「先生。朝ご飯、できましたが……」  
 ドアの前から呼び掛ける。返事は無い。  
「まだ、寝てますか?」  
 少し声を強めてみるが、やはり応えは無く。しばし戸惑い、  
「ええと……失礼します……」  
貼り紙は脇目に、雇い主の部屋へと踏み入った。  
 カーテン越しの朝の日差しと、付いたままの明かり。満ちた光に、一瞬目が眩む。  
しかし、薄目がちに見やれば、そこには片腕を枕に、突っ伏して眠るねねねの姿があった。  
規則正しく、呼吸に合わせて上下してはいるが、その背中はなんだか小さく見える。  
 先生は、大切な人が行方知れずになっている。  
そして、その影響は無意識に外に現れてしまうのだろう。  
そう思えた。  
 
 リーさんは変わったと言うけれど、『読子・リードマン』の名を口にする時の先生の目。  
それは、とても寂しそうで。  
 下の部屋だけでなく、ここにも飾られている二人の写真。  
その中には、笑顔があって。  
あまりにも違う、過去と現在。  
 自分たちでは、日々を引っ掻き回して和ますのが精一杯なんだろうか?  
 先生は、私たちでは。ううん。私では……駄目、ですか?  
 そっと後ろから腕を回し、キーボードに投げ出された手を  
包むようにして、自分の大きな手を重ねる。  
「私は……。先生の本だけじゃなくて、先生自身も……大好きです……」  
 髪の香りを感じる距離で、小さく、密やかに、打ち明けた。  
 
 モニターを見れば、ひたすらに同じ文字が続いている。  
 これなら、構わない筈……。  
 手を軽く広げ、まだ目覚めないねねねの指と指の間に、自分の指を絡める。  
深く触れた手は、とても冷たかった。  
元からなのか、この寝方によるものなのかは判らない。  
ただ、それが愛しさを加速させる温度なのは、確かだった。  
「先生……。受け止めたり、運んであげたりできる自分の身体には感謝してます。  
でも……。本当に望んでいるのはそんなのじゃないんです……」  
 そう。欲しいものは、ひとつで。  
「必要だ。ずっと傍に居て。っていう、先生のことばなんです……」  
 
 私と同じに本が好きで。紙使い。そして、女性である、『読子・リードマン』。  
 先生の探し人で、なおかつきっと、想い人。  
 どうしてあなたは、突然居なくなった?  
 どうしてあなたは、先生と私を、こんなにも苦しめる?  
 羨ましくて、憎くて。堪らない、気持ち。  
「うっ……うぅっ………」  
 涙が出てきてしまった。仕方ないから手を離して、拭う。  
時計を見ると、数分が経っていた。  
「いけないっ、朝ごは……」  
 言い掛けたところで、「こらーっ!いい加減起きろー!ねね姉っ!  
まー姉も、何で降りてこないー!?本でも読んでんのかー!?」  
 足音を伴って、元気な妹の声が聞こえてくる。  
この部屋へと向かって来ているのが解った。  
 
 もうこうしてはいられない。仕方ないが、  
「先生っ!ご飯です!」  
肩を揺すって起こしにかかる。  
すると、意外あっけなく目覚めてくれた。  
「んん〜。何?もう、朝なの?」  
 いつものように、気は抜けて、寝呆けたままではあったが。  
「は、はい。アニタも姉さんも待ってますから、一緒に食べましょう」  
「夢、みてた」  
「……えっ?」  
 脈絡が全くない台詞。だが、興味は沸いた。  
「一体、どんな……?」  
「あの人が出てきた」  
 ズキリ。  
「それでさ、出会った時、言ってくれた台詞が聞こえたの」  
 ズキリ。  
「作品だけじゃなくて、先生本人のファンです。ってね」  
 ……ズキンッ。  
 
「ま、そこで目が覚めちゃったんだけど」  
 言えない。私がさっき声を掛けたんです。なんて。  
「思えばあれが、くっついていこうと思った切っ掛けだったのかな……」  
 どうしようもない決定打。本当に、かなわないらしい。彼女には。  
 ならば、せめて。  
「先生。必ず、また逢えます。絶対です。夢で逢えたんですから……」  
 頭と背中とに腕を回し、包み込むように抱き締めた。  
 一瞬、沈黙が部屋に満ちた後、小さな『ありがと』の言葉が聞こえて。  
胸に顔をうずめられ、両腕もしっかりと回された。  
 よかった。拒まれなくて。今だけでも、私は先生に必要とされている……。  
 
 嬉しくて、ドキドキして。時間の感覚無しに、そうしていた。  
しかし突然に、  
「あんたら、朝から何やってんの?早く来なよー」  
日常に引き戻す声が掛けられた。  
「いや、その……」  
 慌てて離れ、答えようとして言葉に詰まる。  
「うるさいチビッ子。マギーちゃんはお前と違って、優しいの」  
代わりとばかりに、先程までの様子をまるで悟らせず、ねねねが言う。  
「はいそうですかぁ。別にいいけどねー。さっ!下に行こう!」  
「ん。行こうか、マギー」  
「はいっ!」  
 私は今、先生を支えていられる。そう。それだけでいい。  
 この抱擁を、確信と、決意の証にすればやっていける。  
 彼女に出会えて、先生があの笑顔を取り戻せる、その日まで。  
 

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