風呂上りの廊下。  
ぺたぺたとサンダルの音をさせながら、私たちは部屋に向かって歩いていた。  
 
「いいお湯だったねー」  
「すごく広かったしね」  
「斗貴子さんてやっぱりお肌すべすべだったねー」  
…  
「先輩?」  
…あ  
「ああ、うん。そうかな」  
「大丈夫ですか、津村先輩」  
「あ、ああ、ごめん…のぼせたみたいだ」  
 
ちがう。そうじゃない。  
せっかくの旅行、せっかくの海。なのに、思ったほど楽しい気分にならない。  
たしかにこんな経験は久しぶりだ。  
はっきり言って小学校の時以来、つまり錬金の戦士になる以前からすれば、ほぼはじめてと言っていい。  
しかし人並みの楽しさを味わうことくらい、私にもできる。  
水着にも気合を入れた。海で泳いだりビーチバレーをしたりスイカ割りをしたり、一通りの海の遊びをやった。  
なのに…  
 
「桜花先輩は?」  
「先に上がったよ。長湯は苦手なんだって」  
 
早坂桜花…  
 
なんだろう、彼女の名前を聞くと、今日は特に嫌な気分になる。  
元信奉者だから?まだ私がどこかで彼女を許していないから?  
そうかもしれない。  
私はホムンクルスを憎むべき過去をもつから憎んできたのだ。  
今は仕方が無い。だが、いずれわかりあうときは来るだろう。  
カズキがそれを教えてくれた。  
 
「あ、桜花先輩とカズキ先輩!」  
 
ええっ  
 
…前方の休憩室に、ジュース片手に談笑している二人がいた。  
たのし…そうだな  
 
「あ、斗貴子さん!」  
「おかえりなさい。私、長湯が苦手だから早めに上がらせてもらったの」  
 
上気した顔が艶っぽく見える。女の私でもそう思う。  
まして男のカズキなら…  
って、知るか、そんなこと!くそっ、上せた。何をくだらないことを考えているんだ私は。  
 
向こうから岡倉たちがやってきた。  
「おー、ここにいたのかよカズキ。と斗貴子さんと桜花先輩」  
「先に上がったの気付かなかったよ」  
「…おまえたちがプールみたいにはしゃいでたからだろ」  
 
みんなで自販機のジュースを飲みながら、しばらくわいわいやる。  
この子たちは集まるとすぐ話がはじまるな…  
そうだ、こんなに楽しい世界にいるのに…どうして、私は。  
 
そのとき、ふと岡倉がカズキに手招きした。  
「ちょい、カズキ」  
「ん」  
「みんな悪ぃ、カズキ借りるぜ」  
メガネを拭いていた六枡が笑いながら答える。  
「逢引でもするの?」  
「そんなとこだ」  
岡倉は意味ありげに笑ってみせると、なぜか一瞬私の方を見た。  
 
 
夜──  
私は一人、さっきの休憩室にいた。  
 
あのあとみんなで男子の部屋に移動したのだが、そこからが大変だった。  
岡倉が酒を持ち込んだことで、それぞれが暴走をはじめたのだ。  
六枡の一人かくし芸大会  
ちーちんの和の心薀蓄講座  
さーちゃんの恋愛談義  
岡倉の不良心得  
大浜の深夜ラジオネタ披露会  
桜花&御前の毒舌漫才  
締めは武藤兄妹の達人芸大会  
いったいキミたちはどこの芸人だと言いたくなるようなネタのオンパレード。  
私はただそこで腹をかかえて笑っていればよかった。  
まあ、一応、私もバルスカで果物の皮むきをやったりはしたが…  
 
しかし場がお開きになり、それぞれ部屋で寝静まってしまうと、  
私の中にはまだどこか、満たされないものがあった。  
 
やはり、こういう場は私には合わないのか。  
たしかに戦いの中に身を置く方が、気楽ではあるが…  
 
戦い。  
 
そうか! そういえば今日は訓練をしていない。  
戦いから身を離すと不安になる。それは戦士の本能だ。  
 
やっと答えを見つけ出せて、私は正直安心した。  
そうと決まれば、カズキを呼び出さなければ!  
 
「どうしたの、斗貴子さん?」  
「わッ」  
 
…カズキ。  
取り出した携帯を開く前に、そこにカズキがいた。…キミ、エスパーか?  
 
「いや、ちょっとな。そうだちょうどいいカズキ。これから訓練をするぞ」  
言ってから失敗したと思う。  
考えてみればカズキも私も遊びに来たのに、私はなんて興ざめなことを言ってしまったのか。  
「こんな夜中に?」  
…そこか、キミが突っ込むところは。  
「そ、そうだ。いつもそうだっただろう?  
それに錬金の戦士はたとえバカンスの最中でも戦いに備えていなければならないからな」  
とたんに真顔になるカズキ。  
 
「それもそうだね。よし、やろう斗貴子さん!」  
 
 
あれ なんだろう  
胸が苦しい  
何も疚しいことは言っていない  
 
のに…  
 
 
 
誰もいない夜の砂浜。  
星の光と月明かりだけが世界を照らすその下で、私とカズキはおのおのの武器を交わしていた。  
 
「そこだッ」  
どっ──  
前方からの連続攻撃、と見せかけて左下部からの強襲。  
利き手の逆から入るこの見えにくい攻撃を、カズキは見事に読んでみせた。  
すばやくガードに入るサンライトハート。  
「だが甘いッ」  
ガードの瞬間に私は間合いを詰めている。残りの一本が右から回り込み、カズキの背を打つ。  
利き手を回した直後のカズキはこれに反応できない。  
「あ──!」  
もちろん軽く小突くだけで、怪我をさせるようなことはしない。  
 
「まあ、読みは以前に比べてはよくなったな。だが動きにキレがない。遊びすぎで気が抜けた?」  
「そうかも…俺、ほんとに甘いや」  
苦笑いをするカズキ。  
ああ、そんなに申し訳なさそうな顔をするな。  
「遊ぶなとは言わない。遊びに引きずられてはいけないというだけのことだ」  
「うん、わかった…」  
あれ?  
そこで切り替えるのがいつものキミだろうに。  
「どうした。疲れた?」  
「うん。いや…なんでもない。続けよう」  
どうしたんだ、カズキ…そんな顔をするな。せっかく二人で、  
じゃない、せっかくの訓練なのに。  
「言いたいことがあるなら言ってほしい。たとえ私でも言うときは言う、と言ったのはキミだぞ」  
「じゃあ…あのさ、斗貴子さん」  
「なんだ」  
 
「桜花先輩も、この訓練に混ぜて欲しい」  
 
ガキンッ  
 
「うわあッ!! 斗貴子さん!!?」  
無意識のうちにバルキリースカートが起動していたらしい。  
 
二撃、三撃。四撃。  
 
「わっわっわっ」  
止まらない。カズキが必死に防御している端から私の攻撃が続く。  
「ちょっ、再開ならそう言ってよ斗貴子さん!」  
「戦いがいつもスタートの合図とともに始まると思うな!」  
何を言っているのかもう自分でもわからない。  
カズキにはバルスカの軌跡が高速がゆえの残像で二倍にも三倍にも見えているだろう。  
私の方もだんだん視界がごちゃごちゃしてきた。  
なんだか輪郭がにじんできて前がよく見えない。  
 
「でも斗貴子さん──」  
銀色の鎌をさばきながら、カズキが言った。  
「見てよ。俺、斗貴子さんの攻撃に耐えられるようになってきたでしょ」  
「だからどうした!まだ終わっていないぞ!」  
だがカズキは語りながらも確実に私の攻撃を受け流している。  
「昔は全然ついていけなかった。  
でも訓練したから…斗貴子さんやブラボーと一緒にがんばったから、ここまで来たんだ」  
「…」  
「だから思うんだ。桜花先輩もこれから俺たちと一緒に訓練したら、もっと強くなるんじゃないかって…」  
「…なに?」  
「斗貴子さんが桜花先輩を完全に許していないのはわかってるよ。  
でも先輩はこれからホムンクルスの裏切り者として奴らに狙われないとも知れない。  
そのとき今のままじゃ危ないと思うし、彼女にもみんなを守る力をつけてもらいたい。  
そのためには──」  
正論だ。キミらしい、まったくの正論だが…  
 
そのとき私の胸の奥の違和感は、灼熱を帯びて別のものに変化していた。  
 
「思い上がったことを言うな!」  
 
気がつくと、私はカズキをバルキリースカートでサンライトハートごしに殴りつけていた。  
衝撃に耐え切れずしりもちをつくカズキ。  
 
「キミはいつだってそうだ!  
自分の命を守るのもままならないくせに他人のことまで心配する!  
いい加減にしろ!たまには自分のことを大事にしろ!」  
「斗貴子さん…」  
見上げた瞳が、私の視線とかちあう。  
 
その瞳だ。  
私はその瞳を…ずっと見ていたいだけなのに。  
 
そのとき、私の中で何かがはじけた。  
「とにかく今は──」  
 
 
 
 
「今は、私のことだけを見てくれ…カズキ」  
 
 
 
…  
 
それからの記憶を、私はもっていない。  
次に気がついたときには、女性部屋で床についていた。  
部屋の窓から太陽が見えた。  
 
朝…だ。  
 
「おはよう、津村さん」  
反対側から声がしたので振り返る。  
早坂桜花が枕元に座っていた。すでに私服のワンピースに着替えている。  
「…おはよう」  
「体調はいかが?」  
「え?」  
「ゆうべカズキ君があなたを背負ってここまで連れてきたんですの。  
津村さんたら酔っ払って外に出ていって、そこで寝てしまってたんですってね」  
そうか、カズキがここまで運んでくれたのか。  
 
…カズキ…  
 
ゆうべのことを思い出した。  
頭の奥が熱くなる。  
私はなんてことを言ってしまったんだ…!  
「あらあら、まだ酔いが冷めてませんのね」  
「いや…大丈夫だ…」  
「無理しなくて結構よ。もうちょっと寝て治したほうがよくってよ。それに」  
…それに?  
「そうしないと、優秀な看護士さんに看病してもらう機会を逃してしまいますわよ」  
 
 
部屋の入り口のふすまが開いた。  
「斗貴子さーん!旅館の厨房でおかゆ作ってきてもらったよー!」  
カズキが盆の上に湯気の立つ茶碗と幾つかの皿を乗せてやってきた。  
桜花がす、と立ち上がり、  
「私はこれで。あとはよろしくね、武藤君」  
とカズキと入れ替わりに出て行った。  
ふすまの向こうに、一瞬岡倉の姿が見えた。  
 
カズキは枕元に腰を下ろしながら、私の顔を覗き込む。  
「斗貴子さん、大丈夫?」  
「すまないカズキ、ゆうべは──」  
「ううん、斗貴子さん」  
カズキは私の言葉を遮って、それから笑った。  
 
「安心して。今日は、斗貴子さんのことだけ見てるからね」  
 
あのときと同じ笑顔だ。  
まぶしいよ、カズキ。  
 
旅行に来てよかった。  
と今頃言ったら、キミはもっと笑うだろうな。  
 
 
                           ──"I can't see all, without you" 終  
 

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