”それ”は徐々に少女に迫って来ていた。
少女は叫び声すらあげられず、ただただ息を飲んで
ことの成り行きを見ているだけであった。
人を喰うモンスターが級友たちを襲っている、という
信じられない状況が少女の目の前にあった。
かつて級友たちだったものの一部が転がり、生臭く赤い液体が
そこここにべっとりと付着している。
悲鳴に続いてばきばきと嫌な音が聞こえる。
おそらく少女の級友の骨がかみ砕かれる音だ。
悲鳴が聞こえなくなった。
あの嫌な音はまだ続いていたが、しばらくして止んだ。
次は私の番だ。私が「喰われる」のだ。
そう思うと間もなく少女の前へ”それ”は姿を現した。
少女は観念したように目をつぶり下を向いた。
知らず肩が震える。震えを押えようと少女は
手を痛いほど握り締めた。
”それ”が襲い掛かる衝撃が少女を襲う。
「!」
津村斗貴子は声にならない叫び声をあげて
銀成学園寄宿寮の自分のベッドの上で
目を覚ました。
飛び起きてから自分のいる場所がどこか知って、
ほっと安堵の息をついた。
夢の中で握っていた手は現実でも握り締めていたらしく
こわばっていて、開いてみると掌に爪の跡がかすかについていた。
荒い息を整え、零れ落ちそうになっていた涙と額の汗をぬぐうと
彼女は立ち上がった。
このところ見なくなったとはいえ昔はよく見た悪夢。
これを見るたびに錬金の戦士となった自分の目的を
彼女は確認する。
こんな夢を久しぶりに見たのは多分ホムンクルスに
寄生された一件があったからかもしれない。
パジャマからジャージに着替え、外へ出る。
眠れない夜は少し身体でも動かして眠りを誘ったほうがよい。
敵はいつ現れるかわからない。
睡眠不足は判断力や体力を落とすから敵と向かい合う際には
それで危機に陥るとも限らない。
無理やりにでも眠っておかないと、と律義な彼女は思うのだ。
寮の裏庭に出ると先客がいた。
彼は訓練に夢中でこちらには気づかない。
しばらく彼女は様子を見ていたが彼の名前を呼んだ。
「カズキ」
……全然気づかない。
彼女はスタスタと歩み寄り、さっきよりも大きい声で呼びかけた。
「カズキ!」
「うわぁ!」
不意をつかれて武藤カズキは飛び上がった。
後ろを向くとすぐそばに津村斗貴子がいた。
「あ、斗貴子さん」
「あ、じゃないだろう?私だったからよかったものの
これがホムンクルスだったらキミはもうとっくに喰われていた」
彼女が少しにらんだ。
「いったいキミはこんな時間に何をしてるんだ?いいかげんに寝ろ!」
いきなり現れた彼女にたじろぎつつもカズキは反論した。
「通信空手の訓練だよ。これやらないと眠れなくなっちゃって……」
「それにしても遅すぎだ。寝不足は身体に毒だし、なによりもキミは
あれだけ重傷を負ったのだからまだ闘ったときの傷が癒えてないはずだ。
訓練は程々にしておきなさい」
厳しい顔のままだけど言い方はいくらかさっきよりも柔らかい。
「オレのほうはもう大丈夫!それより斗貴子さんのほうが……」
にっこり笑って一転、心配げな表情でカズキは彼女の顔をのぞきこんだ。
彼女はホムンクルスに寄生されて足まで麻痺したはずだ。
普通だったら後遺症が残ってもおかしくない。
「私なら大丈夫だ。足のほうは最初は違和感があったが今はない。
それに……」
彼女は足でトントンと地面を蹴ってからすっとジャージの裾を少しだけまくりあげた。
まるであのときのように。
「キミのおかげでホムンクルスは跡形もない」
前に見たときと違って、そこには何もなかった。
思わずカズキはまじまじと彼女のおなかを見てしまった。
「あまりじろじろ見るな!」
彼女は乱暴に裾を下げた。顔がほの赤い。
その赤さを隠すように彼女は後ろを向いた。
はっと気づいてカズキの顔も赤くなる。
「ゴメン」
後ろ向きの彼女にカズキは謝った。
「でもよかった。きれいに消えて。オレ、ほんとにあのときは
どうなるかと思ったもん」
照れ隠しかカズキが頭をかく音が聞こえた。
「斗貴子さんこそこんな時間にどうしたの?」
改めて意外そうな顔でカズキは聞いた。
「私もキミと同じようなものだ。眠れなくなったから
身体を少し動かそうと思って来た。」
「じゃあ、一緒にやろう!」
彼女が向き直るとまるで向日葵が開いたようなカズキの笑顔があった。
彼女はこんな笑顔のできる彼がときどき少しうらやましくなる。
まるで人の不安や心配を溶かす太陽の光のよう。
きっと彼は皆を守るために戦っているからこんな笑顔ができるのだ。
カズキみたいに私は笑えない。
フッと彼女は笑った。
「なら、やってみるか?」
「斗貴子さんと闘う?」
カズキにとってそれは予想外のことだった。
寝る前のちょっとした訓練というから少しあたりを走ったりするくらいなのかと
思っていた。
「私とでは不満か?」
「そういうわけでもないけど……」
カズキは歯切れが悪い返事を返した。
「キミは甘い。仲間である私だから闘うのがいやなのだろう?」
確かにそうだ。
斗貴子さんとはいまも、そしてこれからも闘いたくない。
でも斗貴子さんはオレと勝負したがってる。
闘わず勝負をつける方法は……。
「もし私かキミが」
「そうだ、鬼ごっこ!」
「は?」
「手っ取り早く勝負をつけるなら鬼ごっこ、これしかない!」
「カズキ、いったい何を」
「何を隠そうオレは鬼ごっこの達人だぁ!」
「人の話を聞け!」
「じゃあ、斗貴子さんが15数える間にオレが逃げるから捕まえて」
「ちょっと待て、私が鬼か!」
言うが早いかカズキはあっという間に駆けて行った。
呆然としていたが気をとり直して一応15数えて
彼女はカズキを追いかけ始めた。
彼女としては夜中に鬼ごっこなどとても不本意だった。
本当は少しでもカズキと闘って自分の弱点をカズキに知らせたかったし
またカズキの弱点も知りたかった。
もし、どちらかがホムンクルスになったらその弱点を利用して
楽に、とはいえないかもしれないが倒すことが出来る。
ジャージではバルキリースカートを使うことが出来ないから
いったん着替えてとも考えてまでいた。
それなのにカズキは……。
いっそのことカズキを置き去りにして帰ろうかと思ったものの、
しかしそれはちょっと酷いかもしれないと思い直した。
カズキはすでにかなり前を走っている。
彼女が足が速くても追いつくのは無理そうだ。
先回りをしよう。
彼女は来た道を戻っていき、建物の影に隠れてカズキを待った。
前からカズキが走ってくる。
行く先の影に私が隠れているなぞ思いもしない。
もう少し、もう少しすればカズキを……。
だが。
目の前に来ようとしたカズキはいきなりぐるんと
反対方向に向きを変えてもと来た道を戻っていった。
彼女はそれを呆然としたまま見送るしか手はなかった。
さすがに達人の名は伊達じゃないらしい。
十分近く追い掛け回してもカズキはつかまらなかった。
彼女は今の服装を呪った。
バルキリースカートが使えれば簡単に追いついただろう。
けれどもそんなことは言ってられないし、
大体カズキだってサンライトハートをつかっていないではないか。
何か次の手を考えなければ。
彼女は頭上を見上げた。
そこには生い繁る木の枝があった。
彼女はなんとか葉でちょうどよく周囲から
見えにくい枝の上に登っていた。
高さは2m半というところか。
枝からでは真下しか見えない。
身体を伸ばして隣の枝からだと葉影から
やや離れたところがどうやら見えるくらいだ。
そこから覗くとカズキが歩いてくるのが見えた。
カズキが通りすぎたらすぐに飛び降りてタッチする。
枝の真下にカズキが来るのを待ちながら彼女は身を潜ませた。
少し枝の先のほうへ行かないとカズキの歩いているところから
離れてしまうかもしれない。
彼女は先の方へ枝にしがみつつ移動した。
「!」
いきなり枝が下にがくんと下がった。
枝が重みに絶えきれずたわんだのだ。
彼女の目の前にカズキの顔があった。
「と、斗貴子さん……」
「カズキ……」
一瞬の間二人は見つめあったまま状況を理解しようとした。
津村斗貴子の戦士としての経験は武藤カズキよりも
ずっと長い。
ゆえに彼女のほうが突発的なこの状況から
抜け出すのは早かった。
なんとか枝にしがみついたまま彼女は片手で
呆然としているカズキの肩をたたいた。
「……これでもう鬼ごっこはお終いにしよう」
ほっと息を一つ、彼女はついた。
これで夜中ずっと走らなくて済みそうだ。
彼女が息をついたとき、みしみしと嫌な音が響いた。
重みに絶えかねた木の枝が抗議しているような音だ。
ぼきっと最後に抗議して木の枝は折れた。
彼女は木の枝といっしょに落下した。
「……すまない」
「いいって。そもそもオレが鬼ごっこをやろうって言い出したんだし」
落ちる彼女を受けとめたのはそばにいたカズキだった。
正確には受けとめたというよりも下敷きになったというべきだろう。
おかげで彼女には傷ひとつない。
しかしカズキはというと彼女を受け止めた際にすり傷と打ち身が数ヶ所出来た。
「まったくキミは……」
彼女はそれ以上言わず、呆れたようにため息をついた。
言っても無駄だということをこれまでのことからわかっているのだ。
「ほら、バンドエイドだ。傷に貼りなさい」
「うん。ありがとう」
バンドエイドを手にとるとカズキは人懐っこく笑った。
どきりと胸が高鳴った。
「もう遅い。私は寝る。キミも早く寝ろ」
そう言うとくるりと彼女は後ろを向いて
そのまま振り返らずに寄宿舎に戻っていった。
ほてった顔をカズキに見せたくなかった。
「おやすみ、斗貴子さん」
「おやすみ」
部屋に帰った彼女は少し気が重くなった。
ジャージからパジャマに着替えて眠らなければと思うものの
眠ろうという気がおきない。
あの夢を見るとしばらくは眠れなくなるのだ。
これまでは一晩眠れなかったこともざらではなかった。
ふと別れ際のカズキを思い出した。
カズキはまるで向日葵が咲いたように笑っていた。
彼女はすっと不安が消えていくのを感じた。
ベッドに再び横になった。
走り回ったせいか、だるく心地好い眠りの波が頃よく来た。
……どうやらキミのおかげで今度はゆっくり眠れそうだ。
ありがとう、カズキ。