『――具合がよくなった!」と彼が叫んで言った。
しかし彼の声は発動機の響きに消され、わずかに微笑だけが相手に通じた。「僕らはもう
助かりっこないはずだというのに、笑うなんて、僕は確かに正気じゃないぞ」
そのくせ今、これまで彼をつかまえていた千百の暗黒の腕が、彼を解放するらしかった。縄
を解いてしばらくのあいだ、自由に花のあいだを歩かせてやる罪人のように、彼のいましめが
解かれていた。
「あんまり具合がよすぎるぞ」とファビアンは思った。彼は徘徊した、宝物のようにたっぷり集め
られた星に交じって、彼ファビアンとその同僚以外には誰ひとり生きた人間のいない世界の
中を。お伽話の中の盗賊どもと同じように、永久に出ることのできないはずの宝物庫に閉じ
こめられて。冷たい宝石のあいだを、いとも富んで、しかも死刑を宣告されて、さまよっている
彼らであった。』 サン=テグジュペリ 「夜間飛行」
――『武闘(ゲヴァルト)』。
ここでぼくが言うところの武闘とは、暴力の行使であるところのあの戦争のことではない。
より本質的な世界との闘争――生存のためのそれである。
世界に放り出された我われは独りで。
それゆえに世界とのコミュニケーションを必要とする。
なによりまず我われは、喰うために世界とコミュニケートしなければならない。
我われはその行為をさして『仕事』と呼んでいる。
それは生きるために必要なことだ。
だが、それはまだ人生ではない。
そう呼ぶには値しないのだ。
では何のために?何のためにひとは闘うのか。
賃金のために?断じて、否だ!
あの賃金という奴は、実はただの紙きれにすぎない。
『金』は我われの生活を支えるものと交換されるかぎり、価値があるように見え続けるだろ
う。
……ただそれだけの事なのだ。
ならば何のためにひとは闘うのか?
世界に放り出された我われは独りで。
それゆえに世界とのコミュニケーションを渇望する。
喰うためだけに生きることも勿論できるだろう。
だが、それはまだ人生ではない。
そう呼ぶには値しないのだ。
我われは大切な『何か』を渇望する。
より大切な『何か』を獲得するために、より大切な『誰か』を守るためにこそ、我われは絶
望的な勇気をふるって世界と闘うことができるのだ。
我われは大切な『何か』、大切な『誰か』のために生きている。
我われにとって実はそれこそが人生で、そして我われにとって実はそれこそが世界なのだ。
つまり我われは、『我われ自身の世界』をもって、全世界と対峙しているのである。
そして――。
そして、ぼくは横浜港大黒埠頭の、とある保税倉庫のまえに立つ。
初更から吹きだした風は夜半に至って大風となった。
だしぬけに搬入口の扉のところで鋭い嫌な音がひびくと、厚い扉には三角形の、丁度ひと
が通れるほどの穴があく。
その切片が床にぱたりと倒れて、月明かりが辺りを照らした。
そこにはひとの影が差し、やがてドニーが現れる。
腰をかがめて倉庫に入ると、辺りにはパレットやコンテナが整然とならんでいる。
……暗いので、奥は見えない。
四囲の壁の天井付近には採光窓があり、そこから月明かりが漏れた。
あとは漆黒の闇――。
ドニーは右手をまえにかざして左右に振りながら、なにかを確かめるように歩きだす。
通路は細かく区切られていて、ドニーはそのなかを縫うように歩いた。
やがて彼の足はとまり、ふり向いていま来た路を引きかえす。
とあるコンテナのまえでドニーは立ちどまり、そのスチールの肌にひたひたと手を触れる。
すると突然、ドニーは二方向から銃撃をうけた。
三点バーストによる十字射撃――。
ドニーは左肩と右足に弾をくらってその場に倒れた。
倉庫に足音がコツコツと響く。
そこに誰かが向かっているらしい……。
幾度か立とうとしてあきらめたのか、ドニーは腹ばいのまま逃げようとする。
彼の右足はひざを砕かれ、妙な具合にまがっている。
ドニーは身体をくねらせながら、通路を右ひじだけで這いもどる。
だがMP-5を構えた男がドニーに駆け寄り、かかとで彼の頭を踏みつけた。
ドニーの頭は床に踏みつけられてひどい音をたてる。
男はドニーになにか言おうとして、そしておどろいて静かになった。
ドニーは彼の足元でみるみる平らになり、やがて無くなってしまう――。
そこには、ただ紙が……沢山の紙があるばかりだ……。
――『ペーェェ、パーァア!!』
ふいに気がついて、男は叫んだ。
シュル!とムチのようなものが足に巻きついて彼を引き倒す。
そのムチはまるで蛇のようにきりきりと彼を締めつけ、そして長い、見上げるほど長い鎌首を
もたげた。
男はかすれた悲鳴をあげながら、その『蛇』の鎌首に向かってMP-5を乱射する。
仲間たちは彼を助けたいのだが、いま撃てば彼にもあたってしまう。
その『蛇』はやがて胴体にも巻きついて、彼は身動きが取れなくなった。
『蛇』の尻尾がその口をふさいだので、彼の悲鳴は聞こえなくなった。
高くもたげたその『蛇』の頭は、ふいに膨らんで、そして破裂した――。
そこから紙片が放射状にうなりをあげて飛び、ところ構わずに突き刺さる。
見れば木のパレットはもとより、金属性のコンテナ、樹脂材の床にも紙片は深々と突き立
っている。
彼らがそのさまに戦慄する間もなく、ガラガラとキャリーバッグを引きながら――『ぼく』は倉
庫のなかに現われる。
……どうやら、こいつ等はぼくに『宝探し』をさせようという魂胆だったらしい。
――せこいな……。
声に出して、ぼくはつぶやいた。
それにしても、こいつ等が『それ』の在りかを知らないというのは……妙だな。
……だが、まあいいか。
おしまいの鐘がなる――。
最終章の始まりだ。
ぼくはアキレウスなのか?
それともヘクターなのか?
それはまだ分からない。
――まあ、結局は同じことなんだけどね……。
寂しそうに、ぼくは笑った。
――さあ、愛し合おう!
お馴染みのM-16の連射音が響くなか、ぼくは狭い通路を疾走する。
頭を下げ、腰をおとしてただひたすらに速く、速く、速く――……。
……やれやれ。
こればかりは何度経験しても慣れないな……。
弾に当たりたくなければ、ぼくは走るしかない。
銃弾がぼくの足元をなめ、耳元をかすめて飛び去る。
厄介だ……。
どうやら連中はミニミ(M-249 分隊支援火器)を持ち込んでいるらしい。
息をはずませてコンテナの隙間に滑りこみ、急いで手元の『紙』を投げうつ。
紙は生き物のように空中に弧をえがいて飛び、しばし射撃が途切れた。
すかさずぼくは通路に飛びだして走る。
ぼくは速く走るしかない……。
犬のように、ぼくは走る――。
……敵は十人前後、一個分隊といったところか。
彼らは二手に分かれて互いに連携しながら、絶えず側面に廻ろうとする。
貨物の隙間、通路の交差点のクリアリング(制圧)の速度とスタミナは驚くほどで、ライト付
きのMP-5を揺らしながら、決して足を止めることなくクリアゴーを繰りかえす。
ぼくは幾度もキルゾーンに踏みこみ、紙の楯で射弾を避けた。
……なんとか勝負になっているのはここが遮蔽物の多いインドアだからだ。
室外でアンブッシュを仕掛けられて、いきなり狙撃されていたらぼくはそれっきりだったろう。
横から受けた連射を紙で受ける。
駆け出そうとして正面を向くと、いきなり顔を斬りつけられた。
見れば目のまえに、ナイフを――マチェット(山刀)を持った黒人がいてにやりと笑う。
……大きい。
二メートルはあるだろうか。
手足の長いその身体は、猫科の猛獣を彷彿させる圧倒的な存在感を持っている。
それにしてもこいつの格好は……。
黒人はハンチング帽をかぶり、ポロシャツにカーディガンをはおってスラックスを穿いている。
……ゴルフなんだろうな、きっと。
ゴルフウエアを着た黒人が真夜中の埠頭をうろついているとは思わないが、目だし帽の特
殊部隊が東横線に乗るわけにもいかないだろう……。
睨みあう。
愛嬌があるように見えたその目は、いまは別人のように細くなり、ぼくを見つめる――。
黒人は腰をおとしてガードポジションに構え、ぼくに向かってにじり寄る。
左手を不自然に下げている。
あるいはもう一本ナイフを隠し持っているのかもしれない。
なんの予備動作もなく男は一歩を踏み出した。
――疾。
右手のマチェットがすごい勢いで突きだされ、ぼくはそれをスゥエーでかわす。
……やはり次が来た。
そのまま黒人は左手を横に薙いだ。
腰をかがめると、金属の光芒が頭上を走り抜けていった。
床に手をついて、中足で黒人の左足を払う。
……しかし、彼の足はもうそこにはない。
黒人は大きくうしろに跳び、ふたたび腰をおとしてにじり寄る。
誰も撃ってこない。
弾を使いすぎたのか、それとも追いかけっこに飽きたのか……。
……まあ、それもいいだろう。
贅沢は、言えない。
決して歓声を上げない観客のまえで、ぼくたちは殺しあう――。
……右で薙いで、左で突き、それを避けると膝めがけてローキックが飛んでくる。
ぼくは左足を浮かせ、膝を上げてそのローを受ける。
きちんと受けたつもりだが、よこに飛ばされぼくはパレットの山に突っ込んだ。
「……くそ!」
体力が違いすぎる。
素手で勝てる相手ではない。
あお向けのぼくに向かって黒人は悠然と近づき、マチェットを振り下ろす。
「ふしゅっ!」
かつん、と音がして、その一撃はぼくの頭上で止まった。
突きあげたぼくの両手には紙製の棒が握られている。
黒人はおどろいてうしろに下がり、ぼくの様子をうかがう……。
ぼくは起き上がるとその棒を青眼に構え、黒人に向かってすり足で近づく。
すると、彼は不用意に左手のナイフを伸ばしてきた。
ぼくはそのナイフを避けながら半身に入り、踏み込んで黒人ののどを諸手で突いた。
のけ反って黒人はうしろに倒れ、床に手をついて目を白黒させる。
ぼくが上段に構えて近づくと、あわてて彼は立ちあがった。
……彼の足はまだふらついている。
しかし効いてるふりをしているのかもしれない……。
それも技術のうちだ。
それに、こうなれば彼は組み付いて寝技に持ち込もうとするかもしれない。
……うかつには近づけない。
ふいに黒人は左手のナイフを、ぼくの顔めがけて投げつけた。
ぼくは手元でそのナイフを弾く。
その刹那、黒人はすごい疾さでタックルに来た。
ぼくはよこに跳んで、からくもその胴タックルを避ける。
左側に跳んだぼくののど元を、黒人のマチェットがかすめる。
全身の毛がそそけ立った。
血が、首を伝って胸元へ――。
のどに痛みがある。
……いまのは、危なかった。
口元に嫌な笑みを浮かべて、黒人はぼくを見つめる。
彼はマチェットを逆手に持ちかえ、ボクシングでいうオーソドックススタイルに構えてステップを
踏む。
「おい日本人、面白いな……」
黒人はステップを踏みながら言った。
冗談じゃない……なにが面白いものか。
心のなかで毒づいて、ぼくはもう一度上段に構える。
……先は長い。
いつまでもこいつにつき合っていられない。
悪いがすこし卑怯な手を使わせてもらおう。
振りあげたぼくの手がぴくりと動くと、黒人はするりと間合をはずす。
通路の幅が狭いので、彼は前後にしかフットワークを使えない。
黒人はゆっくりと近づき、ぼくの手がぴくりと動くとまた後方に下がる。
その繰り返し――。
そこに緊張がある。
やがて黒人は間合をつかみ、そのぎりぎりの距離でステップを踏む。
ぼくの手が、ぴくりと動かない距離――……。
たまらない緊張があった。
瞬きひとつ、呼吸の乱れひとつで始まってしまうだろう。
だが、ぼくは突然間合をはずしてうしろに下がる。
ぼくはそのまま足を止めずに、うしろに数歩――。
遁走すると思ったのだろう。
ぼくを追いかけて、黒人は足をまえに踏みだした。
「しゃっ!」
渾身の力を込めて棒を振り下ろす。
棒は吸い込まれるように、彼の頭に――ほら、入った……。
黒人はその場に昏倒する。
――なぜ棒がとどくのか?
その顔にはおどろきがあった。
やがて黒人の頭から、たらたらと大量の血が這いでてきた。
しかし、まだ終わらない……。
彼はゆっくりと上体を起こす。
ぼくを見て、黒人は血まみれのすごい顔で笑った。
振りかぶり、もう一撃――。
それで黒人は静かになった。
ぼくの手には丈余の棒が握られている。
とん、と床を突くと、その棒は縮んでみじかくなった。
……敵に自分の武器を十分印象づけた後で、その武器の特性を変化させる。
単純だが、効果的な手だ。
黒人の手足を縛って立ちあがると、倉庫にはふたたび銃声が響き渡る。
ぼくはうでを振り、連射を紙で受けきってみせた。
……ぼくに弾丸は当たらない。
ふたたび、ぼくは犬のように走りだす――。
弾雨のなかを。
ぼくはただひたすら走り。
物蔭にひそんで息をつく。
紙で銃弾を受け、紙を投げうつ。
敵と闘い、また犬のように走りだす。
繰り返し、繰り返し、繰り返し――。
……これで何人目だったろう?
倒れた男を縛り上げると、銃弾が側壁を乱打して割れ鐘のような音をたてた。
右手をまえにかざして紙で障壁をつくり、射弾を避ける。
――と、一弾が障壁を突き破り、頭をかすめて飛び去った。
左手をまえに振り、障壁を二重にする。
9パラや223NATO弾に耐えてきた障壁をかるがると……。
……50BMG(12.7ミリ弾)か?
狙撃銃だな……たしか、バーレット(M-82 対物狙撃銃)とかいう……。
……これがM-2重機なら死んでいたな。
それにしても、連中――いよいよぼくを人間扱いしなくなったようだ。
妙な飛翔音が聞こえて、ぼくは全身の毛がそそけ立った。
あわててぼくは『丸く』なる。
爆発――。
紙製の『繭』のなかで、ぼくは攪拌される。
その振動。
ぼくは嘔吐する。
――くそ!
グレネードランチャーか……。
どうやら『生死問わず』という事になったらしい。
……それにしても、こいつ等なにを考えてるんだ?
これじゃ『呪いの書』もなくなっちまうぞ。
絶望的な状況のなか、ぼくは口元をゆがめて笑う――。
――戦場。
『…………聞いてるの、ドニー?』
――あ?ああ、聞いてるよ。
ぼくは苦笑して本を閉じ、彼女を見つめる。
『だからぁ、本が読めればどこでもいいのよっ。やっぱり聞いてなかったんじゃない!』
――……本は、どこでも読めるよ。
ぼくは言う。
『なるべくいっぱい読みたいのっ!』
――どうしてだい?
『どうして?ドニー、周りを見てみなさいよっ。こんなにたくさんの本があるのよ。しかも、これ
は全世界で出版されてる本のごくごくごくごく一部!』
彼女は芝居がかった素振りで棚にならんだ本を差し示す。
『こうしている今も、本は次々に発行されてるの!』
――つまり、全ての本を読むことは不可能なわけだ。
ぼくは意地悪く言った。
これは、大学の図書館だ……いつこんな事を言ったんだっけ?
爆発――。
どん、とすさまじい音がして紙の繭が弾け飛び、その繭のなかで、ぼくは攪拌される。
――……ぬふう。
気味の悪い震動が内臓をいためつける。
耳鳴りがひどい――。
まずいな……。
このままでは、まずい。
繭殻を銃弾がぴしぴしとたたく。
雪隠詰めだ。
……あの40ミリグレネードを何とかしないといけない。
飛んでくる方向は分かっている。
次に来たら……来た――!!
飛翔音――爆発。
また紙の繭が弾け飛ぶ。
爆煙がおさまると、紙の繭は細かな紙片となって辺りをただよう。
紙はくるくるとらせんをえがいて舞い、その紙片で辺りは見えなくなった。
ぼくはただよう無数の紙にかくれて突貫する――。
……ぼくの生死は走る速度しだいだ。
犬のように、ぼくは走る――。
『決めたわ!私もそこに行く!』
紅潮した顔で、彼女はそう宣言した。
……あのときは困ったな。
とんでもないことだと思った。
あのとき、彼女を止めておけばよかったのに。
……ぼくはそうしなかった。
どうしてできなかったのか……――。
……あらかた片づけたと思ったが、しぶといのが数人いる――。
そう思っていたが……どうやらひとりらしい。
つまり、先程からこいつは……こいつはひとりで複数の狙点をとり、口径の違う数丁の銃を
さげて飛び回っていることになる。
……化け物か?
試しに紙を飛ばしてみる。
すると、その男は紙を引きつけて――二発。
……紙は落とされてしまう。
そしてこちらの位置をすばやく把握し、M-16のショートカービンを小気味よく鳴らしてくる。
ぼくは頭を上げることもできない……。
射撃が途切れると、男はもういない。
そして思いもしない方向から射撃を受ける。
――くうっ!
ぼくは床にころがり、男に向けて紙を投げうつ。
紙はまた落とされる……。
……なら、三枚ならどうだ!
そら!……紙はそれぞれ弧を描き、飛んでいく。
点射――。
一枚の紙が落ちた――だが、どうだ!
……当たっただろう!?
よし、もう一度――痛っ!
――くそ!……。
なんて奴だ!
今度は投げるまえを狙ってきやがった。
ぼくはコンテナの隙間にすべり込み、えりをくつろげて傷をみる。
……弾は右肩を削っていった。
うでの曲げ伸ばしをしてみる……骨に問題はない。
――……長い夜になりそうだ。
苦痛に顔をしかめて、ぼくはそうひとりごちた――。
『……ずいぶん、つまらない本を読んでますね』
――女の子が話しかけてきた。
見覚えのない女の子だった。
去り際に彼女は名前を教えてくれた。
変な名前の、変わった女の子だった。
だけど、ぼくは彼女の笑った顔を見てみたいと思った……――。
――投。
くそ 疲れ はおしゃべり
で
おとうさんは? おかあさんはどこ
死んだよ。
ふたりとも
――投。
哭くな。
お人好しだな
音。
……たとえぼくが死んでも
君がぼくを知ってる。
それでいい
ぼくは、本が好きだ。
そろそろ
――打。
――読子、きみは強い。
ぼくがいなくても立派にいきていける。
きみにはすばらしい日々を過ごしてほしい。
つらくてもどうか笑顔で希望を捨てずに。
そしてぼくからのキスを――。
撃たれたわき腹の傷が痛む。
血が止まらない。
……痛い――。
呼吸をすると猛烈に痛む。
……モルヒネを持っているが、打つわけにはいかない。
打ったらなにも出来なくなってしまう……。
ならば痛みのほうがましだ。
……だが時どき気が遠くなる。
これで気絶したら笑い話だな……。
のどが渇く――。
……弾は外にぬけたようだ。
内臓を、傷つけていなければいいのだが……。
…………妙だな。
コンテナの側壁に背を向けて、通路をちら、と見てすぐに頭をもどす。
……やつは撃ってこない。
男の気配がきえた……。
ぼくは混濁する意識をふるい立たせて集中する。
……やはりおかしい。
男は通路をへだてた斜向かいの区画にいたはずだった。
……そこから動いてはいないはずだ。
だがそこに男の気配はない……。
いやな予感を抱いて、ぼくはきょろきょろと周りをみまわす――……。
四囲の壁の天井付近には採光窓があり、そこから月明かりが漏れた。
その窓にそって壁面をつたう狭い鋼製の通路のうえで、おれはM-40(狙撃銃)を構える。
……プローン(伏射)では俯角がとれないので、座り込んでうでにスリングを巻きつけ、銃床
を肩にひきつける。
銃床に頬をつけてスコープを覗くと、十字線が大きく上下に波うつ。
……はやく呼吸を整えなければ。
『ザ・ペーパー』を照準内にとらえて倍率をあげ、十字線のやや下に……頭を。
太股の傷が痛む……。
……それにしても、名うての戦争屋をそろえてこのザマとはな……。
やっぱり化け物だな、こいつは……。
…………もう気がついたか……さすがだ。
……はやく呼吸を…………やつが上を見るまえに……整えなければ。
――『……エホバはわが巌、わが要害、我を救ふ者……。
わが磐の神なり、われ彼に倚頼む、エホバはわが盾、わが救の角、わが高櫓、わが逃躱
處、わが救主なり……爾われをすくひて、暴き事を免れしめ給ふ。
我ほめまつるべきエホバに呼はりて…………わが敵より救わる……』――。
……静かな深い呼吸ができるようになった。
おれはゆっくりと息を吸い、呼吸を止めて引き金に、指を……――。
『……ドニイイィィー―!!危ないっ!上えぇー―――っ!!』
「!?」
ぼくは彼女の叫び声を聞いた。
その意味を理解するための長い数瞬が過ぎ、ぼくはあわてて床に転がる。
ぼくの頭を削って銃弾が飛び去り、そして激痛――。
「……ぐむっ!!」
鮮烈な痛み。
わき腹をおさえて、ぼくは床をのたうつ。
……はやく……遮蔽物のかげに、かくれなければ……。
唇をかみしめ、ひたいに玉の汗を浮かべてよつん這いでコンテナの隙間にもぐる。
……いまグレネードランチャーを使われたら、お終いだな……。
天井付近の通路がおちた。
その音を、ぼくはどこか遠くの出来事のように感じる――……。
……遠くで女の声が聞こえた。
「くうっ!」
その声と同時に殴られたような衝撃が左肩をはしり、おれは引き金をひいてしまう。
……くそ!銃弾は床にふせたやつの頭をかすめて飛び去り、おれは姿勢を低くして辺りを
うかがう。
左肩に違和感がある……手を肩にやると、そこに根を生やしたものがあった。
ふれると悪寒のような痛みがはしる……。
「……矢か!?」
ひょう、と一矢が頭をかすめ、おれのうしろの壁に突き立つ。
その矢のふるえがおさまる間もなく、天井をふくめて通路がおちた――。
おれはみぞおちの辺りをひやりとさせながら落下する。
……下をみると、そこには白い奇妙な格好をした少女がいる――……。
ミシェールは天井を見上げて紙を投げうつ。
彼女がうでを振り下ろすと天井には穴が開き、通路がおちた。
かるく周りをみまわしながら、ミシェールはぼくに向かって歩みよる。
「これで貸し借りなしですわね……」
彼女はぼくを見おろして言った。
「……やっぱり来たのか……馬鹿だな」
彼女がにこ、と微笑むと頬に可愛らしいえくぼができる。
「ええ……仕事ですもの」
ミシェールは白い中国服に袴をつけた格好で、手には紙袋をさげている。
紙袋のなかには昼間買いあさった本が詰まっている……。
「……勿体ないな」
「仕方ありませんわ……事情が事情ですもの」
動けないぼくを見つめてミシェールは言った。
「では行ってきますわ……ドニーさん」
「ミシェール……やめろ!きみの敵う相手じゃない……」
彼女はにこ、と微笑んでウインクをする。
「『呪いの書』はいただきますわ……それじゃ!」
ミシェールはぼくに背を向けた。
彼女は遠ざかり、どこかで風の音がする。
屋根が飛んでしまったので星空がみえる。
辺りを見わたせば、そこはまさに戦場という有様。
あちこちで火の手があがり、そのゆらめきと共に辺りは明滅を繰りかえす。
ただ足音だけをたよりに、わたしは仄暗い倉庫のなかを奥に向けて進む――。
ごうごうと風の音がして、火の粉が勢いよくぱちぱちと流れる。
……足音が近い。
四つ辻で顔をだして左右をみると、走る男の背中が見えた。
わたしは胸を張り、矢をつがえてきりきりと弓を引く。
そして会(狙うこと)を深く――。
……男はふいに左に折れてみえなくなった。
わたしは舌打ちをして、男のまがったかどに向かって走る。
ちら、と顔をだして通路を覗くと、そこに男はいなかった。
……たしかにここを曲がったはずだ。
ふと気配がしてふり向くと、男はコンテナの上にいた。
……目が合った――。
男は左肩をおさえてわたしを見おろし、小さく舌打ちをする。
わたしはおどろいて左手を振った。
よくしなる紙のやいばがコンテナの側壁を切り裂いて、鋭い嫌な音をたてた。
身体をひるがえし、男はコンテナの向こうに消える――。
心臓が早鐘をうつ……。
……危なかった。
いまので死んでいても、おかしくはなかった。
……コンテナの裏にまわると男はもういない。
しかし妙だ……。
先程から男が一発も撃ってこないのはなぜか?
もう弾がないのか、それともなにか魂胆があるのか……。
数分が過ぎて、辺りを静寂が支配する――。
…………おかしい。
男の気配がきえた。
わたしはきょろきょろと周りをみまわす。
先程までときおり聞こえた足音も、いまはまったく聞こえない。
矢をつがえてわたしは深呼吸する。
――……来た!
……先程、わたしは見ていた。
ロープの先に重しがあるのか、それともなにか仕掛けがあるのか。
あの天井付近の通路に向かって、男はすごい勢いで上っていった。
胸を張り、わたしは満月のように弓を引く。
まだ……。
まだ……。
……いまだ!
私はひょう、と射る。
――……仕留めた!
……通路の手すりに当たって、木製のパレットがすごい音をたてた。
外枠がはずれ、その真んなかに突き立った矢がふるえる。
「……………………」
わたしはおどろいて目を瞠る。
すると、まるであいさつをするような気安さで、わたしの肩にぶつかってきたものがある。
ふり向くと、ピンを抜いた手榴弾が床にころがり、からからと音をたてた。
――しまっ……。
爆発、音と閃光――……。
わたしは盲いて、なにも聞こえなくなった。
地に伏して、わたしは丸くなる――……。
――……いけない!
絶望的な勇気をふるって、わたしは顔をあげる――……。
漂白された視界がゆっくりともどる。
すると、手のとどかない遠くにふたりが見えた。
ミシェールはひざ立ちで、まるで告解をするように顔をあげた。
男はミシェールに手を差しのべ、その手には銃がある。
――耳鳴りのせいで、ぼくは自分の悲鳴が聞こえない。
低いくぐもった音がすると、ミシェールが後ろに弾け飛ぶ――……。
――ミシェエエー―ル!!……貴様あっ!!
……もう手加減はなしだ!!
殺してやる!殺してやる!殺してやるぞ!!
歯をむき出してぼくは叫ぶ――。
男の消えた方に向かってうでをひと振りすると、紙が殺到してそこはなくなってしまう。
辺りに気を配りながら、絶望的な予感を抱いてぼくは彼女のところに向かう。
……本当はそこに行きたくないのに、ぼくは、彼女のところに向かう。
「…………ミシェール……」
あお向けに横たわる彼女の姿を見て、ぼくは身体がつめたい石になったように感じる。
ぼくは跪き、汗ばむ手で震えながら彼女の頭にふれる。
「!?」
…………生きてる?
手首をつかんで脈をとり、ぼくは太い息を吐いた。
間違いない……生きてる。
前髪をたくし上げると、彼女の額には異様なほど大きなコブがある。
……出血は見られないようだ。
これは……これはゴム弾か?
スタングレネード(音響閃光弾)にゴム弾……。
……なるほど、そういうことか……。
うかつだった。
すこし考えれば分かることだった。
こんな化け物はそうそういるものではない。
もっと早く気がついていれば、他にやりようもあったのに。
娼婦についで歴史ある職業に従事するもの。
――……化け物、か!ふん!
まあ、いまからでも遅くはないか……。
ぼくは息を吸い、虚空に向かって叫ぶ。
「ドォレ――ェェエエイク!!」
火の粉を吐きながら、紅蓮の炎は天に沖してもえる。
「ドォレ――ェェイク!!……聞こえるか、ドレイク!」
――聞こえてるんだろう!?どうだ……ひとまず休戦にしないか!!
きみは……『それ』が――『呪いの書』が何なのか知らないだろう!?
受けてくれるなら、『それ』が何なのかを教えてやろう。
どうだ!……聞いてるか?ドレイク!
…………ドォレ――ェェエエイク!!――。
ふと気配がして、思いもしないところからひとりの男が現われた。
いつからそこに居たのか。
まるで、はじめからそこに居て気配を殺して、いま分かるように気配を放ったというふうに、
男はふいに現われた。
「やっと気がついたか……お見限りとはさみしいかぎりだ」
逞しい身体をした男は、犬歯をむきだしてにやりと笑う。
「やあ、久しぶりだな…………ふふ、なんだその格好は」
ゴム長こそ履いていないが、ドレイクはそれこそ釣りか魚河岸にでも行くような格好でブロー
ニングHPを両手保持で構えている。
「ひとのことが言えるのか?どこのサラリーマンだ、おまえ……」
左肩から矢を生やして、ドレイクの顔は苦痛にゆがむ。
それでも彼は獰猛に笑った。
見れば右太股にも深い傷を負っている。
……それで、よくあれだけ動けたものだ。
「大丈夫なのか?……」
いざりのように足を引きずり、ドレイクは歩みよる。
「……おまえがやったんだろうが」
彼は苦笑してつぶやいた。
「それはお互いさまだろう…………しかしきみは受けないと思ったが、言ってみるもんだな」
「ふん、確認したくなったんでな……『大英図書館』の紙使い、『ザ・ペーパー』の名を冠した
伝説の男、ドニー・ナカジマを相手に、おれがどれだけやれたのか確認したくなったのさ……
以前はしてやられたが、どうやらおれも成長したというわけだ……」
セフティをロックして、彼はブローニングを腰のホルスターにをおさめた。
木箱に腰掛けて、ドレイクは真っ青な顔をして歯を喰いしばり、ささった矢を力まかせにひ
き抜いた。
彼の表情は苦痛にゆがみ、ひたいには玉の汗が浮かぶ。
ヤッケを脱ぎ、シャツの袖をナイフでさいて、片手で器用に包帯を巻きながら、彼は足元の
ミシェールをあごで示して言った。
「……そいつは、おまえの敵だろう?」
「……ああ」
「手練だ……だが戦場に出るには早すぎる」
「…………」
足元のミシェールを見つめて、ぼくはドレイクに訊いた。
「……それで、きみたちは何人いたんだ?」
「十一人……おれを含めれば十二人だ」
「そうか……誰かさんが、ひとりでがんばっていたから分からなかったよ…………きみは傭兵
稼業をやめたんじゃなかったのかい?」
「……そのつもりだったが、金が必要になってな……家庭の事情ってやつだ。そこへCIAがや
って来やがって、タフガイを捜してるというんだ……『CIDG(民間不正規防衛集団)』だとさ
……」
「…………それを、きみは受けたのか?」
ぼくは眉をひそめ、まるで科白の棒読みのようにつぶやいた。
「仕方ないんだ……マギーに――娘に会うために、おれには金が要るんだ……それにおれ
にはこれしかできないんでな」
――それより、話しがあるんだろ?……はやくしてくれ。
とにかく聞くだけは聞いてやるさ……。
あとはそれからのことだ――。
包帯をまきおえたドレイクは、左うでの曲げ伸ばしをして顔をしかめた。
「ドレイク、そのことだが……このまま帰るわけにはいかないのかい?」
すると彼は正気か?というふうに、怖い顔をしてぼくをにらんだ。
「……おれの身体でも心配してくれてるのか?余裕だな……ずいぶん自信家じゃないか」
「いや、別にそういうわけじゃない……気に障ったならあやまるよ」
「ならどういう意味だ!確かに手の内はだいぶ知られたが、まだやれる!……ここで引いたら
おれは飯の喰いあげだ。悪いが神かけて、ここは引くわけにはいかないな!」
「それだよ、ドレイク」
「…………なんだと?」
――だから、『神さま』だよ。
ぼくは言う――。
倉庫の屋根は飛んでしまい、見上げれば星空がみえた。
辺りを見わたせば、そこはまさに戦場という有様。
紅蓮の炎は天に沖してもえ、そのゆらめきと共に辺りは明滅を繰りかえす。
『ミスター・ピーナッツ』の砂糖菓子のびんを蹴とばすと、それはからからと音をたてた。
――……これで『それ』が無事なら、僥倖というヤツだな。
「M-79(榴弾発射器)を使ったのはおれじゃない……こっちも吹っとぶところだった」
手のひらをかざして歩くぼくのうしろで、ドレイクが言った。
「……それにしても、なぜきみたちは『呪いの書』の在りかを知らないんだい?」
「ツーロンから船が出港した日に死んだ船荷取扱業者がいただろう……そいつが保険のつ
もりでどこか別の場所に隠したらしい。それを知らずに口封じをしちまったんだとさ……馬鹿
な話しだ……アンクル・サムのやる事ってのは、いつもどこかが抜けていやがる……」
炎がドレイクの顔を照らすと、彼は笑っているように見えた。
倉庫の中ほどには、大型の貨物コンテナが並んでいる。
そのひとつのまえでぼくは立ち止まる。
……間違いない。
スチールの肌にひたひたと触れながら、ぼくはその周りを扉を探してぐるりとまわる。
「……このなかに『それ』があるのか?」
ドレイクはコンテナを見上げて言った。
ぼくは彼を一瞥して、それから手のひらを扉のほうに向ける。
すると、なかから扉を叩く音がした。
不規則に、遠慮がちに『それ』は扉を叩く。
やがてその音は大きくなり、それを聞くと、なんだかぼくたちは気忙しく感じる……。
ドレイクは思わず腰のブローニングを抜いて、なんだこれは?とぼくに訊く。
――これかい!?これはね……ドレイク、きみは知っているだろう!?荒野で、主が試み
に遭われたことを!……。
不規則に、無茶苦茶に扉を叩くその音は、もはや耳を聾せんばかりになり、お互いに怒
鳴らなければ会話をすることも困難だ――。
「……『聖書』の!?」
だから、ドレイクは叫ぶように言った。
「そうだ!」
「……荒野の四十日か!?……」
――ああ、そうだ!
……『悪魔またイエスを最高き山につれゆき、世のもろもろの國と、その榮華とを示して言
ふ、「汝もし平伏して我を拝せば、此等を皆なんぢに與へん」』……。
誰が記したのか……その悪魔の言葉が『それ』に――『呪いの書』に記されているというん
だ!……なにかの方法なのか、それとも呪文なのか……。
……『それ』を手に入れて、合衆国はいったいなにをするつもりなんだろうね?――。
扉はみるみる変形して、そこからいまにも『何か』が飛びだしてくるようだ。
「……もう、止めてくれ!!」
ドレイクは大声でそう言った。
ぼくが手を降ろすと、『それ』は静かになった。
ぱちぱちと、もののもえる音が響くなか、ぼくたちはおし黙る。
でこぼこになったコンテナの扉を見つめて、ドレイクはつぶやく。
「……おまえは、これをどうするつもりなんだ?」
「さあね……じつはどうするか、まだ迷ってるんだ……」
ぼくが正直にそう答えると、ドレイクは肩をゆすって笑う。
「ふふふ、おかしな奴だな。おまえは……」
「ひとのことは言えないさ、ドレイク……外でぼくは見たよ。見張りにつけたうちのスタッフと倉
庫の守衛が『静かに』なっていた……あれじゃ、叫び声もあげられなかっただろう……ずいぶ
ん手際がいいじゃないか」
「…………なにが言いたい?」
「なに、それで『女子供は殺さない』のはどういうわけなのかと思ってね……きみは偽善者な
のか?ドレイク」
炎がドレイクの顔を照らすと、彼は笑っているように見えた。
「……おれは帰る。こう見えて信心深いんでな……たとえ消毒済のサオをもたされても、そ
んなものには触りたくない……」
「そうか、それはよかった……だがいいのか?」
「ひとりでがんばったんだ。すこしは分を呉れるだろう……ふん、嫌ならぶん殴ってやるさ!な
にしろ奴ら、『楽な仕事』だと言ってやがったんだからな……」
ドレイクは奥歯をぎりと噛みしめ、口の端をゆがめて笑った。
いま彼の念頭にあるのは、CIAの担当官だろうか?
……可哀そうに。
その男に、ぼくは同情を禁じえない。
「…………むかし、ある紛争に米軍が介入してな」
「え、なんだって?」
勢いよく火の粉を吐きながら、紅蓮の炎は天に沖してもえる。
ぼくに語るでもなく、ドレイクはおもむろに喋りだす――。
――おれはそこにいたんだよ……国民の支持をなくした政府側について米軍は介入。
合衆国は見返りにレアメタルの採掘権を得る……それでおれたちは、都市ゲリラを相手に
掃討戦だ。
クソ仕事だったよ……。
……村落を包囲して殲滅、あるいはスレッジ・ハンマー(ヘリボーン)で打撃……。
おれは殺した……毎日毎日……女も、子供も、老人も……老若男女容赦なしだ。
……ゲリラ相手の戦争は、敵性地域をマークしての皆殺ししかない……それは分かって
る……だが、それは人間の仕事じゃなかった。
…………おれは、その品性のかけらもないルーティンワークが心底嫌になってな――。
――そして、おれは捕虜になった……。
炎がゆらめいて影をつくると、彼は泣いているように見えた。
「……そいつはすごいな。そのやり方を是非教わりたいものだね」
――そいつ等は正確にはゲリラとは言えない……まあ、頭のいい素人だな。
ガキばかりでな……おれの身柄と引きかえに、国連統治地域への亡命を要求した。
栗毛の若い女がリーダーで……名前をヒルダといった。
美人だが、両足がなかった……義足をして、車椅子に乗っていてな。
……彼女は元陸上選手で、じぶんで言うには、それなりの選手だったらしい。
……努力をして、いい記録を出し、そして国際大会に招聘されたら、そのときに亡命す
る……お笑いぐさだが、それしかチャンスはなかったと言うんだ……。
だが、彼女は足を失った……市議会員の車を狙ったロケット弾が外れて、彼女の教室に
飛びこんで来てな……。
……そうして、彼女の希望はなくなってしまった……――。
話し自体は、よくある話だ。
適度に不幸で、適度に残酷な物語……――。
…………それで、そのお話しはどうなったんだい?――と、ぼくは訊く。
――……ヒルダの学校の廃校舎に、おれは監禁された。
その教室には盗んできた2.5ポンド(約1.1kg)のC4(プラスチック爆薬)が仕掛けてあ
ってな……信管をつけたC4を四隅に仕掛けて、病院でナースコールに使うような押しボタ
ンを、彼女がつねに押しているんだ……。
手を放したら爆発するという……まあ、シンプル・イズ・ベストという奴だな。
……数日が過ぎて、米軍はガキども全員の亡命を受けいれた。
そして具体的な方法について協議していたときに米軍が……仲間がおれを助けに来た。
……ドアの鍵とヒンジがいっぺんに吹っ飛んでな……窓からも兵隊がラペリング(懸垂下降
)で飛びこんできたよ……一斉射で教室にいたガキどもはほとんどが倒れた……あわてて武
器をすてた奴も顔を撃ち抜かれて……おれは『やめろ!』と叫んだ……――。
ドレイクが沈黙すると、辺りは静かになった。
ぱちぱちと、もののもえる音が響くなか、それでどうした?――と、ぼくが言う。
――……ヒルダも数発、弾をくらって倒れた……床は彼女の血溜まりで赤くなった。
縛られた椅子ごと、おれは外につれ出された。
おれは彼女の名前を叫んだ…………ヒルダは笑っていたよ……。
…………どうして彼女は笑ったのか……。
おれが校舎の外につれ出されると教室のC4が爆発した……校舎が半分吹っ飛んだよ。
……そうしておれは救出された。そして原隊に復帰して、めでたしめでたし……とはならな
かったんだ……。
あのとき、ヒルダは笑っていた……おれは命令をうけた……だが、おれは断わった――。
――『もう、クソ仕事はまっぴらだ!』……おれは上官に言ったのさ。
……中指を立ててやったよ――。
口元をゆがめて、ドレイクは笑った。
――……本来なら抗命罪で懲罰のところ、これまでの功績と前後の事情に鑑みてお咎
めなし……そして、おれは除隊になった。
その後は知っての通りさ……おれは傭兵だ……おれは戦争を戦う。
国のために戦う誇りのかわりに、おれは自由を得た……おれたち傭兵は契約によって戦
う……そして、どの契約を取るかはおれたちの自由なんだ……。
……おれたち傭兵は、クソったれの政治家が『撃て』という相手を撃たない……。
『始めろ』と言われて始めず、『やめろ』と言われてもやめない……金に転ばず……理想に
だまされず……ふふ、格好つけすぎかな?……すくなくとも、これからはあのガキどものため
に戦争をしたいと思ったんだ……――。
――…………それなら、なぜ引退したんだい?
――……ザイールでな、十二歳のガキに撃たれたんだ。
そのとき、おれは撃てなかった。引き金が引けなかったんだ……ヒルダの顔が脳裡にうかん
で身体が固まってしまってな……どうしても撃つことができないんだ……。
おれは、そのときに気がついた……今後、もし女子供が銃をもっておれのまえに立つ事が
あれば、そのときおれは死ぬだろう……。
――おれは、もう兵隊としてはかたわなんだ……。
ドレイクは、口元をゆがめて笑った。
ぱちぱちと勢いよく火の粉を吐きながら、紅蓮の炎は天に沖してもえる。
――……きみは、わざと捕まったのか?
ぼくは訊く――。
――彼女たちを……子供たちを助けるために、きみは捕虜になったのか?
炎がドレイクの顔を照らしたので、彼は笑っているように見えた。
そして炎がゆらめいて影をつくると、彼は泣いているように見えた。
彼はなにも言わない。
その彼の顔が、ぼくには恐ろしかった――。
彼はおし黙る……彼はなにも言わない――。
「……これからきみはどうするんだ?」
「帰るさ……違うのか?そうだな……もう一度、この稼業をやってもいいと思っているよ……
久しぶりにあのときの事を思い出したんでな……覚悟ができた……おれは娘と仕事のため
に生きる……子供に撃たれて死ぬのも悪くない。ふふ、そのときは口笛で『スパニッシュ・ハー
レム』でも吹くさ……」
「……マギーといったか?娘さんは可愛いかい」
「ああ、おれの天使だ!……月に一度しか会えないがな」
いっそ晴れやかに、ドレイクは笑った。
「……きみの娘と、子供たちのために……」
彼に向かって、ぼくは十字をきる。
――『紙』が、きみと共にあらんことを……。
するとドレイクは、ぼくをみて照れくさそうに言った。
「……ふん、おまえも元気でな……縁があったらまた会おう……じゃあな!」
彼は片手をあげて、外に向かって歩きだす。
だが彼はふと立ちどまり、ぼくの足元のミシェールを見つめて言った。
「……その娘はおまえのなんなんだ?……そいつが現われてから、おまえの動きはあきらかに
おかしくなった……」
「ああ、この娘か……じつはぼくの大事な知りあいに、よく似ているんだよ……」
――……ふふふ……ふふふふ……はっはっはっはっ……。
ぼくが正直にそう答えると、ドレイクは肩をゆすって笑う。
おかしいので、ぼくも笑った――……。
風が巻いたのかごうごうと音がして、火の粉はうずを巻いて流れる。
もえさかる炎のなかで目を覚ますと、ミシェールには星空がみえた。
――……痛っ!
状況がのみ込めずにからだを起こすと、するどい痛みが額に走る。
そのあまりの痛さに涙をうかべて、彼女はここがどこなのかを思いだす。
彼女には黒い男物の上着が掛けられていて。
その上着に気がついた彼女は辺りを見まわす。
するとミシェールの傍らではドニーが泣いている。
『呪いの書』をひらつかせて読みながら、ドニーは泣く。
なぜドニーが泣いているのかミシェールには分からない。
傷が痛むので泣いているのか。
それとも、『それ』が悲しいから泣いているのか……。
分からないので彼女はドニーに訊いた。
「……なぜ泣いていらっしゃるんですか?」
「ん、ああ……起きたのか、ミシェール……」
メガネのリムに指をくぐらせ、ぼくはあわてて涙をぬぐう。
「ええ……大丈夫ですの?身体中ひどいケガですわ……」
「……モルヒネのおかげで痛みはだいぶマシになったよ。大丈夫とはいえないが……おかげさ
まで命に別状はないようだ。なんとかね……それより、きみは大丈夫なのかい。耳は……聞
こえるのか?」
「……耳鳴りはひどいですけど、なんとか……」
スタングレネードをまともに喰らって。
……そんなハズはないんだが。
ぼくは首をかしげる。
……まあいいか。
「ありがとう……おかげで助かったよ」
ミシェールを見つめて、ぼくは目を細めて笑う。
そんなぼくを見て彼女はふう、とため息をついた。
「……あなたがたを闘わせて、わたしは漁夫の利を占めようと思っていましたのに……なん
でこんな事になったのやら……」
――……それもこれも。
彼女は怖い顔をして、ぼくを罵る。
「あなたがだらしないからですわ!まったく……伝説の男、『ザ・ペーパー』も大したことありま
せんわね!」
「…………酷いな」
彼女の言葉に、ぼくはいたく傷ついて苦笑する。
「……ところであの男は?」
「帰ったよ……」
「帰った?」
「ああ、事情を話したら納得してくれてね。実は古い知り合いなんだよ……」
ミシェールはぼくを見て、疑わしそうに首をかしげる。
「……あの男は、なんですの?」
「ドレイク・アンダーソン、世界でも指折りの傭兵だ……どうだいミシェール、この世界にはあ
んなのがごろごろしているんだよ……怖くなったかい?」
彼女は挑戦的な目つきをして、ふるふると首を振る。
「いいえ、すこしも!……かえって先の楽しみがふえましたわ」
「それは結構……ならば、きみはもう一人前だな……ところで、どうしてここが分かったんだ
い?……狸寝入りでもしていたのかい……ふふ、寝言はよかったな……寝言は、いい手か
もしれないね」
ぼくは目を細めて、笑う。
「またそんな……本当に眠っていましたわ!わたしはそんな計算高い女じゃありませんよう」
「冗談はともかく、なぜここが分かったんだい?ぼくもプロだ……尾行はなかった……たとえ
情報のリークがあったとしても、広い埠頭でこの倉庫を特定するには時間がかかるはずだ…
…なぜだい?ミシェール」
ミシェールはぼくを見て妖しく笑うと、手をあげて星空を指した。
天井は炎によって照らしだされ、そこに開いた陥穽には二、三の星がかがやいた。
目を凝らして、ぼくは星をみる。
……鳥?……いや、鳩か。
――わたしは便宜上、ジョン・ウーと呼んでいます。
ジョン・ウー……ジョン・ウーね、なるほど……。
――なるほど……面白いな。
星空を眺めて、ぼくはつぶやく。
「最後にひとつだけ……狸寝入りじゃないなら、なぜ分かったんだい?」
「……時間ですか?簡単ですわ……あなたがシャワーを浴びたときには、枕元にある時計
はアラームが午前零時に鳴るようにセットしてありました……おフロからあがるとあなたはアラ
ームのスイッチを操作しましたね……あれは、あきらかに無駄な行為でしたので」
「…………参った。きみにはかなわないよ」
――脱帽だ。
ぼくは立ちあがり、おどけてミシェールにお辞儀をする。
「……ならばわたしは、あなたの手にしている『それ』がほしうございますわ」
彼女はそう言って妖しく笑う。
勢いよくぱちぱちと音をたてて、紅蓮の炎は天に沖してもえる。
ぼくはもえさかる炎のなかで、なにも言わずに首を振る。
言葉が途切れたので、ぼくたちは見つめあう。
長い沈黙は会話を終わらせる暗黙の了解だった。
「…………なぜ泣いていらっしゃったんですか?……」
空気が変わったころを見計らって、ミシェールが口を開く。
「いや、恥ずかしいな。ここにね……悲しいことが書いてあるので、つい泣いてしまったんだ
よ……」
「そこには……いったいなにが書いてあるんですか?」
「…………『これ』をもやしてほしいと、頼まれてしまったよ……」
「……誰に?」
「『これ』を書いたひとにさ……『これを読んだかたに、どうかお願いしたい』と……ここにそう書
いてあるんだよ……」
「…………ならば、最初から書かなければいい」
「そうはいかないんだ、ミシェール……知ったことは残さなければならないんだ。たとえそれがな
んであれ、ね」
「馬鹿々々しい!ならば、じぶんでもやせばいいでしょうに!」
――そうだな、ほんとうにそうだ……。
悲しいので、ぼくは笑う。
――だけどね、ミシェール……。
困ったな……。
うまく言えないので、ぼくは笑う。
――誰かがあやまちをおかしたら、それを、なんとかしてあげるのは他の誰かなんだよ。
……どうやら、この世界はそのようにできているらしい――。
ぼくはドレイクから譲りうけたジッポーを取りだす。
――……ドニーさん。本気ですか?
ミシェールは青ざめた顔をしてぼくをにらむ。
にらむことで、彼女はこの場に均衡をつくろうとする。
しかし、均衡はつねにやぶれる。
たとえそれを留めようと努めても、いずれ必ず均衡はやぶれる。
均衡がやぶれるときには多くのものが失われる。
あたらしい秩序が須臾の間に生まれるとしても、失われるものはやはり悲しい。
だが、ぼくはジッポーを擦り『呪いの書』に火をつけた――。
……ぼくには、きっと罰があたるに違いない。
すそをひらつかせて『呪いの書』はめらめらともえる。
『きみ』は悲しいかい?……それとも嬉しいのかな?
手を放すと『それ』はもえながら舞いあがり、やがて静止する。
――『汝、塵にかえれ』。
ぼくが低く呪すると、『それ』は橙色のあかるいひかりとなってきえた。
――……『汝、塵より生れたなればなり』。
ミシェールは青ざめた顔をして、やがて感にたえぬというふうに。
「……まさか本当になさるとは思いませんでしたわ」
勢いよく火の粉を吐きながら、紅蓮の炎は天に沖してもえる。
言葉が途切れたので、ぼくたちは見つめあう。
長い沈黙は会話を終わらせる暗黙の了解だった。
「あなたは……書かないのですか?」
ぼくに向かって、ためらいがちに彼女は訊いた。
「…………なんだって?」
質問の意味が分からずに、ぼくは怪訝な顔をする。
「うまく言えませんわ……あなたは、ようするに『それ』知ってしまいました。『知ったことは残さ
なければならない』……ならばあなたは……」
――あなたは書かないのですか?
「……なるほどね。いや、ぼくには才能がないのでね……それに、ぼくは書いてはいけないん
だよ。ミシェール……」
「…………どうしてですの?」
「いまのような本を、ぼくは数知れず読んだ……知ってはいけない事を、ぼくは知ってしまった
んだよ……だから、ぼくは書いてはいけないんだ」
――ぼくは受けものなんだ。
……容器なんだよ、ミシェール――。
ただ受容するのみで、能動しないもの。
まるで――まるでぼくは女のように受ける。
ぼくたちはずっとそうだった……。
「あなたはそれで……幸せなのですか?」
「……………………」
ぼくは答えない。
ぼくにも、それは分からないのだから。
すると彼女はふん、と鼻をならしてぼくを罵る。
「……お答えにはならないのですね……つまらないひと!……優柔不断で、ひとりで分かっ
たような顔をして……わたしには、あなたがさっぱり分かりませんわ!」
恐ろしい顔をして、ミシェールは言った――。
――……いったい、あなたはなんでこの仕事をしているんですか!?
ミシェールの剣幕にぼくは少しおどろいた。
ぼくにはなぜ彼女が怒るのか分からない。
分からないが、おそらく仕事の邪魔をしたからではないのだろう。
……そのぐらいはぼくにも分かる。
「きみは……分からなくていいんだ」
かろうじてぼくはそう答える。
教えたくないし、分かって欲しくもない。
それは――それは、ぼくだけでたくさんだから。
「……つれないですわね。一夜をともにした仲ですのに……」
「よしてくれ……そんないいものじゃなかったよ」
ぼくが満更でもない複雑な気分でそう言うと、彼女は立ちあがりぼくに向かって歩みよる。
瓦礫のなかをふらつきながら、口元に笑みをうかべて、だがすこしこわばった顔をして……
――。
「わたしの初仕事でしたのに……おかげでしくじってしまいましたわ」
彼女はぼくのまえを通りすぎ、ふり向くと腰をかがめて妖しく笑う。
「そうか……そいつは知らなかったよ。悪かったね……おわびと言ってはなんだが、きみの願
いをなにかひとつ、ぼくが適えてあげよう……どうだい?それで貸し借りなしだ」
――もちろん時は貸せない、この場限りのことだ……。
それで良ければなんでもいいよ。
……どうだい?ミシェール――。
彼女はあきれた顔をして口をぽかんと開ける。
「……よろしいんですか?そんなことをおっしゃって」
「なに、黙っていれば分からないさ。それにぼくの上司は冗談が好きだからね……」
ぼくを見てミシェールはくすりと笑う。
「へんなひとですね、あなたは……ひとのことは言えませんわ……でも、面白いですわね、そ
れ……」
ミシェールは手を組み合わせ、ぼくのまえにひざまずいて顔をあげた。
――『本当に、ほしいものはなんでもと、王様?』
彼女は芝居がかった口調でそう言った。
だから、ぼくも苦笑して答えて言う。
――結構でございます、王女さま。何なりと……。
ぼくは目を細めて笑う。
――もちろんこの場でできる事だけだよ、ミシェール。分かっていると……。
――ならば、『ヨナカーンの首を』。
辺りの火がゆらめいて、彼女の目は黒曜石のようにかがやいた。
おどろいて、ぼくは目を瞠る。
――『私はヨナカーンの首がほしうございます』。
ぼくを見て、ミシェールは妖しく笑う。
「……ドニーさん、あなたはお誓いになりましてよ」
「………………………………」
「冗談ですわ……ですが、『バプテスマのヨハネ』は首をきられましたわ……あなたもお気を
つけあそばせ……」
口調こそ芝居がかっていたが、彼女の目は真剣だった。
だから、ぼくは彼女を見て、目を細めて笑う。
「分かった……気をつけるよ……」
「…………安心しましたわ……」
――痛っ!
ミシェールは顔をしかめて頭のコブに恐る恐る触れた。
「……大丈夫なんですかねえ、これ……なんだか、どんどん大きくなってきましたけど」
さあ……どうだろうね。
悪いけど、ぼくには分からないよ。
そういえば、ぼくは彼女にあげるものがあった。
……いま思い出した。
「…………これをきみにあげるよ。甲斐性なしからの……プレゼントだ」
ぼくはキャリーバッグから一冊のハードカバーをぬき取ると、彼女に向けて放りなげた。
彼女はそれを受けとると空色の表紙を見つめてつぶやく。
「…………『君が僕を知ってる』 菫川ねねね……これは、あのときの」
「そうだ、何度読んでも泣ける。きみも読みたまえ……きっと、気に入るに違いない」
――……これが『呪いの書』の代わりというわけですか?
本を両手で抱えて、ミシェールは悪戯っぽく笑う。
「そうはいきませんわ……これだけではまだ足りませんわ。ドニーさん……さきほどの約束、あ
れはまだ生きているのでしょう?」
「…………まあね……」
『君が僕を知ってる』を胸に、ミシェールはぼくを見て妖しく笑う。
その気持ち悪い笑みを見て、ぼくは悪寒をおぼえた。
もし蛇が笑うなら、きっとこのように笑うに違いない。
メガネのブリッジを、ぼくはくい、と押しあげる。
……なにを考えているのか知らないが。
おそらく碌なことではあるまい。
ぱちぱちと物のはぜる音が辺りにひびき、ぼくは黒煙を吸って咳きこんだ。
「……そろそろ潮時のようだ。やるなら早くしてくれ……」
「そうですわね……大きいほうはともかく、この小さいほうのお返しはしたいですわね……よろ
しいでしょう?ドニーさん……なにしろ、わたし命の恩人ですものね」
ミシェールは右手を握り、拳をつくってにやりと笑う。
ぼくはむしろ、その提案にほっとして。
「痛いのは苦手だが……きみがそう言うならしかたないね……」
「それならここに来てください……目をつむって……それでは手が届きませんわ」
ぼくは目をつむり、彼女のまえに跪く。
「王女さま、これで……」
不意に、やわらかくてあたたかいものが、ぼくのくちびるにふれた。
せつなげに、いきをもらして。
ぼくのくちをやわらかくてあついものがくぐり。
かのじょはぼくをだきしめ、ぼくたちはキスをする――……。
おどろいて目をあけると、彼女はもういない。
――……ドニーさん!……あなた、頭が悪いと言われたことはありませんか!?
それではごきげんよう!……さようなら!!
外には怖いひとたちがたくさんいますわ!……お気をつけあそばせ!!……――。
きょろきょろと辺りを見まわしてぼくは苦笑する。
ぼくは苦笑して、虚空に向かって叫ぶ。
「……良い本だ!!ミシェール!良い本を、読むんだ!!」
ぼくの声はむなしく響く。
もう、彼女は行ってしまった。
「あの餓鬼……舌まで入れていきやがった」
おかしいので、ぼくは声をあげて笑う。
外では彼女の言葉どおり、スピーカーが大音量でなにやら時宜に合わないことを叫んでい
る。
……ああ、うるさいな、聞こえてるよ……すこしボリュームを下げたらどうだい?
どん、どん、という音がして、ガス弾が屋根からのぞく星空に幾条も尾をひいて流れた。
神奈川県警が、どうやらようやく重い腰をあげたらしい。
……やれやれ。
ぼくはため息をつくと、動くほうのうでを振りあげて横にはらう。
すると辺りには、無数の紙がらせんをえがいて舞いあがり、やがて静止する。
――さて、そろそろ幕を引こうか……。
目を細めて、ぼくは不敵に笑う。
――ぼくたちは本を読む。
読むことで、物語は受け継がれ。
……君がぼくを知っている。
少年は本を読む……。
少年と少女は本を読み――。
そして――。
そして青年は、荒野をゆく。
ぼくは、外に向かって、叫ぶ――……。
夜になり、霧が晴れた。
辺りには川のせせらぎの音がきこえ。
見上げれば満天の星。
これほどの星空には、なかなかお目にかかれない。
岩山の頂には焚き火というにはすこし大きすぎる火がもえていて。
その祭壇を背に、ひとりの少女が星を眺める。
手をうしろに組んで、空を仰ぐ少女の年のころは七、八歳といったところか。
ぶかぶかの服を着た銀髪の少女は、まるで人形のように愛らしい。
「……『今私の一番好きな仕事といえば、夜星空を眺めることです。なぜといって、この地
上から、また人生から眼をそらすのに、これほど良い方法があるでしょうか』……お帰り、ミシ
ェールや……案外早かったね。外はどうだったえ?」
少女はミシェールをかえりみて、妖艶に――少女にそんな顔ができるなら――笑う。
祭壇のそばにあらわれたミシェールは、少女に頓首して叩頭する。
「……お久しゅうございます。『太媼』さま……ただいまもどりましてございます」
少女は苦笑して、ひらひらと手を振った。
「いやだねえ……よしとくれよ、そんな呼び方……ああ、なにかもっと良い呼び名はないもの
かねえ……」
「ならば『金母元君』でよろしゅうございましょう……わたしどもも、その方がよほど呼びやすう
ございますわ」
ちら、と顔をあげて、ミシェールはそう言った。
「……事々しい」
祭壇の火に照らされて、ふたりの影は長くのびて揺らめく。
その火に手をかざして暖をとりながら、ほっほっと少女は笑う。
「それで、首尾はどうだえ」
「…………申しわけございません。不首尾でございました」
ミシェールは、いま一度頓首して叩頭する。
「ふむ、此度は『大英図書館』にしてやられたか……まあ、立ちなさいミシェールや。こちらに
おいで……なんだいその顔は……でこぼこじゃないか」
さも可笑しそうに少女は笑う。
「まあ!『太媼』さまったら、わたくし死ぬ思いでしたのに……」
ミシェールが膨れっ面をすると、少女は無邪気に笑いながら。
「おや、すまないね。おうおう……それは『ザ・ペーパー』に――ドニー・ナカジマにやられたの
かい?女子に手をあげる男とは思えないがね……」
「こちらは確かにそうですけど、その大きい方は別口でございますわ…………そうだ!思い
出しましたわ……ホテルの部屋!あれは『太媼』さまでございましょう?」
「…………なんのことだえ」
「やっぱり……もう!あのベッドを見たときに、わたくし、顔から火がでるかと思いましたわ」
「……それで、首尾はどうだえ」
少女が興味津々といったふうに訊くと、ミシェールは真っ赤な顔をして。
「知りませんわ!!このコブはそのときについたんですのよ!」
「おやおや……それでは完敗という訳だね」
「…………それがそうでもありませんの……」
頭のコブをさすりながら、ミシェールはそう言った。
「おや、なにか面目をほどこしたのかい?詳しく聞かせておくれな……」
少女がそう言うと、もえる火のなかでたき木がぱち、と音をたてた。
「ほうほう……もやしてしまったのかい……ドニーが……『呪いの書』をねえ……」
少女はほっほっと笑う。しかし、ミシェールにはなにがそれほど愉快なのか分からない。
「……………………申しわけございません」
「なに、それでいいのさ……わたしもね、おまえが『それ』を持ち帰ったら、それ……その火にく
べようと思っていたんだよ」
――『あの男』は十字架のうえで身罷るときに、『呪いの書』のことは心残りだったかもしれ
ないと思ったからね……。
少女はそう言うと無邪気に笑う。
「…………それは誰のことでございますの?」
「誰って……『聖書』に出てくる『あの男』のことさね。知ってるだろう?……『あの男』も『そ
れ』を残したものかどうか、なやんだに違いないよ。けれどもそれがなんであれ、知ったことは
後世に残さなければならないからね。たとえそれがなんであれ、ね……そこが『呪い』というの
だろうよ……だとするならば、ドニー奴は『あの男』の意を汲んで仕事をしたことになるね…
…」
「………………………………」
「それにしても面白い男だて……おまえの婿にどうかと思ったんだがね……」
「……あんなひと嫌いですわ……なんだかだらしない恰好をして、似合わないメガネを掛け
て……いいえ、似合わないというより、まるでメガネと話しているみたいなんです。それに話す
ことといえば本のことばかりで……まるで……」
――……まるで子供みたい。
口元は自然にほころび、ミシェールは目を細めて笑う。
すると少女はおや、という顔をして。
「……そんな顔で笑えるんだねえ……いや、いいのさ……いつものひねこびたような笑いか
たよりずっといいよ……ふむ、近ごろはさすがに寒くなったね……ミシェールや、あのときのこと
を憶えているかい?……めずらしく香港に雪が降ったじゃないか」
「もちろん忘れませんわ……忘れるはずがありませんわ」
「街頭で虚ろな目をして毛布にくるまっていた女の子が……やせて目ばかり大きくてね……
まちが真っ白になっちまったその日の午後に、青ざめた真剣な顔をして……わたしはははあ
、と思ったものさ」
「…………わたくし、身体を売ろうと思ったんですわ……」
「それを悪いことだとは言わないよ。なにより、まず喰わなければならないからね……だけどお
まえは媚びも売らずに、男衆にいきなりしがみついて……ふふ、みんなさぞびっくりしただろう
よ」
ほっほっと少女がさも可笑しそうに笑うと、ミシェールは怒った顔をして。
「やめてくださいな、もう……結局、お客はとれませんでしたわ」
「そうさ、あの裏通りを仕きっていたちんぴらがやって来て……間が悪かったね。髪をつかんで
おまえを持ち上げると道路に叩きつけて、『誰にことわって商売していやがる』って……はらは
らしながら見ていたが、つい我慢ができなくなってね」
「あのときはびっくりしましたわ……女の子があらわれたと思ったら、もう奴らは倒れていて…
…ふたりとも顔のかたちが変わっていましたわ」
「あいつらはたちがわるくてねえ……ことにあの兄貴分のほうは懐にいつも刃物をしのばせて
いてね。口実を作ってさんざ楽しんだ挙句、それを使って女たちにそれはそれは酷いことをす
るんだよ……『塩賊』や『郷幇』といった連中なら、まんざら知らぬ仲でもない。だがいままち
で大きな顔をしている奴らときた日にゃ、もう駄目さ……口をきく気にもならないよ」
――人間の屑さ。
星を眺めながら、吐きすてるように少女は言った。
「……ミシェールや、何度も言うが……わたしはそれを恩に着せるつもりはないよ。仕事がい
やになったらいつでもここを出ておいき……もっとも……」
――誰かのように、仕事を途中で放りだされたら困るがね。
言葉が途切れたので、ふたりは星をみる。
ミシェールはそれほど星に興味はなかったが、少女とこうしている時間は好きだった。
「…………『太媼』さま」
「なにかえ?」
「…………もとの姿におもどりになる気はございませんか?」
星を眺めながら、ミシェールは少女に訊いた。
「……またその話しかえ」
少女は眉をひそめて言う。
「王炎兄さまや連蓮姉さまたちが心配なさっています」
「言ったであろ、わたしは、この姿が気に入っているのさ……それに、近いうちに『あのジジイ』
とまみえる事があろうよ……そのときには、これで――この姿でのうては遅れをとるからね…
…むろん長くはいけないが」
「……わたしたちがおりますわ!」
「ありがとうよ……そうだね。長くなるようなら、そのときはおまえたちにもお願いするとしようか」
少女が悲しそうに笑うと、もえる火のなかでたき木がぱちぱち、と音をたてた。
「…………星がきれいだねえ……」
星が本当にきれいだったので、ミシェールはこくり、とうなずいた。
「今じゃわたしの話し相手は、お星さまだけになってしまったよ……想像できるかい?ミシェ
ールや……子供や孫たちがじぶんを追いこしていってしまうんだよ……時は過ぎゆくと皆が
いうが、まるでわたしだけがそこにとどまっているようだよ……したが、わたしも死を得る……」
――ようやく死ぬことができそうだよ。
いっそ晴れやかに少女は笑う。
「……『太媼』さまは、世界に必要なひとです」
眉をひそめ、口元をゆがめてミシェールは言う。
すると少女はかぶりを振り、ミシェールをちら、と見る。
――……『天何をか言わんや。四時行われ、百物生ず。天何をか言わんや』。
星空のもとで、少女は詠うようにつぶやいた。
「ふふ、わたしがいなくとも世界はまわるよ……『世界に必要なひと』なぞ、いっそいないがよ
い」
星を眺めながら、にこやかに少女は言った。
「ひとはもう『わたしたち』がいなくても立派にやっていけるよ……子が親を離れたのだから、
親も子を離れなければならない。それが道理さね……ところが、『あのジジイ』にはそれが分
からないのさ……『エホバ神、土の塵(アダマ)を以て人(アダム)を造り、生氣を其鼻にふき
入れ給へり。人即ち生けるものとなりぬ』……」
「……………………」
「『死ぬるべき時節には死ぬがよく候』、だよ。分かるかい?ミシェールや……長いこと、わた
しはそれを分からせようと努力したが……無理なのかもしれないね。わたしたち女は抱くが、
男は背負うものだからね……」
――『あのジジイ』はね、『神』さまになろうとしたんだよ。
じぶんがそんなものではないと、知っているのにね……――。
星を眺めながら、少女は言う。
「星は変わらないよ、ミシェールや。わたしたちはうつろうが、星は変わらない……『神』さまは
ね、あそこにおわすのさ……」
星をみる少女の脳裏にどんな景色があるのか、ミシェールには分からない。
……理解をこえたものは分からないのだ。
「わたしは、もう十分に生きたよ……わたしは十分に、生きた……そりゃ、後悔するようなこ
ともあるにはあるが……まずは満足のいく人生さね。思い残すことはない……」
――『あのジジイ』とのことを除けばね。
少女はそう言って無邪気に笑う。
あどけないその笑みは、まるで人形のように愛らしい。
ふと、なにを思ったのか少女は空を指さして声をあげた。
「ミシェールや、見やれ!」
少女は小熊座のあたりを示して言う。
「あれが中華の星よ!わたしは、もうすぐあそこにもどって生まれかわるのさ……」
「……あれは北極星ですわ」
苦笑してミシェールが困ったように言うと、少女は掲げた手のやり場に困って。
「つまらぬのう、こういうときは調子を合わせるものぞ。ふふ……やれやれ」
「すみません……」
ふたりが沈黙したので、辺りは川のせせらぎの音で満ちる。
空気が変わったころを見計らって、ミシェールが口を開いた。
「…………あのひとと――『ザ・ペーパー』と話していて思いだしたことがあるんです」
ミシェールは空を仰いで、星を見つめながら言う。
「わたしはこの世界が嫌いでした……いまでもあまり好きではありません。だって、地下水道
の汚水ばかり見て育ったんですもの、仕方がありませんわ……だけど……」
――だけど、雪が降ったんです。
空を仰いで、ミシェールは言う。
「……考えられますか?香港に雪ですよ……目が覚めたら景色が変わっていて……きれい
だった……わたしはその雪で凍えそうなのに、不思議と腹が立たなかったんです」
「…………ふむ……」
「ああ……世界はこんなにもきれいなんだって……生きたいな、と思ったんです。もう少しだ
け生きたいな、って……」
「ふむ……ひもじくてまちに立ったわけではないんだね……面白いね。いや、そんなことを言っ
ては失礼だね……ふふ、それは気が付かなかったよ」
――……世界がきれいだから?
少女は訊く。
――ええ、世界がきれいだから……。
それを思いだしたんです――。
ミシェールは答える。
言葉が途切れたので、ふたりは沈黙をする。
長い沈黙は会話を終わらせる暗黙の了解だった。
「…………分からないことがあるんです……」
長い沈黙のあとで、ミシェールが口を開く。
「ドニー・ナカジマは――『ザ・ペーパー』はなぜそんなことをするんでしょうか?……『大切な
ひと』――あのひとは泣いていましたわ……『大切なひと』のことを案じながら、仕事のために
命の危険をおかして……そしてようやく手にした獲物を自ら擲って……それがどうしても分
からないんです」
「やれやれ、ミシェールや……それが分からなければ、世の中は決して分かるまいよ」
少女はうつくしい眉をひそめて言う。
「世の中はみんなそうしたものさ、そうしてこの世はできているんだよ……ならばおまえに訊く
が……」
不意にミシェールをみる少女の目がすさまじい光をやどした。
「危険をかえりみずに家族のため、仕事におもむく男は愚かなのかえ?」
目のくらむような怖ろしい顔をして、少女はミシェールに問う。
「そして朝なにも言わずに、ただ挨拶をして、男を送りだす女は愚かなのかえ?……おまえ
の話を聞いていると、世の中は馬鹿ばかりということになるよ……そんなはずがあろうか!」
少女はいまや威をあらわし。
その声は天地の声となった。
――みんな『誰か』のために生きているのさ。
……この世はそうしてできているんだよ――。
少女は目をつむりにこ、と笑う。
憤怒を、少女がそのように表したのははじめてだった。
その形相があまりに恐ろしかったので、ミシェールの身体は冷たくなった。
ミシェールは震えながら、それでも声を励まして少女に訊いた。
「……仕事というならば『それ』を――『呪いの書』を持ち帰れば良いではないですか。なぜ
燃やさなければならないのか……それが分からないと申しあげているのです」
『大英図書館特殊工作部』――。
そこがどんなところなのか、もうミシェールは知っている。
そこは、少なくとも冗談の通じるところでは、ない。
――……それは『みんな』のためだろうさ。
少女はそう言って無邪気に笑う。
あどけないその笑みは、まるで人形のように愛らしい。
――……おまえは本当に分からないのかい?
――本当のところは。
ドニー奴に訊かなければ分からないよ。
……だが想像することはできる――。
少女はミシェールを見つめて無邪気に笑う。
――本当は、おまえもそう思ったんじゃないのかい?
「……………………わたしには分かりませんわ……」
ミシェールは消え入りそうな声でそう言うと、頭を垂れてうつむいた。
「そうさ、わたしにも本当のところは、分からない……『呪いの書』にしたって、もしかしたらた
だの『日記』なのかもしれないよ……悪魔がどうしたなんて話しではなくてね」
「……………………」
「本当は『あの男』も、『救世主(メシア)』なんかになりたくはなかったかもしれないじゃないか
……わたしが長生きしたくなかったようにね……だから、本当のことを『日記』にしたためただ
けなのかもしれないよ……わたしがそうしたようにね……」
――本当のところは分からないよ。
わたしにもね……。
だが想像することはできる――。
もえる火のなかでたき木がぱちぱち、と音をたてた。
――……今年も蝉が鳴いたよ、ミシェールや。
今年もひと夏、蝉は鳴いた……――。
ミシェールの足元には、地に落ちてうごかぬ蝉がいる。
もう蝉は鳴かない。
あの、さかんなときにはうっとうしい蝉の声が。
いまはひどくなつかしく思われた。
――なぜ蝉は地上に出てくるんだろうね?
わたしは蝉に訊いたことがあるんだよ。
……そしたら、蝉はなにも言わなかったけれど。
わたしには蝉の気持ちが分かったように思えたんだよ。
『だって、世界はこんなに輝いているのに、それを見ない法はないじゃないか!』
……そう胸を張って言うような気がしてね。
だから蝉は。
だから蝉は鳴くんだよ……。
『ぼくはここにいる!ここにいるんだよ!ぼくはここにいるんだよ!』――ってね。
……そうでないと、本当に生きたとは言えないのさ――。
ミシェールの耳の奥には、あのなつかしい蝉の声がある。
足元のうごかぬ蝉が、少女の――『太媼』の寿ぎによって。
誇らしげに、胸を反らすかと思われた。
――ドニーという男……。
まるで『星の王子さま』みたようじゃないか。
……ミシェールや、そうは思わないかい?――。
その言葉を聞いて、不意に悲しくなったのでミシェールの目は潤む。
……悲しい!
いや、嬉しいのか……?
わけの分からぬ感情のかたまりを胸に、ミシェールは泣く。
涙がつう、と頬をつたって。
ぽたりぽたりと足元におちた。
もう蝉は見えない。
ミシェールは泣く。
ドニーさん、ドニーさん……。
わけの分からぬ感情のかたまりを抱いて。
わあわあと。
ミシェールは泣く。
まるで、子供のように。
これを滂沱というのだろう……。
「ミシェールや……悲しいのかい?…………なんだい、嬉しいのかい。ふふ、おかしな娘だ
よ……おや、くさめをしたね?……そろそろ部屋にもどるとしようか……」
――遠い遠い。
むかしむかし。
その少女は『西王母』と呼ばれていた。
それは遠い遠い。
むかしむかしの物語――……。
隅田川の水面はまちの灯りをうつして揺らめき。
台東区蔵前にある、とあるマンションの一室では、少女がひとり夜ふかしをする。
両親は早く寝ろと言うが、少女は聞かない。
ただひたすらに少女は書く。
彼女に白いノートを与えてみたまえ。
推敲によってそのノートはみるみる黒く変じて、我われには読めなくなるだろう。
先日、少女はじぶんの稼ぎで一台のノートパソコンを買った。
これから作家としてやっていくためには、それは必要なものだ。
だが少女はまだそれを使いこなすことができない。
少女はそのノートパソコンを一瞥してむう、と呻吟をもらす。
いまは無様な一本打ちで、手書きのほうがまだ早い、しかし少女は自信家だ。
――見てなさいよ!
ノートパソコンを人差し指でずびし、と指さして少女は宣言する。
――必ずアンタを手足のように使いこなしてみせるからね!
もっとらくに書けばいいと、担当編集者も両親も言うが少女は聞かない。
うまく言えないが、じぶんの書くものは良いものでなければならないのだ。
この脳裏にうかんで溢れてくる言葉をうまく捕まえなければ。
うまく言えないが、じぶんは知ってしまった。
気がつけば『世界』は色づき、『ものごと』は意味をなす。
知ってしまった以上、じぶんは書かなければならない。
書くならば良いものを、そして泣くならば滂沱の涙を!
悲しくて泣くなんてまっぴら!泣くことは心地よいのだ。
その涙を通して、わたしたちは世界が新鮮に、かがやいて見えるのだから。
…………うまく言えないが。
それを口で伝えられないことがもどかしい。
だから、ただひたすらに少女は書く。
ノートが黒くなるまで推敲をくりかえし、少女の手はとまらない。
明け方近くなって、ようやく少女の手がとまる。
……一息入れようかな……。
少女は体を背もたれに預けて、ひとつ伸びをすると立ちあがり、からりと窓をあける。
すると思ったより風が寒かったので、少女は身ぶるいをする。
――……寒い。
やがて冬が来るのだろう。
しかし、少女は自信家だ。
「……だけど、冬のつぎには春が来るのよ……」
東の空には金星がかがやき、やがて朝が来る。
≪おわり≫