あれから少し経った、本格的に夏が始まったある日。僕は再びあのビーチへと向かっていた。  
 ありていに言えば、やはり彼女に……スプラッシュウーマンに会いたいという気持ちがほとんどだった。初めて出会ったあの日が、自分の中に強く印象付いていたのだろう。  
 普段より気温が高かったせいか、今日の海は混んでいた。楽しそうに遊んでいる家族連れや浜辺ではしゃいでいるカップル、サーフボード片手に波に向かうスポーツマンに、売店を開いているロボットもいる。  
(会えそうにないかもな……)  
 そう思いながら、僕は水着に着替えて、浜辺へと向かう。いつものように軽く準備運動を済ませ、賑わう海に潜った。  
 海水の中で身体を浮かせながら、軽く辺りを見渡してみた。だがどうにも人が多すぎて、いたとしても見つけられそうにない。  
 それでも暫く粘っては見たが、結局徒労に終わった。やっぱりいないかな、と諦め、浜へと身体を返した。  
 水底に足が付く辺りまで戻って、さてどうしたものかと思った時だった。  
「また会えましたわね」  
 綺麗な声が後ろから聞こえてきて、心が跳ね上がった。振り返ると、さっきからずっと探していた彼女の姿が、波間に浮かんでいた。  
 
「ス、スプラッシュウーマン?」  
「はい、そうですわよ」  
 素っ頓狂な僕の言葉に、彼女は驚くそぶりも見せずに答えた。  
「一体、どこにいらしたんですか?」  
「あら、あたしを探していらしたんですか?」  
「ええ。でも、見つからなくて……」  
 僕が髪の毛をポリポリと掻くと、いつかと同じようにスプラッシュウーマンはクスクスと笑いながら答えた。  
「それはしょうがありませんわ。先程まで、あたしは救助活動をしていましたからね」  
「救助?」  
 間抜けな事に、彼女が海難救助ロボットだというのをすっかり忘れていた。  
「ええ、ここから離れた場所で、溺れかけていた女の子を助けていましたの」  
「はあ……」  
全く気が付かなかった。ビーチの広さに加え、この混雑のせいもあるだろうが、もうちょっと騒ぎになっていてもおかしくなかっただろうに。そうすれば、彼女をもっと早く見つけられたかもしれないのに。  
「その子、大丈夫でした?」  
「幸い、ほとんど水は飲んでいませんでしたし、もう大丈夫ですわ」  
「そっか。それは良かったですね」  
「はい」  
 彼女の微笑みを見て、彼女に会う本来の目的をようやっと思い出した。  
 
「あの」  
「何でしょう?」  
 なんだか照れくさくて、視線を彼女から少しばかりずらした。  
「ええと……この後、もしよろしかったら……」  
「ああ、ごめんなさい」  
「え?」  
 こちらが半分も言ってない内から彼女は謝ってきた。  
「今は仕事がありますので、それ以外の事は、規定でできないのです」  
「あ、そうか……」  
 やはりロボットは仕事優先なのだろう。自分が悪くもないのに、彼女は本当に申し訳なさそうな顔で手を合わせていた。そんな顔をされると、落ち込んでいたこっちも、何だか申し訳なくなってくる。  
「すいませんね、無理に誘ったりして」  
「いえ、そんな……。あ、そうだ」  
 何か思いついたように、彼女は言った。  
「夕方頃でしたら、お話ぐらいならできますわよ。その頃まで待って頂ければ……」  
「本当?」  
 僕は目を輝かせた。心が晴れ上がった気分だった。  
「よろしいですか?」  
 彼女の問いに、僕は二つ返事で答えを返した。  
 
 夕方を待って、波打ち際で僕達は談笑を交わした。時間はあっと言う間に過ぎてしまったが、何だかとても楽しかった。  
 異性とこんなに親しく会話をするのは、いつぶりだろうか。もしかしたら初めてだったかもしれない。  
 
「今日は付き合ってくれて、どうも有り難う」  
「いえ、こちらこそ。何だか楽しかったですわ」  
 沈んでいく夕日が、彼女のにこやかな笑顔を綺麗に映し出していた。  
「それにしても」  
 腰を持ち上げた時、ふと疑問に思った事を彼女に聞いてみた。  
「何でしょう?」  
「今日、何で貴方から僕に会いに来てくれたんですか?」  
「あ……」  
 言われた本人が、驚くそぶりを見せていた。どうやら自分でも気付いていなかったようだ。  
「何で、でしょうね……」  
 つぶやいた彼女は、少し困ったような顔をしていた。  
「ただ……」  
「ただ?」  
 一呼吸置いて、彼女は言った。  
「貴方を見かけたら……、何だか声を掛けたくなった。それは事実ですわ」  
 その言葉を聞いて、己の顔が少しずつ熱くなっていくのがわかった。  
 少しの間、沈黙があった。  
 なんと言おうか考えていたけど、結局思いつかず、彼女の方が先に口を開いた。  
「あの」  
「ん?」  
 こちらを見上げる彼女の目線は、気のせいか、僕から少しずれているような気がした。  
「また、会いに来て頂けますかしら?」  
「え……?」  
 その言葉を理解するのに、少し時間が掛かってしまった。  
 
 つまり、彼女は僕の事を、多少なりとも気に入ってくれたという事。そしてそれは……、  
「スプラッシュ、ウーマン……」  
 それは僕が心の底で望んでいた事。  
「もちろんお相手をできるのは、今日のように、夕方などの仕事の時間の終わった後だけですけど……。それでもよろしければ……」  
 思わず戸惑ってしまった。答えなど、最初から決まっているのに。  
「喜んで」  
 笑顔で僕は答えた。  
 
 
 その日から何度も、僕達は波打ち際での交際を楽しんだ。  
 何度となくとりとめのない会話をした。どこに住んでいるとか、どんな歌が好きとか……そんな些細な話題でも、僕の心は不思議と弾んだ。  
 泳ぎ方も教えてくれた。海の中で優雅に泳ぐ彼女の姿は、例えようもなく美しかった。思わず見とれてしまって、彼女の指導をろくに耳に入れてなかった。  
 そうやって何度も会っている内に、僕達はすっかり仲良くなっていた。僕は彼女を『スプラッシュ』と呼び、彼女も喋り方が段々親しいものになっていった。  
 そんなある日の事だった。  
 
「今、何と?」  
 聞き違いだと思って、僕は隣のスプラッシュに問いかけた。  
「え? ですから……」  
 
 いつものように波打ち際で僕の隣に座っているスプラッシュは、少し戸惑った顔で先程の言葉を繰り返した。  
「海の中に沈んでいく貴方を後ろから抱き上げ、海面まで運んで、ボートの上に乗せて、人工呼吸を」  
「人工呼吸」  
 僕の口はオウム返しをしていた。  
 彼女は、二人が出会ったあの日、僕をいかにして助け出したかを話そうとしてくれた(そこに至る会話のやりとりはよく覚えていない)。が、その口から放たれたのは、僕の心を混乱させるような単語だった。  
「し……、したの? 人工呼吸」  
「……ええ。それが、どうなすったの?」  
 間違いなく、僕の顔は烈火のように朱に染まっていただろう。何せ、初めての口付けを彼女と交わしたとも知らずに、今の今までこうして付き合っていたのだから。あの時既に、ファーストキスを彼女に奪われていたというのに。  
 何でもっと早く教えてくれなかったのとか、見知らぬ男性相手にそんな事して嫌じゃなかったかとか、パニックになった僕の頭の中で場に合わない考えが浮かんでは消えた。  
「あら……大丈夫?」  
 スプラッシュが覗き込んできた。多分真っ赤になった僕の顔を心配したのだろう。  
「え、あ、うん! 大丈夫大丈夫」  
 
 混乱している僕の反応に、彼女はクスクスと笑って、  
「もう、見え見えですわよ。そんなに赤くなって……、まだ女性に対して慣れてないようですわね」  
 と言うと、少し考えるそぶりを見せた後、こう囁いた。  
「ちょっと目をつぶってみて下さい」  
「え? な、何で」  
「いいから」  
 怪訝に思いながらも、言われた通り目蓋を降ろした。  
 一瞬だった。  
(!)  
 目をつぶっていても、感触でそれが何なのかははっきりと分かった。  
 彼女の綺麗な唇、それが僕のそれに、そっと、優しく重なった。  
 思わず目を見開いてしまった。綺麗なマリンブルーの瞳が、ゆっくりと離れる。  
 自分の唇の辺りに手を伸ばした。二人の接触の余韻を感じたような気がした。  
「…………」  
 呆然としている僕に、微笑みながらスプラッシュは声を掛けた。  
「どう、もう大丈夫でしょう?」  
 不思議だった。あれほど熱を帯びていた顔が、ゆっくりと引いていったのだから。同時にさっきまで乱れていた心も、すうっと落ち着きを取り戻した。  
 
「何だか、歌いたくなってきちゃったな」  
 唐突に彼女が言い出した。  
「いいかしら?」  
 少し逡巡した後、微笑みながらゆっくりと頷いた。  
「歌って」  
 彼女はそっと目をつぶり、両手を身体の下の方で合わせて、ゆっくりと歌いだした。彼女が一番好きだと言っていた歌だ。  
 スプラッシュの歌声は素晴らしかった。かつてこれほど美しい調べを聴いた事があっただろうか。  
 喉からこぼれ出る清き旋律に、さざ波のようにゆったりと付けられるリズム。  
 海が奏でる潮騒と交わり、それはそれは美しいメロディとなって浜辺に響き渡る。  
 静かに青く光る海底で、美しい人魚が綺麗な髪をなびかせながら泳いでいる、そんな錯覚を覚えた。  
(そっか……)  
 彼女の歌に聴き惚れながら、僕は潮の香りを胸一杯に吸った。  
(僕は今やっと、彼女の本当の人工呼吸を受けられたのかもな……)  
 夕日を受けて赤く輝く海を眺めながら、この歌声をいつまでも聴いていたいと思った。  
 
 

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