早坂秋水は入院から退院まで、一睡もしなかった。
聖サンジェルマン病院での話である。
元々寝つきはいい方で、入院前などは早坂桜花を求める夜以外は朝まで熟睡していたが
しかし退院までの10日間は、一秒たりとも寝なかった。
きっかけは入院前日の夜、月明かりの下で見た綺麗な顔。
カズキと秋水の傷を引き受けて、死に瀕していた桜花の顔だ。
秋水は夜になるたび、脳裏に浮かぶその顔に眠るコトすら忘れ、
冷え乾く手や軽くなる肩や寂しく渦を招く胸奥からの咽びといった
全てが崩れゆく感触を一つ一つ鮮明に巻き戻し
執拗なまでに生暖かい死臭の中で、顔だけが綺麗なのを悲しんでいた自分を思い出す。
早坂真由美にしろ脱落し食われていった信奉者にしろ
最期は醜い姿を晒し、彼の見てきた「死」はそういうものであったから
綺麗なままで死んでいく顔は、彼の現実から離れすぎていた。
しかし別たれる時は、重ねた手からどうしようもない現実として伝わり続けていて
受け入れられないままに、綺麗な顔を悲しんでいた。
強くなりたかった。いや、強くなれるだけ強くなれたと思っていた。
だが結局は渦に呑まれるまま、ただ見ているだけしかできなかった。
間接的にとはいえ、自分の手で追いやった守るべき人を助けられないまま。
どうしようもなく無力だったと何度も思う。暗澹たる自責も込めて。
その数が増える度に、胸奥の渦が姿を変える。徐々に徐々に熱を帯び始め。
彼は戸惑った。
熱の中には、「何か」を成そうとする衝動がある。
暴悪でも自虐でもなく、ただあるべき姿を成そうとする、整然とした衝動が。
秋水は、何日目か分からないその夜から胸の奥の衝動と一人静かに向き合う事にした。
この得体の知れない「何か」に形を得られれば、二度と無力な自分には戻らない、そうすがるように信じながら。
そして彼が「何か」に形を得たのは、彼自身は数えていない入院9日目の夜だった。
聖サンジェルマン病院の昼下がりは、病院のクセに騒がしい。
ほとんどの患者は昼食の後に眠りについているのだが
起きている連中ときたら、テレビのある部屋に集まって
やれ、いつになったらみのもんたはテレフォンショッキングに出るんだとか
やれ、ごきげんようは一日で月曜から金曜までの放映分を順に撮ってくから、
だんだんバテてテンションが低くなっていくハゲの様子が、トークよりも面白いとか騒ぎ立て
メガネの看護婦が注意しても、集団で「看護婦さんかーわーいーい ヒューヒュー」とうやむやにされてしまう。
集団のタチの悪さに、看護婦は毎日頭を抱えている。
中庭の方はもっとヒドイ。
芝生を敷き詰めて所々に白いベンチを置いてある、何の捻りもない憩いの場で
ドッヂボールをして芝生を荒らしたり、一人でミントンしてフン! フン! とかやってるのが沢山いる。
一度、そんな運動できるなら退院して。頼むから休み取らせて!と看護婦がキレた。
(その前日、彼氏から忙しくて会えないのを理由に振られていて、機嫌が悪かった)
「神や仏がいなさって悪を罰して下さると小さい時に聞きました。
それはやさしい慰めと大きくなって知りました。やさしさ頼りに生きてはきたが
やさしさだけでは生きてはいけぬ…… 今日の私は機嫌が悪いわッ!」
とばかりに白いベンチ片手に暴れまわったら、しばらくは静かになったが
しかし、その恐ろしさを体感した人間に限って元気だから、すぐ退院してしまう。
そして新たな入院患者はそんなコトなど知らないから、結局騒がしいままなのだ。
まぁそんな感じに、喧騒が病院を包む昼下がり。
早坂秋水と早坂桜花は昼食を食べ終わった後のこの時間から
毎日夕方にある戦士長の尋問まで、数少ない会話を楽しんでいる。
メガネの看護婦は、そんな彼らの話の腰を折らないよう
食器を下げたりする時は、スっと部屋に入ってスっと部屋を出るように心がけている。
だから、彼女と早坂姉弟はほとんど会話をしたコトがない。
ないのだが。
「妙ね」
早坂姉弟が入院して6日目、午後1時。桜花の病室前。
珍しく早くやってきた戦士長から二人の病状を尋ねられ、ひとしきり説明すると、看護婦は呟いた。
片手に尿瓶を持っている。だって桜花は動けないし。こういうナースのお仕事は必然なのだ。
「妙?」
戦士長が怪訝な声で聞き返した。相変わらず銀色の変態衣装だ。
彼の横を通りすぎてく人は、早足で目を合わせないようにしている。
「何かこう、別れ話が出てもおかしくない雰囲気があるわ。あ、弟クンの方からね。
どこか線が切れてしまったような、話すべきコトを後回しにしてるような、そんな空気が」
一日の内に数十秒しか触れない空気だが、経験から分かるらしい。
この時、6歳くらいの女のコが、戦士長を珍しそうに眺めながら近づいてきた。
パフェに乗せるチェリーのように、右斜め上にちょんと黒髪を束ねているのが愛らしい。
「…彼らは姉弟だぞ」
「だから妙なの」
女のコが(ワーォ)という顔で防護服をつつき始めたのを見ると、看護婦は少し頬を緩めた。
それで女のコに気づいた戦士長が「ブラボーな服だろう?」と誇らしげに声をかけると
女のコはびっくりして「ゲロ怖あああっ!!」とハジけるように泣き叫びながら、逃げた。
「俺ってゲロ怖いのか……?」
「まぁ、ドアを開けた先に突然いたら怖いわね。変質者に見えるかも。そんなコトより」
落ち込んでるのに、二人ぼっちで生きてきた信奉者たちの話に戻されて、戦士長はムっとした。フォローくらいしてくれ。
「姉弟で別れようとするコトなんてあるのかしら。仲は悪くないのよ?」
ぎこちなくだが笑い合ってる二人を思い出しながら、看護婦は不思議そうに呟いた。
「普通はないが、しかし…」
男は時として、現状を捨ててでも「何か」を成し遂げようとするコトがある。
今の戦士長がそれだ。外では二度と防護服を着ないぞ、子供を怖がらせないぞ、と決意していた。
もっとも、すぐ、いや待て、信念を崩すのはなってないな。実になってないしブラボーでもない。
そんな俺を子供たちが好きになってくれるワケはない! ならば俺はこのままで行くぞッ!
と思い直し、秋水の心境を考え始めた。
秋水は「桜花を守り、強さを得て、二人だけの世界で生きていく」コトを成そうとしていた。
しかしあの夜、彼はカズキに負け結果的に桜花を瀕死においやり、そして助けられず
桜花は少しだけ外に心を向け、LXEとも縁が切れ、めざした全てが挫折の憂き目に遭っている。
秋水はそれを引きずる性格ではなく、経験の一つとして受け止めているだろうが
しかし、早坂桜花を守れなかったという一点に関しては、深く無力を感じているハズだ。
と同時に、カズキを一種の「壁」として見ているのではないか。
彼に負けたせいで全てが崩れ、しかし彼のおかげで姉は命を拾っている。
自分を下した相手に、自分が渇望しつつもできなかったコトをされるというのは、いわば完全敗北だ。
それをもたらしたカズキを倒すコトこそが、無力を断ち切る最後のケジメとして捉えてはいないだろうか。
そんな彼が「何か」を成そうというのであれば、
無力から脱却し、ケジメをつけられる強さを得るための原点回帰と再出発だろう。
ただ、それは彼にとっては難しい。
秋水にとっての原点を考えるなら、やはりそれは、
生まれた時からずっと一緒であり、苦境の中で肩を寄せ合い生きてきた桜花だろう。
目が濁るほどの苦難から絶えず桜花を守り続けていたからこそ、今の彼がある。
その原点に回帰した後、彼がどういう再出発を選ぶかは分からないが
少なくても、新しい世界を信じ始めている桜花と共には行かないだろう。
再び自分と同じ道を歩ませるのは、新しい世界を信じている桜花を閉じた世界に戻しかねないし
彼自身もカズキに嫉妬し、卑屈な選択に逃げているようで、それらは秋水の生真面目な性格が許さない。
だが、桜花は彼の原点であるから、離れるコトは難しい。
これまた性格ゆえに、桜花を一人置いていくのが見捨てるようで辛くもあるだろう。
そういう矛盾と葛藤があるせいで、秋水は別れ話を切り出せずにいるのではないか、
と言うようなコトを考えると、戦士長は短くまとめ、看護婦に話した。
看護婦は、変態から突然マジメな話をされて、少しドキっとした。こういうギャップに弱い。
「男には、空を駆ける一筋の流れ星のような自分の世界がある、というコトだ。わかるか、この例え?」
その例えはわからないが、看護婦は何となく秋水の心境を理解した気になった。
と同時に、自分を振った彼氏がそこまで生真面目に自分のコトを考えてくれたらと
未練がましく思ってしまい、看護婦は慌てて話題を変えた。
「あ、そうだ。あまり彼らにマンガを貸さないで」
病室に山と積まれている横山作品の数々を思い出しながら
少し怒っているのは誰に対してか、分からない。
「彼らがマンガ読むために夜更かしでもしたら、治るモノも治らないから」
「むむっそれは聞けないぞ。何故なら横山作品はブラボーだから! 読んでるだけでいろいろ治るから!
事実俺は、仮面の忍者赤影を読んでエボラ出血熱を治したコトがある! ゾナハ病だって治したぞ!」
「それはあなたが頑丈だから。彼らはまだ寝ていなきゃならないのよ」
いやあなたどこに行ってたの、ゾナハ病って何なのと突っ込みたくなったが、看護婦は敢えて冷たく注意だけを告げる。
「そうだ、マーズや伊賀の影丸を読むか? これはヤマケンさんが一番好きな作品らしい」
「ヤマケンって…ダレ?」
ちょっと看護婦は突っ込んでしまい、ああしまったと思った。これではバカを調子に乗らせてしまう。
「キミは盲腸の手術を見たコトあるか? 俺は見たことないがそんなカンジの人だ。
…ところで、その手にしているのは尿瓶だな? 早坂桜花の尿処理を終えたのだなッ! くれ!」
調子に乗りながらいつものように尿瓶を見つめる戦士長に
看護婦は「変態趣味は服装だけにしろ」という顔で呆れた。
「必殺仕事人のテーマソングと交換でどうだ!」
「なにその飛躍!? …そりゃあのシリーズ好きだけど、尿瓶は渡さないわよ」
けど欲しいらしく、ちょっと紅くて困った顔になった看護婦に、戦士長はニヤニヤした。さっきフォローしなかった仕返しだ。
実の所、戦士長は液体には興味がない。いつも冗談でやっているだけで変態的な性癖はなく、覗きが大好きだ。
「と、すまない。話が長引いてしまったな。今日の所は尿瓶を諦めるが、いずれ必殺仕事人とマーズと影丸は持ってくる
マーズの終わり方は衝撃的だぞ。アルベルトさんよりも!」
「べ、別に欲しくは… マンガだって読まないし…」
と看護婦が言いかけた時には、戦士長は、尋問まで暇つぶしをするつもりか、中庭の方へ歩いていた。
実に素早い。もう後姿が小さくなっている。
しかし鍛えぬいた聴覚に看護婦の声は聞こえたらしく、振り返ると親指をグっと立てて、去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、看護婦は「相変わらず変な人…」とちょっとだけ笑った。
ペースがつかめない人間だが、不思議と憎めない。仕事人のテーマもくれるらしいし。
ちなみに彼女が笑うと、厳しい顔つきがウソのように、とても優しげな顔になるのだが
それはかつての彼氏からすら言われたコトがないので、看護婦自身もどんな顔をしているかは分からない。
ふと、一度飲みに誘ってみるのも悪くないかもしれないと思った。
居酒屋で一緒に騒いだり、愚痴を聞かせる分には戦士長はいい男なのだ。変態ではあるが。
ヒドい話だが、恋愛対象としてはみなしていない。看護婦はそれでいいと思っている。
もっとも、えてして居酒屋で愚痴をこぼせるような人間こそが、結婚相手になるものだが
彼女はそんなコトは考えずに、仕事に戻った。
医療というモノは昼夜を問わず過酷なモノなのだ。
それからしばらく後、看護婦は早坂桜花の部屋で怒っていた。
病室に入ると、エンゼル御前がこっそり買ってきたメロンパンを桜花に食わそうとしていたのだ。
「コラァ! まだ少ししか喋れない重体なんだから、こんな消化に悪いモノ食べちゃダメでしょ!」
魔がさす棹さす将棋さす、許せぬ悪に止めさすっ!とばかりに
看護婦は御前をはたき、ひったくったメロンパンを力いっぱい握り締めつつ
日々の過酷を感じさせないその瑞々しい指を早坂桜花の鼻先へ突きつけた。
御前は頬をさすり涙を流しながら、その様を睨んでいたが
桜花は平然としたもので、握りつぶされ、床に落ちゆくメロンパンを
ああ食べたかったのにと未練がましく見つめていた。
「…わかった!?」
そんな態度にカチンときた看護婦は、厳しく返事を促した。学生時代はきっと委員長だったに違いない。
その委員長に怒られている生徒会長は、なんで御前の存在を普通に捉えているのとか
そもそも御前が買い物できる病院もどうかとか
別にいいじゃないメロンパンの一つくらいとか、まぁ色々思ったが
逆らってもいいコトが無さそうなので、とにかく一生懸命(に見えるような美しい笑顔を作り)頷いてみせた。
「…とにかく、メロンパンは没収」と、半ば呆れ気味に呟いた看護婦が部屋を出ると
御前は床に落ちたメロンパンを、憤怒の形相で拾い食いしながら叫んだ。
「チクショー性悪女めメロンパン返せ! そんな性格と胸じゃ彼氏できねーぞッ!」
看護婦は見た目、胸がない。胸がない女性=凶暴=大キライという図式が、この時御前の中で確立された。
ちなみに桜花は、夜、消灯時間が過ぎてから電気スタンドを御膳に設置してもらい、三国志を読みふけっている。
両方とも戦士長からの借り物だ。揃いも揃って医療関係者をなめている。
看護婦に見つかったら絶対に怒られるだろうけど、その時は大きなウソ泣きでごまかす気でいた。
あわよくば、それを聞いた他の病室の者たちがかばってくれるかも知れないから。
些細な出来心を罵る看護婦と、泣きじゃくる可哀相な少女では、どちらに利があるかは一目瞭然なのだ!
ウソ泣きを! 一心不乱の大ウソ泣きを!!
我らはわずかな病人集団、十人に満たぬ敗残兵に過ぎない。
だが諸君は一騎当千の古強者だと、桜花は信仰しているのだ。
…何だか別の作品を読むべき気もするが、まぁとにかくこっそりこっそり三国志を読んでいる。
面白い、という理由もあるが、寝付けないせいでもある。
怪我の重さのせいで、秋水と別々の個室になって以来どうも寝付けない。
入院して2日目の夜、桜花は何故だろうと天井を見ながら考えた。そして気づいた。
寝息だ。
いつも隣でしていた限りなく規則正しい寝息が消えたから寝付けないのだ。
(けど、寝息が子守り歌っていうのもヘンな話ね)と、桜花は一人、クスクスと笑うと
寝付くまでの暇つぶしに記憶を辿る。そういえば寝息の主は全く寝返りをうっていなかった。
整然と寝ている姿に、よもやと思い一晩中秋水の寝姿を見てみると、彼は全く微動だにしていなかったのだ。
普通、人は寝ているとき、一箇所が圧迫されて床ズレを起こさないよう何度か寝返りをうつ。
しかし秋水は全くしない。岸部露…もとい、早坂秋水は動かない。
桜花は早坂真由美を思い出してヒヤリとしたが、寝息をしているのに安心するといたずら心がわいてきた。
頬をつついたり鼻をつまんだり唇を触れ合わせ、端整な顔を弄んだが
しかし、彼はスースーという寝息も寝相も崩さなかった。
無反応すぎるのもかえって面白い。以後桜花は、秋水が求めてこない夜中には
彼の顔にちょっかいをかけ、床ズレを起こさないようにこっそりこっそり寝相を変えるのが習慣になった。
そして朝、寸分も変わってない寝相を見るたび、桜花はこらえた笑いに肩を震わし、秋水に怪訝な顔をさせた。
と、ここまで記憶を辿った時、桜花はもう一つ寝付けない理由に気づいた。
手だ。
引き締まっているのに、しなやかでスベスベな、男のコっぽくも女のコっぽくもある秋水の手。
彼が女のコだったら、誰かさんが趣味に従って『前向き』に行動しそうなキレイな手に
桜花はいつも握ってもらっていた。求められた時も寝顔を見る前も寝相を正す前も。
(だから安心して寝ていたのね…)と
桜花は、遠い昔のコトのようにしみじみと実感しながら、ようやくその夜は眠れた。
その日以来、壁一枚隔てた秋水の部屋に耳を澄まし、聞こえない寝息に嘆息をつき
眠くなるまで三国志を読むのが、桜花の新たな習慣になっている。
そして入院9日目。桜花は三国志を読みながら物思いに耽るコトが多くなった。
その中核には秋水がいる。最近の、どこかぎこちない態度が怖い秋水が。
桜花の中で、最も秋水の存在が集約されているのは、彼女の手を引き前を歩いている姿だ。
病院から抜け出した時、高熱に奪われそうな意識の中で一生懸命見ていた姿。
裸足で歩く荒れた道のささくれよりも、引いてくれる手の柔らかさをよく覚えている。
それは、桜花が初めて覚えた「守られている」という安心感と同じ意味で結びつき、今も残っている。
桜花自身を新しい世界から引き戻しかねないほど、しっかりと。
夜はますます深くなる。
暗い病室の中で山吹色に照らされて、定まらない思考のごとく茫洋と浮かぶ三国志は
桜花があの夜見た、山吹色の尖光と馬鹿がつくほどのお人好しを思い出させ、深くため息をつかせた。
「二人ぼっちの世界から新しい世界が開くかもしれないんだ」という彼の言葉を信じてはいる。
だが、桜花はしばしば二人ぼっちに追いやられた過去を、屈折した賢明さにつき合わせて
悪い方向にと、恐ろしい方向にと世界を考えてしまう。
受け入れられるとは限らない。だが秋水のそばにいれば、必ず安心を享受できる。
ならば結局、開いた世界などは何の意味も成さないのではないのか。
悪女じみた顔をわざと作って自嘲する。
「ちっとも変わってないわね」
秋水がいなくなるコトだけを恐れて「ずっと一緒にいてね」と呟いた時と。
変わっているとすれば、それでもお人好しの言葉を信じたがる所だろう。
感謝か敬意か、それとも恋心か、初めて外に抱いた得体の知れない感情のせいで。
ならばお人好しだけに寄っていけばいいのだが、しかし、それでは秋水の時と変わらない。
ふと、桜花は、早坂の扉以上に秋水を縛っていたのでは、とも思う。
なぜならば、桜花に深く根ざしている秋水は、前を歩いているからだ。
ともすればその姿は、桜花から離れて一人で外の世界に行きかねない危惧を招く。
桜花が手をつなぐ度にその危惧がのしかかり、秋水の歩みを鈍くしていたのではないだろうか。
再び外の世界へいく機会を得た彼は、重みを嫌い、今度こそ自分から離れようとしているのではないだろうか。
桜花はまたため息をついた。
たかが壁一枚を挟んで9日離れただけで寝付けなくなり
恐ろしげな思考の沼に浸り、秋水の態度を恐れている。
桜花は逃げるように三国志へと思考を戻した。
「あら……」
場面は、桃園で「同じ日に死ぬ事」を誓った関羽の死を、信じたくないと泣き崩れる劉備の所だった。
自分も秋水と離れてしまった時は、こんな風に泣くのだろうか。
静かな夜の中で、桜花はじっと息を呑んだ。その時。
コン コン
不意に静寂を破った扉に、桜花は三国志からばっと視線を移した。
と同時に枕の下から核鉄を抜き出したのは、LXEの刺客かと思ったからだ。
時計に目をやれば、いつの間にやら午前4時。普通の人間ならば、まずこんな時間に来ない。
桜花が誰何の声をあげようとした時、
「姉さん、起きてる?」
聞き慣れすぎた声が響き、桜花は安堵しながらも驚いた。秋水だ。
「え、ええ」
不意のコトに少し焦っていたらしい。
核鉄と間違えて三国志を枕の下に入れそうになりながら、桜花が
「立ち話もなんだし、部屋に入ってもいいわよ?」
と促すと、「…うん」と、秋水は遠慮がちに返事をし、部屋に入ってきた。
焦りは言い知れぬ予感に姿を変え、いまだ桜花の心臓を波打たせている。
「御免、夜遅くに。…その、寝付けなくて」
病室に備え付けられているイスに腰掛け、謝る秋水に桜花は一抹の不安を覚えた。
床についてすぐ、寝相すら変えないほど熟睡していた秋水が
寝付けないというコトがあるのだろうか。
仮に寝付けないとしたら、自分と同じように「何か」を考えていたのではないか。
得体の知れない「何か」に形を得たから、彼は、それを告げに来たのではないか。
病室の中の夜気が、冬のような冷たさで桜花の肌を冷やした。