「そーだ変態さん。この前お兄ちゃんが探していたよ」  
鼻を口ごと隠しているから、声がくぐもって聞きづらい。  
そちらに耳を──超人の聴力を持っているのに──心持ち近づけたパピヨンは、怪訝な顔をした。  
「…探す?」  
それ自体は、街と人波の中を美しい姿で歩いたから不思議ではない。  
キレイな蝶が通り過ぎれば、誰もがもう一度見たがり、探すだろう。それと同じだ。  
「お兄ちゃん」とやらが探していても不思議ではない。パピヨンにとってはそうなのだッ!  
だが。  
(どうも引っかかるぞ。そもそもいつの話だ? 俺が超人になる前なら──…)  
一種の輝きを帯びた心当たりがいる。  
蝶野の家や花房や無表情な看護婦のせいで疲れ果て、沈む蝶野攻爵の記憶の中。  
(アイツは俺を探してた。アイツは俺を求めてた。どこかで、どこかで…)  
その姿を思い浮かべたパピヨンは、疑問をほどくのも止め、和んだ。  
つまる所、自分と蝶と同じ位好きなのだ。  
瞳を閉じて、顔上げて、耳を澄ませる。探すのは仕上げという名の初体験に臨むアイツの気配。  
盗撮されてるとも知らず、どんな偽善者振りを津村斗貴子に見せているのだろう。嗚呼、また見たい……  
「あーっ! そーだ!」  
鼻から手を離しての大声に、色々ブチ壊されたパピヨンが横目で睨む。まひろは鼻を隠し直した。  
「は、鼻はやめてね! 私も変態さんを探してたんだよ!  
お兄ちゃんの描いた似顔絵を見たり、水飲み場で三年生の人に聞きこみしたり……だから鼻はダメ!」  
探していたコトと鼻の関連性はよく分からないが。  
心当たりに近いフレーズが、褪せた記憶にありありと色を塗る。パピヨンは聞いた。  
「その後、突風が起きなかったか?」  
「えーとね。えと……うん。吹いてたよ。斗貴子さんなんかギックリ腰になっちゃ…  
あ、斗貴子さんはお兄ちゃんのカノジョでね、顔は恐いけどいい人で可愛くてスベスベなんだよー」  
「可愛いかどうかはともかく、大体分かった」  
パピヨンは天井を見上げると、深く長くため息をついた。思い返してみれば。  
自分を看護する真剣で懸命な始末の悪さも。  
一挙一動に付き合わせてしまう波長も。  
この部屋で最初に見せた顔も。  
(アイツに似ていたな…)  
 
勿論、まひろのいう「水飲み場の三年生」は他ならぬパピヨン自身のコトだ。  
(花房が死んだ翌日だったか。薬を飲もうとしていた俺に)  
声を掛けると、薬の量に驚いたのか愚にもつかないコトをいちいち聞いてきた。  
 
─そんなに飲んで大丈夫なんですか? 体弱いんですか?  
─まあね。それよりオレに何か用?  
 
さっさと切り上げたい会話だったし、その後の「用」が用だっただけに忘れていたが──  
(会っていた。俺は武藤の妹と。そしてコイツは蝶野攻爵と…)  
首を横に向け、改めてまひろを見る。  
誤解したのか「鼻はダメだってば!」と浮かべる警戒色は幼い。  
だがどうも全体的な見た雰囲気は妹という感じはしない。良くてカズキと同い年のそれだ。  
が、双子にしては髪の色が違うし、桜花と秋水のようにそっくりでもない。  
(二年の武藤の妹で寄宿舎にいるなら、一つ下か)  
フムフムと顎に手を当てつつ年齢を推測していると、まひろは不思議そうな顔をした。  
『変態さん』は突風やギックリ腰のコトを聞いてから、急に黙って顔を見て、勝手に頷いている。  
(なに考えてるのかな。  
気になるけど、さっき「少しはこちらの都合も考えろ」って言ってたから喋らない方がいいよね。  
そだ、鼻が見えてた方が変態さんも考えやすいかな? でも─)  
「鼻はつままないでね」と心の中で13回言った後、まひろは両掌を下げた。  
そして取りあえず笑ってみる。何だか必要な気がしたのだ。  
(何がおかしいのかは分からんが、武藤も早坂桜花を助けてこんな風に笑っていたな。  
あと似ている所と言えば─そうだな。鼻と、目許と、前髪のハネ方…それ位か)  
どうも似ている所が少ない。  
しかし兄弟でそっくりそのままの方が不気味ではないだろうか。誰かの様に。  
影が胸中を過ぎった。一種の落胆か、感傷か。  
(知りたくもない)  
『コの字』ことベッドサイドテーブルに目線を逸らす。そこにはコーラがあった。  
少し前に『コーラみたいな目』と言われたが、兄の方は果たして同じコトをいうのだろうか?  
妙なコトを考え込んでしまう。  
まひろは、会話が途切れてヒマなのか腹が減っただけなのか。  
手にしたフォークを、コーラの隣にあるリンゴの山に刺した。  
 
さくり。  
三切れのリンゴを串刺しにすると、まひろはその全部を口に放り込んだ。  
(以前よりおかしくなっていないかコイツ?)  
横目で見る顔は、ぶうぶうに膨らんだ頬を必死の形相で動かしている。  
どうもリンゴを頬張りすぎたせいで苦しいらしく、  
時おり困った顔で、小さな唇の間からこぼれる果汁を拭う。だが吹いても吹いてもキリがない。  
まるで動物型ホムンクルスの食事風景だな、と笑いつつ、パピヨンはふと考え出した。  
(そう言えば武藤が名を読んでいたな……何だったか)  
人間嫌いが他人の名を考えるのも珍しい話だが、当のパピヨンはそうも思わない。  
水飲み場での会話を懸命にたぐり始める。雰囲気はやや柔らかい。  
 
(ひょっとして私の名前が分からなくて困ってるのかも! だったら言っても大丈夫だよね)  
突然のアイディア。まひろは四苦八苦してリンゴを飲み込んで、口を開いた。  
「そだ、自己紹介がまだだったね。私の名前は──」  
「!!」  
パピヨンは焦った。  
ここで先に言われては負けではないのか!?  
(だが落ち着け。こういう時こそ落ち着け。思い出せ。俺が蝶を語った後、武藤は何て言った?)  
 
─まひろ、そろそろ昼メシにしようか。六舛達集めて先に先に玄関で待っててくれ。  
 
声が響いた。水飲み場で「用」を果たそうとした武藤カズキの声が。  
(俺から遠ざけようと呼んでたから間違いない。コイツの名前は──!)  
「武藤まひろだろ?」  
自己紹介を黒々しい笑みで遮ってやる。まひろは真っ白になって驚いた。  
取り落としたフォークが、床で跳ね、きりんきりんと甲高い音を立てた。衝撃だったらしい。  
「な、なんで知ってるの!?」  
「さあね」  
心底驚く顔に、嫌な感じのくつくつ笑いが一層深まった。実に楽しい。  
 
(前もこんな顔してたっけな)  
大口を開けて茫然自失と固まる顔に、黒い笑みがますます溢れる。  
思えば「変態さん」という呼び方も同じだ。進歩の無さを指差して笑ってやりたい。  
ありありと優越感を浮かべつつ、リンゴに手を伸ばす。  
それが胃の腑に落ちた頃。まひろが現世に復帰してきた。  
「ひょ、ひょっとしてお兄ちゃんに会ったの? お兄ちゃんから聞いたの?」  
「そんな所だね」  
「じゃ、会ったコトがなくても覚えててくれたんだ。ありがとー」  
(会ったコトがない、ね… まぁ好都合だけど)  
思い出されて色々聞かれてもつまらない。再びかじったリンゴは少ししょっぱい。  
鮮度を保つために塩水につけたせいだろうと、パピヨンは思った。  
(どうでもいいコトには律儀だな)  
さっぱりとした匂いを飲み込むと、まひろもフォークを拾い、リンゴへ伸ばした。  
先ほどかけられた曲こと『覚醒』は、延々とリピートされ  
時おりすごく濁ったシャウトが上がるが、二人は気にせずリンゴを食べる。もぐもぐ食べる。  
 
大浜は自室で困っていた。  
ベッドに座りながら時計を見ると、時刻は00:00を少し回っている。  
いつもならばブラボーが点呼に来る時間。だがどういうワケか来ない。  
早く外に戻ってラジオの続きを聞きたい。次に採用されれば、100通連続。その瞬間に立ち会いたい。  
「なのに来ない……どうしよう…六舛君に点呼を頼もうかな」  
CDラジカセを抱えたまま落ち着き無くキョロキョロしていると、ドアがノックされた。  
「スマン! 諸事情で遅くなったが点呼を取るぞ大浜真史!」  
返事は弾んだ。なんとかラジオを聞きにいける。良かった良かった。  
「よしブラボーだ! 今日はまったくブラボーだぞ! だからキミも彼女を作れッ彼女はブラボーだ!  
ああそうだ、朝になったら岡倉英之の様子を見てやってくれないか? ではまたな!」  
「な、なんでそんな嬉しそうなんですか!? 彼女はまだ…というか岡倉君に何か…あぁ行っちゃった…」  
嵐の様に去っていったブラボーと、そして岡倉に何があったかなど大浜は知らない。  
困惑が浮かんだが、再び部屋を出た。  
目指すは水飲み場、全てはラジオを聞く為に! 夢に向かえまだ不器用でも。  
 
まひろの部屋では、皿が空になった。  
 
ふぅっと息をついて、ちょっと食休み。  
リンゴを食べた。二人で食べた。  
まひろはとても満腹で満足で満悦で、満面の笑みは限りなく柔らかい。  
「リンゴ、おいしかったねー」  
ひょいと身を乗り出し皿を引く横顔から、甘ったるいリンゴの匂いがした。  
不思議に思ったパピヨンがよく観察すると、口元が果汁でベタベタしていた  
だらしない。食事風景は充分楽しんだからもういい。勝手なコトを考えた。  
「別に。と言うか口拭け。見ていて腹が立つ。オマエの兄はそうじゃないだろ」  
「えー… そりゃお兄ちゃんはちゃんと拭くけど、でもリンゴがいい匂いだからもったいないよ!」  
机の上に皿を置いたまひろは、くるりと振り返り力説する。  
ほれ見ろ、やっぱり武藤はしっかりしてる。上機嫌と不機嫌が半々になった。  
「いいから拭け。拭かないと両手で鼻をつねくり回すぞ!」  
「ちょ、ちょっと。そのキリキリはやめようね。鼻はダメだよ本当に」  
キリキリと十指を動かす似顔絵みたいなパピヨンを、まひろは冷や汗交じりに指差した。  
「そうだ変態さん! 何か好きなモノある?」  
話題を変えると、慎重に座った。手が届かない距離を測りつつ。  
 
「蝶!」  
「食べ物の話だよ! まさかちょうちょを食べるの!?」  
「最初にそう言え! 俺はいくら飢えようと蝶だけは喰わんぞッ!!」  
ただ殺しはする。採集した蝶を標本にしたコトなどいくらでもある。  
蝶にはそれが本望だと思っている。倫理はどうでもいい。美が残りさえばいいのだ。  
故に喰いたいとは思わないし、数多い嫌いなモノの中でも蝶を醜く喰うクモやカマキリは別格に嫌いだ。  
見れば徹底的に踏み殺し、爽快な気分を味わっている。  
(そう言えば安い例えだが…)  
花に擬態して蝶を喰う「ハナビラカマキリ」という生物がいるが、花房はそれだと思っていた。  
もっとも殺す時は鬱々としたままで、今の気分も翳り始めている。  
「良かったー 食べたらちょうちょが可哀相だもんね。あと、好きな食べ物教えてー」  
明るい声に何故かハっとしたが、返事はいつものまま意地悪い。  
「あったらどうせ、『あげるから鼻つままないでね』と頼むんだろ?  
だが断る! 好きな食べ物はないし、要求も却下だッ!」  
両手を稲妻なんたらの形でニタァっと笑うと、まひろは「う…」と言葉に詰まった。  
 
そして腕組みして一生懸命考え出す。  
どうにかして、鼻をつかまれない方法はないものか。しかし思いつかない。  
何が変態さんの幸せで何をして喜ぶか、分からない。  
(そういえば私、変態さんのコト何も知らないよね)  
どうして妙な格好で、なんで天井裏から落ちてきて、どんな職業なのか。  
知っていた方が楽しそうだ。鼻はどうでも良くなった。楽しいコトの方が大事なのだ!  
色々聞きたいコトも出てきたけど、まずはごくごく一般的なコトから質問開始!  
「ね、ね、変態さんの名前はなんていうの? お兄ちゃんとはどういう関係?」  
 
部屋に流れる『覚醒』が一旦途切れ、パピヨンも一瞬黙りはしたが、すぐ密やかな声で答える。  
 
「パピヨンさ。キミの兄との関係は…そうだね」  
殺し殺されで決着を必ず付ける間柄。そう言うのが適切ではあるし、パピヨンらしくはある。  
だがしかし、武藤カズキが何も説明していないのなら、そのままで良いかなとも思った。  
「強いて言うなら、キミと正反対って所かな」  
「せーはんたい?」  
オウム返しに呟くまひろに、パピヨンは念を押すように頷いた。  
「そ、正反対。よぅく自分のコトを考えたら分かるかもね」  
絶対に知られない自信を込めて、唇の端を吊り上げる。  
 
(コイツは武藤にとって、日常の象徴だろう。  
妹だからな。一番多く日常を共有している以上、一番守りたいヤツに決まっている。  
そして俺は武藤にとり、非日常の象徴さ)  
間接的に殺されたのが戦いを選んだきっかけで、戦士の道を歩むのも決着の為。  
決着がつくその時には、カズキの非日常は終わる。死んでも、生きても。パピヨンはそう思っている。  
(だから正反対。ま、事情を知らないキミには無理さ)  
一生懸命に考える顔を笑う。  
ちなみに、事情を知ってる者ならば、問いを理解した後に  
「脳漿ブチ撒けなァガガガ!」と殺しに来たり、象徴化している自負を「勝手ねぇ」と笑うだろう。  
ブラボーや早坂秋水なら「そうか」とだけ言ってそれっきりだろう。そういうヤツらだ。大嫌いだ。  
「うーん。考えてみたけど分からないよ」  
この話題の当事者は案の定、白旗を上げた。パピヨンはまた笑った。思い通りになるのは大好きだ。  
 
「まぁそうだろうね」  
「ヒントだけでもちょーだい! あの人形あげるから!」  
まひろは意気揚揚と、棚の上の不気味な人形を指差した。  
「いるか! と言うかアレはなんなんだ、趣味の悪い!」  
そう怒鳴る男は、蝶々覆面とステキ衣装に身を包んでいる。  
「五十歩百歩だね」  
まひろ呆れたように笑った。本当にしょーがない人だねとも言いたいらしい。  
「だからオマエは何が言いたい! そしてあの人形は何か早く答え…」  
ここで突然、声が途切れた。まひろは「?」と思ったが、次の瞬間には理由が分かった。  
ので。親指をビシ!と立て「いぇい!」という顔をした。  
先ほど『ダメだよ怒鳴っちゃ。また血を吐いちゃうから。ね?』と言ったのを、覚えててくれてありがとうだ。  
あったかな視線を向けられたパピヨンは、なんだかムズ痒くて気持ちが悪い。  
自分の為だけに黙ったのに、どうして褒められなければならない。  
「で、あの人形はなんだ。ヒントはやらんが教えろ」  
不機嫌そうな声だが、まひろには照れとしか思えない。ちょっとお姉さんっぽく説明する。  
「ゲームについてたモッコスさまだよ。六舛先輩の部屋には100体くらいあるよ!」  
「あ、悪趣味な連中め…」  
呆れたように呟くパピヨンの目は黒々としていて、まひろにはやっぱりコーラに見えた。  
(ん? コーラ? …あ!)  
そしてあるコトに気付いた。  
 
「ね、変態さんはパピヨンって名乗っていたよね」  
「それがなんだ?」  
「でも見た感じ、目も髪もコーラみたいに真っ黒だよ。ってコトは日本人でしょ? だったら苗字と名前も─」  
目は一気に濁った。  
「どうでもいいだろそんなコト。今の俺はパピヨンだ」  
声が深く静かに震える。言葉とは逆に何よりも拘っている。  
誰であろうと、蝶野攻爵を呼ぶただ一人にはならない。させない。  
(コイツは妹で似ているだけだ。リンゴを出しただけだ。俺を多少看護した程度だ)  
教える必要がどこにある。  
歯をギリっと噛み合わせ、不快感を殺す。  
 
まひろは首を横に振った。  
「どーでもよくなんかないよ」  
(黙れ…ッ)  
まひろは人差し指を立てながら、柔和な笑みを浮かべる。  
「ほら、変態さんだって私の名前を覚えてくれてたでしょ?」  
(それがなんだ)  
ただ自己紹介を遮るために思い出してやっただけだ。  
「それだけで充分だよ。私は忘れっぽいけど、一生懸命覚えるよ。だから…」  
(それ以上喋るな偽善者…!)  
「名前を教えて」  
 
かつては名前を呼ばれたかった。  
だが聞かれたコトは一度も無い。  
呼んだ相手も聞きはしなかった。  
 
名を聞いた女の目は、そんなコトを思わせた。  
見据えてくる目は真剣で懸命で、暖かみを静かに宿している。始末が悪い。  
(アイツと同じ目をするな)  
鼻をつくリンゴの匂いともども、吐き捨てるように思う。  
目につられて、本当にあっけなく「蝶野攻爵」を口にしそうで嫌気がする。  
「蝶野攻爵」の名は、矜持と誇りと敬意と共に憶えている。  
仮にそれを告げたとして、カズキにとっての日常の象徴は同じ意味で憶えるか?  
(憶えるワケがない)  
現在の状況に至るまで、種々のバカバカしい出来事があった。  
看護、歌、リンゴ、会話。全てはまひろにとって、楽しい楽しい「日常」の一コマずつに過ぎない。  
その中で聞いた名前など、風景の一部と同じ透明な扱いしか受けないだろう。  
所詮はそうなのだ。武藤カズキと似ているだけだ。自分とは正反対なのだ。  
 
視線を外して、声を殺して笑う。  
 
(だから告げてやるものか。こんなヤツに)  
そして押し黙る。  
 
しかし。  
 
『ダメだよ怒鳴っちゃ。また血を吐いちゃうから』  
 
脳裏を過ぎる言葉に、また苛立つ。  
黙ろうが喋ろうが結局、従っているようではないか。  
屈辱に汗が流れる。呼吸が上がる。そして。  
 
(そんなに俺のコトが知りたいのなら、徹底的に憶えさせてやろうか?)  
 
黒々しい攻撃の意思が沸いてきた。  
憶えさせるコトなど簡単だ。  
体が動けるようになり次第、非日常に突き落とせばいい。  
超人の膂力で蹂躙するも善し。黒色火薬で部屋を弾くも善し。  
すれば否が応にも、日常の象徴は非日常の象徴を憶えるだろう。  
そうでもしなくば、不快感は晴れそうにない。  
だが、実行に移せば、「フェアじゃない」と偽善者が怒り狂うのは目に見えている。  
(そう言えば、アイツの特訓の仕上げを見物しに来たせいで)  
この状況がある。  
敬意を覚えているからこそ、名前のコトで苛立っている。  
(仕上げの裏で、守るべき日常を壊された顔も見てみたくもあるが……)  
武藤カズキの顔を思うと、気分は和む。  
武藤まひろの目を見ると、気分は荒む。  
(…どうしてやればいい)  
焦燥と苛立ちが顔に滲み出る。そしてその顔は。  
まひろにはなんだか、血を吐いた時より辛そうに見えた。  
主観であり、心情をどこまで汲めたかは分からない。ただ。  
 
(…迂闊に触れちゃいけないコトだったのかな… ゴメン)  
 
まひろは太い眉毛をそぅっとハの字に下げて、申し訳無さそうに俯いた。  
 
(変な名前だから呼ばれたくないのかな…)  
と不機嫌な理由を勝手に解釈して、落ち込んだ。  
『少しはこちらの都合も考えろ』と言われていたのに、考えられずこうなった。  
(ゴメン…)  
こうなると謝るのも名前の話題を引きずっているようで、口に出せない。  
もっとも、謝る必要はない。パピヨンの険悪さは一種の自分勝手が招いたにすぎない。  
それどころか、危害を加えられる一歩手前にまひろはいる。  
 
とにかく気まずい。  
 
変態さんの気が晴れる楽しい話題を探してみたが見つからない。  
黙っていると雰囲気がこじれそうでまた困る。  
パピヨンにはそういう機微も余裕も何一つない。  
黙ったまま、まひろの存在の気分を乱している。  
 
部屋に流れる『覚醒』は、歌声が何度目かのラストフレーズで跳ね回る。  
最も喧しいその部分は、しかし二人には聞こえない。  
 
お互いがお互いのコトで頭がいっぱいだ。  
 
演奏が途切れ、前奏がまた始まった。  
まひろはハっと顔を上げ目を輝かせた。  
「そ、そうだ変態さん! あ、コレは悪口じゃなくて、  
友達のちーちんやさーちゃんと同じあだ名だから気にしないでね!」  
「何が言いたい」  
ようやく喋った変態さんはまだ不機嫌なので、まひろはおたおたとしながら切り出した。  
(妙に楽しそうだったから、大丈夫だよね…?)  
「さっき、変態さんと私は正反対って言ってたでしょ? その答えを思いついたよ!」  
「……おかしなコトは言わない方が身の為だぞ」  
珍しく忠告しつつも、答えとやらが正解なら非日常に突き落としてやる。パピヨンは腹を決めた。  
「じゃ、じゃあちょっと待っててね。紙に書くから」  
鼻をつかまれる、その程度の危機感で机に向かい答えを書いた。  
 
「さあどう!?」  
一生懸命書いたのだろう。瞳孔を見開きつつ汗かきつつ、紙を渡した。  
気乗りがしなそうに目を通したパピヨンは、その一文に手を震わせた。  
 
お父さん 理由:妹の逆はお兄さんだけど意表を突いてみたよ!  
 
(知るか! オマエのような娘など願い下げだ!)  
何かが切れる音を聞きながら紙を無言で丸めると、パピヨンは手招きした。  
「ちょぉっとこっちに来てくれるかな?」  
まひろは目をキラキラさせながら寄ってきた。息がかかる位の距離だ。  
「あ、やっぱり当たってぎゃあああああ! 痛い痛い痛い!」  
叫んだのは、鼻を思いっきりつままれたせいだ。必死にもがくが、指の力が強すぎで逃げられない。  
「オマエの父親はこんなオシャレか? 行方不明か? 違うだろ?」  
「そ、それもそう…痛い! ぎゅうっとするのはやめて! やめないと怒るよ!」  
「外した罰だ。しばらくガマンしてろ。怒ったって状況は変わらないよ」  
酷薄な笑いを浮かべながら、鼻を乱暴にこすり合わせてやる。  
軟骨が程よい固さで、なんともつまみ甲斐のある鼻だ。気分はやや晴れた。  
(これでさっきのは無しだ。一応フェアでいてやるさ)  
「うぅ…意地悪」  
涙目を鼻歌交じりに眺めつつ、ぷにぷにした鼻をいじくりまわしてやる。  
悲鳴と共に表情がぐしゃぐしゃになるのが面白い。で、1分後。  
 
「ひどい… これじゃトナカイさんみたいな鼻だよ…」  
ようやく解放されたまひろはシクシクと涙を流し始めた。流させた当人はすごく楽しい。  
見れば真っ赤な鼻でトホホな感じの表情は、カズキにそっくりで、ちょっと和みもする──…  
パピヨンはハッと気付いて目を濁らせた。  
(いやコイツ相手に和んでどうする! それに何だか乗せられたような気もするぞ)  
いつの間にやら、憔悴させた名前の話題は終わっている。しかし  
 
(話題を変える位なら最初から聞くな。教えるつもりはないがその程度か)  
 
名前を聞かれないと、それはそれでコケにされてるようで腹が立つ。不安定で厄介な性格だ。  
 

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