昼の喧騒がウソのように、聖サンジェルマン病院は静まり帰っている。  
静寂を破るモノといえば、急患の存在を喧しく知らせる救急車やナースコール、  
それに応対する医師や看護婦たちの火急の喧騒に、  
もうすぐ買い換えられる古めかしい空調設備の、羽の破れたコオロギのような「ぎぃぎぃ」という鳴き声ぐらいだ。  
秋水と桜花が向かい合っているのは、そのどれもが無い、本当に静かな時だった。  
 
電気スタンドの山吹色に茫と照らされながら、桜花は微笑を浮かべた。  
胸中は微笑どころではないが、信望のために培った笑顔はそれを感じさせない。  
「いいのよ。私も寝付けない所だったから。  
でも、怖ーい看護婦さんに見つかったら大変だから、静かにお話しましょうね?」  
と言いながらも、この一種の逢引を見つけられ、秋水の「何か」を挫くコトなくこの場が収まのを望んでいる。  
だが耳を澄ました廊下にあるのは、コオロギのような雑然とした気配だけで、桜花は微笑のまま佇む他なかった。  
その前に座る秋水も無言のまま。  
普段の修練のせいか背筋はすらりと伸びきって、座っていても「直立不動」といった印象がある。  
そして電照は張り付くように二人に注ぐ。  
やがてその中で、影がわずかにゆらめき、消えた。  
「姉さん」  
「何?」  
細い身が微かに震えた。予見できる不可避の言葉を、先に言えればどれだけ楽だろう。  
しかし言えないまま、秋水の口は滑らかに開かれた。  
「しばらく修行に出る」  
 
廊下の彼方から、重く潰れた電子音が聞こえてきた。  
ナースコールらしいその音が、桜花には夢の中の存在に思えた。  
 
音が途切れたと同時に、桜花の思考は現実に引き戻された。  
「しばらく修行に出る」  
彼の口調からみて、一人で行くのだろう。  
秋水は、どんなコトでも(行く場所や、監視者の始末など)桜花に伺いを立てていた。  
主導権が桜花にある、というより、何事も二人で決めるのが当然の流れだった。  
だが、「しばらく修行に出る」のは、彼の一存だけで決められた。  
それに気づいた時、置いていかれる事以上の衝撃を、桜花は緩やかに受け始めた。  
 
走る音が近づいてきた。ナースコールが鳴った後だから、看護婦のものだろう。  
体重が軽いせいか靴底が浅いせいか、あまり床に擦れない足音が部屋の前を通り過ぎ  
そう遠くない場所で止まり、扉の開く音と入れ替わった。  
そんな看護婦の急患に対する動作が一段落する頃、桜花は尋ねた。無意味を悟りながら、なお。  
 
「どうして…?」  
想像通りに縛られていて、それを断つ為なのだろうか。  
憂いが浮かぶ桜花の目を、秋水は見据えた。まっすぐな視線は細く整った目によく映える。  
「あの夜、俺は姉さんを助けられなかったから」  
あの夜、とはカズキたちと戦った夜のコトらしい。秋水は続ける。  
「…いや、違う。助けようともしていなかった。  
姉さんと俺の核鉄を使って傷を治そうとも考えずに  
ただ月明かりに照らされる綺麗な顔を悲しむだけだった」  
「秋水クンが自分を責める必要はないのよ」  
ああするコトで、秋水だけは津村斗貴子に許されて、カズキに救われるとも、どこかで信じていた。  
だから「死」そのものには納得していたし、秋水に手を握られながら看取られるのに満足してもいた。  
だが、秋水はそうではなく、今の自分と同質の衝撃を受けていた、と桜花は気づく。  
「私が一人で勝手に武藤クンをかばったせいで、置き去りにされそうになったんだから」  
笑いかけても拭えないほど、逆光の中で端整な顔を沈痛に歪ませていた。  
自分が責められるべき出来事が、恐れどおりに彼を縛っている。  
逃げるように伏した桜花の目の先には三国志。それは山吹色に溶かされているかの如く、霞んで見えた。  
 
光がざわめいている。その渦中では、まるで二人だけしか世界にいない心持になる。  
もし世界が彼らに開いていたとしても、この錯覚だけは二人の中から消えなかっただろう。  
 
この錯覚をして、彼らに、部屋の扉が僅かに開いたコトを気づかせなかった。  
外側の暗い廊下に佇んでいるは、メガネをかけた看護婦。  
先ほどの足音の主は彼女であり、「なぁ、4っていくつだ?」と聞くためだけにナースコールを押した患者を怒って、4を教えて  
ナースセンターへ戻る途中、部屋からの話し声に気づいて立ち聞きを始めた。  
彼女は彼女で、この二人の姉弟に興味がある。  
 
覗かれている、などと知る由もなく、秋水はかぶりをふった。  
「俺が何もできなかった事に変わりはないんだ。もし核鉄を使ったとしていても」  
信奉者という立場上、津村斗貴子から核鉄を借りられず、助けられなかった。  
秋水はそれを言い、更に、早坂の扉や公園で熱を出した桜花を引き合いに出し、こう続けた。  
「結局、昔から俺は何も変わっていなかったんだ。  
泣き喚いて、目を濁らせて、見ているだけで、大事な時にはいつも、俺の手で姉さんを救えなかった」  
「不可抗力よ。どれも」  
扉の呪縛も、衰弱する姉も、小さな子供にはどうするコトもできないはずだ。  
あの夜だって前述の通りで、秋水が自身を責める必要は本当にない。  
だが彼は別れを選び、別れれば、もう二度と会えない亀裂が二人に走りそうで  
桜花はただ、すがるような思いで呟いた。  
「…私は、秋水クンに手を握ってもらうだけで本当に満足だった」  
助けられなくても、傍らにいてもらうだけで救われていた。だから─ という二の句は、しかし秋水に遮られた。  
 
「姉さんがそうだとしても、俺は違うんだ」  
はっと目を見張る思いで、桜花は秋水に視線を戻した。  
つつけば崩れそうなその顔の前で、秋水はゆっくりと、言いづらそうに、答えを出した。  
 
「手を離したら姉さんがいなくなりそうで、それが怖くて、手を引くだけで精一杯だったんだ。  
だから姉さんが熱を出している事に、公園で顔を見るまで気づけなかった。  
ずっと手を握っていたのに、俺の中には恐怖しかなくて、姉さんの事は考えてやれなかった」  
少し静かになった光の中で、桜花は嬉しさと寂しさを、複雑な表情として湛えた。  
(私も同じ… ただ安心しているだけで、秋水クンのコトを考えてやれなかったのだから)  
もし考えて、二人で別たれる恐怖に向かい合えば、彼は目を濁らせなかった、とも桜花は思った。  
秋水は続ける。  
「俺が目を濁らせたのは、別たれる恐怖に呑まれるまま  
ただ自分の為だけに姉さんを守ろうとしていたからだと思う」  
「それでも守ってくれたコトには変わりは……」  
桜花は言葉を切った。どうも彼の意見に反対し、引きとめようとしている。  
「……しばらく黙ってるわね」  
恐れ続けたコトに向かおうとする秋水の意思を汲もうと思った。別れるコトになろうとも。  
 
暗い廊下に、一人の看護婦が佇んでいる。場所柄、その姿は幽霊にも見えなくはないが  
しかし彼女は、職務に不釣合いな細足で整然と立ち、S−405室を覗き込んでいる。  
目線の先では、秋水が「ベッド、倒そうか?」と、ややズレたコトを言った。  
「黙っている」と言った桜花が、座ったまま会話をするのに疲れたと勘違いし  
ベッドを倒して彼女を横たえようとしている。看護婦はそう見た。  
そして、桜花が「このまま…」と首を横に振ったのを見て、夜中ぐらい横にならないと体に障るわよ、と内心で怒った。  
もっとも、体調を慮るのなら、二人に寝るよう注意するべきだろう。  
だが看護婦は見過ごした。  
部屋の空気が夜霧のごとく、桜花の微笑を湿らせているのが見える。  
看護婦は、彼氏に振られ体感したその雰囲気から、二人が別れ話をしていると察していた。  
どうも事情が込み入っているらしい彼らのそれを  
「今なら阻止するのはたやすいけど… 無粋ね……」と思い、行く末を見届けようと思っている。  
ナースセンターに戻るのが遅くなるから婦長に怒られる、とも思いつつ。  
 
ほの暗い部屋の中で、秋水は話を戻した。もはや独白と言った方が正しいが。  
 
「…武藤は違った。  
俺にどれだけ致命の傷を与えられても、津村斗貴子と対立しても、姉さんと俺を気遣っていた。  
拾った命を、飛び込む必要のない世界で削り続けて、ただ他人の為にあろうとしていた。  
しかし俺は彼を刺した。二人だけの世界に執着して、敗北の中で姉さんを失うコトだけを恐れて、目を濁らせて」  
桜花はみじろぎもせず、耳を傾ける。  
憂いのままに寂々としたその顔は、綺麗であるが似合わない。  
「俺に刺されたのも忘れて、彼は姉さんを助ける事を選んだ。津村斗貴子を説き伏せて。  
武藤は、他人の為だけに痛みも苦しみも引き受けながら、強さを重ねていた。  
津村斗貴子はそれを知っていたから、核鉄を貸した。  
だから武藤は、姉さんを助ける事ができた。望みを叶える事ができた」  
 
「…そして姉さんは、武藤と同じになった」  
「同じ?」  
よく分からない上に、彼らしからぬ変な言い方である。やや拗ねた色もあるのがまたおかしくて  
桜花は、聞き返してしまった。その困惑を浮かべた笑みを、秋水は気にも留めず  
「武藤の為に、他人の為に傷を受けた。  
だからきっと、姉さんには新しい世界は開けていくと思う」  
めずらしく優しい声音で答えた。口調には芯から信じきっている様子がある。  
桜花は、困った。世界に関して猜疑的なのに、秋水はそう思っていない。  
なんだか彼の言葉に、裏切っていたような申し訳なさと、子供のような安心感を同時に覚えてしまい、困った。  
 
「俺はどうかわからない。武藤の言う通り、世界が開くかどうかは。  
ただ、目の前で命が消えかけている時は、結果は別として、少なくても諦めたくはない。  
そうする事で初めて、ケジメをつけられると思う。……だから、俺は強くなりたい」  
自身に誓うように、秋水は言う。  
覗いている看護婦が、耳元で言われたかと錯覚するほどの明瞭さを以って。  
「武藤と違い、ただ辛苦を避ける為だけに剣を振るい、その積み重ねを強さと信じて  
昔と変わらず別たれる恐怖に呑まれ、目を濁らせて、何もできなかった  
自分に勝ちたい」  
秋水は、一つ一つの言葉を、確実に反芻しながら言い終えた。  
と思ったのは桜花だけで、一度間が空き、少しだけ続いた。  
「そしてそれは、辛苦の中でしかできないと思う。  
だから姉さんと離れて、修行に出る」  
どうやら、今度こそ言い終えたらしく、秋水は深く静かに息をついた。  
自身と向かい合い、辛苦を選び、桜花を信じているその弟を前に、桜花は  
(秋水クンに倣おう。結果はどうあっても)  
そうするコトが、彼に対する謝罪であり感謝であり、今、開いた世界に持てる一番の意味だと思った。  
 
少し落ち着いたせいか、桜花は今更ながらに「先生の所へ?」と行き先を訪ねた。  
「うん。剣を見つめ直すのは、俺に剣を教えてくれた先生の下じゃないと駄目なんだ。  
今から別の道を選んで、俺が見誤って積み重ねた強さを捨てたくはない。  
同じ道を選んで、あるべき姿に一から強さを積み直して、武藤を刺した剣と共に生きる。  
そうする事でしか、俺は変われないし、自分に勝つこともできないと思っている」  
 
「けど、姉さん」  
「何?」  
はたと穏やかになった口調で秋水は  
「御免。相談もなく修行に行く事を決めて」  
二人で物事を決める慣習を破ったのを、深々と頭を下げながら謝った。  
「……いいのよそれで。きっと」  
相談されれば、桜花は引き止めただろう。  
引き止めなかったとしても、表情の端々が秋水を引き止めた。だからこれで良いハズだ。  
「私も一人で頑張れるから。ね?」  
桜花は、透き通るような微笑を浮かべながら、人差し指を立てた。  
秋水は、もう一度謝ると、こう続けた。  
「自分に勝てた時、もし俺が、姉さんの傍にいても良いのなら。  
二度と俺の無力で姉さんを苦しませない」  
助けられなかったコトを負い目にしているらしく、遠慮がちにいう秋水だが  
桜花は、(やはり変わってない)と内心で苦笑しながらも、心の奥から安堵した。  
考えがいかに変遷を辿ろうとも、「一緒にいたい」というのは  
二人の中で変えようがないらしい。二人が姉弟として生まれたように。  
 
さて。そんな姉弟を見ている看護婦も、胸を撫で下ろしていた。  
彼らがとりあえずも、修復不能な別れを回避できたコトに。  
ふと、戦士長の言葉を思い出し、それは、少しだけ外れていたと思った。  
「無力から脱却し、ケジメをつけられる強さを得るための原点回帰と再出発」の為に、秋水は別れを選んだ。  
けれども、ケジメは「カズキを倒す」ではなく、「命を諦めない」コトだった。  
看護婦はその違いは、秋水自身もカズキと同じく(一通りの事情は知っている)  
しかし範囲は極端に狭いとはいえ、「守るコト」を主軸に生きてきたからでは? と思った。  
「守るコト」は、医療とも似ている。医療に携わる者のほとんどは、  
殺人者を完膚無く千億の灰燼と化すまで討つよりも、患者の苦痛を取り除き、元気にするコトを喜ぶ。  
秋水も同じだが、しかしあの夜は見ているだけしかできなかった。  
救えるハズの命を、それも一番大事な人の命が消えゆく時に。  
守ろうとする者がその無力で命を奪うのは、何よりも辛い。カケラほどの殺意があった方が、まだ救われる。  
そう看護婦は身をもって知っている。だから彼女は看護婦たりえる。  
秋水も同じなのだろう。過ちを繰り返し、目の前で命を消すのだけは、彼にとっては耐えがたい。  
それが、桜花であろうとなかろうと、「見ているだけ」というのが辛いのではないだろうか。  
 
カズキのように、全てを守るコトは秋水にはできないかも知れない。  
けれども、殴りかかる悲しみさえ全身で打ちのめし  
その胸に蘇る愛の力を武器に、大事な人間を守ろうとしているその姿勢は  
「忙しくて会えない」という理由だけで振られた看護婦にとっては  
何よりも素晴らしいモノに思えた。同時に桜花が羨ましくも。  
姉弟とはいえ、そういう人間が身近にいるのは、それだけで良いコトなのだ。  
 
次いで看護婦は、彼にとっての「剣」は守るコトの原点であったり  
桜花が傍らからいなくなった時は、彼は彼女のいる世界を守る為に生きるのだろうか。  
そんなコトも思ったりしたが、覗いている部屋の中に  
白々とした明け方の光がさし始めたのを見て、ナースセンターに戻るコトにした。  
もういい加減戻らないと、婦長に何を言われるか分かったものではない。  
ちらりと、秋水を手招きしている(ベッドの上に乗っている三国志を見せるのだろうと看護婦は思った)  
桜花を見ると、静かに扉を閉めた。そして  
 
「雨は降る降る血の雨が。人の情けは泥まみれ。あした天気になぁれ」  
 
好きなフレーズを誰ともなく呟くと、とり急ぎ、帰途についた。  
この選択が彼女に取り、最良だったと気づく由もなく。  
 
部屋の中では、桜花がそぅっと唇を秋水のそれに重ねていた。  
子供のように、ただ軽く触れ合わせ。  
 
佇んでいたせいか、少しぱさぱさしている柔らかい唇が離れると  
「その… やめた方がいいと思う。まだ話すコトだって辛いんだから」  
別れる前に一度だけ、と秋水は彼を求めてきた姉に言った。しかし  
「少しだけなら大丈夫だから。お願い…」  
桜花は聞かない。幼くも儚げに笑いながら。  
その顔に、胸がつまる思いをしながら、秋水は「辛そうだったらすぐやめる」とだけ言った。  
 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル