1、00:35 PM 屋上
ココは銀成学園高校屋上、私のお気に入りの場所だ。
え? じゃあなんでそんなに、浮かない顔をしてるかって?
そ、それは…だな。
この場所は、私の好きな高く澄んだ空に近いから。だからお気に入りなんだが。
今時分のような梅雨空は低く濁っていて、ホラ、化け物共の目を思い出させるからだ。
「あらあら〜…武藤クン! 今日も椎茸の煮物残して! 駄目よ、好き嫌いは」
「や、やだなぁ桜花先輩〜。最後に取っておくんだよ…」
「ダ・メ! 悪いコには…お姉さんが食べさせちゃおうかな〜? うふふ」
だ、だから、機嫌が悪いのは天気が悪いせいなんだってばっ!!
<タクティクス桜花外伝(GBA版)>
どんより曇った空の下。
この時期特有のジトジトした空気に、屋上で昼食を摂る姿は少ない。
私とカズキ、それから…。早坂桜花ぐらいだ。
「みっともねぇぞカズキン! 桜花の作ったモンは黙って全部食う! それがオトコだろうがっ!」
あぁ…もう一匹、浮遊物体が居た。
りんごをかじりながら、ふよふよ漂っている。鬱陶しいことこの上ない。
「く、食うよっ! 食えるさ、こんなものっ!」
今日も今日とて桜花の前には、手作りおかず満載の弁当箱が展開されている。
まったく…秋水が居なくなって寂しいのは分かるが…。
だからってここまでして、年下の後輩の歓心を得たいものかと思う。
カズキもカズキだ。
最近のカズキは、桜花の作った昼食ばっかり食べている。
よくない。実によくないと思う。
つまり……。
た、例えばだ。危険な任務の最中では、豪華な食事が摂れるとは限らないだろう?
軍隊でも演習中は、戦闘糧食を使用することがある。
私達も特訓中ぐらいは、戦時コンディションに慣れておくべきではないか?
その点、私は普段から心構えを忘れないためにも、おにぎりを愛食している。
カズキだってたまには、同じようにするべきではないかな。うん。
…しかしいきなり、『おにぎりを食べろ』ではカズキも困るだろうと思う。
だ、だからだ。
じ、実は今日は少し早起きをして、カズキの分のおにぎりを…作ってきているのだ。
―そっと、傍らの包みに手を添えてみる。うん、形は崩れていない。
体育のあとの休憩にも、ちゃんと中を見て確認したのだ。大丈夫。
カズキも育ち盛りの男のコだから、一杯食べるだろう。
…これで足りるかな? もっと作ってくれば良かっただろうか?
そ、そうだな…明日からはもっと沢山持ってきてやろう!
ごそごそ
逸る気持ちを抑えて、包みを解こうとする私。しかし指がもつれて、なかなか上手くいかない。
(固く結びすぎたかな…?)
私の視界の端で、桜花の弁当がちらちらと自己主張を続けている。
アスパラ入りの卵焼き、肉巻きウィンナー、エビフライ、ほうれん草のお浸し、大学芋に煮物…。
プチトマトの新鮮な赤が料理に彩りを添え、目を惹き付ける。
…まだ包みは解けない。
ええい、手元に集中しないと。
…。
私の特製おにぎり…ちょっと地味だったろうか…?
いや…具はちゃんと五種類用意した。箸休めの沢庵も、タッパーに入れて持ってきた。
大丈夫だ。心配ない。
ふと思い出すのは、以前おにぎりを握る手つきを褒めてくれた、カズキの言葉。
『うわぁ、斗貴子さん料理も得意なんだ!? おいしそうだねっ!』
…なにかが背中を押してくれた気がすると同時に、やっと包みが解けた。
私の…白銀に輝くおにぎりが姿を現す。
よしっ、いくぞっ!
「…カズキ、こ、これ…」
ドン
「おっと! 傷女ゴメンよ!」
ふわふわと漂っていたエンゼル御前の身体が、私の肘を衝いた。
…あ…
手のひらの包みから零れ落ち、自由落下の法則に身を委ねた白銀の雫達。
次に起こる結果を呆然と予測する私と、それを懸命に否定するわたし。
その幾重もの刹那の後、おにぎり達は遂に、無骨なコンクリートとの熱烈な接吻を果した。
ぐちゃっ!
昨日三切れ458円で買った銀シャケが、恥ずかしそうに顔を出す。
…あれ?
…これ…カズキに…
…おに…ぎり…
…
…なぜこんなことになったのだろう。
永遠に続くかのような自問自答の後、私の頭は的確に一つの解をはじきだした。
あいつだ。あいつのせいだ。
「エンゼル御前ッ!!貴様ッ!!」
殺気をこめて叫ぶ私に、エンゼルは慌ててカズキの後ろへと飛んでいく。
「ひぃぃ! スマン! 正直スマンかった!! ゴメンナサイ!」
「貴様!! 今わざと…」
「ひぃ! 許してぇ…。カ、カズキン…カズキン…」
今にも漏らさん勢いで震えながら、カズキの背中にへばり付くエンゼル。
「と、斗貴子さん! あんまり怒らないであげて? 悪気はなかったんだから…。こんなに謝ってるし。
ホラ、オレからも謝るからさ。ゴゼン様、すっかり怯えちゃってるよ…」
「…申し訳ありません津村さん! エンゼル様のことは、半分は私の責任のようなものですから。
なんと言ってお詫びしたら良いか…。あの、津村さんの昼食、台無しにしてしまいましたし。
よろしかったら、私のお弁当召し上がって下さい…」
「あ、そうだね。ね、斗貴子さん! オレのパンもあげるからさ、機嫌直して許してあげて。ね?」
がさごそとパンの袋をかき集めるカズキ。
「…ちがう…」
ちがう…これは……。
これはカズキ、キミに……。
懸命に機嫌をとろうとするカズキを、呆然と眺める私。
そのとき一瞬…ほんの一瞬、カズキの向こう側にいる桜花が、口の端をつり上げるのが見えた。
―ッ!!
―早坂…桜花ッ! やっぱり貴様ッ!!―
2、05:00 PM 屋上
放課後は、ストレッチを済ませてから武装錬金による打ち合いに入る。いつもの特訓メニューだ。
カズキは、私を軽く追い越していけるだけの才能を持っている。鍛えていて、将来が楽しみなものだ。
あるいは…生死を賭けた実戦においては、カズキは既に私よりも強いのかもしれない。
キミは守るべきモノがあれば、際限なく強くなるコだから…。
でも私は正直、キミが自分の命を削って戦っているような気がするのだ。見ていられない時がある。
キミが大切な物を守って戦うように、キミ自身もちゃんと守りぬいて欲しいのだ。
私と違って…キミには帰るべき場所も、帰りを待っている人々もいるのだから。
だから私はこうやって厳しく、戦い方を身体に教え込んでいる。
次に戦うときは、少しでも怪我が少ないように。少しでも危険が少ないように。
キミには、凶暴な口うるさいスパルタお姉さんと、思われるかもしれないけれど。
全部ぜんぶ、キミのためだから…。…我ながら、損な役回りかな…。
考え事をしている間にも、バルキリースカートで縦横無尽に攻撃を繰り出す。
カズキも随分、動きを見切れるようになってきた。
(…だが…まだまだだな…)
あれほどキミの武装錬金の間合いは、中・近距離だと言っておいたのに。
誘いにのって、もう私の間合いに引き込まれている。
おまけに私のバルキリースカート…下半身にしか注意を払っていない。
さて、今回はどう〆るとするか…。
左のロボットアームで、フェイントに突きを繰り出す。
カズキはこれをかわそうとして、バランスを崩した。
はい、おしまい。
めこっ!!
カズキの顔面に、私の肘鉄がめりこむ。
一丁上がり。
そのままの姿勢で、静かに沈んでいくカズキ。
あはっ! 気持ちいいっ!!
やっぱりトレーニングはいい! 最高だ!
最近ホムンクルス共の動きもなく、ブチ撒け分の足りない私にとっては、なくてはならない一時だ!
カズキの無様なのびっぷりもまたいい。やっぱりカズキは、こうでなくてはっ!!
昼の一件のストレスも、これでだいぶ和らいだ。
よしっ! 早く叩き起こして、今日はもうあと五〜六回は打ち合いをしよう!
ポツン…
そんな風に浮かれる私の鼻頭に、水滴の感触。
(雨…?)
梅雨の季節には珍しいことではない。
だが予報では、今日一日は天気は持つと言っていたのだが…。
残念だ。折角いいところだったのに。今日の訓練、どうしようか?
…。
時計を見ると、五時過ぎだった。
今までの経験によれば、そろそろ生徒会の用事を済ませた桜花がやって来るはずだ…。
――
そう。最近桜花は、私達の訓練にまで参加しようとする場合がある。
カズキは大喜びだが、私から言わせれば迷惑もいいところなのだ。
私もカズキも、武装錬金は同じ近接格闘型。 当然組手などで、お互い学びあうことが多い。
しかし桜花のエンゼル御前は、遠距離支援型だ。有効な訓練方法も違う。
桜花の訓練はどこか人けのないところで、一人で的でも射っていれば充分だと思う。
……もうじきその桜花が、嬉々としてやってくるに違いない…
……。
…。
そ、そうだな…!
何も雨に濡れてまで、訓練を続行することはない。
風邪をひいて体調を崩しては、元も子もないしな。
予報はずれの雨だ。カズキも今日は、傘を持ってきていないみたいだし。
本格的に降り始める前に、帰った方が賢明だろう。
寝ているコは叩き起こして、さっさと寄宿舎へ戻るに限る!
よしっ
私はお星様と戯れているカズキを、こちらの世界に引き戻しにかかった。
3、05:20 PM 銀成市街
校門を抜けた頃には、まだしおらしく嗚咽していた空。
しかし銀成市街に差し掛かった頃には、もう思い切り大泣きすることに決めたようだった。
「うひゃぁー、だんだん強くなってくるぜっ」
カズキの足取りは、雨脚の強さに比例して速くなっていく。
「斗貴子さん、急ごうよっ! …どうしたの? 走るの…辛い?」
本気なら、カズキを軽く追い越せる速力の私。それがのろのろ歩いているのを、不審に思ったらしい。
「…ん? あ、いや…そういうわけではないが。…急いでも仕方なかろう?」
考え事をしていた私は、適当に返事をする。
別に…そんなに急ぐ必要もあるまい。
なんというか…カズキとこうやって二人きりで歩くのは、随分久しぶりなことだ。
ここのところずっと、下校時は桜花も一緒だったのだから。
…その…なんだ。こういう機会はもう少し有効に活かしても…良いと思う。
色々と…二人で相談すべきことことも…あるんじゃないかと。
た、例えば、今後の訓練の方針とか、戦士としての心構えとか、戦闘上の悩みとか…。
その…そんなに急いで帰る必要も…ないのでは、と思うのだが…。
そんなことを言おうと思った私をよそに、カズキは焦り気味に叫ぶ。
「なに言ってんだよ〜! これじゃあ、そのうち土砂降りになるって!」
その言葉が引き金となったようだ。それじゃあと言わんばかりに、本当に大粒の雨が降り始めた。
(あ…これは本当にヤバイかもなぁ…。)
そんな風にぼーっと、人事のように考えていた私。
「わっ、わっ、と、斗貴子さん! こっちこっち!」
だから、いきなり右手を握られたことに、抵抗できなかった。
ときゅん
(…ちょ…)
(ちょっと…。あ…)
濡れているカズキの手と私の手。
雨で滑って離してしまいそうな感覚と、しっかりと大きな掌に包まれている感覚。
それらがない交ぜになって、なんだかくすぐったいようなもどかしさがある。
(意識しすぎだ!)と混乱する頭を叱咤している間に、私は目の前の建物へとひきずり込まれていた。
バタン!
「いらっしゃいま……ヒッ!!」
店員の素っ頓狂な悲鳴に迎えられて、私達が入ったのは『ロッテリや』
中途半端な時間帯であり雨も降っているので、店内はまばらだ。
外はもうひっくり返したような、雨。雨。雨。
「うひゃー…間一髪だったね」
カズキがふっと手を離す。
(…あ…)
解放されたような、捨てられたような…そんな気持ちに戸惑いながら。
私はまだカズキの感触が残る右手で、ハンカチを握り締めた。
「あ、オレ、何か注文してくるよ」
私が身体を拭いている間にも、カズキは店員が身構えているレジカウンターの方へと歩いていく。
…そうだな。ただ単に雨宿りのためだけに立ち寄った…というのも体裁が悪いしな。
特にこの店には、うちの戦士長が色々ご迷惑をお掛けしているみたいだし…ハハ…。
「だからって、いきなり食べ始めるのか、キミ?」
「うん! 走り回って、なんだかハラへっちゃったからさ」
にこにこ顔のカズキの前には、バーガーセット。
ハンバーガー、フレンチフライにソフトドリンク…
まぁ、このくらいの年頃の男のコは、四六時中お腹を空かせているものだからな…。
ホント、子供みたいだ…フフ。
桜花が退院してきて、一月あまり。
こうやって、食事するカズキをゆっくり眺めるのも、本当に久方ぶりのような気がする…。
「ン?…どうしたの、斗貴子さん?」
思わず頬を緩めていた私に、カズキが不思議そうに問いかける。
…頬杖ついてキミの顔を眺める私が、そんなに珍しいのか?
そんなカズキの間抜けな顔が面白くて、私はさっきから気づいていることを指摘してやろうかと思った。
(…んー、どうしようかな? いや、桜花じゃあるまいし…そんなこと…。)
桜花―その名前を思い出した途端、あの時のカズキの伸びきった鼻の下が浮かんできた。
沸き立つ苛立ちと共に私の指は、意思に伺いをたてることもなく、移動を開始する。
「…斗貴子さん?」
くりくりした目で、きょとんとしているカズキ。
恥ずかしさで、このまま軌道を変えて目潰しに移行してやろうかという、甘い誘惑に挫けそうになる。
だがカズキにとって幸いなことに、私の指は震えながらも当初の目的地への到達に成功したようだ。
―カズキの右頬…ちょんとくっついたタマネギのかけらを摘む。
「ついてるぞ…みっともない」
…
非常にきまずい。
やっぱりやるんじゃなかった。
あまりの気恥かしさに、思わずカズキの頭をはたきたくなる。
逸らすべき場所を探す私の目線は、ようやく窓ごしの外の世界に安息の地を見つけた。
「…ととととと、ときこさん…!?///」
でも…
桜花にされた時よりも、さらに真っ赤になって慌てているカズキ。
それを横目に見て、なぜだか少し溜飲が下がる思いがしたのも事実だ。
カズキの方に向けておいた、ムッとした横顔…
…その反対側は笑いを堪えるのに精一杯だったこと、キミは気づいたかな…?
ザァァァァ…
私が見やる窓の外は、既に店内とは別世界。一体何時まで降るのだろうか。
赤面していたカズキも、私が眺めている情景に気づいて、心配そうに尋ねてくる。
「これから、どうしようか…?」
…心臓が高鳴る。まるで私の心を見透かしたかのような問いだ。
そう…問題は、これからどうするか。
…それこそが、さっきからずっと私の頭を悩ませている難問なのだ…。
ザァァァァ…
ああ、どうしようか。
どのようにしてカズキに、この事実を告げれば、ことが丸く収まるのか。
溜息をつく私。のほほんと呑気な顔でハンバーガーにパクつくカズキ。
(…人の気も知らないで…)
意を決して私は席を立った。ここでは落ち着いて考え事ができない。
「斗貴子さん、どこいくの?」
「手洗いだ」
「…あ…///」
赤くなるカズキ。
…ばか。
4、05:50 PM ロッテリや・女性化粧室
化粧台の前に立つ。
正面の鏡から、目つきの悪い傷顔の女がこちらを睨んできた。
ここなら一人だ。静かに思案を纏められる。
状況は別に、そう複雑なものではない。単純だ。
私のカバンの中に、折り畳み傘が入っている。
小さな…紫色の折り畳み傘。
こんな季節ではいつ降るか分からないからと、普段からカバンに入れておいたものだ。
ただそれだけのこと。
問題は、これをどう扱うかという点だ。
実のところ、校門を出たあたりからずっと考え込んでいた。
その…つまり。
傘は一本しかないのだ。
二人で、一本の傘。
た、例えば、私一人が傘をさして帰った場合。カズキはズブ濡れで帰ることになる。
そんなことはさせられない。訓練で疲れているのにそんなことをしたら、風邪をひいてしまう。
では逆に、カズキが傘を使った場合。私がズブ濡れで帰ることになる。
実際のところ私は鍛えてあるから、この程度の雨はどうということはないのだが。
でもカズキはそんなことを容認するコではない。絶対に拒否するだろう…。
そんなわけで困っている。どっちにしても、角がたつわけで。
…ひ、ひょっとしたら。
ひょっとしたらまた、別の方法があるのかもしれないが。ま、まぁそれは別にいいとしてだな。
…いっそこのまま、傘があることは黙っておこう…とも考えた。
しかしこの雨だ……せ、選択肢は、多い方がいいだろうと思って…。
…うーん……でも、な…。
いまさら、一本しかない傘を取り出すなんて…。
…その…変なこと期待していないかと、勘繰られないかな…。
べ、別に私は…。
…。
…。
私一人を容れて一杯になるぐらいの、小さな傘だ…。
…二人で入ろうものなら、相当密着しないと…。
…。
ぅ〜
…。
だんだん腹が立ってきた。
大体なぜ、私がこんなことで悩まなくてはならない!?
さっきの、憎たらしいほど能天気なカズキの顔!
そうだ。カズキもちょっとは考え込んでみるといいのだ。
カズキにどうするか決めさせればいいのだっ。
そう、それだ! これ以上、私が四の五の考えるのはヤメだ!
そうと決まれば話は早い。私は一瞬で、その後の段取りを組み立てる。
まず、このまま何気ない顔で席に座る。
さりげなくカバンを探って、傘を見つける。そしてこう言う。
『うかつだった。以前、カバンの奥に折り畳み傘を入れておいたんだ。すっかり忘れていたぞ。
ほら、これだ』
それから、カズキにヒョイと傘を投げ渡せば良い。
あとは知らない。カズキがしたいようにすればいい。
私は関係ない。
カズキがそれを使うなり………二人とも濡れないような方法を探すなり…好きにすればいい。
よしっ! これでいい。
意を決して顔をあげる。
鏡の前には、さっきと同じ傷顔。凶悪な目つき。
…怯みそうになる気持ちを鼓舞して、私は化粧室を出た。
バタン
「そうなんだよなー。寄宿舎の連中の方が、遅刻回数多いって話だよ。アハハハ…」
ひとけの少ない店内に、カズキの笑い声が響き渡っている。
???……誰かと話をしているのか?
しかし次の瞬間、その疑問の解答は、知りたくなくとも私の網膜に飛び込んできた。
早坂…桜花…。
私達と同じテーブルに…カズキの隣に座っている…。
…どうして…なんで…こんなところまで…。
……折角……二人…。
「あ! 斗貴子さーん。今さっき桜花先輩がさ、店の前を通りかかったんだよ! 本当、奇遇だよなぁー」
「あらあら、うふふ…。ごきげんよう津村さん。武藤クンに引き止められてしまって…。
…お邪魔ではなかったかしら?」
一気に混乱する私の思考。計算外だ…コイツが現れるなんて…。
ど、どうする。どうしよう? …待てまて…私は戦士だ。うろたえるな、冷静に。
大丈夫、ちゃんと計画通りにやればいいんだ…。
「そんなことないさっ! あ、オレのポテト食べかけだけど、良かったら先輩も食べてよ」
「あらあらあら…じゃあ、ちょっとおやつしちゃおうかな?」
二人で仲良く、一袋のフレンチフライをつまみ始めた。
――な、何気ない顔で席に座り…
「…でも外、凄い雨だったろ? 先輩?」
「ええ…いきなりの大雨でしたわね…。でも武藤クンも、かなり濡れてない?」
「いやぁ、オレ達二人とも、傘忘れちゃってさ…へへへ」
――カバンを探って…傘を…見つける…
「それじゃ…これをお使いになって?」
カズキに差し出される、大きめの白い傘。さっきまで使われていたのか、雨に濡れている。
「それから…これも…」
テーブルの上に置かれる、折り畳みのブルーの傘。
――…言わないと…台詞、言わないと…
「……」
「わっ! 二本も…。桜花先輩、用意いい〜…」
「あらあら…、こういう時期はいつ降るか分からないから、ちゃんと折り畳みを忍ばせておくものよ?」
「…で、でもさ。これ二本借りちゃったら、先輩はどうやって帰るの?」
「わたしは大丈夫ですわ。自宅はすぐそこですから…」
――カズキに…傘…投げ…
「そんな! それじゃあ、先輩に悪いよ。
…そうだ! じゃ、オレ達がこのまま先輩を家まで送っていくよ。そしたら、誰も濡れない!」
「うれしいですけど…。武藤クン、それじゃわたしと相合傘になっちゃうわよ…? いいの?」
「…え?………あ!///。そ、それは…。あの……」
――…ばか…
「あらあらあら〜?…イヤがられちゃった。お姉さん、ちょっと拗ねちゃおうかな〜」
「あ! いや、イヤとかじゃなくて! 全然イヤとかじゃなくて! そうじゃなくてあの…。その…」
――…ばかぁっ…
「冗談よ、冗談! うふふふ。 本当に家はすぐそこですから、気にしなくていいのよ?」
「…そ、そう…かな…アハハハ…。
じゃ斗貴子さん、先輩の好意に甘えて、そうさせてもら……」
「…馬鹿ァッーーーーー!!」
ガスッ!!
私は予定どおり、傘をカズキに投げ渡した。ありったけの力をこめて。
猛スピードのそれを額で受け止めたカズキは、一声鳴いてカエルのような格好で倒れる。
「!…イテテッ…! と、斗貴子さんっ!?」
カズキの叫び声、店員のテンチョーを呼ぶ悲鳴、桜花が投げかけているであろう冷笑…
ぜんぶ背中で受け止めて、私は出口に突進した。
バタンッ!!
ザァァァァッーーー
外は店内とは全く別の、灰色の世界。激しい水滴が、まるで私を押し潰すかのように降り注いでくる。
でももういい。こんなところに一秒でも居たくない。
狩り立てられるようにして走り出したあとに、帰り道とは反対の方向に進んでいることに気づいた。
そんなことも、もうどうでもいい。
私はただ雨煙の中を、走るためだけに走った。
5、06:30 PM 屋上
ココは銀成学園高校屋上。私の、お気に入りの場所…。
ココはあの空に、とても、とても近い場所だから…。
こんな日には…空のこぼす涙にも、最も近い場所だ。
いくら気に入っているからと言って。
こんな雨勢の中で屋上に出るような人間は、余程の間抜けか阿呆だろう。
そう、だから…私にはそれがお似合いなのだ…。
給水塔の下にうずくまって、私は膝を抱えていた。
…やってしまった。
カズキは悪くない。何も悪いことをしていない。
それなのに、理不尽に私の暴力を受けた。あんな風に傘をブチ撒けられた。
…怒っても当然だ。嫌われても当然だ。
もういい。私には無理だ。
私は桜花みたいに、上手くやれない。
戦闘以外のことは、いつもそうだ。
なにか掴み取ろうとすればするほど、この手の平から零れ落ちていく。
まるで、今日の昼のおにぎりのようだ。
私は憎悪で身を焦がし、化け物共への復讐でこの手を汚した。
だからもう普通の少女のようには笑えない。人を笑わせることもできない。
そんなことはずっと昔、復讐を誓ったあの日から覚悟できてたはずなのに…。
もういい。もういいんだ。
そう諦めてしまえば、何も心煩わすものはない。
ただ、肌を穿つような大粒の雨に身を晒して…
自分もまた、このまま雨に溶け込んで、流れていくような感覚に身を委ねて…
………
……
…
バタン
私の閉じ篭る暗い意識の底より、ずっとずっと遠い場所で扉が開くような音がした。
平静に努めていた心の水面にまで、雨が降り始める。
私の中で、黒い怒りが鎌首をもたげる。
…やっぱり…きた。
「…トキ……サ…!?」
雨音に消されながら近づいてくる呼び声に向かって、私はわたしを爆発させた。
「…来るなッ!!!」
近づいて来る、今一番見たくない顔。カズキにだけは捕まりたくない。
バシャッ! バシャ!
「斗貴子さんっ! 何やってんだよ、こんなところでっ!!」
「うるさいッ! 近寄るなっ!!」
わたしの警告を無視して、駆け寄ってくるカズキ。
バシャッ! バシャッ!
「ともかく、こっちへ! 中に入ろうっ!」
「来るなっ!」
来るな!
来るなっ!
わたしは無意識のうちに、手近に転がっていた石の欠片を拾う。
くるなっ!
…我に返ったのは、投げてからだった。
雨を切るように空を舞い、カズキのこめかみを掠る石のかけら。
カズキは少しだけ顔を顰めて……私は血の気のひいた顔を歪めた。
(…やだ…)
目の前が暗くなり…まるで世界が軸を失ったかのような、そんな不安定な感覚が襲ってくる。
カズキはそんな私に…それでもそんな私に、心配そうな顔をして駆け寄ってくる。
ともかくどこにでもいいから、逃げたかった。逃げることしか考えられなかった。
しかし私の身体は、その場で震えていることしか私に許可しない。
なんとか立ち上がって、背を向けようとした時にはもう…カズキの腕の中だった。
「斗貴子さんっ! 落ち着いてっ!」
(…いや! いや!)
「は、放せっ!」
身を捩って抵抗するが、そのまま凄い力で非常扉の方へとひきずられてしまう。
「こんなとこにいちゃ駄目だっ!」
「放せ! 私に触れるなっ!」
バタン!!
私は非常扉の中へと連れ込まれ…
…そしてそのまま、両肩を扉に押さえつけられた。
さっきまでは騒がしいまでだった雨音も、ここでは随分遠くに感じる。
「ハァッ!、ハァッ!、ハァッ!…」
「はぁ…はぁ…はぁ…」
ただ微かな水音と二人の荒々しい息遣いのみが、この薄暗い踊り場を支配していた。
「はな…して…」
「だ、駄目だっ!」
相手の鼓動までも聞こえそうな至近距離で、荒々しく息をつくずぶ濡れの男の子。
ギリッ…
締め付けるように力をこめて、さらに強く私を扉に押し付けてくる。
「…い、いたい…カズキ…」
(…怖い……)
戦士らしからぬ感情に自分でも戸惑うほど、私は怯えていた。
「…! ゴ、ゴメン斗貴子さん! 大丈夫?」
肩が楽になり、優しく支えるようなそれへと変わる。
そうしてやっと…やっといつもの、カズキへの安心感が戻ってきた。
…それでもビショ濡れのまま、扉に押し付けられていることには変わりはなく。
『カズキに捕まえられた』ことを思い知らされた私だった…。
6、06:45 PM 屋上階段踊り場
「はぁ〜。学校の方に走っていったから、もしやとは思ったけど。
まさか本当にココに居るなんて…。風邪でも引いたら、どうするんだよっ?」
「…うるさい…キミには関係ない…」
私の目は、逃げ場を求めて空をさまよう。
「関係なくないだろっ!」
カズキの大声に、自分の肩がピクッと震えるのが分かる。
真剣な色を宿すカズキの瞳に捕らえられ、視線を逸らすこともできなくなった。
「斗貴子さんがこんな風に怒っているの、みんなみんな、オレのせいなんだよね…?
オレが悪かったのに、関係ないなんて言わないでよ…斗貴子さん…」
…ちがう! キミは悪くない…。
私の顔を覗き込んでくる、カズキのその額に…赤く腫れ上がる、傘をぶつけた跡。石をぶつけた跡。
どうして…。
どうして……優しいのだキミは…。
これ以上私に…優しくしないでくれ……。
私は…私は…もう…。
…戦士でさえ…いられなくなる…。
「斗貴子さん、ごめん。オレずっと…斗貴子さんの気持ちに気づいてあげられなかった」
…わ、私の…気持ち…?
ときゅん
突然、胸が高鳴った。
カ、カズキが私の目を見ながら……私の気持ちを…口にしてくれた…。
その事実だけで、もう臆病になっている私の心は、簡単に丸裸にされてしまう。
私の気持ち…。私の気持ちは……。
「気づかずに斗貴子さんの前で、桜花先輩と…。オレ、斗貴子さんの気持ちを踏みにじっていた…」
肩が震えだす。
言い当てられてしまった…。
早坂桜花――彼女の存在が、キミを私から離していくような不安。
彼女じゃなくて…もっと見て欲しいものがここにあると、言い出せなかった不満。
立っていられない…。
もう私はこれ以上…虚勢を張れない…。
「いや…イヤ、オレはもっとタチが悪い。本当は、もうとっくの昔に気づいていたんだ。
それなのにオレ…はっきりせずに…」
目から何かが溢れそうになる。
無駄ではなかったんだ…。
今まで…勘違いやすれ違いで伝えれらなかったこと…
…伝わっていたんだ…!
「…だから、斗貴子さん。オレ決めたんだ。ちゃんと、行動で示すって。
そうじゃなきゃ、斗貴子さんに謝れない。謝る資格もない!」
…こう…どう?
私の頭が回転をはじめる前に、カズキが動く。
私のあごにかけられる、カズキの指…
そしてかるく、ゆっくりと、上を向かされた。
…え…
え―――
「…斗貴子さん。嫌いなら嫌いって、ハッキリ言ってくれればいいから…」
目の前に…真正面に、カズキの瞳。
……キミは…卑怯だ。
私の心臓を、こんなにしてしまって。
私の肩を、こんなにズブ濡れの腕で抱き締めてしまって。
私を…わたしを…キミに釘付けにしてしまって…。
こんな状況じゃ…私に…できることは……
…目を瞑ること…だけ……だ…。
紙擦れのような音がして、間近に迫ってくるのが感じられる。
…。
―触れた。
柔らかいような…温かいような…。
震えの止まらない私の唇は、ただ触れるだけで精一杯で…。
だから息をするのも忘れ、ただただ唇で触れ続けて…。
ココロの中で、不安も蟠りも氷解していく感覚に酔いしれながら…。
私は。
想いが通じたことを感じ取った。
私は今、どんな顔をしているのだろうか…?
彼は今、どんな顔をしているのだろうか…?
…彼はこのあと…どんな言葉をかけてくれるのだろうか…?
私の…私の言うことは決まっている。今なら、ちゃんと、素直に言える。
でもそれは、今のカズキの表情を見てやってからだ。
カズキの気持ちを、言葉で聞いてからだ。
…キミへのご褒美は…それからだ。
そっと…そっと目を開く私…。
目の前にカズキ…見つけた。フフフ…
…ハンバーガーを片手に、途方に暮れた表情で。
「…斗貴子さん? ちゃんと、あ〜んしてよ?」
…。
……。
………。
ハァ?
「あ〜んしてくれないと、食べさせられないんだけど…。
あれ…? 斗貴子さん、ハンバーガー嫌いじゃなかったよね?
さっきから口噤んだままだから……。…あ、もしかしてまだ怒ってる…?」
「ゴメンね、斗貴子さん…。今日のお昼は、おにぎり落としちゃって食べられなかったのに…。
お腹空かせていたはずなのに…」
「そんな斗貴子さんの気も知らないで、目の前で自分だけハンバーガー食べてたりして…。
オレが食うのを斗貴子さんがじっと眺めていた時点で、オレ気づくべきだったんだよ!
斗貴子さんの方から催促するなんて、できないんだから…」
「そのうえ、桜花先輩にポテトあげたりして…斗貴子さんの…気も知らないで…」
「オレお昼の一件、知ってたはずなのに…結局パンもあげられずに…」
だから、ちゃんと斗貴子さんに食べさせてあげたいんだ」
「あ、お金の方はいいから! 当然、オレのおごり!
持ち帰りでって言ったらバイトの店員さんが喜んで、どういうわけか一個おまけしてくれたし」
「…だから、遠慮なく食べていいよっ! ハイ、あ〜ん!…なんだか、て、照れるなァ…へへへ。
…………………ときこさん?」
7、07:00 PM 梅雨空の下
…。
……。
………。
どこか遠い観客席から、つまらなさそうな笑い声が聞こえてくる気がした。
あるいは、こんな碌でもない脚本に対する嘲笑なのかもしれない。
当のピエロである私と言えば、意外にも冷静に滑稽な自分の姿を見つめることができた。
舞い上がって身体中に満たされていたものが、流れ落ちて虚に帰っていく。
さっきあれほど諦めると決意したのに、私はもう何かの希望にしがみつこうとしていたようだった。
…ただ、それだけが許せなかった。
目の前のハンバーガーをぼんやり眺める私。それを不安そうに伺うカズキ。
その顔はまるで、怖い教師に解答の間違えを指摘されないかと、心配している小学生のような表情だった。
…傘をぶつけられて。
…石をぶつけられて。
…大雨の中探し回らされて。
カズキが悪いことなんて…あるわけないじゃないか…。
おにぎりのことも傘のことも、全部私の勝手な妄想が招いたことだ。自業…自得なのだ…。
いけない…。早く彼の答案に、マルをつけてあげなければ。
ハンバーガーを齧ると、口内に蒸せるようなジャンク風味。
涙が出そうになるのはマスタードのせいだと、言い聞かせる。
吐き出したくなる気持ち悪さを堪え、何とか二口ばかり嚥下する。
「…ありがとう…旨いよ」
声は掠れても、なんとか笑顔の作成には成功したようだ。
「よかったァー! …そろそろ帰ろ? 寄宿舎に戻れば、夕食だってあるしさ!」
…何も通じてない…。
…何も伝わってない…。
つまらない……本当につまらない…三流…喜劇だ…。
…こんなの…
…わらえ……ない……
昇降口まで下りて来て、ぼんやり空を見上げる私。
地上の空も屋上と同じ。どこまでも救いようのないくらい、重く低い空。
まるでこの世界のどこにも、逃げ場なんてないような…。
ぼぅっと雨空を眺めている私を傍らに、カズキはいそいそと帰り支度をしている。
「よし。さ、帰ろっ!」
私の視界が、紫のビニール生地にさえぎられた。
「…」
カズキの手の中に一本だけの傘。
一本だけの、小さな紫色の折り畳み傘。
背中を雨に濡らしながら、私の頭上に傾けてくる。
さもそれが当たり前であるかのような表情で。
「? …帰ろ?」
呆然と硬直している私に向かって、不思議そうにもう一度。
今度は少し不安げな表情で。
どこか間違っているのだろうかと、自分に問いかけるように。
「…一緒に帰ろ? 斗貴子さん…!」
そして最後に彼は、
はにかみながら優しく私に呼びかけた。
やはり二人で入るには、小さすぎた傘だった。
だから…二人で寄り添うようにして歩くしかなかった。
でも仕方ない。
なぜなら二人とも、もう風邪をひいてしまいそうだったのだから。
だから…これ以上濡れるわけにはいかないのだ。
未だ衰えることを知らない雨脚の中。
私は右肩を雨に晒して。
カズキは右肩以外を雨に晒して。
でも平気だ。
なぜなら二人とも、もうびしょ濡れだったのだから。
だから…これ以上濡れようとも関係ないのだ。
寄宿舎に私達二人のくしゃみが響いた日から、ほどなくして梅雨は明け…
…お気に入りの、あの高く澄んだ空も帰ってきた。
私のカバンの底には今も、小さな紫色の折り畳み傘が入っている。