ああ、と。
肌をなぞる口唇と指先に、気づけば吐息がこぼれた。
存外甘く響いたその吐息を他人事のように聞きながら、桜花はいつの間にか閉じていた瞼をゆるりと開ける。
自分を組み敷いた男と目が合ったが一瞬だった。
かすかに笑みを浮かべたようにも見えたが気の所為かもしれない。
男は、桜花の反応など大して興味のない素振りで顔を伏せ、桜花の胸許に何度目かのくちづけを落とした。
鋭い爪を持った大きな手が乳房を包み込み、太腿の内側からその中心へと指を這わす。
そつのない慣れた愛撫に肌は汗ばみ、淫らな熱が緩やかに躯を満たして久しい。
不規則に乱れる呼吸に快楽の色を滲ませて応えれば、胸許を責める手はなまめかしさを増して強く絡みつき、
奥に潜り込んだもう一方の指先は角度を変えながらより深くを探り出す。
無関心に見えて、桜花が見せる素直な反応には悪い気がしないらしい。
男の手によって確実に追い上げられていきながら、意識の中の何処か片隅はまだ醒めたままで、桜花は自分の
上の男の姿をなんとはなしに見つめていた。
闇のような黒い髪と、病的に白い肌、そして閨の中でも決して外されることのないマスク。
顔の大半を覆う蝶の形をしたそれは、互いに全裸と言う状況を考えれば滑稽を通り越して間抜けとしか言いようが
なかったが、既にそれを含めて相手の顔なのだと割り切っている桜花にとっては今更どうということもない。
慣れとは怖いものだと冷ややかに思い、桜花は思わず忍び笑いをもらした。
パピヨンが動きを止める。
桜花は、躯を起こしたパピヨンを見上げた。
「……どうしたの?」
「こっちの台詞だ。何を考えている?」
低い声が問う。
少し苛立ったような声に桜花は首を傾げた。
「そうね……あなたのこと、かしら」
「嘘をつけ」
パピヨンが鼻を鳴らして笑う。
桜花の言葉を信じていないのは明らかだが、不快げに歪められた顔は逆に楽しそうだ。
「あら、本当よ?」
そう言えば言うほど真実味がなくなることは百も承知で、桜花はくすくすと笑いながら間近に迫るパピヨンの顔を見つめた。
白蝋の肌はわずかに汗を浮かせながらも未だ青白く、熱と言うものをまるで感じさせない。
常には死体のように冷たい指先すら、肌に触れれば熱を帯びるのか、すっかり桜花の体温に馴染んでいると言うのに、
男の顔色は寧ろ更に血の気が失せたように見える。
本当に冷たいままなのだろうか。
桜花はパピヨンに向かって手を伸ばした。
桜色の爪をした指先が青白い頬に触れる刹那、パピヨンが桜花の手首を掴んでそれを遮る。
マスクに触れられるとでも思ったのか、パピヨンは険しい顔つきで桜花を見下ろすと、掴んだ手首をベッドに押さえつけ、
同時に空いた手で桜花の足を抱え上げた。
濡れた足の間に熱と硬さを持った昂ぶりが宛がわれる。
「あ……っ」
そのまま無言で貫かれ、桜花は自由になる手できつくシーツを握り締めた。
背がしなり、露わになった白い喉がどくりと震える。
衝撃は小さくなかったが、行為をよく知る躯は乱暴な侵入を無理に拒まず、それまでに与えられた刺激を糧に
やわらかく男を受け入れていた。
わずかばかりの苦痛を深く、ゆっくりとした呼吸と共に吐き出すと、過ぎ去った痛みの代わりに躯の内側をぴったりと
埋め尽くしたものの存在を強く意識せずにいられなくなる。
どくどくと脈打つそれがもたらす新たな快楽の予感に、男を飲み込んだ場所が貪欲にうごめく。
背中を這い上がる甘い疼きがひとまず通り過ぎるのを待って目を開けると、ごく間近にパピヨンの顔があった。
一見冷ややかな無表情の中に桜花の身を案じる気配を確かに認め、桜花はわざと恨めしげにパピヨンを睨む。
「もう……っ。あんまり乱暴にしないで頂戴」
「貴様がつまらんことを言うからだ」
パピヨンは桜花の抗議をあっさりと切り捨てる。
けれどその傲慢な声音の中にも安堵の響きが混ざり、予想通りの相手の反応に桜花は声を立てずに笑った。
先ほどの行為の何がパピヨンの気に障ったのか、それは桜花には判らないし取り立てて知りたいとも思わない。
パピヨン自身にもさしたる理由はないのではないかと思う。
一時の激情が桜花に乱暴な振舞いをさせても、それがただの衝動であるなら後に残るのは後悔だけだ。
聡明でプライドの高い男だから、自制の利かなかった己を恥じ、戸惑い、酷く腹を立てているだろうことは容易に想像がつく。
桜花に対し、少なからずばつの悪い思いを抱いているであろうことも。
だから桜花は、珍しくも自分をもてあましているだろうパピヨンの雑念を取り除いてやるべく、遠慮なく強気な台詞を吐いた。
「責任転嫁はみっともなくてよ?」
そしてにっこりと笑ってみせる。
老若男女問わず魅了すると自負している華のような微笑みに、少々の毒を添えながらパピヨンへ言外に伝える。
こんな可愛げのない女に罪悪感を抱く必要はないのだと。
手酷く扱われたことを気にしてなどいないのだと。
パピヨンは虚を衝かれたように一瞬目を丸くしたが、やがて喉の奥で低く笑った。
桜花の真意を正しく受け取った男の、その口唇にいつもの不敵な笑みが浮かぶ。
「減らない口だ」
いつになく楽しげに笑いながら、パピヨンが桜花の口唇をくちづけで塞いだ。
口唇から頬へ、頬から顎をなぞるようにして首筋に落ちたパピヨンのキスは少しくすぐったく、ささやかな刺激に
桜花は恥らうことなく声を上げる。
謝罪の言葉や気遣いなどはいらない。
腹の内を探り合い、憎まれ口を叩き合っている方が自分達には似合っている。
桜花はおもむろに片腕を上げ、パピヨンの首に手を回した。
今度は遮ることなく桜花の好きにさせたパピヨンの首を掴まえ、引き寄せてくちづけをねだると、応えたパピヨンが
それを合図としたようにゆっくりと腰を動かし始める。
浅く深く、緩急をつけて探るような動きに小さく喘ぎながら、桜花はパピヨンから手を離しシーツをしっかりと掴み直した。
苦痛は欠片ほどもなく、快感だけがゆるゆると躯中を満たしてゆく。
波のように引いては寄せるそれは繰り返す度に大きくなり、抗いようのないうねりに飲み込まれていく感覚が好きだ。
貫かれ引き抜かれ、また突かれ、繋がった場所から躯が壊れるような刺激が走る。
徐々に速度を増し激しくなる突き上げに躯中を揺さぶられ、息をするのも苦しいほどの快感に意識を侵食されながら、
桜花は瞳をこじ開けて自分を責め立てる男を見上げた。
ぶれる視界の中、珠のような汗を浮かべた男の顔が映る。
理性を完全に手放すことなく色欲に彩られた男の顔を、美しいと桜花は思った。
目が合うと、咬みつくような勢いでくちづけられる。
そうやって強引に奪われることすら快感だった。
舌を絡め合い、無心でお互いを貪り合う。
――ああ。
良かった、と桜花は思う。
口唇が塞がれていて良かった。
腕を押さえつけられていて良かった。
そうでなければ、男をかき抱いてすがりついてしまいそうだ。
好きだと口走ってしまいそうだ。
心にもない、薄汚い愛の言葉を。
折角の夜を嘘で飾るくらいなら、物のように乱暴に扱われた方がずっといい。
恋愛感情からパピヨンと肌を重ねているのではないのだから。
桜花がパピヨンを求めるのは、彼の中によく見知った闇を感じるからだ。
弟と二人、開かれた扉の向こうに見つけた新しい世界は明るい光に満ちて、夢のように美しかった。
時にやさしく、時に厳しく自分達を迎え入れてくれた世界には何の不満もある筈がない。
それでも、時折無性に恋しくなるのは錬金術の澱んだ闇。
たとえ間違いだとしても、姉弟二人きりの閉じた世界を繭のように包み込んでくれた昏い闇は、どうしようもなくやさしかったのだ。
組織が壊滅し、錬金戦団がその活動の大半を凍結した今となっては、二度と触れてはいけない、戻ろうにももう何処にも
存在しない甘美な悪夢。
手が届かないからこそ焦がれてしまうそれを求めて手を伸ばした先に、パピヨンがいた。
桜花が知る以上の闇をその身に棲まわせた男が。
危険だと思わなかったわけではない。
目の前で人を喰う姿こそ見たことがないものの、パピヨンの経歴は情報として知っていたし、怒気を漂わせた彼に
迫られた時には、正直死の恐怖を覚えすらした。
それでいて、桜花にはパピヨンが自分を傷つける筈がないという確信があった。
この世に――人の世界の理にパピヨンを繋ぎとめる人間が一人だけいるのだ。
パピヨンにとって唯一無二の存在である武藤カズキは、桜花にとっても誰よりも信頼の置ける恩人であり、
この明るく美しい世界の象徴のような健全な少年だった。
武藤カズキの存在がある限り、パピヨンもまた完全な闇にはなり得ない。
だから桜花は、安心してパピヨンに身をゆだねることが出来る。
もしも、ホムンクルスの本能を暴走させたパピヨンに喰い殺されることになったとしても悔いはなかった。
パピヨンを見上げ、桜花はうっとりと夢見るように双眸を細める。
――なんて愛しい、私の闇。
その闇を全身で感じたくて、或いはこの世で唯一、自分の望むものを与えてくれる男に快楽を返そうと、
桜花はその名の通り桜色に染まった白い足をパピヨンの腰へと絡みつけた。
揺さぶる動きと汗ですぐに離れそうになる足をしっかりと抱え、パピヨンが一際激しく腰を打ちつける。
最奥まで届きそうなほど鋭い律動に、桜花は波にさらわれるように絶頂へと押し上げられた。
息が止まり、貫かれた場所を中心に全身が強張る。
細かい震えが幾度となく躯中を走り、甘く痺れるようなその感覚に身悶えながら、薄い膜越しに放たれたものの熱さで
男もまた達したことを知った。
暫くは、どちらのものともつかない荒い息遣いだけが耳を打つ。
それが収まり、パピヨンがゆっくりと桜花から離れると、緊張の糸が切れた躯はその反動でぐったりと弛緩した。
全身を覆う疲労感は不快でこそないもののそれなりに大きく、桜花はのろのろと寝返りを打ってパピヨンに背を向ける。
すぐには起き上がるのも億劫で、行儀が悪いと思いながら足でブランケットを引き上げて肌を隠した。
背後ではパピヨンが後始末をし躯を整えている気配がする。
秋水とは事の後も子供のようにじゃれあって過ごしたものだが、パピヨンとそんなムードになったことは一度もない。
目を合わせ、キスをして、また触れて――無邪気にただ相手をいとおしむ行為は、自分にもパピヨンにも違和感が
強過ぎて、想像しただけで眩暈がしそうだ。
そんな面倒はパピヨンも好まないだろう。
そう考えて、時々桜花は不思議に思う。
何故、この男は自分を抱くのだろう。
パピヨンは実にあっさりと桜花の誘いに応じた。
それは、どれだけの駆引きと手練手管を要するかと覚悟していた桜花が拍子抜けするほどの気軽さで、
最初はパピヨンが逆に何かを企んでいるのではと疑ったくらいだ。
その疑いは既に捨てたが、パピヨンの真意は未だに判らずにいる。
始めに訊きそびれた為に今更訊ねる気にもなれず、訊ねたところでまともに答えるとも思えない。
些事でパピヨンの機嫌を損ね、この関係を失うのも嫌だった。
そんなことをつらつら考えていると、不意にパピヨンの手が頭にそっと置かれた。
桜花が眠っていると思ったのだろうか、パピヨンは何かを言うこともなく、その長い指で桜花の髪を梳くように撫でる。
桜花は全力で狸寝入りを決め込んだ。
触れる指先が酷くやさしくて、このまま本当の眠りに落ちてしまいたい。
桜花がパピヨンに誘いを掛けたのは、彼の闇が欲しかったからだ。
ではパピヨンは、桜花に何を求めたのだろう。
彼はこの行為に何か意味を見出しているのだろうか。
多分、その答えを桜花が知る必要はないのだ。
桜花が求め、パピヨンが応えた。
その事実だけが全てだという気がした。
――了