今日も一日が終わる。
最後の客を笑顔で見送り、変態バーガーもとい某ファーストフード店の店員さんである彼女は、
もうひとふんばり、と元気よく閉店作業に取り掛かった。
店の前を軽く掃除し、看板を店内に仕舞おうとする彼女の背後に、黒い影が音もなく降り立つ。
「なんだ、もう閉店か」
低いが張りのある声は、彼女にとって充分すぎるほど聞き覚えのあるものだった。
「パピヨンさん!!」
振り返った彼女の顔に満面の笑みが浮かぶ。
客に対する仕事中の笑顔とは違う、ぱっと輝かんばかりのそれは、恋する乙女の表情だ。
蝶を模したマスクと、バレエダンサーのような全身にフィットした衣装をまとい、その奇抜な
格好とは不釣合いに美しい立ち姿をした異形の男に向かい、彼女はぴょこんと勢いよくお辞儀をした。
「こんばんは」
声が上ずらないようにと気をつけながらパピヨンに話しかける。
「お久しぶりですね。お忙しいんですか?」
「まぁ、それなりにな」
パピヨンはいつものように尊大な態度で彼女を見下ろし、それから電気の消えた看板に目をやった。
「近くまで来たついでにと思ったが……店仕舞いの時間では仕方ないな」
「そんな。大丈夫です、どうぞ」
「いいのか?」
そう聞きはするが、訊ねる口調に遠慮する気配は欠片もない。
パピヨンは、看板を抱えた彼女と共に優雅な足取りでドアをくぐる。
「名誉店長を追い返したりなんて出来ません。折角来て頂いたのに」
「折角、じゃない。ついでだと言っただろう」
すかさず入った訂正の言葉に彼女は小さく笑みをこぼした。
よく判らないが断固として譲れないこだわりがあるらしい。
「判りました。ついで、ですね」
お客様の機嫌を損ねないようしっかりと同意すると、パピヨンがうんうんと満足そうに頷く。
なんだか楽しそうだ。
そう思って、彼女もまた楽しくなった。
「お疲れ様でした」
彼女はコーヒーを載せたトレイをそっとテーブルに置いた。
湯気を立てるコーヒーは当然店内最高級品、それにカスタードパイのおまけ付だ。
「いつもながらサービスのいい店だ」
パピヨンはカップを手に取り、ふん、と鼻を鳴らす。
美味そうにコーヒーを飲むパピヨンを見つめ、サービスがいいのはこの人の方だと彼女は思う。
有名人である蝶人・パピヨンの来店に、店内に残っていた他の店員達も驚き歓声を上げた。
握手やサインをねだったり、携帯電話で写真を撮ったりと、パピヨンを取り囲んではしゃぐ店員達に
対し、彼は嫌な顔一つ見せることなくその要望に応えていたのだ。
パピヨンは店を訪れると大抵そんな感じで、言動の端々からは気位の高さがうかがえるのに、
周囲への対応は実に気さくで、気持ちがいい程社交的なものだった。
頼まれなくとも妙なポーズを取っていることも多々あり、もしかしたら人の注目を浴びるのが
好きなのかもしれない。
正直なところ彼女はパピヨンのことを何も知らず、何を考えているのかも全く判らない。
凡人である自分には、蝶人を名乗る彼を理解することなど不可能だ、と自虐的に考えてみたりもする。
パピヨンとのしばしの交流を楽しんだ店員達が帰った後、彼女はパピヨンへの感謝も込めて丁寧に
コーヒーを淹れた。
パピヨンを煩わせないよう、店のドアは閉め、カーテンも下ろして貸しきり状態にしている。
二人しかいない店の中は静かだった。
ふたりきり、という言葉に彼女はささやかな幸せを噛み締める。
「おい」
不意にパピヨンが声を上げた。
カップを手に彼女を見上げる。
「お前も飲みたいのか?」
「いいえ?」
何故そんなことを訊くのだろうと不思議に思いながら、彼女はにこやかに首を振った。
「私は結構です」
「ならじろじろ見るんじゃない」
ぴしゃりと返ってきた言葉に、彼女は自分がずっとパピヨンを見つめ続けていたことに気づく。
ぱぁっと顔に血が昇るのが判った。
「すっ、すみません!!」
慌てて頭を下げるが、そろそろと顔を上げると、やはり視線は吸い寄せられるようにパピヨンへと
向かってしまう。
すると、彼女を見返すパピヨンとばっちり目が合ってしまい、彼女の躯はヘビに睨まれた蛙の如く硬直した。
どうしよう。
彼が帰るまでカウンターの中に入っていた方がいいだろうか。
おろおろと悩む彼女の姿に、パピヨンは仮面の下でその目を細めた。
おもむろに立ち上がり、身を屈めるようにして彼女の顔を覗き込む。
息も掛かる距離に、彼女は息を呑み、その瞳を大きく見開いた。
「……随分と物欲しそうな目をしている」
低い声が彼女の耳に届く。
まるで何かの呪文のようだ。
「コーヒーが目当てじゃないなら、何が欲しい?」
パピヨンがにやりと意地悪く笑う。
酷い既視感が緩やかなめまいとなって彼女を襲った。
こんなにも近い場所で彼の顔を見たことが前にもある。
口唇に甦る、冷たい感触。
夢の続きを見ているような、何処か現実感のない不思議な感覚に陥りながらも、彼女は間近に
迫るパピヨンをまっすぐに見つめた。
口唇が自然に言葉を紡ぐ。
「キス、してもいいですか?」
意識することなく口をついた言葉だったが、少し遅れて知覚した自分の声とその意味にも、
彼女は驚くことがなかった。
それが自分の先からの望みだったと素直に納得する。
目の前に立つパピヨン、以前に一度だけ、その口唇に触れたことがあった。
あの時パピヨンは、悪戯のように彼女に軽くキスをすると、突然の出来事に戸惑い、
腰を抜かして失語状態となった彼女を笑うだけ笑って帰って行ったのだ。
この先、一体どんな顔をして会えばいいのかと悩み混乱した彼女をよそに、その後も度々店を
訪れるパピヨンの様子は至って変わらず、拍子抜けすると共に彼女も徐々に平静を取り戻した。
夢だったかもしれない、そう思うことすらある。
だから確かめたかった。
あれが夢ではなかったことを。
口づけを許す程度には、心を許されているのだと。
以前の彼女なら、恋人でもない相手とのキスなど考えられなかった。
けれど今は、少しでもパピヨンに近づきたい。
目の前の彼に触れたい。
――たとえ、彼が他の誰かのものだとしても。
じっと、すがるようにパピヨンを見つめる彼女から、パピヨンもまた視線を逸らさずにいる。
ああ、マスクが邪魔だ。
彼女は少しじれったくなる。
彼の表情が、感情が、よく読み取れない。
「好きにしろ――と言いたいところだが」
ようやくパピヨンが口を開いた。
右腕が彼女の腰を抱き、ぐいと強く引き寄せる。
「ひゃ」
密着する躯に思わず奇声を上げた彼女の頬には、パピヨンの左手が触れた。
鋭い爪が柔らかな肌を傷つけることもなく、青白い指先は彼女の頬をしっかりと包み込む。
「生憎とされるのは好きじゃないんでな」
物憂げな囁きと口づけが、彼女の口唇に落ちた。
彼女は目を閉じ、パピヨンの胸許をきゅっと掴む。
やっぱり冷たい――。
記憶にあるキスと同じ温度に、彼女はあれが夢ではなかったと安堵する。
角度を変えて繰り返されるキスに、口唇を開き、おずおずと応えた。
心臓がとくとくと早鐘を打ち、つま先から感覚が消えていく。
夢でなかったと認識したばかりなのに、また夢の中を漂う心地になる。
自分のため息を遠くに聴き、呼吸が楽になったとぼんやり思う。
パピヨンの口唇が首筋に押し当てられていることに気づいたのはその瞬間だった。
冷たい口唇が首筋を辿る感覚に、紛れもない快感の欠片を覚え彼女は狼狽える。
「まっ、待って! パピヨンさん、待って!!」
後先を何も考えられないまま叫び、男の胸許をどんを突き飛ばしてしまう。
口唇は離れたが彼女の躯は未だパピヨンの腕の中にあり、突き刺さるような厳しい視線に
しまった、と思うのはその後のことだ。
「貴様……」
眉間に皺を寄せ不機嫌を露わにしたパピヨンを目の当たりにし、彼女の全身からは一瞬の内に
血の気が引いた。
「あ、あの、私……っ」
言い訳をしようにも口の中が乾いて舌が回らない。
「誘っておいて逃げるとは、いい度胸だな?」
低く、唸るようにパピヨンが言った。
最悪だ!
怒らせた、嫌われた。
絶望で彼女の顔面は蒼白になる。
どうしよう、決して嫌だったわけではないのだ。
なんとかしてそれだけは伝えたいと彼女は必死で言葉を探す。
――と。
パピヨンが俯き、くつくつと肩を揺らす。
「パ、パピヨン……さん?」
彼女がおそるおそる声を掛けると、パピヨンは笑いながら顔を上げた。
その表情から怒りは感じられない。
「欲がないな、オマエは」
「……はい?」
「他に誰もいないというのに、それ以上のことはねだらないのか」
それ以上のこと、をダイレクトに想像し、彼女はまたカーッと赤くなる。
「しょ、職場ですからっ!」
「なるほど」
合点がいったというようにパピヨンが頷く。
「神聖な場所か」
それもあるが、彼女は毎日ここで一日の大半を過ごすのだ。
キスだけでも思い出しては取り乱しかけるというのに、それ以上のことなどをしてしまった
日にはのた打ち回って仕事が出来なくなる。
しばらくは今日のことを思い出しては動揺を隠すのに苦労するだろう。
後悔はしていないが場所だけは考えた方が良かったかもしれない。
彼女は両の頬をぱたぱたと叩いて火照りを冷ます。
「やっと面白くなった」
「何がですか?」
「この頃のオマエは普通だからな。赤くなったり青くなったり奇声を上げたり、おたおたと
挙動不審でないとつまらん」
要はまたからかわれたと言うことだろうか。
「そんなので面白がらないでください」
彼女は、き、とパピヨンを睨んだが、彼を怒らせたわけではなかったと安心する気持ちの方が
大きく、情けなくも迫力不足は否めない。
それでもパピヨンが笑っているので、彼が楽しいならいいかと思ってしまう辺りが重症だ。
「何かに似ていると思ったら、あれだな。ハムスターだ。いつもちょこまかと落ち着きがない」
「……ねずみですか」
彼女はがっくりと肩を落とす。
どうせならもっと可愛い動物にたとえて貰いたい。
「不満そうだな。悪くないぞ。ねずみも」
「動物が好きなんですか?」
「悪くない。欲望に忠実で、生きることに貪欲だ。何より、嘘をつかない」
そう言って横を向いたパピヨンの目に、一瞬、昏い陰が差したように見えた。
まるで人間は嘘ばかりつくと言わんばかりの物言いだ。
心臓をきりきりと締めつけられるような痛みに、彼女は口唇を噛んだ。
パピヨンから信用していないと言われたようで悲しい。
怒らせて嫌われたと思った時よりも悲しかった。
「……私だって、パピヨンさんに嘘をついたりなんかしません」
彼女はパピヨンの横顔に小さく訴える。
心細さに震えた声では彼の心に届くまいと、己の不甲斐なさを呪いながら。
けれど。
「だからねずみだと言った」
返ってきた声は存外に温かかった。
「え?」
再び彼女を見たパピヨンに先ほど感じた陰は微塵もない。
その表情は明るく、陽気で自信と誇りに満ちて居丈高な、彼女がよく知るパピヨンの姿だった。
「そうだな。ねずみが気に入らないならうさぎにしてやろう」
「どうしてもげっ歯類なんですね」
「粗忽者。うさぎはげっ歯類じゃないぞ」
「そんな知識はどうでもいいです」
ちちちと指を立てて間違いを指摘するパピヨンに、彼女は脱力してうなだれる。
「似ているじゃないか」
パピヨンは手を伸ばし、曲げた指の背で彼女の目じりを軽く撫でた。
「目が赤いぞ」
「これはっ」
さっき悲しくて泣きそうになったからだと言うに言えず、彼女はもごもごと口ごもる。
パピヨンの手は頬を下り、彼女の短いお下げをくるりと指先に遊ばせた。
「耳もある」
パピヨンは笑い、うさぎで遊ぶのに気が済んだのか、彼女から離れて椅子に腰を下ろした。
とうに冷めてしまったカップを彼女に向かって掲げながら、
「似ているだろう? オマエは俺を見るとぴょこぴょこ跳ねるしな」
とくり、と。
パピヨンのなんでもない言葉に、心臓がまた音を立てた。
とくり。
それは、あなたが好きだから。
ただ恋しい人の姿を見かけるだけで、心も躯も躍るからだ。
この些細なやり取りに、彼女は今一度パピヨンに恋をした。
既に焦がれた人なのに、募る想いは限りがない。
「パピヨンさん」
彼女はパピヨンの傍らに立ち、その名を呼んだ。
「パピヨンさんは、うさぎは好きですか?」
“ワタシノコトガ、スキデスカ……?”
少しでも。
ほんの少しだけでも。
彼女の心を知ってか知らずか、パピヨンは薄い笑みを浮かべ平然と答える。
「嫌いじゃないな」
彼女にはそれで充分だった。
彼がうさぎを信頼に足る存在だと思っているのなら、それに彼女が似ていると言うのなら。
「パピヨンさん」
全てを自分に都合よく解釈しているだけだとしても、その言葉に勇気を貰った彼女は、
ずっと言いたかったことを口に出して言った。
「私、あなたが好きです」
少しも飾ることのない、心からの想い。
「そうか」
パピヨンの返事はそっけなかった。
「はい」
それでも彼女は笑顔で頷き、パピヨンは何事もなかったようにコーヒーとパイを口に運ぶ。
短い答えは、拒絶か容認か、それとも。
それ以上はお互いに何も言わず何も訊かなかった。
パピヨンがコーヒーとパイを片付けて席を立つまで二人は無言だったが、その沈黙さえも
彼女にはやさしく心地が良かった。
店を出るパピヨンの背に彼女は訊ねる。
「お味はいかがでした?」
「美味、だな。デザートにも力をいれているようで結構」
「ありがとうございます」
彼女は店員の顔で深々と頭を下げる。
「またいらしてくださいね? いつでもお待ちしてますから」
「当然だ。この店は気に入りだと言っただろう」
「そうでした」
彼が初めて姿を見せた日を思い出し、彼女は笑った。
パピヨンも何か思うところがあったのか楽しげに口許を歪める。
「またな」
「おやすみなさい」
別れの挨拶を交わすとパピヨンはふわりと宙に浮き上がり、あっと言う間に空高く
舞い上がって行った。
夜の闇に紛れてその姿はすぐに見えなくなる。
しばらく見送ってから、彼女も歩き出した。
次に彼と逢える日に想いを馳せながら、うさぎのように軽い足取りで。