キーンコーンカーンコーン……  
 
ホームルームの終了を告げる鐘の音が響き、放課後が訪れる。  
元気に手を振ってクラスメート達を送り出したのは、ピンク色の髪をツインテールにした少女、葛城みかん。  
魔法使い派遣会社〈アストラル〉で神道課契約社員を務めている小学二年生は、着替えの準備を開始する。  
放課後の教室で巫女服に着替えてから社員寮兼職場の建物に向かうのが彼女の習慣だった。  
 
教室が無人になるのを待ってからカーテンを閉め、手提げ袋から襦袢と赤い掛襟、白衣と緋袴を取り出す。  
それだけなら一般的な巫女装束なのだが、みかんはさらにV字の白地に赤い縁取りの胸元丈の前掛けと、  
そこから赤い紐の編みこみで左右に結ばれた両腕をゆったり覆う白い袂を取り出した。葛城家特有の装束だ。  
 
みかんは他に深いサイドスリットの入った少し短めのスカート状の緋袴も持っていたが、現在は洗濯中。  
普段着るなら動きやすさや通気性に優れたそっちの方が良かったのだが、仕方のないことだった。  
――もっとも、今日着るものの方がより正式な装束なので、楽ではないだけで嫌いではなかったが。  
 
「ん〜、ふんふ〜ん♪」  
 
陽の光がやや遮られて薄暗くなった教室に、軽やかな鼻歌に混じって衣擦れの音が響く。  
窓の向こうから元気に下校する生徒たちの声を遠くに聞きながら、みかんはてきぱきと服を着替えた。  
冷たい水で身体を清めるような禊はできなかったが、着替えだけでも気持ちを一新することができる。  
自分の姿をくるくると確かめて満足すると、洋服を丁寧に畳んで手提げに納めた。  
 
「うん、完成っ! 今日もおしごとがんばろっと」  
 
準備を終えたみかんは屈託なく気合を入れると、赤いランドセルを背負って学校を後にした。  
 
                  ○  
 
てくてくと、通学路をピンク髪のツインテール巫女服美少女小学生が下校する。  
その姿は当然ながら、人目をこれでもかというほど惹いていた。  
 
「おにーちゃんしゃちょーの、あたまのうえにもようせいさーん」  
 
視線やら意識やらが微妙に集まるなか、みかんはそれに気付いた様子もなく下校する。  
家族同然の職場の面々に会えるのが嬉しいのか、上機嫌に自作っぽい歌を歌っていた。  
 
「おにーちゃんしゃちょーの、あしのうらにもようせいさーん」  
 
ふわふわとくせっ毛を揺らして、にこにこしながらてくてく歩くみかん。  
意識を向けていた周囲の人たちは、歌詞の内容が気になって仕方がなかった。  
少女に直接尋ねることも出来ず、微妙にグロい歌詞に思わずビクッとして足の裏を見たりしている。  
とりあえず彼ら彼女らの共通の認識は「おにーちゃんしゃちょーってなんなんだろう」だった。  
そんな微妙な空気に気付かず、みかんが元気に口を開く。  
 
「おにーちゃんしゃちょーの、あたまのなかにもようせいさーん」  
 
それを聞いた通行人たちは、一瞬の間を置いてブゥッと一斉に吹きながらそっぽを向いた。  
面識のない通行人たちの心が、諮らずも一つになる。  
想像の中で、お花畑でトリップしたあっぱっぱーかつメルヘンな感じの謎の少年の姿が浮かぶ。  
そんなイメージ改変を受ける歌を歌われた見ず知らずの相手を、全員が憐れに思った。  
眼帯をつけた見知らぬ少年が青空に笑顔でキメをしていたような気がするのは気のせいだと思いたい。  
 
「……ふぇ?」  
 
周囲の微妙な反応に気付いたみかんが、足を止めてキョロキョロする。  
だが通行人たちは良識ある善良な大人たち。それ以上ボロを出すようなことはしなかった。  
んー、と小首を傾げてから、みかんは「ま、いっか」と再び歩き出す。  
胸を撫で下ろした人々は三々五々、小話のネタを胸に普段の生活に戻っていった。  
 
                    ○  
 
「――……おにーちゃんしゃちょーの、みぎのおめめは、よーせーがんっ。ぐらむさいとー!」  
 
魔法使い派遣会社〈アストラル〉の社屋に到着し、元気に歌い終わる。  
両手を上にあげてビシッと元気に歌を締めたみかんは、充実した笑顔で扉を開いた。  
歩きながら歌うのは疲れるのか少しだけ息が上がっているが、笑顔に翳りはない。  
むしろ白い肌がかすかに上気していて、笑顔に軽やかな彩りを添えていた。  
 
「ただいまーっ」  
 
屈託のない元気な挨拶が社屋に響く。  
それに答えたのは、ガタッ! と誰かが席を立つ音だった。  
 
 
  レンタルマギカ いつき×みかんSS  
  『葛城みかんはおにーちゃんしゃちょーと大変なことになりました』  
 
 
テーブルに手をついて音高く席を立った青年の名前は、伊庭いつき。  
魔法使い派遣会社〈アストラル〉の高校生社長にして、現在唯一社屋にいる人物だった。  
腕を突っ張らせて俯いていたいつきは、バッと顔を上げて革靴に包まれた踵を返す。  
ズカズカと歩くその先には、ランドセルの肩ベルトを掴みながら小首を傾げる巫女服小学二年生。  
 
「おにーちゃんしゃちょー?」  
 
耳をくすぐる愛くるしい声にくらくらしながら、伊庭いつきは改めて思っていた。  
素晴らしい。最高だ。エクセレント。みかんちゃん可愛すぎる。と。  
そう。伊庭いつきはみかんちゃん萌えだった。もう容赦なくそうだった。  
ちっこい背丈にピンクのふわふわなくせっ毛、淡く煌く水色と薄緑色の中間のようなマリンブルーの瞳。  
鮮やかな紅白に彩られた飾り気のある葛城家特有の巫女装束に、元気で愛嬌のある甘えた仕草。  
『おにーちゃんしゃちょー』と自分を呼ぶ、高く透き通る甘やかな声色――。  
 
正直に言ってしまうのなら。  
もうたまらなかった。伊庭いつきは、もうたまらなかったのである。  
 
「ふえ? ほえ?」  
 
ズカズカ近寄るいつきの剣幕に、みかんが一歩、二歩とあとずさる。  
ビックリはしているものの、その瞳には相手に対する絶対の信頼があるため脅えはない。  
後退したみかんの脚の動きに少し遅れて、ゆらゆらと揺れていた赤い袴が動きを止める。  
それとほぼ同時に、いつきはみかんの肩を両手で掴んでいた。  
 
「おにーちゃんしゃちょ「みかんちゃん、好きだッ!!」」  
 
みかんの言葉を遮って、いつきが告白する。  
右目は眼帯に覆われていて判らないが、残る左目の輝きは真剣そのものだった。  
 
じっとみかんを見つめるいつき。  
きょとんとしていつきを見返しているみかん。  
真っ直ぐ見つめ合う二人の間に、沈黙の時間が流れる。――そして。  
 
「……ふぇっ? ほえええええええっ!?」  
 
ぱちぱちと瞬きしていたみかんが遅まきながら言葉の意味を理解して、素っ頓狂な声をあげた。  
二人がいる場所が玄関にかなり近いため、きっと御近所さんにも声が響いているに違いない。  
だが、みかんにもいつきにもそれを気にする余裕はなかった。  
 
「みかんちゃんっ! ボクは! キミのことが! 大好きなんだーーーー!!!」  
 
もう一度、いつきが声を大にして告白する。  
それは告白だった。一心不乱の告白だった。  
情け容赦のない、曲解のしようのない大告白だった。  
 
「ふえ、はわ、ほえ」  
 
上機嫌のまま帰宅して、玄関開けたら五秒で告白。  
そんな玄関の扉が実は騙し絵で顔面を痛打して前歯が欠けたようなサプライズにみかんは混乱した。  
契約社員という肩書きはあれど、葛城みかんはまだ小学二年生の女子児童。告白なんて生まれてはじめての経験だ。  
それを高校生の年上のお兄さんかつ雇用主であり、ちょっとだけ好きかもしれない人からされたのだ。  
混乱しないはずがない。心のメーターは針がMAXの所にある止め具をカンカン叩いている。  
 
(えーっとえーっと、あれ? わたし告白されたの? おにーちゃんしゃちょーに? ふえ、あわわ、  
 ほえ、あれ? えーっと、どーゆーこと? おにーちゃんしゃちょーはほなみおねーちゃんで  
 あでぃりしあおねーちゃんがらぴすでねこやしきさんなゆーだいくすであれれ? えーっとえーっと)  
 
真っ白な頭で何かを考えようとするのだが、とても形になるはずがない。  
みかんは極太マジックで渦巻きを描かれたようにグルグルと目を回していた。  
 
(なにかこたえなきゃ、おにーちゃんしゃちょーがこくはくしてくれたんだから、こくはく……はわ)  
 
肩を掴んで真剣な眼差しでみかんを見つめ続けているいつき。  
その前で、なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃ、と混乱したまま慌てるみかん。  
 
考えてもなにも纏まらず、軽く涙目になってきたみかんを前にして、いつきが再び動いた。  
どこか蛇を思わせる真紅の右目を覆う眼帯を外し――例の、いつもより低く深く威厳のある声を発する。  
 
「みかんちゃん、好きだ! どうか僕の恋人になって欲しい!!」  
 
妖精眼〈グラムサイト〉を発動したいつきだったが、言葉の内容は相変わらず告白だった。  
 
(ふえええええっ!! ぐぐぐぐらむさいとーーーーっ!?)  
 
もう一度みかんが物凄い勢いでビックリする。  
心のメーターは針がMAXの所にあった止め具を突き破ってグルグル回っていた。  
身体に負担が発生する妖精眼の使用。それが意味することを、ビックリした状態でもみかんは悟った。  
 
(うわーー!! おにーちゃんしゃちょー本気だ!! これ本当に本気だよーーーーーっっ!!!)  
 
まさか妖精眼まで用いた上で告白してくるなんて予想外だった。いったいどれだけ本気なのだろうか。  
しかも普段であれば妖精眼発動中は冷徹な命令口調なのに、今は丁寧にお願いされている。  
いつもより凛々しい声で、けれどもお願いをしてくるという姿勢には、深い真摯さが感じられた。  
そのことに気付いて、みかんはようやく混乱からほんの少しだけ立ち直ることができた。  
まだ驚きに頭はぐらぐらしていたし、心はふわふわしたままだし、瞳はぐるぐるしたままだったが、  
心のメーターの針がが十回転くらいしてゼロの場所を示したかのように、少しだけ思考が回りだす。  
 
(えーっとえーっと、おにーちゃんしゃちょーはぐらむさいとを使ってて、それは本気っていうことで、  
 わたしを好きって言ったってことは、おにーちゃんしゃちょーは本気でわたしが好きってことで)  
 
ぐるぐるしたままの瞳で、自分に告白してきた相手の顔を見る。  
右目に妖精眼という異形を宿していても、その双眸は真剣そのものだった。  
不意に息が出来なくなって、ごくっと咽喉を鳴らしてしまう。  
 
(こ、告白されちゃったから、みかんは答えなくちゃいけなくて、うう、すごくしんけんなめだよ……  
 えーっとえーっと、わたし、おにーちゃんしゃちょーのこと好きだっけ? えっと、好きだよね?  
 嫌いじゃないし。優しいし、頭なでられるとふわーって気持ちよくなるし、だから、つまりえっと、)  
 
「えっと、えっと………………う、うん…………いい、よ」  
 
くらくらしたままの頭でなんとか答えを出したみかんは、ふわふわした気持ちのままぽろりと返事をした。  
 
                    ○  
 
告白の返事をしようと慌てていたみかんは、それが果たせた安堵から落ち着きを取り戻していく。  
すると頭を漂白するような混乱が収まるに連れて、今度は恥ずかしさが少しずつ大きくなっていった。  
生まれてはじめての愛の告白と、それに『YES』と答えた自分。  
その二つの大きく感情を揺らす出来事が、みかんの心を羞恥心で熱く染め上げていた。  
 
水色とも薄緑色ともつかないマリンブルーの瞳をぱちぱちと瞬きさせ、ぐるぐるの状態から復活させる。  
真っ白だった頭も今は落ち着いているのに――早鐘を打つ心臓の鼓動だけは収まらなかった。  
 
(……は、はいって、返事しちゃった……えっと、わたし、おにーちゃんしゃちょーの恋人になったの?)  
 
恋人というものは小学二年生の子供であり、清廉な巫女でもあるみかんにとってあまりにかけ離れた存在だった。  
けれどもその一方で未来に希望を抱く一人の少女として、恋愛や恋人という存在に憧れを抱いていたりもする。  
大人の世界への階段を三段抜かししたような感覚に、みかんは恋人関係になった実感がなくてもドキドキしていた。  
壁がなくなったような、風通しや見晴らしが良くなったような、不思議な感覚が心を包んでいく。  
それは心の内を焼いていた羞恥心と溶けあって淡い恋心へと変化し、みかんをほんの少しだけ大人に近づけていた。  
――本当に、ほんの少しだけ。喩えるのなら、つま先立ちになるくらいにささやかに。  
 
告白に対する返事の作法など知らないせいか、みかんの返事はひどく頼りないものだった。  
そのせいかいまいち実感がわかず、みかんは頬を染めたまま、恐る恐るいつきのことを上目遣いに見上げる。  
見上げた視線のその先で、小学二年生女子に本気で告白した高校生男子はブルブル震えてガッツポーズをしていた。  
 
「いいいいいいいい、いやったーーーーーーーーー!!!」  
 
わっしょーーーい!! と伊庭いつき、魔法使い派遣会社〈アストラル〉の高校生社長が諸手を上げる。  
まるで念願の志望校に受かった受験生のように喝采するいつきに、みかんは目を丸くして驚いていた。  
右目の真っ赤な妖精眼を開放したままの状態で無邪気に喜ぶいつきの姿は微妙にホラーだった。  
妖精眼に慣れ親しんだみかんには苦ではないのだが、それでもアンバランスさにどう反応すべきか迷ってしまう。  
喜びのあまりその場でくるっと一回転したいつきは、床に膝をつくとみかんの小さな手をぎゅっと握った。  
 
「嬉しいよみかんちゃんっ! みかんちゃんと恋人になれて本当に嬉しいっ!!」  
 
健常な左目の端に涙の雫を浮かべて、思いっきり喜びの声をあげるいつき。  
溢れるほどの思いをそのまま形にしたような言葉に、みかんは心が貫かれるような思いがした。  
喜んでいる気持ちが言葉に乗って身体に入りこみ、自分の心も同じように弾ませるような不思議な感覚。  
言霊という魔術を実感するような体験に、幼いながらも巫女をしている少女は心が震えるのを感じた。  
それを自分と恋人になれたことを喜んだ相手からされたのだからたまらない。  
 
(……ふえ……ふわぁ……っ、な、なんだかすごいよ、おにーちゃんしゃちょーっ……)  
 
ざわざわっと、肌が粟立つような感じが全身を駆け抜ける。  
あまりにダイレクトに伝わった言葉は、みかんの白い肌をうっすらとしたピンク色に上気させた。  
まるで心だけ半歩前に出ているような感覚になり、いつきのことしか感じなくなってしまう。  
ぽやーっとしてしまうみかんの前で、いつきは心からの笑顔を浮かべたまま――  
 
「これから――――痛っ、あいたた。ゴメン、ちょっと眼帯着けるね」  
 
――話そうとして、妖精眼の開放に頭痛を覚えたいつきは、断りを入れて眼帯を着ける。  
前髪を軽くいじって形を整えると、ふはーーーっとため息をついて、苦笑した。  
 
「あはは、ゴメンね、カッコつかなくて」  
 
照れ笑いするいつきに、彼が眼帯を着けている間に少しだけ落ち着いたみかんが首を横に振る。  
つい先ほど感じた心奪われるような感覚は薄まっていたが、それでも相手への好意は覆らなかった。  
 
「そんなことないよ、おにーちゃんしゃちょー」  
 
上手に声が出せるか少し心配しながらも、みかんは声に出していつきの言葉を否定する。  
気恥ずかしさが手伝ってか、浮かべた微笑みは貞淑な女性を思わせるようなたおやかなものだった。  
 
                    ○  
 
それが控えめなものでも、言葉を能動的に発することは、みかんが自己を再認識するトリガーになった。  
さっきまで浮き立って身体からぶれたようになっていた心が、ピタリと身体と一致する。  
もしかすると妖精眼が眼帯で覆われたことも、落ち着くことに一役買ったのかもしれない。  
いつきにみかんに対して妖精眼を悪用する意図がなくとも、呪波の影響が皆無とは断定できなかった。  
 
とにかく自分の意志で言葉を発したみかんは、やっと自分のリズムを取り戻すことができた。  
突然の告白や、妖精眼の使用に揺さぶられていた思考や感情が、波が引くように落ち着いてくる。  
それらの感情の波は、引き終わると浜辺に貝殻を残すように一つの結実を残した。  
 
『伊庭いつきと葛城みかんが恋人になった』という、事実に基づく認識。  
 
心の中でキラキラと輝くその貝殻は、手に取るだけで微笑みが浮かび、どきどきわくわくしてくる。  
まるで宝物のようなその認識を実感していくうちに――みかんもまたテンションが上がってきた。  
 
(……恋人が、できたんだ。……うわ、すごい。これすごいことだよ!? 恋人ができちゃった!!)  
 
マリンブルーの瞳でいつきを見ると、眼帯で右目を覆った線の細い少年は心から嬉しそうに微笑んでいる。  
その姿を見るだけで、心の奥からざわざわっとした感覚が身体全体を撫でていった。ぶるっと震えが走る。  
 
(……うわ、うわ、おにーちゃんしゃちょーが、みかんの恋人なんだ……)  
 
今まではどこか相手に引っ張られたようになっていた心が、自分のリズムで喜びを実感していく。  
みかんはだんだんと、はしゃいで踊りだしたいような明るく元気な喜びに包まれていった。  
みかんの瞳がキラキラ輝いていくことがわかるのか、いつきも改めてみかんの手を取る。  
 
「みかんちゃん」  
「おにーちゃんしゃちょー」  
 
「今日から、恋人だね。これからよろしくね」  
「えへへ……うんっ!」  
 
にこっと笑うみかんのあまりの可愛らしさに、いつきはみかんのことをぎゅっと抱きしめた。  
最初こそ「ふやっ?」と驚いた声を出したみかんだが、包みこむようないつきの抱擁に身を任せていく。  
ふぎゅっと背中の向こうが押される感覚に、みかんは自分がまだランドセルを背負ってたことを思い出した。  
 
「うー、おにーちゃんしゃちょー、ランドセル潰れちゃうよー」  
「あっと、ゴメンね、みかんちゃん」  
 
パッと手を離したいつきの前で、みかんがまだ二年弱しか使ってない真っ赤なランドセルを床に下ろす。  
身軽になった巫女服小学生は、軽く身なりを整えると、少しもじもじした後で、  
 
「えっと、えっと…………はい」  
 
両手を広げていつきに向かって差し出した。上目遣いに小首をかしげ、抱きしめてとおねだりをする。  
その可愛らしい仕草に、いつきは今なら妖精眼から極太レーザーが出せるんじゃないかと思うほど感動していた。  
意味なくダッシュしたり五行拳の修練を始めたり、喜びのたけを思う様ご町内に向けて叫びたくなってくる。  
そんなデタラメなテンションを押さえこんで、いつきは改めてみかんの身体を自分の胸に引き寄せた。  
 
ふわふわの髪が、小柄で細くても柔らかさを持っている身体が、しっとりと絡み付いてくる。  
全身から伝わってくる感触に、いつきは陶然とした息を漏らした。みかんもまた、甘えるように鼻を鳴らす。  
 
「はぁ……、みかんちゃん……」  
「んぅ……、おにーちゃ、しゃ、ちょー……」  
 
ランドセルを背負っていたときよりずっと深い抱擁に、みかんは身も心も溶けそうになっていた。  
年上の異性の、平均よりやや細くとも、引き締まっていて頼りがいのある身体の感触。  
それは恋人という絶対の信頼関係を構築したいま、喩えようもなく心地良いものだった。  
安住の地に辿り着いたような、深く安らかな感動と共に、みかんはいつきに身体を委ねていた。  
 
                    ○  
 
伊庭いつきは健全な高校生男子である。  
たとえ小学二年生で巫女をしている葛城みかんに恋をしていてもそれは変わらない。  
現在アストラルの社屋にはいつきとみかんの二人しかいないという、この千載一遇のチャンス。  
恋人と甘い抱擁を交わす健全な男子のリビドーが、ただ抱き合うだけで満たされるはずがなかった。  
オスとしての本能が当然のように鎌首をもたげ、――いけるとこまでいきたいな、と思う。  
性欲に支配されたわけではなかったが、愛情もまた同じ方向を向いていたのだから仕方ない。  
念願かなって好きな人と恋人になれたのだから、ここで欲張らなきゃウソだった。  
 
「……みかんちゃん。大好きだよ」  
「ん……。おにーちゃんしゃちょー……」  
 
耳元で囁いたいつきは、甘えるように鼻を鳴らすみかんを一度強く抱きしめてから身体を離す。  
ピンク色のくせっ毛を撫でつけると、葛城家の巫女服少女は子猫のようにうっとりと瞳を細めた。  
いつきはそのまま前髪を少しよけて、露出したみかんのすべすべの額に口付けをする。  
少し長めに唇をつけてから離すと、みかんはおでこに手を当てて目と口を丸くした。  
 
「お、おにーちゃんしゃちょー!?」  
 
両手をおでこに当てたまま驚いているみかんに、いつきが笑顔を浮かべる。  
 
「だって、僕たち恋人になったんだから。……嫌だった?」  
「ふえ!? い、いやじゃないよ。ビックリしたけど」  
「そっか、良かった」  
 
人懐っこい笑顔を浮かべるいつきの前で、みかんは赤面してオロオロとする。  
おでこにキスをされるなんて、みかんにとって外国の映画の中の出来事のようだった。  
嬉しいやら恥ずかしいやら照れくさいやらビックリしたやらで困惑してしまう。  
 
瞳をぱちぱちして、吸いこんだまま忘れていた息をはぁーっと深く吐くみかん。  
吐息と共に下ろされた手をそっと両手で包みながら、いつきは真剣な表情で口を開いた。  
 
「みかんちゃん。僕たちは恋人になったよね」  
「う、うん」  
「だから僕はみかんちゃんにキスがしたいんだ。おでこだけじゃなくて、ほっぺや、唇にも」  
 
構築したばかりの恋人関係に慣れた矢先、額にキスをされて驚いたみかんだったが、  
満足に落ち着く暇も与えられずに、いつきから更なる要求をされてさらに驚いてしまう。  
けれども、額へのキスの心地良さや、相手が自分を求めてくることの喜びも同じくらい強かった。  
また、恋人としていつか進むはずのステップに、好奇心を抱いてもいる。  
結局みかんは、いつきの求めに応じることにした。  
 
こくんと肯いたみかんに、いつきは安心したような笑顔になって、頬と肩に手を伸ばす。  
大きくて温かな手に頬を撫でられたみかんは、心地良さに身体を震わせながら頬へのキスを受けた。  
ぷにぷにと柔らかな感触のほっぺに、いつきが唇を押し当てるだけのキスを何度もする。  
一度唇を離したいつきは、逆のほっぺにも同じようにキスをして、頬へのキスを終えた。  
 
いつきが優しい微笑みを浮かべ、ぽーっとしたみかんが頬を染めて俯く。  
宣言した順序通りなら、次は唇へのキスになる。その予感に小さな胸がドキドキ鳴った。  
だが次に進む前に、身体を密着させたままのいつきがゆっくりと口を開く。  
 
「みかんちゃん。キスをする前に、お願いがあるんだ」  
「え、えっと……お願い?」  
 
ぽやっとしていたみかんは、はたと目を覚ましていつきの言葉を復唱する。  
 
「うん。やっぱり唇へのキスって特別なものだから、なんていうか、宣言が欲しいんだ」  
「……せんげん……なんだか、それって魔術の儀式みたいだね。……なんて宣言すればいいの?」  
 
照れたように頬を掻いて言ういつきに、みかんはきょとんとして、くすくすと笑う。  
制服の裾を掴んで先をせがむみかんに、いつきも目元を微笑ませながら言葉を続けた。  
 
「特別なことはないよ。ただ、僕はみかんちゃんの恋人になったことを、みかんちゃんは僕の恋人に  
 なったことを、それぞれ言葉にするだけでいいんだ。……お願いできるかな」  
 
とても簡単なことだったが、みかんにとってもそれは大切なことのように思えた。  
思えばみかんはいつきの言葉に対して肯くことはしても、自分から言葉にしたことはない。  
 
(おにーちゃんしゃちょーが、みかんの恋人だって、言葉に出して言う……なんか、すごいかも)  
 
お互いにそう宣言してからキスをするなんて。  
それではまるで結婚式の一番肝心な場所だけを、規模を小さくして行うようなものだ。  
結婚もまた魔術儀式であるため、その劣化版に似た行為も、魔術的意味を持つように感じてしまう。  
宣言する言葉に魂が宿って強い力を持ち、交わす口付けによってパスが繋がるような――……。  
 
「うん、いいよ。……なんだかちょっとドキドキするけど、みかんもちゃんとやる!」  
 
けれども、みかんに戸惑いはなかった。むしろ、深く結びつく結果になるなら素晴らしいとさえ思う。  
なにしろ初めての恋人と交わすファーストキスなのだ。こうした多少の演出はあってもいいと思った。  
ぐっと決意を表明して、みかんは深呼吸して気持ちを落ち着ける。  
 
「ありがとう、みかんちゃん。それじゃあ……」  
 
みかんが落ち着くのを待ってから、いつきはゆっくりと武術用の呼吸で気持ちを整えて宣言する。  
 
「僕、伊庭いつきは、みかんちゃん――……葛城みかんの、恋人になることをここに誓います」  
 
いつきの言葉を大切に心に刻んでから、みかんはあたかも祝詞を捧げるように宣言する。  
 
「私、葛城みかんは、おにーちゃんしゃちょー……伊庭いつきの、恋人になることをここに誓います」  
 
いつきもまたみかんの言葉を大切に心に刻み、宣言を終えた二人が見つめ合う。  
 
「みかんちゃん、大好きだよ……」  
「みかんも、おにーちゃんしゃちょーのこと、……大好き」  
 
いつきは堂々と、みかんは恥ずかしげに、お互いへの好意を言の葉に乗せる。  
微笑みを交わした二人はそっと顔を近づけていって――ゆっくりとくちびるをかさねた。  
 
                    ○  
 
一秒、二秒、三秒。  
ファーストキスの唇を重ねたまま時間が流れる。  
 
(……えっと、まだかな) 瞳を閉じたまま、睫毛を揺らしているみかんが思う。  
 
四秒、五秒、六秒。  
(……その、だんだん恥ずかしくなってきたんだけどな、その、息もできないし) 頬がさっと赤くなる。  
 
七秒、八秒、九秒。  
(……くちびるがふにゅふにゅってなってくすぐったいし、も、もう限界だよ……)ふるふると身体が震えてきて。  
 
十一秒、十二秒、十三――……と経過して、ここでいつきがやっと唇を離した。  
 
「ぷはっ、はー、はー」  
「ふはっ……ふわ……はぁーっ……はぁーっ……」  
 
息を止めて初めてのキスをしていた二人が、ぜーぜーと呼吸を整える。  
肺活量の差からか高校生のいつきよりも小学生のみかんのほうが苦しそうにしていた。  
 
みかんはへなへなと膝をつき、そのままぺたんと女の子座りをする。  
いつきもまた、みかんのすぐそばの床に腰を降ろした。  
しばらくの間、二人は何も喋らずに呼吸を整える。  
原因はもちろん酸素の欠乏だったが、キスの余韻に頭が沸騰していたことも手伝っていた。  
唇同士が触れ合う独特の感触と、頭の裏側に真っ白になるような感覚。  
恋人になることを誓いあって重ねた唇は、離れがたく思うほど甘く心地の良いものだった。  
 
「……も、もう……」  
 
ぜーぜー息をついていたみかんが、やっと口を開く。  
少し上唇と下唇をむにゅむにゅと擦り合わせているのは、長いキスの余韻が残っているせいだった。  
 
「……おにーちゃん、しゃちょー、の、ばか……ぁっ! 息が、でき、なかった、じゃないっ」  
 
ずーっとキスしていた恥ずかしさも手伝って、みかんはついつい乱暴な物言いになる。  
ぺちりと紅葉のような手で床についていた腕を叩かれても、いつきは照れ混じりの苦笑のままだった  
 
「ごめ……その……すごく、気持ちよくって……」  
 
みかんの苦情に対するいつきの答えは、どこまでも自分の気持ちに素直だった。  
なんだかどちらが大人でどちらが子供かわからなくなり、みかんもううーっと唸って黙ってしまう。  
じっといつきが視線で許しを請うと、みかんはほっぺをぷくっと膨らませてそっぽを向いた。  
 
「ああっ! みかんちゃん、機嫌直してっ!」  
「べーだ。おにーちゃんしゃちょーなんて知らないんだからっ」  
 
慌てて四つん這いになり、身を乗り出して謝るいつき。  
みかんは一度いつきの方を向いて、べーっとピンク色の舌を出してから、ぷいっと再びそっぽを向く。  
赤いリボンで結ばれたふわふわのツインテールが揺れて、可愛らしく横顔を隠した。  
 
「そんなぁ、誓いのキスの直後にケンカするなんてやだよー」  
「別に結婚じゃないもん。だから誓いのキスじゃないんだもんっ」  
 
ぺたぺた四つん這いで歩いてみかんの顔が見える位置に回り込もうとするいつき。  
みかんは緋袴で隠れたお尻をちょこちょこ動かしてそれから逃げる。  
 
「そんな、お願いだよみかんちゃん、みかんちゃんの可愛いお顔こっちに見せてよっ」  
「ふーんだ。知りませんーっ。またずっとちゅーってされて苦しくなりたくないもんっ」  
 
いつきの謝罪を言葉の上ではすげなく扱っているみかんだったが、内心ではとても楽しんでいた。  
拗ねてわがままを言う自分と、それをなんとか宥めようと頑張っている恋人。  
まるで恋愛漫画や恋愛小説に出てくる女の子そのままのようで、とても面白かった。  
 
イメージしたままの恋人同士のじゃれ合いをみかんが楽しんでいると、不意に後ろから肩を抱かれる。  
ビックリして目を丸くしていると、耳元でいつきが囁いた。  
 
「ごめんね、みかんちゃん。これからちゃんと大切にするから、許して欲しいな」  
 
甘えるような囁きと共に小さな耳に息を吹きかけ、耳の後ろや頬のラインにキスをする。  
くすぐったさに内腿をビクッと閉じてもじもじするみかんは、笑いながら甲高い声を上げた。  
 
「ひゃっ、やぁんっ! ……ううー、もー、おにーちゃんのえっちーっ!」  
 
きゃははっと笑うみかんに安心したいつきは、巫女装束を着た小さな恋人の身体を抱きしめる。  
そしてそのまま斜め後ろに引き倒すと、緋袴を広げて仰向けになったみかんに覆い被さった。  
 
「つかまえたよ、みかんちゃん」  
 
マリンブルーの瞳を見開くみかんに、いつきが片方だけの黒い瞳を優しげに細める。  
そのまま身体を密着させて、いつきはぎゅっとみかんの身体を抱きしめた。  
 
「みかんちゃんは、また唇にキスされて苦しくなるのがやなんだよね?」  
「えっと、う、うん……。そ、そうだよっ、苦しくされるの、みかんやだもんっ」  
 
囁く声の真意がわからなくて、みかんが戸惑う。  
いつきに乱暴に扱われるという懸念は皆無だったが、嫌われたらどうしようという思いはあった。  
もし本当にいつきがもうキスはしないと言ってきたら、なんだかとても寂しい気がする。  
そんな不安を密かに持ちながらも気丈に返事をするみかんに、いつきは悪戯っぽい笑みを浮かべた。  
 
「じゃあみかんちゃんが唇にキスしていいって許してくれるまで、他の場所にキスするね」  
「……ぁっ」  
 
言っていつきはピンクの前髪を手で避けて、つるんとしたおでこにキスをする。  
ちゅっと軽く音を立てた口付けに、ぎゅっと目を瞑ったみかんは小さく声をあげた。  
そのままおでこのあちこちに、何度も何度もキスされる。髪の生え際や、そこから少し上の頭にも。  
少しくすぐったかったが、優しく包まれている感覚にみかんの頬が熱くなる。  
 
いつきのキスは、さらにそこから頬へと移動していった。  
おでこよりもふにふにとした肉付きのある頬は、上気して熱くなっている。  
くすぐるようにちゅっちゅっと音を立ててキスすると、柔らかな頬がふるふると震えた。  
その感触が楽しくて、いつきは軽く唇を開いてほっぺの肉をついばんだりしてもてあそぶ。  
抱きしめられたまま優しいキスを繰り返されたみかんは、ドキドキしながらいつきの服をギュッと掴んでいた。  
 
「……はぁ……はぁ……おにーちゃ、ひゃぁんっ!」  
 
熱い吐息を漏らしながらいつきの名を呼ぼうとしたみかんが、身体をビクッと跳ねさせる。  
いつきの唇は頬から移動して、みかんの小さな貝殻のような耳への愛撫を始めていた。  
唇で耳たぶを挟み込んで軽く吸い、折り重なるように走る浅い溝を舌先でくすぐる。  
 
「ふぇっ、ふやああっ、み、耳、お耳ダメだよっ、おにーちゃんしゃちょーっ!」  
 
じたばたと自分の身体の下で暴れるみかんを押さえつけ、いつきは敏感な耳への愛撫を続けた。  
産毛に守られている小さな穴にふぅーっと息を吹きかけ、尖った軟骨をちろちろと舐め転がす。  
そのあまりのくすぐったさと心地良さに、みかんは顎を上向けてブルブルと震えた。  
 
いつきに組み敷かれたみかんのスニーカーに包まれた脚がバタバタと暴れ、床をゴム底で強く踏みしめる。  
可愛らしい反応を楽しんだいつきは耳の下に長めのキスをすると、少し汗ばんだ顔をみかんから離した。  
 
「……唇にキスさせてくれる気になった?」  
 
天井を背に影を落としながらにっこりと微笑むいつき。  
悪戯っぽいその問いかけに、みかんは頬を染めながらも視線を横にそらす。  
 
「……ず、ずるいよ、おにーちゃんしゃちょー……」  
「だって、みかんちゃんの唇にキスしたいんだもん。おでこやほっぺにするキスも好きだけどね」  
 
どこまでも素直に言ういつきに、みかんがチラチラと視線を向ける。  
もじもじとする紅白の鮮やかな衣装を着た少女に、いつきは言葉を続けた。  
 
「……このままだと、みかんちゃんの耳にずーっとキスして、可愛がることになっちゃうね」  
 
その言葉に、みかんが慌てて耳をガードする。耳へのキスはくすぐった過ぎてどうにも苦手だった。  
あのむずむずもじょもじょした感覚は、身体全体をざわざわさせてしまう。  
 
「ね、お願いみかんちゃん。唇にキスさせて。優しくする。大切にするって約束するから」  
 
いつきの優しい声色とお願いに、みかんは少し沈黙した後、こくんと肯いた。  
小さな胸を前後させて深く呼吸してから、横を向いていた顔を正面に向けていつきを見つめる。  
ピンク色のふわふわの髪の毛を背にマリンブルーの瞳を輝かせるみかんの姿は美しかった。  
くりくりとした瞳は潤んで輝きを増していたが、まだ少しだけ喧嘩の続きのような気の強さも残していた。  
ごくりと小さく鳴る白い咽喉。微かな身体の震えが、緊張を伝えてくる――……。  
 
もう一度みかんとキスができると実感したいつきは、心が歓喜に震えるのを感じた。  
みかんは頬を染めながらも少し強気にいつきを見返していて、その仕草がたまらなく可愛らしい。  
いつきがみかんを見つめたのは一秒あったかどうか。覚悟を固めた恋人を待たせたくなかった。  
 
いつきがゆっくりと顔を近づけていくと、みかんは顎を少し上げて瞼を閉じた。  
口付けを待つ少女の仕草に大人びた色香を感じながら、いつきが瞳細めていく。  
 
いつきの唇の先に、みかんの柔らかく瑞々しい薄い唇の感触。  
二回目の唇同士のキスは短いながらも大切に重ねられ、名残惜しそうにゆっくり離されていった。  
 
ちゅ……と、小さな音が二人の間に響く。  
唇が離れたのを感じて瞳を開いたみかんは、間近にあるいつきの瞳に瞬きした。  
髪を撫でながら窺うように見つめてくる左だけの瞳に、少しだけ瞳を細めて答える。  
 
瞼を閉じると、三回目のキスがすぐにやってきた。  
 
                    ○  
 
三度重ねられたキスからは、いつきの唇が動きを見せるようになった。  
みかんの唇の表面をくすぐるようにこすり、薄い桜色の唇を挟みこむ。  
そうして唇全体を満遍なく愛撫すると、今度は舌をちろりと出した。  
 
「ん……んんっ……」  
 
上唇と下唇の間をちろちろ舐めると、みかんが少し苦しげな表情をする。  
いつきは一度唇への愛撫をやめると、ほっと息をついた少女に優しく囁いた。  
 
「キスしてるとき、軽く開いた口とか鼻とかで呼吸すると苦しくないよ。さっき気付いたんだ」  
「う、うん……やってみるね……」  
 
いつきが額や頬にたくさんのキスをした中で気付いたことを教えてあげる。  
ふぅふぅ息をついていたみかんは、自分の無知に少し恥じ入りながら、こくんと肯いた。  
みかんの両手は、ほんの少しだけ薄く隆起した胸の前で祈るように重ねられている。  
まるで童話に出てくる花畑で眠るお姫様のような巫女服少女に、いつきは改めて唇を重ねた。  
 
「んっ……ふ……っ」  
 
きゅっと閉じた唇をちろちろと舐められ、みかんは小さく息をのんだ。  
ぬらぬらとした舌は生き物のように細かく動き、唇を濡らしながらくすぐっていく。  
みかんは生まれて初めて、口唇という部位がとても敏感だということを体感した。  
 
いつきは一瞬だけ顔を上げ、眉を寄せて目を閉じているみかんの顔を見る。  
このまま自然にディープキスに移行したかったが、それはどうやら望めそうにない。  
そう判断すると、ぴったり閉じた上唇と下唇の間に溜まった唾液を啜り上げた。  
 
ずちゅ、ちゅるっと音がして、みかんの口元を汚していた唾液が除去される。  
音に驚いたみかんだったが、唇を覆っていた唾液の膜が綺麗にされたと知って安心する。  
柔らかな唇の感触を堪能したいつきは、少しだけ顔を離して口を開いた。  
 
「……みかんちゃん。試しに少しだけ口を開いて息をしてみて」  
 
頭を撫でながらのいつきの言葉に、目元から強張りを解いたみかんが素直に従う。  
うっすらと開いた瞳でいつきの顔をぼんやり見ながら、みかんは唇から力を抜いた。  
ぴったり合わさった粘膜がぱくっと開き、呼吸が可能な小さな穴が出来る。  
呼吸をはじめると、身体の外の冷たい空気に舌先がぴりぴりと寒さと乾燥を訴えた。  
 
最初は少し早かった呼吸は、しだいにゆっくりとしたものになっていく。  
それに合わせて身体から強張りも消えていって、リラックスしていくのがいつきにもわかった。  
唇を開かせることに成功したいつきは、みかんの気持ちが完全に醒めないうちに次の手を打つ。  
ふにふにとした頬を優しく撫でながら、いつきは再び口を開いた。  
 
「みかんちゃん。もう一度キスするから、口を開いたままでいてね。口が塞がってたら鼻で息するんだよ」  
 
宣言してから、そっと唇を重ねる。  
挨拶をするようにみかんの唇を2〜3回ついばむと、いつきは舌を伸ばした。  
 
(――っ、わ……また、おにーちゃんしゃちょーの舌が……っ)  
 
唇をちろちろと舐められる感触に、みかんがぴくんと身体を跳ねさせる。  
思っていたよりずっと敏感な唇は、ぴりぴりとくすぐったさを伝えてくる。  
浅く呼吸をしながらそれを受けていたみかんは、さらに潜りこんできた舌の感触にパチッと目を開いた。  
 
(く、口の中に入ってきちゃった……! くちびるのうらがわ、んん、ぬるぬるされてるっ……)  
 
キスをしている最中では、視界は相手の顔にほぼ覆われている。  
驚きに見開いたマリンブルーの瞳をゆっくり閉じたみかんは、いつきの制服をギュッと握った。  
唇の裏側と前歯の間をくすぐっていた舌先は、つるんとした前歯のエナメル質をすべる。  
いつきの片手が制服の胸元を握っていた小さな手を取ると、みかんはそれを強く握り返した。  
 
自分の口内――……体内に誰かの侵入を許すという初めての体験に、得体の知れない不安が生まれる。  
まるで自分という存在が侵食を受けているような感覚に、みかんは縋るようにいつきの手を握っていた。  
閉じられない口に篭めたい力を回したように手に力を入れ、震えながらもキスを受け入れる。  
 
ちろちろと歯並びを確かめるように舌を這わせていたいつきの舌は、前歯の奥に侵入していく。  
前歯の裏を軽く舐めるように下に進路を取ると、口内に伏せられていたみかんの舌に先端が触れた。  
 
まるでヒルかなめくじが触れ合うような感覚。  
ぬるんとしたその刺激に、みかんは慌てて舌を奥に引っ込めた。  
緊張を引っ込めようとごくっと咽喉を鳴らし――ふと気付く。  
 
(あ……いま、おにーちゃんしゃちょーのつばも飲んじゃったのかな……)  
 
ドキッとした。もしそうだとしても汚らしさは感じなくて、そんな自分の心に少し驚く。  
 
(これも恋人になったってことなのかな……なんだか、すごいなぁ……)  
 
唾液を飲んでしまうことを受け入れるほど、相手のことを許している。  
近くにいることや、触れあうこと、こうして身体の中までも触れあうことを許しあう。  
恋人関係とはなんて特別なものなんだろうと、みかんは改めて思った。  
 
――求め合うことが、触れ合うことが恋人の証明だというのなら――  
 
そこから反転した思考が、されるがままになっていたみかんに積極性を与える。  
もう一度咽喉を鳴らして意を決したみかんは、引っ込めていた舌を少しずつ伸ばした。  
 
(うう……すごく恥ずかしいけど、みかんだって、おにーちゃんしゃちょーの恋人なんだから……っ)  
 
みかんの恐る恐る伸ばされた薄い舌粘膜が、行き場を失っていたいつきの舌先につんっと触れる。  
電流が走ったように一瞬舌を引いたみかんだが、今度はすぐに伸ばし直した。  
 
つんつんと挨拶を交わすように触れ合った舌が、ゆっくりと絡み合う。  
くちゅりと舌が絡み合うと、今までは曖昧だった唾液の交換を強く感じてしまう。  
舌の裏の根元の辺りから湧き出す唾液が、自分の舌を濡らしていく様子がよくわかった。  
それがいつきの舌と絡み合う中で混じりあい、愛の雫のような新しい液体に変容していく。  
おずおずともう一度咽喉を鳴らすと、心とろかすような潤いが食道を伝っていった。  
 
(すごい……ぴちゃぴちゃ、ぬるぬるって……舌が、触れ合ったり、抱き合ったりしてるみたい……)  
 
唾液の膜に覆われた舌粘膜。大きく厚いいつきのそれに、みかんは強く異性を感じた。  
まだ生え変わりきっていない乳歯や舌の裏側も、いつきの大人の舌は撫でていく。  
口腔内をまんべんなく愛撫されながら、みかんは頭の奥が白くなるような痺れを感じていた。  
 
                    ○  
 
ぴちゃり、くちゅりと濡れた音を立てて、大きく厚い舌が小さく薄い舌をすみずみまで味わう。  
恋焦がれていた相手との深い口付けに、いつきは身体の火照りを感じながら酔い痴れていた。  
口内粘膜の儚い柔らかさ、舌のぬめる淫らな感触。小さな乳歯のつるつるした舌触り。  
頬と耳に触れるように添えた手はきめ細かな感触を伝え、喜びにぴりぴりと痺れていた。  
舌を蠢かすたびに揺れる前髪が、ふわふわのくせっ毛と擦れあってくすぐったい。  
小さな鼻からかかる一生懸命な吐息が鼻の下にかかり、健気に頑張っている様子を伝えてくる。  
 
清廉な巫女装束に身を包みながら懸命にディープキスを受ける、恋人になったばかりの幼い少女。  
その仕草の一つ一つがいつきの心を揺さぶり、みかんへの想いをどこまでも深いものに変えていく。  
兄のように包みたい深い愛情、獣のように襲いたい強い欲望、泣きたくなる様な心震える歓喜。  
それらがない交ぜになって、葛城みかんという存在にひたすらに耽溺していく。  
 
ちゅぱちゅぱと上唇と下唇を順に強めに吸ったいつきは、パッと顔を離す。  
細めの身体はガタガタと小刻みに震え、中性的な顔立ちは深い交わりに上気していた。  
キスの余韻が残る唇から熱っぽい呼吸を浅く繰り返し、熱に浮かされたような状態で口を開く。  
 
「――みかんちゃん。好きだよ。本当に、本当に大好きなんだ」  
 
震える声で何度目かの告白をする。そうやって言葉にしないと頭の中が爆発しそうだった。  
どこまでも率直な言葉。だというのにそれはまるで罪人の懺悔のようにも聞こえて。  
 
「――おにー、ちゃん、しゃ、んみゅぅぅっ!?」  
 
息も絶え絶えになりながらも尋ねようとしたみかんは、最後まで喋れず唇を奪われた。  
二人の唾液にぬらつていた可愛らしい唇が勢い良く奪われて、みかんの身体がビクンと跳ねる。  
咄嗟にいつきの身体を押し返そうと胸に両手を押し当てたが、その手首をいつきに掴まれる。  
戸惑ったのも束の間、みかんの細腕が大きくバンザイしたような姿勢で床に拘束される。  
自由を奪われて背中を弓反らせた巫女服小学生の唇に、いつきは押さえつけるように口付けていた。  
 
(ふええっ!? お、おにーちゃんしゃちょー!? はみゅっ、ふにゅううっ!?)  
 
ディープキスの余韻に白濁した思考と驚きの感情がぶつかりあい、さらに再開したキスに翻弄される。  
みかんは拘束を解こうと手足をじたばたさせて抵抗したが、それは二人の力の差を思い知るだけになった。  
拘束は腕だけに留まらず、いつきの片脚を両脚の間に捻りこまれ、脚を閉じることが出来なくさせられる。  
やがて抵抗は無駄だと悟ると、みかんの意識はどこまでも深く求めてくるいつきのキスへと集中していく。  
絡めあう舌から多量の唾液を流しこんでくるいつきに、みかんは背筋を震わせながらもドキドキしていた。  
 
狭い口腔内を獰猛に荒れ狂う舌と、どろどろと流し込まれてくる泡立ちのない唾液。  
口の中を満たしていく唾液をこくっと嚥下すると、みかんはゾクゾクと身体が震わせた。  
 
(……なんだか、みかんの身体の中が、おにーちゃんしゃちょーのものになっていくみたい……)  
 
うっすらと開いた瞼にチカチカと光が走り、頭の奥が薄ぼんやりとしていく。  
力を抜いた両腕を、まだ逃さぬように強く掴んでいる両手。細い両脚の間に捻じ込まれた太い片脚。  
普段は優しく穏やかないつきが、ここまで自分のことを強く求めてくる――。  
それは、みかんにとってとても嬉しくて誇らしいことだった。  
 
(なんかすごい……おにーちゃんしゃちょー、みかんのこと全部欲しいって、ほんとに思ってるんだ……)  
 
いつきと年齢差も体格差もあるみかんにとって、いつきと恋人同士だと実感できる要素は少ない。  
相手と対等であるという実感が生まれにくいため、恋人より兄のようなイメージが強くなってしまうのだ。  
だがいつきがこうして強く自分を求めてくる今の状況は違う。対等だと心から実感することができる。  
いつきが全身全霊で自分に向かってきていて、自分の全てを欲していることがわかるからだ。  
 
(……本当に、恋人なんだ……嬉しいなぁ……キス気持ちいい……つば、おいしいよぉ……)  
 
こくこくと咽喉を鳴らして注がれる唾液を飲み下し、頬を染めてディープキスに耽溺するみかん。  
その姿は幼くとも、正真正銘、恋人に自分の身体を委ねる女の姿だった。  
 
女の本能によるものなのか、うっすらと快楽を感じはじめたみかんが身体をもじもじとさせる。  
重ねた唇は動かさないまま、みかんは巫女装束に覆われた身体をいつきの身体に擦りつけた。  
抱擁を交わせない代わりに甘えるように身体を寄せ、緋袴に包まれた細い太腿でいつきの脚を挟む。  
 
「んふっ……んん……ぁん……っ」  
 
甘えるように鼻を鳴らすみかんは、くちゅくちゅと舌を絡めていつきの求めに答えた。  
薄い唇の端からは唾液がとろりと垂れ、顎を伝って首までも濡らしている。  
その感触や冷たさを意識の端で感じながらも、みかんの心はどこまでもいつきに向いていた。  
 
(おにーちゃんしゃちょーに、全部もらってほしいな……みかんのこと、全部あげたいよ……)  
 
このまま食べられても、溶け合って一つになってしまっても構わない。そうみかんは思っていた。  
まだ性について知識が薄いみかんだが、いつきの深く求める思いに答えるうちに、自然にそう思い至る。  
いつきのことを深く受け入れたみかんには、力ずくで組み伏せられたような屈辱的な状況さえ心地良かった。  
支配してほしい。蹂躙して欲しい。獲物を貪り食らう飢えた獣のように、どこまでも深く求めて欲しい。  
そうぼんやりと思っていると、いつきの片手が腕から離されて――みかんの胸に触れた。  
 
びくっ! とみかんの身体が仰け反った。  
通常の巫女装束の上から葛城家特有の前掛けをしたみかんの衣服は、厚く彼女の身体を護っている。  
それでもなお、『いつきが自分の胸に触れている』という実感は、みかんに強い反応を促した。  
感覚が服の上にまで広がっているような気がして、手の形の圧迫を受けた乳房に震えが走る。  
甘い感覚が胸の先端から心臓を伝って下腹部に走り、泣きたくなるようなもどかしさが身体を焦がした。  
 
(ふわ……なんだか、すごい……すごいよぉ……おにーちゃんしゃちょー……っ)  
 
じゅるじゅると下品な音を立てて唇を啜られながら、朦朧としたみかんが身体をわななかせる。  
身体の奥から滲むようにして現れた未知の感覚に、何も知らない少女の心と身体が翻弄される。  
まるで身体が作り変わっていくような感覚――。それをみかんは、自然に、解釈していた。  
 
(わたしの身体……おにーちゃんしゃちょーのものに、なっていってるんだ……)  
 
いつきとの触れあいでもたらされる変化は全て、自分がいつきの恋人になりつつある証であると。  
そう解釈したみかんは、まるで自分を蛹から羽化する蝶のように思いながら、変化を受け入れていた。  
幼い身体に淡く走る――性的な快楽という、まだ早い変化を。  
 
                    ○  
 
口付けを交わしながら、巫女装束に包まれたみかんの身体に触れるいつき。  
されるがままになりながら、淡い性快楽に身体を震わせるみかん。  
いつまでも続くと思われた行為は、突如鳴り響いた電話の音によって遮られた。  
 
パチッと目を開いたみかんと、驚きに左目だけを丸くしたいつきの視線が間近で衝突する。  
重ねられたままの唇。ピタッと止まったいつきの手は前掛けをくぐって白衣の上から胸に触れている。  
元々根の部分は真面目な二人に、電話の音を無視することができるわけがなく――。  
一瞬にして感情がリセットされた二人は、羞恥によってかーっと顔を赤くして身体を離した。  
 
冷静になってはじめて、自分たちが熱に浮かされたままどこまでも突っ走っていたことを悟る。  
背を向けた二人はごしごしと唾液で汚れた口元を拭うと、軽く着衣を整えた。  
 
まだ鳴り響いている電話の音を聞きながら、二人はちらりとお互いを見て、微笑みを交わす。  
お互いを深く求める性的な衝動は引いていたが、恋人同士になったという絆は変わらずに残っていた。  
いつきはみかんの頬に軽くキスをすると、電話を取りに走っていく。  
みかんはそれを見送ってから立ち上がり、床に寝たせいで汚れてしまった緋袴をパタパタと叩いた。  
 
汚れを落として一息つくと、みかんはゾクゾクと震えが走る自分の身体を抱きしめる。  
キスの余韻も、胸に触れられた快楽の残滓も、みかんの身体の奥にいまだゆらゆらとくすぶっていた。  
汗ばんだ身体の感触を不快に感じ、内股のあたりがむずむずと痺れる感覚に戸惑いを覚える。  
だが、それらもいつきとの交わりによって生まれたものだと思うと、素直に受け入れることができた。  
 
巫女装束の小学生は、唇と胸の中央に手を当てて、恋人になった相手を思いながら深呼吸する。  
くすぶるものを飲み込むと、荷物を手に電話の対応をしている恋人の声のほうへ歩いていった。  
 

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