『全ては我々BF団と貴様ら国際警察機構とで、決着をつけるものだ!  
違うか? 違うか? 違うかァ──ッ!? …なぁ。戴宗』  
魂の叫びがラジオから流れる。最近のマイブームを紹介しよう、そんなコーナーの一幕だ。  
今日の題材はパーソナリティー推薦の「ジャイアントロボ」とかいうアニメ。  
先ほどから選りすぐりの名場面の数々(音声だけ)が、流れている。  
『レ、レッド助けてくれぇ。ぐぁ、な、なにを』『生きて恥をさらすのも辛いだろぉ? 助けてやるよ。フッ』  
熱い。熱いアニメだ。↑が名場面かどうかはともかく、俺の大好きなブタさんも確か好きと言ってたハズだ。  
大浜は感動に拳すら震わせ聞き入っている。DVDがあると聞いたから購入すら決意している。  
買うがいい。一清と十常寺に燃えるがいい。呉先生に萌えるがいい。  
彼のスライド移動と傘を必死に支える細腕は、この作品最大の萌え所と言っても過言ではない。  
完結編は出る見込みゼロで泣きたくなるけど、さて。  
 
視点は、ブラボーが点呼を取りにやってきたまひろの部屋へ戻る。  
扉に張られた曇りガラスのおかげで、ブラボーはパピヨンの姿に全く気づかず  
点呼の返事を待ちながら『覚醒』をのん気に聞いている。  
パピヨンは涼しい顔。まひろだけが彼らの間でうろたえている。  
 
部外者たるパピヨンが見つかれば確実に警察へ突き出される。  
ブラボーに応対しているスキに逃げられるコトもありうる。  
青ざめた理由はそれであり、警察で必ずあるであろう情景を想像すると、すごく辛い。  
だがまひろ、動揺からの脱却は早かった。  
「どっちもさせない!」と太い眉毛を釣りあげるなり  
「ハイ! え、えとっ、い、いま着替えている最中だから扉開けちゃダメだよブラボー!  
もし開けたら目覚し時計を投げちゃうからねっ!! だから本当にダメだよ!!」  
秋水もビックリの裂帛の気合を扉にかけた。  
更に、それで初めて不意の来訪者がブラボーだと気付いたパピヨンへ  
「静かにっ」と人差し指を唇に立て黙るように指示したが、必要はなかった。  
 
パピヨンの胸にはドス黒い炎が灯りはじめて、扉を睨むのに忙しい。  
ブラボーはまひろの部屋に来てしまった元凶でもあるが、それ以上に許しがたいコトがある。  
カズキの貴重で清廉な初体験を、下卑た好奇心で盗撮し、あまつさえ商売の道具にしていた。  
蝶野の気質でいうなら、「優」も「主」も「要」も下らない欲で利用するだけの背徳、蝶を喰らう蜘蛛やカマキリ。  
パピヨン自身もビデオを欲していたが、それは蝶の標本を見るのと同じ、ごくごく純粋な動機だ。  
決して使ったりはしない。  
ただ、もう一度見たいなぁ……と気色悪い喜色を浮かべる。  
すると胸の炎のベクトルは変わった。初々しく刺激に悶えるカズキの表情を思うと、ちょっとドキドキ。  
 
ところで御前もビデオを持ち帰ったが、桜花ともども使うんだろうか?  
 
さて、ブラボー。彼は扉の前で心臓をバクバクさせていた。  
まひろの予想外の気迫に、トラウマ(『仕上げ』を盗撮中、斗貴子の怒鳴り声に肝を冷やした)を刺激されてしまったのだ。  
上機嫌もどこへやら。  
着替えはすごく見たいが恐い。夢を形にするのが夢でもあるが、扉は絶対開けまいと誓う。  
「す、少し話すだけだし、曇りガラスで部屋の中が見えないから安心しなさい」  
平静を装っているが、乾いた声には恐怖がありありと浮かんでいる。  
(戦士長のクセに小娘相手にビビるなよ)  
侮蔑満面に笑うパピヨンに気づき、まひろは汗ダクダクで口パクを指差した。  
「笑い声出したら見つかっちゃうよ!」とでも言いたいらしい。  
とりあえずブラボーは入ってきそうにないが、今度の問題はパピヨンだ。  
クシャミ一つされるだけで、せっかくの機転が水泡に帰す。  
見つかれば、ブラボーは管理人という仕事上、変態さんを警察に引き渡さなきゃならない。  
そうなると、病身で取り調べを受ける。まひろはそう思っている。  
(変わらないんだよ。外に行くのと)  
また悲しそうに眉毛が下がるのを見て、笑いは少しだけ引っ込んだ。  
(大方、オマエが言いたいのは)  
厳しく取り調べられて、病気の体で辛い思いをして、牢屋で寒い思いをする。  
そういう意味で、外に行くのと同じなのだろう。  
 
(それ位は分かる。だが、このままイモ虫のように息をひそめていろと?  
それからオマエと一晩過ごせと? ……どっちも願い下げだ)  
なにかを断ち切るような軽い瞑目を挟んで、嘲笑を浮かべる。  
黙ってはいるが、従っているワケではない。  
不意に部屋から出てブラボーを驚嘆させてやれば、溜飲の一つも下がるだろうと思いついたからだ。  
意地悪い男には、自分以外が動揺している状況が面白くて仕方ない。優越感すら覚えている。  
 
足を踏み出す気配を察したのか、まひろは泣きそうな顔になった。  
パピヨンの想像は当たっている。だが思惑は、もう二つある。  
(ダメ! 行くのはダメ! このまま行ったら──)  
 
おまわりさんから名前を聞かれる。帰る場所がないのに、住所も聞かれる。  
聞かれたくないのに聞かれて、傷を重ねて、一人ぼっちを再認識してしまう。  
 
そんな変わらない世界の中で、寂しさを味わわせたくはない。  
 
誓いと想像がごっちゃになって、マラソンをするより息苦しくて、ビー玉のように透明な瞳へ涙がにじむ。  
それを慌てて拭うまひろを、パピヨンは心底不思議そうに眺めた。  
泣き落とすワケでもなく、勝手に泣いて拭ってまた見上げてくる。  
仕草の理由がわからない。  
ただどうしてか、看護された情景が頭の中を駆け巡る。  
その姿勢は徹頭徹尾まっすぐで、まっすぐしかなくて  
不可能を可能にしようとする意欲の欠片ぐらいは見受けられる。  
さりとてパピヨンには、その見受けた欠片をどうすればいいかは分からない。  
カズキ以外に感情を軟化させたコトはないし、したくもない。  
浮かぶ困惑をまひろは少し赤い目でじーっと眺め、やや考えると。  
枝つきの白い紅葉のような右手を伸ばし。  
(ここに居て。お願い)  
繊細に骨張る左手を握った。  
そぅっと、けれども力強く。  
乳児のような柔らかさに包まれ、パピヨンの顔は、怒りともそれ以外とも取れる歪み方をした。  
 
ドアから投げかけられる雑談にうろたえつつ、手はぎゅぅっと握ってくる。  
ぽかぽかの熱と鼓動が、さざなみのように伝わる。溶けて混ざりそうな一体感。  
逃走防止のためだと分かっている。  
だが、優越じみた「保護」の代わりに、決して届かない陽光を描いてしまう。  
光の色は、暗い蝶野の屋敷でひたすら輝いていた純然たる「守る」意思。  
真正面から激突させた起爆のそれが、今度は左手を静かに包んでいる。  
包まれて存在するのは、決して風景でない確かな自分。  
まひろに握られる手は、そこにあるのだ。まひろの手が握っているから、自分の手も認識できる。  
気づいて少しを目を丸くしたパピヨンは、慌ててかぶりを振った。  
名前を呼んだ男と、手を握る女を同じ目線で見そうになったのだ。  
(そんなマネはせんぞ! して、たまるか…っ)  
まひろはカズキにとり日常の象徴なのだ。  
それを認めてしまっては、さんざ日常を憎んで費やした莫大なる犠牲が無意味になる。  
引き返せない、などとは言わない。  
使った対価が大きければ大きいほど、「目的を果たせないならただの役立たず」だから、嫌なのだ。  
初志ひとつ満足に貫徹できない男が、どうして羽撃けようか。  
その信条をして、不可能を可能にし続けてきた。  
(なのにたかが手を握られた程度で、どうして覆してやる必要がある)  
強張った表情で手と手を見下す。  
(…ブラボーとやらの声と同じく本当に忌々しい)  
ブラボーの雑談は、止む気配がない。  
決戦を前にいろいろ話したいらしく、さらには妙な世話まで焼き始めた。  
「彼氏を作れ。気になる者もいるだろう。秋水はどうだ?」  
どうも彼を誤解していたのが気まずいのか、多少の縁を作りたくなったらしい。  
 
修行から戻ってくる前に、まぁ恋人でなくとも友人になる下地ぐらいは作っておくか。  
生真面目な男にはちょっとボケた娘(こ)の方が、いい具合のガス抜きになる──  
 
てな老婆心でまひろへ迫る声をどこか遠くに聞きながら  
否定に走る感情は、艶かしく粘った石膏像のような手を探し出す。  
それは手を繋ぐ末路を知らしめた花房の手。深く刻み込まれた否定の始まり。  
瞳はかすかに、御前へ見せた色になる。  
 
手を振りほどいた。  
「しゅ、秋水先輩は違うよ。テレビの中の人みたい。彼氏なんて………まだ早いよ」  
生返事をしながら、手を繋ぎなおした  
『気にしている』という点では先ほどからのパピヨンの方が勝っているが、恋につながるかどうか。  
まひろは兄と斗貴子の関係を見るたび、「いいなぁ」と春の日差しを浴びるようにほんわか笑っている。  
でも、猫や花やお菓子や秋水も「いいなぁ」だ。  
世界の全てが大好きで、それ以上の大好きが分からない。  
いつだったか、友人たちはそれを聞いて、「本当に無垢ね…」「でもそのうち分かるよ」と口々に答えた。  
「無垢」の意味も分からないまま、「そのうち」をクリスマスのごとく楽しみにしているけど、なかなか来ない。  
この時はどうだったのだろう。  
「手を振らないでってば!」と見上げた目が、どこまでも底の見えない寂しそうなコーラに見えた。  
軽く息を飲みつつ、けれどじっくり目を見つめる。  
少なくても「いいなぁ」とは思えない。  
桜花は秋水との別離ゆえに寂寥を感じた。  
まひろにはそんな辛い経験はないし、難しい言葉だって分からない。  
けれど、カズキの妹だ。  
亡き部下の核鉄を見るブラボーが、「今にも泣きそうな表情」と気づいたカズキの、妹だ。  
奥底にあるものがなんとなく分かると、言い表せない神秘と悲哀の感想が再び胸を締め付け  
生涯で一番強く、しっとりした小さな手に力を込めた。  
 
「そうか? 秋水は付き合えば意外に面白いと思うぞ。  
ま、それはとにかく、ちょっとブラボーな助言をしてあげよう」  
「な、何?」  
「気にある相手ができたら、まず手を握ってみなさい。  
カズキと斗貴子みたいなストロベリーでドキドキした関係に憧れるなら、まず触れ合うコトだ」  
 
まひろはぎこちなく首だけを扉に向けた。  
そして「見てないよね?」とブラボーに何度も聞いた。  
「いや本当に見てないぞ!」という返事を受けると、頬を真っ赤に染めて回れ右をした。  
 
カズキと斗貴子みたいな、という言葉に好奇と羞恥を覚えて、向き合うのに照れてしまった。  
意識がちょっとだけ進んでいるらしい。  
それでも手は離していないから、まるで扉に向かってパピヨンの手を引いているような格好。  
だが一歩も進めていない。手を伸ばせばベッドシーツがまだ触れる距離。  
事実と反応に、パピヨンは未知なる感情を噴出して、激昂した。  
彼自身もブラボーの言葉に色々思い出し、期待と誘惑を覚えてしまったので、激昂に紛れた照れ隠しだ。  
実の所、バタフライの言を借りるなら、「落ち着いて冷静に対処すれば」良かった。  
扉の向こうへ「おいブラボー。俺は生きてるぞ。許さねぇ!」とでも言えば  
ブラボーは慌てふためいて部屋に飛び込み、二人の手を引き剥がし、状況は簡単に瓦解しただろう。  
しかし「場を乱され、激昂したのがマズかった」。  
これもまた血筋か。怒りで守りを固め忘れたバタフライのごとく、パピヨンはおかしな考えに飛んだ。  
律儀に無言のまま、すっかり忘れていたモノを唐突に思い出し。  
 
(いい加減にしろよキサマァ! もう勘弁ならん、天井裏で御前から没収した媚薬を飲ませて這いつくばらせてやる!)  
 
媚薬。これは桜花秋水の段で少し出たが  
スプーン一杯の粉を舐めるだけで全身が性感帯になると言った、世間一般のイメージそのままのベタな代物だ。  
かつて蝶野攻爵が花房に使われていたモノでもあり、それを素敵スーツの素敵な場所から取り出した。  
 
「コの字」上のコーラに混ぜてまひろに飲ませれば、衣擦れ一つで立てなくなる。  
追われず、危害を加えず、間違いを起こさず、部屋を出られるに違いない。  
回りくどさ混じりの焦燥が赴くまま「……後始末は御前にでもさせるか」と実行しようとした。  
だが。  
小瓶から花房の匂いがした。他者を利用し自らを高めない、脆弱で、裏切りに満ちた汚い蜜の。  
その匂いを、「ん、お薬?」と指差さされても、無表情で立っているだけだった。  
引きずってなどはいない。末路は新たな一歩にすりかわるコトで、決着している。  
歩を止めているのは、蝶の性分が花の匂いを善しとしないだけだ。美を喰らう醜を嫌っているだけだ。  
思い、佇み、ひたすら、手を振りほどこうとあがき続けた。  
 
しかしどうしたワケか手は離れず、最中の彼は全く気付かない。  
蝶野の気質は、認めたモノを絶対に汚さない。汚れは媚薬。まひろに飲まさないのは、どうしてか。  
 
以上のような変化を起こすだけ起こすと。  
「じゃあまたな。いつか彼氏を作って、楽しく青春を過ごすんだぞ」  
ブラボーは去っていった。まひろは一安心して、薬持ったままなんか元気ない変態さんへ話し掛け  
「ああそうだ武藤まひろ!」  
「ちゃい!?」  
古畑任三郎のごとく戻ってこられ、素っ頓狂な声が上がった。パピヨンは思わず笑い、ブラボーは困惑した。  
「…ちゃいってなんだ?」  
「くくくく空中に散布して、レーダーをかく乱する金属片!」  
「それはチャフだ」と一旦言葉を切り、ブラボーは管理人らしく生真面目に言った。  
「CD聞くのもいいが、夜も深いから音量は下げなさい。  
ま、その曲はブラボーだし、キミの部屋の隣は両方とも空き部屋だから問題はないが、一応な」  
「あ、は、はい」  
こういう時のまひろは素直である。ポケットからリモコンを取り出し、『覚醒』を停止した。  
それにいつもの調子で頷くと、ブラボーは去っていった。今度こそ本当に。  
 
彼はパピヨンがまひろの部屋にいるなどとは、カケラほども考えなかった。  
この夜の様々な騒ぎが重なった結果であり、予想する方がおかしいだろう。  
超人の聴覚を持ちながらも気付かなかったのは、油断しきってた上に『覚醒』に聞き惚れてたせいだ。  
…ただ、様々な騒ぎは全てブラボーが元凶なんだよな。考えて描いたワケじゃないけど、なぜかこうなった。  
 
「上手くいくと思うんだがなぁ……」  
廊下を歩くブラボーは、未練がましく呟いた。まだこだわるその理由は──…  
「正反対だからな。無いモノを与えてくれる正反対な人間には、誰だってストロベるに決まっている」  
いい例がカズキと斗貴子だ。  
明朗が少しずつ冷酷を溶かしているし、未熟を経験で補っているし、何よりボケとツッコミだ。  
だから任務にかこつけて結んでやったのだ。  
ウム!と男らしい眉毛に気合を入れて、ブラボーは小声で叫んだ。  
 
「だから上手くいくハズだ。よし、一肌脱いでやるか! 何を隠そう俺は仲人の達人だ!  
まずは海だな。秋水を探し出して水着の武藤まひろと対面させてそれから千歳の意見を参考にしつつ──…  
って、なんだコレは!!」  
天井の破片が床に散乱していた。仰天した。  
ちょうどそこは千里の部屋前。  
寝ぼけ眼の彼女が飛び出てきて怒鳴られ、点呼を取りつつブラボーはまたしょげた。  
「…パピヨンの仕業か? ったく。直す方の身にもなってくれ。そして若宮千里は二重人格なのか?」  
ふぅ、とため息をついて、パピヨンを思う。  
「今ごろ何をしてるのやら」  
 
まひろの頭をゲンコツで殴っていた。  
 
コトの発端は、ブラボーが帰った後に遡る。  
媚薬をコの字に置いたパピヨンに、まひろは語気を強めて  
「お薬はちゃんと飲まなきゃダメだよ! 苦いのがイヤならとっておきのいい方法があるよ!」などと説教しつつ  
部屋にいるコトを懇願した。当然、受けるパピヨンではない。  
部外者を匿う警戒心のなさをズケズケと指摘した上で手を振りほどき、部屋を出ようとし、まひろは再び通せんぼをした。  
明確な変化は、この時起きた。  
かつてカズキが蝶野の蔵に飛び込み、パピヨンの前に立ちはだかったのは周知の事実だ。  
その時の彼の姿を、通せんぼをするまひろにありありと重ねてしまった。  
さっき見た時にしなかったのに、だ。手を握られ意識が変わったコトに、パピヨンはやはり気付かない。  
ただ、汗の流し方も目の光り方も、ちょっと子供っぽい立ち方も何もかも、  
そっくりだ、と無防備な意識の中で思い、微かな笑いすら浮かべた。  
思い返せば、この部屋で初めてまひろを見た時、どこかで見たと思っていた。  
それは他でもない、扉の前で汗をかいて息せき切っていたカズキの姿だった。  
 
(どうも俺は最初から武藤を見ていたらしい……)  
 
それが妙に嬉しい。  
意識の底からカズキを覚えていたからか、まひろがカズキと相違ないからか  
その是非を考えるまでもなく、パピヨンはただ喜んだ。  
けれども部屋に留まる気はなくて、じっと視線を釘づけるまひろの認識が嫌じゃなくて、  
その相反する二つの感情が混ざり合い、えも知れない悪戯心が沸いた。  
 
そっくりならば、きっと、病院の屋上で御前にからかわれた武藤の顔もするんじゃないか?  
 
そういう顔を見たがったから、パピヨンはここにいる。  
だから、「ちょっとからかってから行くか」。そう決めるとまひろに耳を借りてそっと囁いた。  
「自分を部屋に留めたらどうなるか」   
する気のない口先だけの直接的な単語をぬめつけるように、囁いた。  
「えええ!? じゃ、じゃまさか…!」  
まひろは、カズキと全く同じリアクションを取り、ボっと耳たぶまで真っ赤に染めてうつむいた。  
パピヨンはそれをうっとり見据えて、心底から満足した。  
これで部屋に留めようとするバカでもないだろうから、心置きなく部屋を出られる。と思った。  
だが。  
「…いいよ」  
「は?」  
「変態さんが部屋に居てくれるなら…その、今いったコト、して………いいよ」  
スカートの裾をぎゅぅっと握るまひろに、パピヨンは、その言葉を理解しかねた。  
あまりにおかしい。想像とかけ離れすぎていて、宇宙の言語を見つめるように思考がマヒした。  
30秒後。  
心底から意味を理解したパピヨンは、まず、凄まじく裏切られた気分になった。  
「ボケ倒すのもいい加減にしておけ!!」  
ゲンコツを降らせたのは、次の瞬間の話である。  
 
(しまった思わず……)  
無言で頭を押さえてうずくまるまひろと、拳を交互に見比べて、パピヨンは中学生のように蒼白になった。  
アレだけ「危害は加えない」と格好つけて約定を守っていたのに、殴ってしまった。  
「奪う」コトしかできないパピヨンが、たった一つ守り通していた大事な大事な約束が、崩れた。  
そう考えると罪悪感は消え、凄まじい怒りが湧いてきた。  
 
「そもそも武藤のクセに色香なんぞで俺を従わせようとしたキサマが悪いッ!!  
ちっとも嬉しくないぞ!! どうして俺がキサマと寝なければ──」  
初々しく刺激に喘ぐカズキの顔を思い出し、ついで、まひろと寝ればそれが見れるコトに改めて気づいた。  
カズキに一番似ているハネた前髪をいじり回したり、色々できる。  
「だが寝んぞ俺は、寝るワケが」  
凄まじい、熱した鉄の熱く冷えた昂揚が巻き起こり、息があがって鼓動もハイスピード。  
「そういう妥協のようなマネなど、マネなんて…マネなんて…」  
あがって、あがって、あがりつづけて最高速の頂点へ──!!  
「ハァァァ!!」  
アンド、ゴパァ! 興奮のあまり、パピヨンはド派手に吐血した。  
その顔はとても幸せそうにボタボタと血を吐いた。想像だけでお腹いっぱいだ。  
 
驚いたのはまひろである。  
「ああっ 怒鳴ったからまた!」  
「やかましい! キサマが悪いクセに心配面などするな偽善者め!!」  
そう言われつつも俊敏に立ち上がり、ティッシュをバーっと取ってきた真っ赤な顔に、パピヨンはドキリとした。  
「う、うっとおしい! しばらくこっちを見るな!  
しばらくというのは俺が部屋を出るまでの間であって、留まるつもりは一切ないから勘違いするなよッ」  
「う、うん… 部屋には居て……居てもらう…けど」  
うつむいたまま気恥ずかしげに血を拭くまひろに、  
(しまった、なんで血を拭かせる必要がある! バカか俺は!)とパピヨンは情けない顔をした。  
「え、えと、昭和枯れすすき歌う?」  
「歌うかァァァァ!! と言うかなんでこの期に至って昭和枯れすすきだ!」  
「怒鳴っちゃダメだってば!」  
拭き終わるまで会話はそれきりで、お互い黙った。  
実際は2分ぐらいだが、2時間ぐらいに思えた。  
 
大浜の聞くラジオでは、CMが開けた。  
サウンドステッカー(TVアニメでいう所のアイキャッチ)は『ファーッハッハッハッハ!』という高笑い。  
マスク・ザ・レッドこと、市川治氏の声だ。  
彼はシャーキンでありガルーダであり、ノリスでありシャアの候補だったコトも…関係ないか。とにかく、市川ボイスは60過ぎても若々しい。  
 
大浜はちょっと肩を落とした。  
 
すでに何度も触れているが、彼は彼のハガキが読まれるのを待っている。  
読まれれば100通連続であり、それは恐らく、曲のリクエストのハガキだ。だが。  
「採用は無理かも。いい曲だけど、さっきも採用されてたし…来週かなぁ」  
一回の放送で、同じ人間のハガキが二通以上読まれるのは稀だ。大浜は、半ば諦めはじめている。  
しかし『Dead or alive 傷だらけの状況続いても可能性は必ずゼロじゃないハズ』という歌もある。諦めるな、大浜。  
 
『動きを止めたら自分をなくしそう』という言葉はなんだったか。  
ああ、そうだ。さっきまで掛かっていた『覚醒』とか言う歌の1フレーズだ。  
組み敷いたまひろの火照った顔を眺めながら、パピヨンはぼんやりと考える。  
血を拭かれてから、コの字をずらし、まひろの手を引きベッドに乗せて、組み敷いた。  
まさか背を向けて逃げるワケにもいかない。さりとて、普通に部屋に留まるのもできない。  
だから紅潮した細い首筋にかかる髪をのけると、まひろは体をこわばらせた。  
やはり緊張しているらしい。  
 
『動きを止めたら自分をなくしそう』  
正にそんな気分。もし外に行ったとして、再びこの曲を聴くコトがあれば、まひろを思い出すかも知れない。  
(ま、ないだろうけど)  
妙な話の流れだが、『動きを止めたら自分をなくしそう』で、まひろを抱こうとしている。  
抱こうとしている当人は、本心からはさほど乗り気ではない。  
適当に陵辱するフリでもして、拒まれたら、否定の意思を得たら、さっさと立ち去ろうとすら思っている。  
こういう形で「奪う」のは、どうも性に合わない。  
というより、まひろ自身が「奪われる」と思っていない。だからどうも気勢が削がれている。  
(でも表情はちょっと見てみたいかな)  
チロっと赤い舌で唇を舐めると、それが陵辱者として苛烈に責める決意に繋がった。  
 
拒否を得るには、考えうる最大の苛めをすべきなのだ。  
酷薄に視線を這わすと、やがて身をかがめて栗色の髪をかきわけた。  
ぴょこんと露出した左の耳はほのかな桜色で、パピヨンはその扇情に煽られた熱い息を、ふぅと吹きかける。  
「ひゃ…っ」  
くすぐったそうな、迷惑そうな、ともかくもそんな風に目を細めてまひろはビックリした。  
行為の始まりがキスからだと信じているので、これはとても予想外なのだ。  
知ってか知らずか、パピヨン、今度は耳たぶをしゃぶりはじめた。  
見た目よりはひんやりしている(耳たぶは体の中で一番体温が低い)を  
唇に軽く捕らえて、草食動物がするようにゆっくりゆっくり咀嚼してみる。  
「や、やだ、くすぐったいよぉー」  
どこかのん気な声を上げながら、まひろは顔を背けようとしたが、しかしムダ。  
「誘ったのはキミだろ?」  
とでもいいたげに、右の頬をガッチリ押さえて逃げられなくした。  
そして今度は熱くぬめった舌で、じっとりじっとり耳たぶをこそぐった。  
「やっ」  
ノドの奥から抜け出た声がちょっと色っぽくて、まひろはドキドキし始めた。  
パピヨンはもっとドキドキし始めた。  
 

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