白銀の月を背に、夜空を浮遊する黒い影。
それは蝶の翅をひらひらと翻しながら緩やかに下降し、優雅な仕草で地上へと降り立った。
丁度、帰途に着いたばかりの桜花の前に。
「あら」
校門を出たところでパピヨンと出くわした桜花は、さほど驚くことなく足を止めた。
何しろ相手は神出鬼没の蝶人、どこで出会っても不思議ではない。
「どうしたの? 武藤くんならとっくに帰ったわよ」
「ただの散歩だ。貴様こそ、今頃下校とは随分ゆっくりだな」
校舎の時計は午後八時過ぎを差している。確かに早い時間とは言えない。
「腹黒女がこんな遅くまで学校に残って、一体どんな悪巧みをしているのやら」
「失礼ね」
冷ややかに目を細め傲慢な物言いで揶揄するパピヨンに、桜花は肚の底を読ませない完璧な微笑で応じる。
「もうじき生徒会の選挙があるのよ。その準備や、過去の書類のチェックで忙しいの。
――そんな学校行事、誰かさんはとっくにお忘れでしょうけど」
腹黒だの悪巧みだのと言われた仕返しに、少しの皮肉を付け加えることを忘れない。
別に本気で腹を立てているわけではなかった。
基本的に他人に対しては無意識にも優等生を演じている桜花にとって、パピヨンは気の置けない知人であり、
気取らず飾らず、素顔で接することが出来る数少ない相手だ。
「口の減らんヤツだな」
呆れたように鼻を鳴らすパピヨンも、特に気分を害した様子は見せない。
「弟はどうした?」
「秋水君なら剣道部の合宿で出掛けてるわ。ゴゼン様から聞いてない?」
「知らんな」
「そう言えば、今日は一緒じゃないのね」
パピヨンの周囲を見回し、自身の分身とも言うべき自動人形の姿がないことを桜花は確認する。
「何か誤解していないか? 俺とアレは始終一緒にいるわけじゃないぞ。アレが勝手に俺にまとわりついているだけだ。
この際だから言っておくが、貴様も飼い主ならきちんと躾けろ。あれが欲しい、これが食いたいとぎゃーぎゃー煩くて
かなわん」
「そうなの。ごめんなさいね」
ここぞとばかりにまくし立てるパピヨンに、桜花は口許を指先で覆い、くすくすと笑いながら詫びた。
ゴゼンが疎ましいなら桜花から核鉄を取り上げてしまえばいいものを、パピヨンが桜花に核鉄の返却を迫ったことは
一度もない。
それが桜花の知る現状であり、その事実に特別な意味を見出す必要もないと彼女は思う。
「ゴゼン様には今度よく言い聞かせておくわ。――それじゃ、ね。ごきげんよう、パピヨン」
よそ行きではない笑みで桜花が別れを告げると、パピヨンは「まぁ待て」と引き止めた。
「そう慌てるな。急ぎの用でもあるのか?」
「いいえ。家に帰るだけだけど……貴方こそ、私に何か用でも?」
「最近は何かと物騒だ。貴様のような腹黒女でも夜道の一人歩きは感心せん。送ってやるから感謝しろ」
「……貴方が?」
「なんだ、その思い切り不服そうな顔は」
整った顔を目一杯嫌そうに顰めた桜花を、これまた不本意とばかりに眉根を寄せたパピヨンが覗き込む。
桜花は実に盛大なため息をついた。
「ご親切は有り難いのだけれど、貴方と一緒に歩いて私まで変質者と思われるのは、正直ご遠慮申し上げたいの」
世間では“蝶人”として妙に好意的な支持を集めているとは言え、パピヨンの恰好はどう見ても不審者そのものだ。
実際の関係はどうあれ、人として到底受け入れ難い感覚の持ち主と、知人認定される事態だけはなんとしても
避けたいと言うのが桜花の本音だった。
「変質者とは聞き捨てならんな」
不満を声に滲ませ、パピヨンが不敵に笑う。
「この蝶・素晴らしいセンスが判らんとは、貴様の美的感覚もたかが知れているな。忘れているようだから教えてやるが、
俺は林檎の園の子羊達から蝶々の妖精さんと慕われるほどの紳士だぞ」
「あらあら。大事なお友達に、人としての尊厳を捨てるよう勧める方が紳士だなんて初耳だわ」
とある女学院での出来事を思い出し、激しい頭痛に襲われた桜花だが、こめかみを引き攣らせながらも負けじと
笑顔で応戦した。
「子羊の皆様も気の迷いから覚めてらっしゃる頃じゃなくて。ああ、そう言えば、どこかのご令嬢とのお約束は
キャンセルになったままかしら。お気の毒だこと」
生き生きと毒舌を吐く桜花を、パピヨンがせせら笑う。
「なんだ、貴様、それは嫉妬か?」
そして、一瞬沈黙が落ちた。
お互いに無表情で相手を見つめる、奇妙な間。
先にそれを破ったのは桜花だった。
「嫉妬? 私が? 貴方に?」
小首を傾げ、大輪の花が咲くようににっこりと可憐に笑ってみせる。
それは、彼女に憧れる人間が目にしたなら声もなく見惚れるに違いない極上の笑みだが、その実感情と言うものを
全く伴っていなかった。
疑問符を畳み掛ける声はどこまでも明るく、全てを凍てつかすように冷たい。
小さく舌打ちし、パピヨンが桜花から目を逸らす。
「……失言だ。忘れろ」
再び沈黙。
やがて、桜花の肩が小刻みに震え出し、苦りきった声でパピヨンが言った。
「いつまでも笑うな」
「だって」
桜花は堪え切れずに声を立てて笑う。
「貴方がらしくもないことを言うから」
「天才にも間違いくらいはある」
「そうね」
笑い過ぎて目尻に滲んだ涙を指先で拭いながら、桜花は素直に頷いた。
そして、まだ立ち去る気配のないパピヨンを見て思う。
もしかしたら、パピヨンは最初から桜花を送るつもりでいたのかもしれない。
秋水の不在も、桜花が遅くまで学校に残っていることも、その理由も全て知った上で、夜道を一人で帰ることになる
桜花の身を案じ、わざわざ様子を見に来たのではないだろうか。
あくまで偶然を装う為に、情報源であるお喋りなゴゼンはどこかに置いて来たと考えるのも、あながち的外れでは
あるまい。
問い質したところでパピヨンはきっと鼻であしらい、きっぱりと否定するだろう。
だが、奇天烈極まりない外見からは想像がつき難いものの、目の前の男が、一本芯の通った真摯な心の持ち主だと
いうことを、桜花自身が既に知っているのだ。
舌戦には勝利したようだが、別の何かで負けてしまった気がする。
悔しい、と桜花は声に出さずに呟き、こっそり苦笑いを浮かべた。
気を取り直し、パピヨンに向かってすっと手を差し出す。
「パピヨン」
「なんだ?」
「私のことが心配なんでしょう? 折角だから、送らせて差し上げてもよろしくてよ?」
パピヨンの顔が、苦虫を噛み潰したように険しく歪んだ。
「……つくづく可愛げのない。誰も貴様の心配などしておらん」
そう言いながら、パピヨンは桜花の手の甲を軽く打つ。
返す手で華奢な手首を掴んでぐいと引き寄せると、そのまま桜花を抱き上げ、夜空へとその身を躍らせた。
「きゃっ!」
風を切って上昇する躯、見る間に地面が遠ざかる。
桜花は取り落としそうになった鞄を慌てて抱きしめた。
パピヨンの腕の中からそろりと視線を巡らせれば、人の姿は米粒ほどの大きさになり、いくつものビルの屋上が
遥か足許に見える。
「人目につかなければいいんだろう」
パピヨンがぶっきらぼうに言った。
その声が拗ねているように聴こえたのは桜花の気の所為か。
「それはそうだけど……」
これはこれで却って目立ちそうだが、地上からでは顔の判別はつかないだろうと桜花は無理矢理自分を納得させた。
それに、生身のままで空に浮かぶという経験も滅多に出来るものではない。
眼前に広がる夜の街は様々な灯りが瞬き、まるで星の海のようだ。
「……綺麗ね」
桜花は顔をほころばせてパピヨンを見上げた。
「お気遣いありがとう。蝶々の妖精さん」
桜花の言葉に、パピヨンは満足げに笑う。
桜花はパピヨンの首に両腕を回すと、感謝を込めて冷たい頬にキスをした。
――了