彼女が涙を見せる事なんてあっただろうか。どんな逆境に於いても持ち前のやる気とプライドで、その状況をひっくり返してきた彼女が。
手下も兄弟も寝静まったアジトの中で、兄の配慮から与えられた一人きりになれるスペースで、彼女は泣いていた。
書きかけの設計図をグシャグシャに歪ませ、握っていた鉛筆を投げ出し、俯くように彼女は泣いていた。
無骨者の多い彼女の一家で、彼女に涙を流させているのが失恋だと気づくのは一体どれほどの人数だろう。もしかすると兄くらいの物なのかも知れない。
(名前なんて知らなきゃ良かった…助けてくれなかったら良かったのに…)
最初から分の悪い恋だったが、思いを止められる訳も無く。ただただその名前を、誰にも聞かれないように胸の内で繰り返していた。
そんな彼女の傷の理由に気付かなくとも、彼女を心配する者は山と居た。密かに壁の影に隠れつつ、食事を取らない主人を気遣うつもりで、持って来た料理をお盆で抱えていた彼もそうだった。
(わわわ…まずいとこに来ちゃったかな…)
赤い頭頂部はかつて困難を共に乗り越えた、主人との絆の証でもある。
過ごして来た時間が長い分、彼にとってやはり主人は心配だった。
(…やっぱり見なかった事にしよう。バレないように、そーっと…)
如何せん彼の手足は短く、転ぶ事も多い。まだ住み慣れていないアジトで、明かりの無い道でトラブルを起こすのは当たり前だった。
ガシャン
「わっ!」
「…誰!」
彼女は目を腕で二三回擦ると、物音のした方へ向かっていった。
「…1号?あなたこんな所で何やってたの?」
「わわわ…トロン様…」
床に撒き散らされてしまった食物を見て、彼女は合点する。
「あ…」
「す、すいません〜。ボクは何も見てないです〜」
「…見てたのね」
「ひっ!」
今さら見てた見てなかったは問題では無かった。涙で腫れたままの姿を見せていたのだから。
それより今の彼女にとっては、こういう心遣いが嬉しい。40人の部下の中で、一番縁の深い彼だったせいもある。
「いいのよ。…心配してくれたのね。ありがと」
「あ、えーと…」
(なんて言葉を掛ければ良いんだろ〜)
最愛の主人の涙は、この世界で最も忌むべきものだと彼は考えている。その思いを素直に伝えればいいのだが、伝え方を彼は知らなかった。
心の中では主人に対して、誰よりも熱い思いを持っていて。
「…1号」
「え?」
次の瞬間、彼の体は宙に浮いた。大きめの頭は主人の胸元にしっかり抱き締められ、その頭頂部に主人は頭を乗せた。
「ごめんね…少しこのままでいさせて」
「は、はい〜」
緊張の中、彼には聞こえていた。柔らかな膨らみの向こうにある主人の鼓動と、頭に滴る主人の涙。どうしようも無い、長い時間が過ぎていった。
「…ありがと、1号。私も今日はもう寝るから、あなたも休みなさい」
その言葉を最後に彼は部屋を後にさせられた。
彼には強い後悔があった。あのとき、なんで励ませなかったのかと。ちゃんと想いを伝えたかったのに、なんで何も言えなかったのかと。
(トロン様…)
もしもう一度チャンスがあれば。きっと叶わないだろうけど、もし叶ったなら。
そんな事を願ったまま、彼は眠りについた。