月明かりに鈍く光る蛇口から、水滴がぽたぽた落ちていく。  
ここは水飲み場。大浜は灰色の石材に座り、傍らのラジオを聞いている。  
「いつかスパルタンな先輩にウフンと言わせたい! 巫女服着せたいっ」  
てな趣旨のハガキが読まれる。眠そうなあくびが出た。  
自分のリクエストした曲がかかれば、それが100通連続採用なので、それを待っている。  
「えー××市にお住まいの中村剛太…あゴメンねPNが書いてあった。  
PN ゴウタ熱く蘇れゴウタ誇りのエナジーくんからのお便りでしたー」  
大浜はあくびをやめ、黙祷を捧げるように目を閉じた。  
忘れもしない。「犬の糞をカリントウと間違えて食べた」というハガキ。  
それを本名で読まれた辛い記憶が胸を刺す。  
「あぁ…バラされてる…PNの下に小さく書けば読まれなかったのに……」  
剛太……いや、ゴウタ熱く蘇れゴウタ誇りのエナジーくんの悲劇に涙が出た。  
職場か学校か、とにかく彼の属している組織で、彼はしばらく好奇の目で見られるコトは必定だ。  
大浜は泣いた。  
それでも生きなくちゃいけないんだよ。頑張れ、頑張れ、と泣き続けた。  
大気も彼らに同情したのか、風をひゅうひゅう吹かせて涙をさらう。  
5月といえど夜はまだ寒い。  
涙もどこかで夜露になって、朝になれば消えるのだろう。  
「上着持ってくれば良かったかなぁ」  
大きな体を小さく抱きかかえて身ぶるいをすると、大浜は一人呟いた。  
つか、犬の糞食べたとか投稿するなよ。  
 
風が窓枠を揺らすのを聞きながら、パピヨンは布団越しにじっと足を見つめていた。  
一連の騒ぎが終わり、気付いてみれば随分と感覚が戻ってきている。  
まひろは机の引き出しを漁っている。  
会話が途切れてヒマになったので、トランプを探している。  
物色するがさつな音を聞きながら、パピヨンは足をあれこれ動かしてみる。  
膝を曲げる。足首を捻る。太ももを組んでみる。  
どれも滞りなくできた。  
机を物色する音がやみ、「あれ、見当たらない」と声がした。  
まひろは小首を傾げてしばし黙考、そして下の引き出しを勢いよく開けた。  
気を張るわけでもなく、表情を明るくしかめながら探している。  
 
そんな姿と自分の足とを交互に見比べて、パピヨンはじっくりと頷いた。  
「なくなったな」  
足が動くようになった瞬間に、色々なモノがなくなった。  
「あったー!」  
トランプを見つけたらしく気楽な声が上がった。逆らわれたようで、気分は良くない。  
 
「コの字」ことベッドサイドテーブルを見て、そっとズらす。  
すっかり炭酸の抜けたコーラが乗っていて、部屋にいた時間を物語っている。  
「せっかく探したトコロ悪いけど、それは必要ないよ」  
「なんで? トランプは面白いよ」  
机の前できょとんとしたまひろへ見せつけるように、ベッドから降りて  
両腕を頭上で交差させ、腰を誘惑的に曲げる。  
心地よい解放感がゾクゾク走った。ああ動けるって素晴らしい。  
 
♪誰より今! しーんじてみるっじーぶーんのみらいぅを〜!  
 
ラジカセから流れる歌もパピヨンを祝福しているようだ。  
しかしまひろにその様子はない。ひそめた太い眉から警戒心が見て取れる。  
「まさか帰っちゃうの?」  
「いや、帰りはしない」  
アジトに居るのは、所有者たるバタフライの保護を認めるようで耐えがたく  
蝶野邸に持ちうる良い記憶は(死を恐れた男には皮肉な話だが)名を呼ばれた臨終のみ。  
帰ろうにも場所がない。  
「じゃあどうして立ったの?」  
パピヨンは、スタイリッシュに背筋をうーんと伸ばし、コブシの角を顎に当てた。  
しばし沈黙。  
何か良からぬコトを考えているようにも、何か言葉を探しているようにも。  
じっと見ているまひろへやがて、ほんのちょっぴり沈んだ声が掛けられた。  
「……行くからさ」  
まひろはぱしぱしと瞬きした。何かが胸に引っ掛かる。だが、思いつきに流された。  
 
「行くってどこへ……あ、トイレ? じゃあ入り口まで付き添うね」  
寄宿舎のトイレは共用だ。(陣内戦でちーちんが行こうとしていた)  
行くとすればそれ位しか浮かばなくて、口をつくのは親切そのものの回答で  
まひろはトランプを右手に持ちつつ、引き出しの前ですっくと立ち上がる。  
「外に決まってるだろ。すっかり動けるからね」  
晴れやかな笑顔と片手のピストルが向けられる。  
ピタっと動きが止まる。疑問符を浮かべた顔へ、もう一言。  
「もうここにいるつもりも、キミから看護を受ける必要もないさ」  
「あ、そうなんだ。じゃあまた遊びに来てねー」  
(とでもコイツはいうさ。所詮は能天気な看護婦ごっこ。相手が降りれば自分も降りる)  
パピヨンはそう思い、歩こうとした。  
 
蝶野家の人間には、ある一つの癖がある。  
美的センスがおかしい? いや、それは癖ではなく、おかしいだけだ。  
癖というのは、物事を極端な二元論で見る所だ。  
例えば爆爵。彼は自分を基準にした「優」「劣」で物を見る。刺爵の場合は「要」「不要」。  
二人とも、前者はどこまでも素晴らしいと信じ、後者は軽侮しきっている。  
次郎にもある。「主」「副」だ。予備扱いを恨む可哀相な彼らしい。  
育った環境はどうあれ、蝶野家の男たちは皆が皆、二元論で物を見る。  
パピヨンも、「自分と蝶」「自分と蝶以外」という攻爵の二元論は捨てていないし  
もう一つ、「武藤カズキ」「武藤カズキ以外」という枠も持っている。  
無論、名前を呼ばれたコトに起因している。その枠で以って、パピヨンはまひろを見た。  
似てはいる。  
しかし「武藤カズキ以外」だ。「劣」であり「副」であり「不要」の側の人間だ。  
まひろがさっさと看護婦ごっこをやめると思ったのは、そう見下しているからだ。  
 
だが、まひろは。  
血相を変えると、パピヨンの元へ一足で飛び込み彼の肩を猛然と揺すり始めた。  
彼女に二元論はない。その瞬間の感情だけが大事なのである。  
 
♪飛び込んでくあ゛ァーらしの中! なーにも迷わずにぃー ため、らーぅ──…  
と流すラジカセ前の床に、トランプケースが今さらのように落ちて、カタカタ鳴った。  
 
あまりに不意のコトだったので、これにはのん気していたパピヨンもビビった。  
そして彼は揺れていく。  
 
ユッサユッサ。  
白衣の上で栗色の髪がひょこひょこ揺れる。  
持ち主は瞳孔を見開いて、怯える子犬のようなトーンで叫ぶ。  
「な、何言ってるの? まだここで寝てなきゃダメだよ! さっきだって血を吐いたでしょ!」  
ユッサユッサ。  
横に振られる紫の覆面が、キレイな残像を描いていく。  
首を振るのは不意のコトに気圧されているせいで、大口も開いて叫びすらそこを衝く。  
「コラ揺するな!! だから必要ないと俺は! ちょっと…やめ…!」  
腕を剥すコトすら思いつかないほど、精神も三半規管も動揺まっさかり。  
いい状況とは言いがたい。  
マズイ、血より先にリンゴ吐くかもしれん……と顔は蒼ざめる。  
まひろはハっと手を止めた。  
「ゴメン思わず! で、でもまだ外は寒いよ。歩いているうちに肺炎になるかも知れないよ!」  
「思わずで済むか! 寒いのには慣れてるし、まぁ肺炎で苦しむのも悪くは…う!」  
パピヨンは思わず口を押さえた。  
声と一緒にリンゴの逆流が登ってきたのだ。  
まひろは慌てて身を屈め、そこらから洗面器を拾い、差し出した。  
「吐いた方が楽だよ! 大丈夫、私は気にしないから。それから寝ようよ」  
「違うからな!」  
指示に従うワケもなく。リンゴを強引に飲み下し、そしてまくしたてる。  
 
吐けばオマエが調子に乗るから押さえただけで ちっとも全然別に苦しくなどなかったし  
苦しくても恍惚だから、肺炎になったとしても平気だぞ俺は!  
だからヤセ我慢してるとか言うな思うな! 言ったら鼻を…くそっやはりリンゴなど喰うべきではなかった!  
 
怒鳴ったつもりだが、しかし気持ち悪いせいか、声はかなり小さい。  
まひろはそれら全てにうんうんと頷いているうちに  
なんだか変態さんが可愛く思えてきたので、洗面器をかぶせてあげた。意味不明である。  
パピヨンは洗面器をドアの方へブン投げた。小気味良い音で壁に当たって床に落ちた。  
 
「ともかくこの部屋にいる必要は既にない! だから行かせろ!」  
「必要あるよ!」  
口からリンゴの匂いをぷんぷんさせながら、まひろは叫んだ。  
鼻をつく匂いが逆流を引っ張ってきそうで、パピヨンは内心ビクビクしている  
「今は楽かも知れないけど、外に行けばまた熱が出ちゃうよ。  
せめて今晩だけでも無理せずに寝てなきゃ」  
「イヤだね。外へ行って蝶らしく夜を過ごす。  
なぁに。すっかり動けるから寒空の下でも死にはしないさ」  
まひろは、眉毛つきのチワワみたいな顔をして、ヘンなコトを言い出した。  
「あのね。あのね。昔、お兄ちゃんが、40度の熱を出したコトがあるの。  
でも、その日は学校の給食でカレーが出る日だったの。  
カレーの大好きなお兄ちゃんは、もうすっかり治った!ってウソついて  
フラフラで学校へ行こうとして、そのまま道路で倒れて救急車を呼ばれちゃったんだよ」  
「馬鹿かアイツは」  
ジットリと疑惑の目線が向く。  
「変態さんもそれと同じで、寝るのイヤだからウソついてるでしょ! 何食べに行くの?」  
「中華とか…… いや、違うぞ!」  
パピヨンはカチンと来たが、ここで怒ってはますますペースに乗るだけだ。  
「いいか、よく聞け。俺はキミに保護してもらうつもりもなければ」  
少し気分を落ち着けるべく、しばし無言で扉を見つめる。  
距離は短い。六歩も進めばくぐれるだろうか。  
くぐって、空の下で夜を明かし、朝が来たなら話はがらりと変わる。しかし。  
「まだキミに危害を加えるつもりはないからね。だから行くのさ」  
「ね、熱計ろうか? バファリン飲む?」   
話し振りこそ余裕があるが、内容は何だか支離滅裂だ。  
まひろはひきつった表情だ。本気で心配している。  
「いや大丈夫さ。実を言うと今のキミの反応もかなり頭に来たけどね。  
けど殴ったり暴れたりする気はないぞ。  
何故か説明してやる。だから終わったらどけ」  
「やだ! 心配だからどかない。逃がさない!」  
眉毛をぐぐっと吊り上げ、頑固な雰囲気が漂い始めた。  
その雰囲気と、「逃がさない」という物言いが、パピヨンにはまた気に入らない。  
 
押しのけて廊下をひた走るのも、窓から飛ぶのも簡単ではあるが  
超人が人間に背を向けて逃げるなど、誇りが許さない。  
 
「じゃあ、こう言えば聞くか?」  
パピヨンは格好良く片目を閉じると、少し考えこみ  
「…──俺は武藤と約束している」と切り出した。  
 
興味が沸いたのだろう。丸い瞳が、好奇心にキラめいた。  
「どんな約束? お兄ちゃんと私がした約束も教えるから、教えて!」  
一ヶ月くらい前にした約束が一番新しくて、それはなんだか胸騒ぎしていたからよく覚えている。  
と語り始めたまひろを手で制し、約束自体は話すつもりはない、と前置きして。  
「部屋を出るのはその約束があるからだ」  
とパピヨンは言った。  
「キミも約束したコトがある、と言ったな。それを破られたコトは?」  
「ないよ! だってお兄ちゃん、絶対に守ってくれるから」  
心底から信頼しているその答えに満足しつつ、静かに話す。  
「ついでに言うとアイツは、決めたコトも必ず守る男さ。けどね」  
表情を微妙に隠しつつ、ある夜の断片たちを胸中へ呼び戻した。  
「苦労の甲斐なく守れなかったコトもあるのさ。だが」  
パピヨンは笑いながら本題に移る。  
まひろは笑いの中に陰を見て、妙な気分になった。  
「武藤が破らないなら、今の俺は絶対に破るつもりはない。  
今のキミに危害を加えるつもりもない。絶対にだ」  
口調は少しずつ熱を帯びている。  
まひろは、「おお、見たメによらず実は結構マジメな変態さん!」と見直した。  
 
確かに、根はマジメだ。  
蝶野家の二元論には、認めたモノに対してとことん真摯に愛情を注ぐ側面がある。  
コレを、業界用語で「ツンデレ」と言う。言うのだ。  
例えば、「どんなに時間がかかろうと、必ず彼を修復する」  
そうヴィクターに約束して、眠り続ける彼を100年以上も傍らで守り続けるバタフライ。  
ツンデレで、さらに一途ではなかろうか。  
 
眠り続けて物言わぬ相手の為に、100年。  
いかにホムンクルスが不死であろうと、漠然と生きている者には、その永きに耐えられないだろう。  
蝶野家特有の屈折した二元論がもたらす、真摯で深い愛情こそが、彼にヴィクターを守らせたのではないだろうか。  
しかし俺は何を描いているのか。  
本来このSSは、エロとギャグさえ描けりゃそれで良しッ!と描き始めたんだけどなぁ………  
まあいいや。読んでくれたらありがとう。  
 
パピヨンとカズキ。関係は、バタフライとヴィクターのそれと似ている。  
しかし、カズキとまひろが似て非なるように、決定的に違う部分がある。  
 
──戦うのはお互いの準備が万全に整った時。  
 
蘇って再会した時に、パピヨンはカズキに言っている。  
あくまで決着をつけるべき関係であり、それは世界を燃やし尽くすコトと同義でもある。  
燃やそうとすれば、自然、守ろうとするカズキと闘うコトになる。  
彼の準備が万全でなくてもだ。そんな状態に勝ったとして羽撃けるワケがない。  
だから、燃やし尽くすコトに猶予をつけてやっている。  
 
──戦うのはお互いの準備が整ってからって話だろ。  
 
それはカズキ自身も承知の上で、言葉まで覚えてくれていて、パピヨンは嬉しかった。  
嬉しさのあまりフロ桶を手を使わずに運べた。エレガントゾーンで運べた。  
だからいっそう約束への気持ちは高まったし、番台サンも使用済みのフロ桶を速攻で捨てた。  
そんな日々を過ごし続けて、決戦を翌朝に控え、カズキの準備が整うのもあとわずか。  
なのに今さら(先ほども思ったが)ここで日常の象徴たるまひろを害しては  
矜持も敬意もあったものではない。守り続けた約束に泥を塗るコトにもなる。  
蝶野の二元論はそういうのを徹底的に嫌う。  
バタフライも錬金術を得るだけ得て、ヴィクターを見捨てるコトだって出来た。  
だが、ヴィクターは「優」であり「要」であり、「主」なのだ。  
復活の為に「副」で在り続け、結果「不要」と言われれば糧になる。  
それを天命と固く信じ貫き通すコトこそが、バタフライには「劣」でない美しい生き方なのだ。  
蝶を愛でるのと同じ位、静かで穏やかな感情に満たされるのだ。  
 
パピヨンには謙虚な感覚は全く無いが、  
約束した相手の「万全な状態」を夢見て生きているという点では、バタフライと一致している。  
自身の生き方全てを賭け、約束を守り通し、美しさを得ようとしている。そこも同じだ。  
 
奪うのは、同じ戦場で正面切って宣言してからだ。  
そこからはアイツの力量次第だから好き勝手にやらせてもらう。  
 
胸中、そんな思いがある。  
根っこの部分ではパピヨンはマジメと言えよう。  
と書いてるうちにエロがまた遠のいていく。  
いっそ、「パピヨンはまひろを調教した。見事に調教は成功した」とやれればどれほど皆が喜ぶか。  
 
話は、約束うんぬんのやり取りに戻る。  
約束を守るコトについて「分かるだろ?」とパピヨンは同意を求めた。  
まひろは頷いた。  
カズキの、約束や決めたコトを守るべく一生懸命な所を一番長く見続けている。  
「お兄ちゃんのいい所はそこだし、私は忘れっぽいけど見習いたいと思ってるよ。  
無理しすぎて傷だらけになるのは見ててちょっと心配だけど……  
でも、斗貴子さんが好きになったのはそこだよきっと」  
「さぁ。どうだろうな」  
不意に出てきた名前は心底どうでもいいし、恋愛感情などクソだと思っている。  
「そこだよ。だって、だってね…その」  
ちょっとはにかんで、下を見たりあちらこちらを無意味に見渡しだした。  
「だって……」と、どうも次の言葉に照れがあるらしく、歯切れが悪い。  
パピヨンはうんざりした。まひろは見上げた。そして。  
「だって、私も大好きだから」  
と、本当に嬉しそうに笑った。  
パピヨンは笑顔を向けられたコトがない。  
そういう環境で育ち、花房は作り笑いしかしなかった。  
(俺を斃して津村斗貴子を助けたアイツは、こう笑っていたのだろうな)  
と思うだけで反応の仕方が分からない。  
少し寂しくもある。  
 
カズキに色々な表情を向けられたが、心底からの笑顔だけは、きっと、パピヨンには向かない。  
今は向いている。  
パピヨンがされたコトのないコトを、まひろはしている。  
「俺に笑われても知るか」  
目をそらして扉を見ながら、吐き捨てるように言う。  
病床から起きた時はいつもそうだが、しばらくは熱ぼったい気だるさが体に残っている。  
心臓の鼓動が多少早いのもそのせいであって、立って話すコトに疲れてなどいない。  
自分にそう言い聞かせる。  
 
「でもね、変態さん。私はちっとも納得できてないよ」  
まひろはひょいと背伸びして、扉を見るパピヨンの目線に割り込んだ。  
「何でだ。オマエだって武藤との約束を守るんだろう。  
なのに俺には破れというのか? オマエのように忘れろとでも?」  
憮然とした顔の前で、パピヨンは下を指差した。背伸びをやめろ、と言いたいらしい。  
うん分かったと、まひろは踵を床につけた。  
「その約束が、私には良く分からないの。  
お兄ちゃんって、友達は大事にする人なんだよ。  
あ、もちろん変態さんはお兄ちゃんの友達でしょ?」  
パピヨンはイっちゃってる笑顔を浮かべた。  
「そうだな。俺は武藤の友達だ。……友達、友達、か。  
ン〜 中々いい響きだぞ。もっと言え」  
軽く指差されたまひろは、やったー!という顔をした。  
せっかくできた友達だから、大事にしたいと思った。  
 
しばらく喜びあった後、話が戻った。  
「お兄ちゃんが、病気の友達を寒い外に行かせるような約束するかなぁ…?  
変態さん、やっぱりウソついてない?」  
「さぁね。どうだろう」  
実を言うと、パピヨン自身にもよく分からない。  
部屋を出るコト自体は、保護を嫌う性分がさせるワケで、約束との関係は薄いような気がする。  
 
「あの時だってお兄ちゃん、『必ず帰ってくる!』って私に約束してくれて  
ギックリ腰を起こした斗貴子さんをよろしく頼んでくれたんだよ。うん。そうそう。  
私は今日みたいに斗貴子さんを一生懸命看護してた」  
「ほぅ」という顔をパピヨンはした。  
不思議なコトだが、まひろのいう状況は先ほどパピヨンが描いた光景と符合している。  
まひろのいう『約束』は、つまり、鷲尾が破れた翌日の夕方あたりに  
蝶野邸へと向かうカズキとされたモノだろう。  
ならば非常に面白い。何故ならその後。  
『津村斗貴子と蝶野攻爵をホムンクルスにしない』  
『もうこれ以上犠牲者を出さない』  
そう決めて、傷だらけで蝶野の蔵に飛び込んできたカズキの目の前で。  
蝶野攻爵は超人になり、次郎を喰い、そしてその後、カズキに名を呼ばれて殺されたからだ。  
まさに表と裏。  
約束を尊重して送り出したまひろと、立ちはだかれて決意を無下にしたパピヨン。  
「やはり正反対らしいな。キミと俺は」  
クスクスと笑えるほど、構図はあまりに綺麗に仕上がっている。  
「いや、今は似ていなくもないか。  
とにかく、俺は武藤との約束を守る為に行く。話はコレでおしまいだ」  
 
スっと、パピヨンは気配を鋭くした。  
「だからどけ」  
「ダ、ダメ!」  
本気で睨む。  
「どけ!」  
「どかない!」  
急に恐くなった変態さんにビックリしながら、声を張り上げる。  
「私は納得できてない!」  
肩をがしぃっと掴んだ。  
「どう納得できない。俺は武藤との約束を守ると言っている。  
それで納得しろ。大体、キミは傷だらけの武藤を送り出したんだろう?  
傷だらけで心配、って言った武藤を」  
「そ、そうだけど…」  
 
「だったらどうして俺を引き止める?」  
「え、えーとっ!」  
まひろは、掴んで見上げたまま動きが止まる。  
根が正直なのでパピヨンの言っているコトが正しく思える。でも納得できない。  
泳いだ目はひたすら透明で、やはり正反対だとパピヨンは思い、そして呆れた。  
「ちょっと待って考えるから。その間は行っちゃダメだよ」  
「知らん。勝手に一人で考えてろ。俺は行く」  
ぴしゃりと手を剥されたまひろは、今度はか細い両手を目いっぱい広げて通せんぼをした。  
「ダメったらダメ!!」  
頑固に口を結んだ。結んでも緊張感のない波線だが、あくまで頑固に。  
そして焦燥という名のハムスターで脳みそをフル回転させた。  
妙な言い回しだが、そんなイメージを彼女はしたのだ。  
一生懸命にした眉毛や目の下で、汗を一つまた一つ。  
何がどう納得できないのかは皆目見当もつかない。  
とりあえず、フル回転する脳みそで以前と現在を比べてみる。  
 
強いて言うなら、カズキとパピヨンの無理の質にある。  
カズキの無理は、大なり小なり他人を助ける動機で行われているが  
パピヨンの無理は、全て自分を高める為だけに行われる。  
だがまひろに映る変態さんは、自分を追い詰める無理しかしてないように見える。  
それはワガママにも似ている。  
もっとも、他人を当てにせずひたすら我が身を削る、求道的な良さを持つワガママだが  
まひろにとってはただのワガママで、間違った無理なのだ。  
(だからさせちゃダメ)  
とあくまでパピヨンを病人として想っている。  
(どこに行くのか分からないけど、止め──…)  
はたと思考が止まった。引っ掛かりが思考を止めた。どこかで覚えた引っ掛かりが。  
だが、自分の考えが間違っているとはまひろにはどうしても思えない。  
まひろの大好きなカズキでも、間違いならば止めようとするだろう。  
(なのにどうして私は)  
引っ掛かりを覚えるのか。思考を何度も反芻してみる。分からない。  
パピヨンが歩を進めた。慌てて立ちはだかり、仕方なく思考を打ち切るコトにした。  
 
今は止めるのが先決だ。  
(どうしてか分からなくても、どこに行くのか分からなくても………)  
ひどく恐ろしいモノを見たように、心臓が跳ねた。自分の思索が何かを見つけた。  
(行く?)  
打ち切り間際にようやく気付いた。  
(帰る、じゃないんだ)  
 
──「まさか帰っちゃうの?」  
──「いや、帰りはしない。」  
 
その声は何度も、記憶から呼びかける。弱い心、おびきだす。  
そんなフレーズをラジカセが流したような気がした。  
ぽかぽかしている胸の奥が、冷えた針金を巻かれたようにきゅうっとする。  
パピヨンの声が、本当に寂しそうに頭の中に響く、  
 
──「……行くからさ」  
 
(場所がないから……)  
 
──「やはり正反対らしいな。キミと俺は」  
 
(正反対なんだ。私と…私たちと……)  
カズキと斗貴子。秋水と桜花。沙織と千里。ブラボー。六舛、岡倉、大浜。  
まひろの周りの人間たちと、正反対。  
変態さんには帰る場所がない。帰りを待つ人間も、きっといない。  
それがひどく悲しくて、まひろは立ちつくした。  
 
それを見下ろして、パピヨンも立ちつくした。  
まんまるな双眸は、突如として水っぽさをたたえ、  
別人のようにまひろを見せている。  
パピヨンは、彼らしくもなく狼狽している。  
 
行くとすればこの機こそ。  
間隙をついて扉へ向かえばそれで全ての問題に片がつく。  
なぜか気勢がなくなったまひろは、決して後を追えないだろう。  
(なのにどうして俺は)  
涙目を見ながら足を止めている。  
突然の変化が、自分のせいかどうか気にしているのだろうか。  
確かなのは、ただ横を歩こうとしただけで、断じて約定に背くような危害など加えていない。  
「どうした」  
無愛想な声を掛けてから、間抜けを感じた。  
「別に心配はしてないからな俺は」  
などと無愛想な声で取り消そうとするが、いかんせん締まりが無い。  
「…何でもないよ。花粉症だよ多分」  
花粉症なら目が充血して痒がるだろうに、その気配はない。  
「ヘタなウソを」  
とも言わずパピヨンは黙った。  
まひろは無理に笑って、気付いたコトに気付かないフリをした。  
名前同様、触れちゃいけない気がして、いつもののん気な声を取り戻す。  
「え、ええとね。私が納得できない理由は。その……  
お兄ちゃんはあの時、『必ず帰ってくる!』って約束してくれたからだよ。  
ずっと心配してたけど、だからお兄ちゃんを送りだしたんだよ。  
でも変態さんは、ワガママで自分の体を大事にしなくて──」  
「大事にする必要はない。俺は多少のコトでは死なないからね」  
真剣に見上げる顔から、軽く目を逸らす。どうも得体の知れない感情が湧いてくる。  
「もしそうだとしても、私は心配なの。だ、だって、辛いよ」  
一人ぼっちで倒れている変態さんを想像して、また胸が痛くなった。  
まひろも、まひろの周りの誰もかもも、そういうのは辛くて悲しいモノだと思う。  
「お兄ちゃんだって、友達が減ったら悲しむよ?」  
パピヨンの顔色が微かに変わった。  
「だから、だからね」  
くっと涙を押し込めて、まひろは喋る。声には、らしからぬ切々さがある。  
 
「せめて行くなら、病院に行って。入院したら電話ちょうだい。お見舞いに行くから。  
入院しなくていいなら、またココに来て。元気でも、病気でもいいから。  
それがどうしてもイヤなら、変態さんの住む場所を探すよ。  
朝になったら、私たちが、探すよ。だから、今夜だけでもここに居て」  
一生懸命に選ばれたゆっくりな言葉に、パピヨンは黙った。  
言われたコトのないセリフをどう返せばいいか、わからない。  
 
(ウソの約束でもすればさっさと部屋を出られるが──…)  
実行する気にはどうしてもなれない。  
蝶野家の人間がそういう姿勢になるのは、自分の認めたモノだけにだが、どこか違う。  
相手は中庸で、二元論の狭間をブラブラしていて、割り切りにくくて黙ってしまう。  
まひろは、沈黙の意味を勘違いして、青ざめた。  
「住む場所」と言ってしまった。帰る場所がないんでしょ、と同じ意味でとられてしまう。  
また怒らせてしまったようで、傷つけてしまったようで恐い。  
パピヨンは露知らず結論を出した。「どちらも却下。ウソはつかないが肯定する気にもならない」  
「どっちも却……」  
言いかけた刹那、左手の袖のひらひらを心細げにそっと引かれて、パピヨンはドキっとした。  
そして怒る。  
「おいコラ引くなッ 見た目によらず伸びやすい生地なんだぞ!  
伸びたらオシャレの絶妙なバランスが崩れるから離せぇッ!」  
「え! 怒る所はそこなの!? そこだけ…?」  
「そこだ! そこだけで何が悪い!」  
バタフライから貰った服だが、感性に合うので好きなのだ。  
「貰うのは性に合わない」だけで、保護うんぬんとは切り離して考えている。  
それだけ素敵スーツを愛している。愛しているから怒るのだ。  
「じゃあゴメン。でも、そこだけで良かった。うん」  
手を離し、肩を恐る恐るゆっくり掴みなおして息を吸い、声を出した。  
「けど約束してくれるまでは離さない!   
い、今離したのはオシャレの為だから別だよ。私は看護の達人だから離さない!」  
「自称だろ」  
と言いながら腕を上げ、ひらひらを見るパピヨンの顔が絶望に歪んだ。  
「うわっ少し伸びてる!」  
 
「自称でも頑張るし、ひらひらも見たところそんな伸びてないから大丈夫!」  
「オマエの目にはそうでも、俺には伸びて映ってるからちっとも大丈夫じゃあない! 大丈夫じゃあ…」  
天井を見上げて、はぁ。とため息をついた。  
どうして同レベルで話している。なんだか調子が狂っている。毒のせいなんだろうか。  
でも部屋に来た当時と比べると、今は色々な意味ですっかり毒気が抜けている。  
「…………本当に大丈夫じゃない」  
ひらひらを眺める瞳は深刻だ。  
「その、非常に言いづらいけど、……肩の方は? わ、私から見たら大丈夫だけど!」  
パピヨンは真っ白になって固まった。そうだアレだけ揺すられてたら……!  
「い、言うな。触れるな。気にしたくも見たくもッ 見たくもないィィィィィ!」  
「本当にゴメン。通せんぼにするよ! でも精神的な意味では離してないからね!」  
慌しく通せんぼをしなおす。  
もはや後の祭りだ。チクショウ。ぼけ。パピヨンはブツブツ呟いた。  
「とりあえず定規で測って、もし伸びてたら責任を持って縮めたり弁償したり──」  
「ええいもういいッ! 弁償は勘弁してやるからさっさと行かせろ!」  
「ナイチンゲールの誓いにかけて変態さんを寒い外になんて行かせない!」  
つぶらな、室内犬じみた瞳が精一杯光る。  
「変態さんは安心して、ゆっくり寝てていいんだよ。  
だるくなかったら普通に座ってお話しながら、トランプでもして遊ぼうよ。  
ね、それなら看護されないし、危害なんて関係ないし、外に行かずに済むよ。  
お兄ちゃんとの約束も守れるでしょ? だからトランプは必要あるよ」  
また黙った。  
 
パピヨンは、まひろより上背がある。  
前さえ向けば部屋を好きなように一望できる。  
先ほどはそうして扉を見た。  
今度は違う。まひろの顔に見入ってしまった。  
見入ってしまった理由はよく分からない。  
 
ただ、しばらく眺めていたいと思い、眺めている。  
 
まひろは、あぁ、分かってくれた?と安堵の笑みを浮かべた。  
 
パピヨンはハっとした。  
まひろの言うコトは、至極まっとうな解決方法ではある。  
約束にも背かず保護もされず、まひろの感情の折り合いもちゃんとついている。  
日常に近づくな、とはカズキに言われていない。  
適当に遊んで眠るのを見計らって、それから部屋を出ればいいじゃないか。  
そう思うのだが、部屋にいるコト自体に抵抗を覚えてしまう。  
この部屋に居るのは、カズキの初体験を見物しに来たせいだ。  
天井裏から見たカズキの初々しい反応を、もう一度見たいと思っている。  
そして、カズキに似ているまひろと、今、同じ部屋で二人きりでいる。  
 
間違いが起こらないとは限らない。  
 
陵辱する気はさらさらないが、もし、物の弾みでそういうコトに及べば  
パピヨンは自制できる自信がない。  
なぜなら、地上で一番好きなカズキに、まひろは似ているからだ。  
自分の手でカズキの顔を再現できたら、と疼いてしまう。  
 
丁度その時、いいテンションの男が部屋の前に到着していた。  
彼は部屋から流れる『覚醒』に一瞬眉をひそめたが、「ブラボーな曲だな」と呟き。そして──…  
 
コンコン  
 
ドアをノックした。そして続くは、いつもならもっと早くに訪れる声──  
「スマン! 諸事情で遅くなったが点呼を取るぞ武藤まひろ!」  
 
ブラボーの声に青くなりながら、まひろはパピヨンを見上げた。  
 

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