―――ガチャ。  
 
そんな、控えめな音と共に薄暗い部屋に一筋の光が漏れる。  
 
此処は長谷川昴の自室である。  
と言うわけで、この部屋の主か、母親ならそんなに静かに扉を開けなくても良いはずなので、自然と今部屋の前で立ち尽くしている人間の候補から二人は外れることになる。  
 
「うぅ……誰も、居ないよね?」  
 
そして、そんな声。  
まだ、未成熟で、幼い。と言った感覚しか残させない、それほどに幼い声。  
 
――――湊智香である。  
 
実のこと、不法侵入しているわけでは無い。……と言うより彼女にそんな真似は出来ないだろう。  
七夕の許可は得ているのだ。……いや、昴の部屋に忍び込むことでは無いが。  
 
今日は木曜。  
本来ならば、練習の無いこの日だったが、何故か智花は気が付いたら長谷川家の前で立ち尽くしていたのだった。  
静かに扉を閉めて、薄暗い部屋の雰囲気に身を浸しながら智花は漠然と思う。  
自分が長谷川昴のことしか考えられなくなったのは何時からだろう?と。  
 
最初は唯のちょっと優しそうなお兄さん。  
そして、その次は慧心学園女子バスケットボール部の恩人兼コーチ。  
……今は、今は何だ?  
 
湊智花にとって、長谷川昴とは、どういう存在なのか?  
 
最近は、学校に居る間でさえ寂しくなってしまう事すら有るのだ。  
と言うより、朝練の後、昴と分かれる事が異常に辛い。  
月、水、金は時間の進みが半端無く遅く感じるし、放課後は本当ならば体育館に全力ダッシュしても良いくらいだ。  
 
有体に言えば、『そんな存在』なのである。  
いや、分かってはいるのだ……、言葉にしたら引き返せなくなるだけで。  
 
―――自分は長谷川昴に恋をしている、と。  
 
そんな思案を続け、何時の間にか思考がブルーに成っていた智花の視界に、あるものが引っかかった。  
それは、恐らくは友人との約束に遅れぬよう全力全開で脱ぎ捨てられた昴のワイシャツだった。  
惹きつけられる様に近づき、其れを手にとって見る。  
今は、言うなれば暑い。と言うわけでシャツには多少なりとも昴の匂いが残留していた。  
 
「誰も……居ない……よね……?」  
 
誰が答える訳でもなく、ぼそりと智花が呟いた。  
そして、其れを服の上から羽織ってみる。  
自分が服を着ているにも拘らず、まだだぶだぶなそのシャツは昴と智花の体格差を秩序に表していた。  
 
「長谷川さん……、おっきいな」  
 
そんな感想を漏らした後、智花は少しビクつきながらもシャツに残っている匂いを思いっきり吸い込んで肺に移す。  
 
「……はあぁ!」  
 
そして、ぎりぎりまで溜めて、吐く。そんな事を繰り返す。……何度も、何度も。  
だが、すぐにそれでは足りなくなってくる。  
そして、その視線は当然『もっと大きな昴さん』へと向かう分けであって……、  
 
「えへへ……!」  
 
……こういう状況になるのは当然と言えた。  
『こういう状況』とは即ち智花が昴のシャツを被ったまま昴のベットに潜り込んでいると言う、傍目から見れば『変○』と言われても文句の言えない状況のことだ。  
 
「昴……さん」  
 
身体が、昴で包み込まれている様な感覚に自然と頬を緩ませる智花。  
既に顔までが毛布の下に隠れてしまっており伺えないものの、相当に緩んでいることは明白だった。  
 
七夕に部屋で待つ許可は取っているものの、流石にベットにシャツを羽織って包まっているこの状況は拙いと智花は思ったのだが、この環境は俄然気持ちよすぎたらしい。  
 
「すぅ……」  
 
そして、数分後には、静かな吐息と共に夢の世界へと旅立ったのも、ある意味では必然と言えた。  
 
 
それから数十分後、七夕からの連絡で智花が家に来ている事を知った昴は全力で家に自転車を向けていた。  
 
 
――――また何かトラブルでも有ったのか……?  
 
 
その思考はコーチらしく智花の所属するバスケ部へと向けられている。  
 
そして、家に辿り着いたときにそれ程体力が落ちていないことに安堵しつつ、部屋にいると聞いた智花の元へと向かう為に、扉を勢い良く開いたその先には……、  
 
「……なんだ?あれ」  
 
部屋の中には誰もおらず、変わりにベットが不気味な膨らみを見せていた。  
 
「……と、智花、か?」  
 
俄かには信じられないといった様子で、しかし確かめない訳にも行かず、昴は一歩一歩ベットへと近づいていく。  
 
「……ぅ……す……」  
 
其れと同時に少しずつ耳に入ってくる何者かの吐息、しかし、昴も伊達にコーチをして来た訳では無い。それだけで分かってしまった。  
 
「……ぉーい、智花?」  
「ふぇ、……ハッ!」  
 
その智花の姿を見た昴は更に意気消沈する。  
……何故自分の教え子が自分のシャツを着て、自分のベットで寝ていたのか?という疑問はそうそう解決できそうに無いことを悟った昴は努めて驚いた顔を見せないように、……それでも引き攣った笑顔を智花に見せた。  
 
「な、何してるのかな……?」  
 
その途端、ビクッっと智花の身体が跳ねる。  
状況を飲み込んだのだろう、目尻に涙が溜まってきている。  
 
「え、えと、昴……さん?」  
「いや別に、怒ってないから理由だけでも教えてくれ……」  
 
と言うか、此処で怒れば自分は人間として最低というラベルを貼られることとなるのはもはや分かりきっていることだ。  
だが、この状況はなかなか鷹揚に見逃せるものでもないのも確かだったのだ。  
 
「いえ、その、……い、一緒に寝ていただきたいな、って思いましてッ!」  
 
……斜め上の解答に、フリーズしたが。  
 
 
「……それで、思わず俺ん家来ちゃったって訳か」  
「はぃ……」  
 
理由は簡単、智花以外のバスケ部全員が何かを智花に隠しているようで不安だったということらしい。  
昴からしてみれば、そんなもの『秘密の特訓!!』的な物なのだということはバレバレだったが、何分小学生に其れを見破れ、と言うのは厳しいかと思い直す。  
 
「でも……、其れでなんで俺と寝ることになるんだ?」  
「うぅ……そ、それは」  
 
……実は、一緒に寝るとは、智花にしても行き当たりばったりな返答だったのだ。  
ただ、少しお話がしたくて、何時の間にか昴の家の前まで来ていて、中に通してもらえたのでシャツ被ってベットに忍び込んで寝ていた。  
……確かに、言えるわけが無い状況でもあるのだが。  
 
「……まあ、いいけどさ、俺もこれからどっか行くわけでもないしな」  
 
それ以上聞けば、また智花が涙するかもしれないという人間として最低な行動を回避するために昴は首を縦に振った。  
……言っておくがやましい気持ちは無い。本当に其れくらいならば良いかと思った結果だ。  
 
「ふぇ!?」  
 
だが、ここで今度は智花が驚いた。  
彼女としては、此処で断られてしょんぼり帰るという近未来がシュミレートされていただけに嬉しさ半分、戸惑い半分、と言った所か。  
 
「どうした……?」  
 
その間にも既に昴は就寝モードに突入。ささっと部屋から出て行ったかと思うと直に寝巻きに着替えて戻ってきた。  
 
「い、いえ!なんでも!!」  
 
が、これは予期せぬ幸福だと智花も納得したらしい。  
昴に続いて昴のベットに入ろうとする……が。  
 
「あ、あの、昴さん、どちらへ?」  
 
智花の予想に反して昴は部屋のソファへとこしを下ろしたのだ。  
 
「ん?……いや、此処で仮眠取るんだけど?」  
 
それに昴は至極当たり前といった様子で告げる。  
自分の体臭が、もしかしたら付いているかもしれないベットを、小学生に貸し出すのは、本人が望んでいるからぎりぎり我慢できる。  
……だが、そこに自分が入っていったら完全に犯罪では無いか、という至極まともな判断からである。  
 
「え、でも……一緒に寝てくださるって!」  
 
『一緒に寝る』とは、同じベットで眠ることでは無いのか?と智花からすれば正論を昴にぶつけてみた。  
 
「い、いや、……それは流石に拙いでしょ?」  
 
だが、昴からしてみればこれは当たり前だ。まだ檻の中に入るわけにはいかない。……はいるつもりは毛頭無いが。  
 
「お、おねがいしますッ!!」  
 
だが、ここでアクシデント。昴から見れば、智花は純情で物分りのいい子供に写っていたのだが、智花は予想外に粘った。……そして、その目には薄っすらと涙が。  
 
「その目はひきょーだって……、絶対」  
「ッ?」  
 
と、言うわけで、此処に昴と智花の添い寝が決定したのであった。  
 
 
「うぅ……」  
 
どうしよう、と智花は切迫した思考を全力回転させながら考える。  
今、自分の視界には昴の顔が映っている。  
其れも、ほんの数十センチの距離に。  
願ったことも無い程の幸運。しかし、其れを素直に受け止める事が出来なくなる出来事が智花にはあった。  
 
其れは、今の現状である。  
昴からしてみれば、智花の不安を取り除いてあげようと思った結果なのだろう、智花を半ば抱くようにして寝ている。  
……確かに、気持ち良くないと言ったら大嘘になる。  
 
だが、少しくらいは意識して欲しいと思うのが智花の本音だった。  
 
(やっぱり、私ってなんとも思われて無いのかな……?)  
 
分かっていた。……いや、分かっていたつもりだった。  
自分はまだ小学生で、昴は高校生。  
そんな感情を抱くほうがおかしいと言うことは。  
仕方が無い。と割り切ったつもりだった。  
年の差は運命だと、自分がもう数年早く生まれていれば、昴とバスケをしたり、  
……その、何だ、恋仲に成ったり出来たかも知れないが、其れは叶わぬ夢なのだと。  
 
「でも……」  
 
思わず声に出してしまう。  
目の前に、昴がいるのだ。……その事実が少しだけ智花を傲慢にさせた。  
 
「ち、ちょっとだけなら……」  
 
そして、何時もの智花からすれば考えられないようなスピードで考えを行動へと移す。  
……即ち、其れは智花は昴にもっと強く抱きついた図に収まったと言うことだ。  
だが、ここで終わりにするつもりは無い。  
ここで逃せば、もうチャンスは巡ってこないかもしれないのだ。  
 
 
そして、智花の顔が少しずつ昴の顔に近づいていき、もう数十センチと言うところで……、  
 
 
―――――昴の携帯が鳴り始めた。  
 
 
「ひぅっ!?」  
 
途端にビクつき、身体を仰け反らせる智花。  
彼女からしてみれば、生まれて初めてといっていい程の背徳感を味わっていたのだから致し方ない事かも知れないが、……なに、その、オーバーリアクションだった気がしないことも無い。  
 
だが、数瞬で典型的な電子音は鳴り止み、部屋に静粛な雰囲気が戻る。  
鳴り止んだのだから、自分には関係無い。  
そう智花は割り切ろうとしたが、自分の一世一代といって良いほどの行動を阻害された智花は少しだけ、  
……何時もよりほんの少しだけ、テンションが高くなっていた。  
 
「開けちゃえ、……えいっ!!」  
 
昴の携帯をパカッという軽い音と共に開け放つ智花。  
そして、そのスクリーンには、メール未開封の文字が。  
 
「……メールだったんだ」  
 
この数瞬の間にも、智花は多少なりとも冷静さと背徳感を取り戻しており、そのメールをすぐさま開封するようなことは無かった。  
だが、せっかく開いた想い人のパンドラの箱。  
軽い調子で着信履歴を覗く智花。  
 
「……葵さんばっかり」  
 
第一感想は其れだった。  
いや、一成や他の面々との履歴も有ることには有るのだが、智花は其れが誰かを知らない。  
 
と言うことで、必然的に智花の視線は知っている葵へと集中する訳なのだが……、  
 
 
―――多い。  
 
 
いくら幼馴染にしてもこの回数は多すぎる、と智花は思った。  
事実からいえば、少し仲の良い友人なら何らおかしくない回数だったのだが、  
智花には、其れはあまりに多すぎるように映った。  
そんな事実に突き動かされて、次々に携帯を無許可で観覧していく智花。  
 
 
――――まず、電話帳と、アドレス帳。……昴にとって、葵は腐れ縁とも言える仲なので、一番上にある。  
 
――――次に、ネットの観覧経歴。……バスケ好きが集っているサイトのログイン画面や、大手ショッピングサイトのバスケ関連の商品紹介が映る。  
 
――――次に……、  
 
 
そして、何時の間にか躊躇いを無くした智花がアプリ画面を観閲しようとした時だった。  
 
「ん……?」  
「ひゃいぃ!?」  
 
昴が、声を上げる。  
途端に戻ってくる背徳感。  
すぐさま携帯を閉じて、昴の様子を見やる。  
 
「すぅ……」  
 
だが、唯の寝息だった様子で、少し動き、また幸せそうに吐息を立てる昴。  
……ここだけ見れば、幼女を抱いて幸せそうに眠っている、真性のロリ、いや、止めておこう。  
 
 
 

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