高度一万五千メートル───成層圏、空と宇宙のはざまに人ならざるものはいた。
あたかもそこに見えざる玉座の在るごとく中空に座す影。
淡く光る蛍火の髪は強風にも乱れることなく、戦士の筋肉に鎧われた赤銅の肌は
厳寒の空気をものともせず、程よい緊張を保っている。
ヴィクター。彼は黒い<賢者の石>をその身に宿した超常の者であり、世界中で
頻発している集団昏倒事件の元凶である。
彼が錬金術師ドクトル・バタフライの修復フラスコを用い、かつての同胞の手で深く
傷つけられた肉体を憎悪によって再練成してから、すでに二ヶ月が過ぎようとしている。
死とも生ともつかぬ状態に陥ってから100年。
世界はある意味では変貌し、またある意味ではまるで変わっていなかった。
世界は傷ついていたが、なおも美しかった。
人は変わらず愚かで、闇の中に孤立していることに気づかないまま、己のものでない光を
奪いつくさんと奔走している。それこそ自らを奈落へと突き落とす行為であるというのに。
ヴィクターの拡大した意識の端を、自然ではありえない軌跡を描く人工の星がかすめ、彼は目をひらいた。
「ふむ…。この高度まで上昇し瞑想状態に入れば、
オレの力が地上に及ぼす影響は微々たるモノだな」地上の生物を必要以上に傷つけることは彼の本意ではない。
いまも細心の注意を払って星の軌道上をゆっくりと移動しつつ、彼は己の思考に没入していった。
───あの突撃槍の錬金の戦士、オレと同じく"黒い核鉄"を命に換えた者、
今頃はかつてのオレと同じく、地獄の辛苦を味わっているのか。
信じた者たちは彼を裏切り、よりどころとするものはすべて破壊されるだろう。
戦士としての誇り、守るべきものたち、愛するもの、100年前オレが護ろうとしたものは
ことごとく、オレの手をすり抜けていってしまった。それと同じように。
彼にとどめをさすべく、振りかざされた死神の鎌の武装錬金と
その主のたおやかな手が思い出されてヴィクターは我知らずその手を左胸に押しあてる。
修復フラスコの中で目覚め、突如としてそれが外部からの力で破壊されたとき
視界に飛び込んできたのは、まるでかつての彼のように戦士の誇りと力にあふれた一人の少年だった。
何の疑いもなく、皆を守るのだと敵に立ち向かう姿。また、奇妙な形ではあったが
確かにデスサイスを思わせる武装錬金の女戦士と少年の間には強い、強い絆が存在していた。
なんという相似。
しょせん、世界は閉じた円環で、あやまちは常に繰り返し続ける悪夢なのか。
彼にしか解らない深い絶望とともに、自分に向かってきた少年の武装錬金を
フェイタル・アトラクションで打ち壊し、かつての彼自身を殺したつもりだった。
だが、世界は彼を冷笑し、更なる悪夢を提示する。少年は彼と同じ存在へと変貌した。
「…逃げる気か」少年が言う。
そうだ、自分は逃げるのだ。いまだ己を縛る円環の世界から。
"世界とは発展的円環、常にゆらぎ変化する螺旋(ロタティオン)である"
そう錬金術の教理(ファーマ)は述べる。
錬金戦団の大戦士であり、戦団屈指の錬金術師でもあったヴィクターはそれを信じていた。
正すことのできないあやまちはないと。未来はつねに無限の可能性と希望にあふれているのだと。
そして、彼はヒトの分を超えた望みをかなえようと<大いなる作業>を軽んじ、
<作業>によらない邪法によって同輩の錬金術師とともにみっつの"黒い核鉄"を精製したのだ。
…結果、罪業はそれを生み出した者の身に舞い降り、彼をとらえて離さない。
錬金術のすべてが彼の敵となった。錬金の戦士もホムンクルスも、錬金術が生み出したモノ
全ての始末をつけなければならない。でなければ彼は、閉じた円環の結び目として永劫、
この世界に囚われ続けるのだ。
ヴィクターは絶望していた。
その絶望こそが、彼を円環の結び目たる存在として縛り続けていることに気づかずに。だが───
「……宙空の住者、星々の子らよ。願わくは、あの少年にあらんかぎりの祝福を。世界よ、
もしおまえが螺旋であるならばあの少年には、オレとは違う運命を与えてくれ。
"黒い核鉄"を生み出し、命永らえるためにそれと同化したオレの罪は罪。しかし、彼には何の罪もないのだから」
願いとも、祈りともつかないヴィクターのつぶやきは彼のもとを離れ、風にまかれていずこかへと駆け去った。
想いは、どこかにたどりつくことができたのだろうか?
目を閉じて、ふたたび己の内なる闇との対話にもどるヴィクターの背後で
一条の流星が光の尾をひいて、まっしぐらに地上へと降りていった。
─END─