自殺は決してダメだけれど、なるべく、ホムンクルスよりそっちの方がいいような気がした。
「ちょっと、なんだ君たちは……ああ、観光客か」
黄色いテープを張ろうとしている警察官がこちらに気づいてやってくる。観光客だとすぐにわかったのは、やっぱり狭い土地だからだろうか。それとも、地元の人は見物になどこないからだろうか。あまりにそれが日常だから。
「遊びじゃないんだ」
「責任者を呼んで欲しい」
斗貴子さんが一歩進んで言った。警官の人は一瞬おっ、というような顔をした。
「情報提供かい?」
「そんなところだ。一刻を争うから」
わかった、と言い残して警官の人は駆けさっていった。てっきり嫌味の一つでも言われるのかと思ったけれど、やっぱり何でもかんでもドラマやテレビの通りではないらしい。
良かった。何が良かったって、斗貴子さんともめてから大怪我せずに済んだから。流石に一般人をブチ撒けないとは思うけれど。
背広を着たおじさんが、いかにもといった感じでやって来た。
「カズキ、君はここで待ってなさい。少しの間だけだから」
そう言って斗貴子さんはさっと黄色いテープをくぐって行ってしまった。正直話に加わってみたいなんていう好奇心はあるけれど、やっぱり遊びじゃないし邪魔にしかならないだろうから我慢しなくては。
黄色いテープの外側でブラブラと歩き回る。出っ張った岬の周りは森になっていて、町から伸びてくる舗装された道路以外通れそうもない。崖に寄ってみた。目もくらむような高さで、とてもじゃないけれど飛び降りる気にはならない。
風が吹いた。強くて、目をつぶった。ザパンと、波が崖を打ちつける音がサイレンに混じってちょっと聞こえる。
赤色灯は気持ちが悪い。自殺だなんて、俺はやっぱり嫌だと思った。生きていればいいことある。甘いとか、何も知らないとか言われそうだけれど、絶対にこれが合っている。生きてさえいれば、いつかはきっといいことがあるんだと信じて、生きないと。
――偽善者め――
「かもしれない……わかってる。でもやっぱり……」
蝶野にも、生きてればいいことがあるのだろうか? ホムンクルスは生きてはいないのだろうか? 闘うということはなんなのだろう?
迷いは隙を生み、死に直結する。ブラボーが言っていたセリフが浮かんで消えた。
俺は生きたい。そのために闘っている。俺の周りの大切な人を守りたい。だから闘う。
偽善者。でもいつかは、本当の正義になれるかもしれないから、迷わない。
そう、決めた。
岬の方にもう一度首を向けると、赤色灯を背負ってまるで影絵のように動き回る人々が見える。なぜだかひどく気持ちの悪い光景に見えた。人が死んだ場所だというのに、まるでいつものことだという風に手馴れた感じがして、どれもこれもまともに見えない。
誰も悲しんでなんかない。怒ってもない。
この町はおかしいんじゃないかって、今初めて考えた。
無機質な影絵の中で、俺は斗貴子さんの姿を探した。すぐにみつかった小柄な背格好。話に区切りがついたのか、影絵の舞台を離れてゆっくりとこちらに歩いてくる。
「話はついた。錬金の戦士の名が通ってよかった。署に寄れば資料を見せてくれるらしい……カズキ?」
「斗貴子さん、この町はなんだか、変だ」
「……ああ、狂ってるんだ。嗅いでみなさい。空気にも、血のにおいが混じってる思わないか?」
ドキリとした。においどころか、息を吸うのも束の間忘れた。
「冗談だ。原因を除けば町は元に戻る。死ぬことが、特別になる……」
言いながら、乗ってきた自転車に斗貴子さんがまたがった。
「帰ろうか。今日はもう休もう」
「えと、斗貴子さんがこぐの?」
「不満か?」
「滅相もない」
後ろの荷台に腰を下ろしてから、いいのかな、なんて思いながら恐る恐る斗貴子さんの腰に手を当てた。
「カズキ」
「は、はい!」
「もっとしっかり掴まないと振り落とされるぞ。帰りは下り坂だから」
ん、と斗貴子さんがうながすから、両手を腰に回してしっかりと組んだ。華奢で、柔らかくて、少し恥ずかしい。
「よしっ!」
潮の香りに混じって、シャンプーが香った。