青い空の下で
『“Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be
opened to you. For everyone who asks receives; he who seeks finds; and to him
who knocks, the door will be opened.』 Matthew 7:7-8
「……しかし苦労したぜ、今回はよう!」
朝の新宿のルノアールで、男はそう言って呵呵、と伝法に笑った。
40代半ば、墨染の色もあやしい僧衣姿。
岩のような男である。
「なにせな、行ったはいいがガセネタで、話にならねえ。なんたっけな、ええ……全てを……
全てを見通す……」
「全てを見通す眼の書」
「そうそれだ!……無駄足で、そのくせキッチリ立ち廻りだけはありやがってな。見ろよこれを」
男はひきつれの酷い二の腕の傷を見せる。
「……まあ、お蔭で退屈はしなかったが」
男はぬるいコーヒーをすする。
「連れがこれまた妙な二人組みでな。片方はモヒカンの馬鹿でかい男で、もう片方は……」
「太ったメガネのうさん臭い男でしょ」
ねねねは筆村にそう言った。
「なんでえ、嬢ちゃん知ってんのか」
「少しね」
「ははあ、そういや昨日奴らともめたとか言ってたっけな。しかし嬢ちゃん。中国読仙社を向こ
うに回してよく無事だったなあ」
「アンタこそ読仙社の仕事をしてるなんて知らなかったわ」
筆村は呵呵と笑った。
「あんたみたいな売れっ子とは違うからな。それに俺はそういうのが好きなのさ。しかし惜しか
ったな、俺がいれば『裏切り御免!』となったんだがな」
筆村はそう言って呵呵、と笑った。
「嬢ちゃんが声をかけてきたときはおどろいたね。なにせ俺はこんな男だし、作家なんて気色
悪い連中とつき合いなんてありゃしねえからな。それをあんたみたいな売れっ子がねえ……」
「アンタの本を先生が好きでね。サイン会なんかがあると出掛けていって、そのたんびにガッカ
リして帰ってきたわよ。アンタがいないんでね。……集英社のパーティに出たらめずらしく来て
るっていうから……興味があってね、どんな人なんだろって」
そうだったな――。手を上げてウェイトレスを招く。
「懐かしいな……。あのメガネのネェちゃんはどうしてる?」
「さあね、鉄砲玉だからどこでなにしてるやら……それより、そんな話をするためにわざわざ呼
び出したの?……ちょっと!まだ食べるつもり!?」
「もう昼だ」
「いいかげんにしてよ……こんなに食べて!少しは持ってくれるんでしょうね!!」
「なんでえ連れねえこと言うな。貧乏人に恵んでも罰はあたらねえぜ」
「わたしもね、最近少し苦しいのよ……で、どうなの」
ふた口でハムサンドを片づけ、お冷やでそれを嚥下すると筆村はにやりと笑う。
「……まだまだ積もる話があるのさ」
――俺はいま病院にいる。
ちぎれるかと覚悟した右腕の経過はだいぶいい。またモノを書くことが出来そうだ。
……しかし、ひでえ仕事だったな。報酬を換金するために寄った香港で、そのまま入院す
ることになった。金の奴が手配した病院はかなり大きくて設備も悪くない。……それにしても
奴らの報酬がケツを拭く紙にしか見えねえのはどういうこった?何か気のきいた冗句のつもり
なんだろうが――。
「笑えねえな」
目の前で本を読んでいた少女がおどろいて顔を上げた。
外科病棟の休憩所のとなりは子供の遊び場になっていて、わきに貸し本棚の列がある。
俺がここで煙草を吸うときはたいてい、この娘がそこにいることに気が付いた。
「本が好きか?お嬢ちゃん。……俺は筆村嵐、日本人だ」
少女はしおりを本に挟んでひざに置いてにこ、と笑った。
「……わたしはフェイよ」
「筋……萎縮性……脳幹?」
「衰退症。……その娘が本を好きなのは、本の素晴しさをある人が教えてくれたからなんだ
と」
「それがマギーだっていうの?」
「昨日嬢ちゃんのところに金の無心に行ったときに、床に転がってたデカイのが聞いた人相、
風体にあまりに近いもんでな。紹介されたときにどっかで聞いた名前だとは思ったんだが……
夜中にようやく思いだしてな。電話をしたという訳よ」
マギーならそれはあり得る話だ、しかし……。
「でも、マギーは男だと言ったんでしょ」
「それよ!」
筆村がだん、とテーブルを叩くと空いた皿がおどった。
「そこがこの話の面白えところさ」
『For in the days before the flood, people were eating and drinking, marrying and
giving in marriage, up to the day Noah entered the ark; and they knew nothing
about what would happen until the flood came and took them all away. That is how
it will be at the coming of the Son of Man.』 Matthew 24:38-39
黄昏時。
夏といってもまだ朝晩は涼しい。窓をあけると風鈴がちり、と鳴った。
「……フェイは助かったんですね……眼も?」
「ああ」
マギーはほうと息をついた。
「なんだかなつかしいわね〜あの時はマギーちゃんにもようやく春が来たっておもったのよ〜」
ミシェールがそう言うとマギーは顔を真っ赤にしてうつむく。一同の非難の視線を集めてミシ
ェールは額に汗をうかべて、みずから頬をつねる。
筆村は筆村であらためて部屋をながめて感心しきりである。――先日もすごいと思った
が……図書館だな、まるで。
「ちょっと!ふた掴みでお茶菓子を食べないでよ!!間がもたないでしょ!」
「……しかし、大変だったのはその後でな」
――あの日はフェイの退院日だった。フェイが両親と挨拶に来て、俺が「よう!おめでとう」
と言うと、「水だ!」と誰かが言った。後はあの騒ぎよ。……俺はフェイをかついで走った……
俺はひらめいて「上だ!」と後ろを走る両親に叫んだ……俺は何度も転んだしフェイは何度
も神様を呼んだ……その日、病院の屋上でみた黄昏は忘れられない――。
「いろいろあってな。フェイ達はいま廣州の避難民キャンプにいる。つい先日まで俺もそこで
一緒だったんだが……実は彼女の親父さんが流行り病で倒れてな。マラリヤだと思うんだ
が……いや医者もそう言ってたが、わからねえんだ」
「…………」
「容態はどうなの?」
「良くはない、というのもあそこには薬がねえのさ。あっても順番待ちでな。重篤の患者が先
だ。わかるだろ?手つかずのままさ……そこへお袋さんの具合も悪くなってな」
「!?」
「いまはフェイが両親の面倒をみてる」
「…………」
「腕が治ったんで俺は帰ってきた。こうしている時間も惜しい。薬に食料……生活必需品も
欲しい、それもまとまった数だ……まさかあの一家だけという訳にはいくまいよ」
「……ずいぶん入れ込むわね。一文無しのクセに」
「なに、これも縁てやつさ」
「縁ねぇ……坊主みたいね」
「知らねぇのか?」
俺は坊主でもあるんだぜ、筆村は胸元からパチンコ玉に穴を開けてワイヤーを通したよう
な大数珠――それは武器ではないのか?――をちら、と見せてにやりと笑う。もっとも―
―。
「師匠なんざ、いねえけどな」
筆村はそう言うと呵呵、と伝法に笑った。
「それに金なんざ、あるところに行けばあるのさ……なんだ、そのツラは。もの盗りをしようてえ
訳じゃねぇぞ、こう見えて顔が広いんでな。篤志家や友人、闇医者からボランティア団体ま
で奔走しなきゃなるまいよ……そこへお前さんを見つけたって訳だ。マギーちゃん……で、い
いか……どうでえ」
筆村は腕を組んでマギーを見据える。
「お前さん、俺の代わりに向こうへ行く気はねえか?」
風鈴が風でちり、と鳴った。
「……わたしが?」
「そうよ」
「行きなさい、マギー」
ねねねは真剣な面持ちでマギーを見つめる。
「…………」
「その娘のこと心配なんでしょ……なら放って置けないはずよ」
「…………」
「わたしはね、マギー、大切なひとを追ってどこまでも行ったわ。知ってるでしょ?……わたし
は自分が幸せになるために怠けたことは無いの。それがわたしの誇りよ」
ねねねは胸を張って言う。
そういう時の先生はほれぼれする程のきっぷだ。
マギーはいつもそう思う。
「わたしはいま幸せよ、マギー、だから……」
ねねねはマギーに向かってにこ、と笑う。
「だからマギー、あなたも幸せになりなさい」
「…………でも」
マギーがうつむくとテーブルにぽた、と滴がおちる。
「わたしにその資格は……ないんです……わたしは……彼女をだましましたから」
ぽたぽたと滴がおちる
む、むひ……。
マギーが嗚咽をこらえると、テーブルに彼女の雨が降る。
マギーは泣く。
まるで、子供のように。
風鈴が風でちり、と鳴る。
「……知ってるぜ」
「…………?」
「フェイはお前さんが女だって知ってるって言ってんだ」
「…………そんな」
「あんまり人間を馬鹿にしちゃあいけねえ。あんたと両親はまんまとだましおおせたつもりかも
しれねえが、あの娘はそれほど馬鹿じゃなかった……それだけのことよ」
「…………いつから?」
「さあな、そんな事知りゃあしねえよ。それこそ自分で聞きゃあいいさ。ただな、あの娘はこう
言ってたぜ」
「…………」
「『わたしが気付くことでマギーとの関係が壊れることがこわかった』。ってな、お互いさまってこ
った……それにな、知らねえか?」
坊主と医者のうそは方便と言うんだ、そう言うと筆村は呵呵、と伝法に笑った。
「行ってきなよ、マー姉」
「アニタ……」
「わたしもこっちで大切なひとがたくさん出来たよ。ねね姉に久ちゃん、馬鹿な奴やうるさいの
もいるけどみんなみんな大事……でもわたしとマー姉は変わらない」
「…………」
「だからマー姉に大切なひとが出来てもわたしたちは変わらないよ」
ミシェールはアニタの頭に手をやり、目を細める。
「もう談合は出来てるから、三姉妹会議をする必要はないの……」
「……姉さん」
「行きなさい」
マギーを見て、ミシェールは慈母のように笑った。
「ひとを助けるなんてそんなに難しいことじゃねえのさ、ただそのひとを生涯背負わなければな
らねえんで、とうてい引き合わねえと誰もやらねえだけの話でな……ここが肝心なところだ
が……どうなんだ。お前さんはフェイを助けたいと思うのか?」
筆村は凄い目でマギーをにらむ。
マギーの表情から困ったような色がきえ、瞳は水のように澄んで筆村の視線を受けとめる。
「…………はい」
気負いもなくマギーは答える。
「決まりだ!!」
筆村はぱん、とひざを打つと伝法に笑った。
「もうちょいかかるかと思ったが案外はやくケリがついた……まあ、話は早いほうがいい。な
あ?」
「……ひとが悪いですよ。先生も、みんなも」
風が起きて風鈴がちり、と鳴った。
夜、わたしは電卓を片手に使えるお金から、買わねばならぬものと持てる分量を勘案す
る。
……あれから三日が過ぎた。
筆村先生からの連絡はまだない。
気がせくが仕方がない。
わたしはわたしの出来ることをしよう。
いきなり肩を揉まれて、振り向くとにしし、と笑うアニタがいる。
アニタはなにも言わず背中から手を回すとわたしを抱きしめ、う、う、と嗚咽をもらす。
背中に熱いものを感じて、わたしもまた涙ぐむ。
朝、わたしは買い物をする。朝食の席でアニタはわたしにさわやかに笑ってみせた。
上野で軍用の大きな背嚢を買い、そこに入るものをいろいろと買う。
薬、食料、衣類……。
よく考えなければいけない。
持てる量にはかぎりがある。
必要なものしかもってはいけない。
必要なものを入れ、要らないものをはぶく。
……筆村先生から連絡があった。
明日、わたしは日本を発つ。
……わたしが日本に帰る日はいつになるだろう?
少なくともフェイの両親が元気になるまでは向こうにいなければならない。
果たしてわたしに彼女を助けることが出来るのだろうか?
それを考えると心配でたまらない。
あれから筆村先生は千人分の薬と食料を都合してみせた。
わたしにはいったい何ができるだろう?
……先生はじぶんの器量で出来る精一杯のことをした。
ならばわたしはわたしの出来ることをしよう。
考えなければいけない。
持てる量にはかぎりがある。
必要なものを入れ、要らないものをはぶく。
必要なものしかもってはいけない。
!……そうだ。
ふと気が付いたマギーは、足をまげて小さな書店に入ると文庫本の売り場へ行き、菫川ね
ねねの『君が僕を知ってる』を手に取る。
……これがいい。これならかさばらないし、何よりわたしも好きだ。
時刻は、もう昼にちかい。
「行っちゃったね……」
空港で見る飛行機の、音の聞こえないのは妙だ。
「ね、わたし、その娘と友達になれるかな?」
ミシェールはアニタの頭に手をやり、目を細めて笑う。
「だいじょうぶ……なんでもね、お友達からはじまるのよ」
「お、たまにはいいこと言うじゃん」
「俺は感心しねえな……不健康だぜ。若い娘同士が……」
硬いヒゲをしごきながら筆村は言う。
「るっさいわね!!古いのよ、考え方が!」
「嬢ちゃんは、そりゃそうかもしれんさ」
筆村はそう言うと呵呵、と伝法に笑った。
廣州の避難民キャンプ。
ひとの群れとテントの海。
夏の日射しは強くて、雲はせわしなく流れる。
フェイは水をなみなみと湛えたバケツをもち、よたよたと歩を進める。
白い鳩が空を飛び、風でフェイの髪は後ろへなびく。
すると彼女は目をつむる。
洗濯がおわり、これから食事のしたくをしなければならない。
そのためにはもう一度あの列に並ばなければ。
フェイはもはやそのことに別段の感慨を持たない。
ただかるいうっとうしさを感じるだけである。
雨降りの傘とおなじだ。
しなければならないことはしなければいけない。
お屋敷のお嬢さまだったフェイもすっかりたくましくなった。
いまや意地わるをした少年を逆に蹴とばして泣かせるなぞはしばしばである。
何故これまで生きてこれたのかわからない。
道路に倒れ伏して休んだほうが楽だった。
本当に楽だった。
それなのに何故か?
じぶんの根をさらうと、フェイはひとつの約束に行きあたる。
わたしは約束をした。
だからわたしは生きなければならない。
約束をしなければ、ひとは生きられない。
約束とは、誰かになにかを誓うことだ。
だから約束は守られる。
だからわたしは――。
「手伝うよ」
フェイはびく、として若い男の――高いひとを見る。
「結構です。わたし、あなたに親切にしてもらう理由がありませんから」
……少し意地がわるいだろうか?
フェイはよたよたと歩を進める。
「…………元気そうだね」
フェイは立ち止まり、後ろをふり向く。
「声……忘れちゃったかな?」
マギーは照れくさそうに頬を赤らめて言う。
バケツはひどい音をたてて地面をころがり。
フェイは両手をくちにあて、そのみひらいた目はみるみる涙を湛える。
夏の空は青くて、日射しは強い。
悠々と、雲のながれる青い空。
≪おわり≫