三沢邸での練習を終えた俺達は、久井菜さんの勧めで風呂を借りることとなった。
……というわけで通されたのはいいが、三沢家の風呂はでかい。とにかくでかい。温泉浴場並みの広さ、というわけでもないが、それでもうちの風呂と比べるとちょっと尋常じゃないでかさだ。
女バス全員と一緒に入っても余りあるだろう。いや、そんな事態は許されるべきではないが……。
しかし、これだけ広いと、一人では少し寂しくなるな……。
風呂……いや、浴場の扉を開けた正面には巨大な浴槽が。左手に洗い場が五つほどあって、右手にはジェットバスがある。ジェットバスも、三人ぐらいは悠々と同時に入れそうだ。
さすがは資産家なだけはあると思う。よくよく見ると、湯気の向こうには細やかな彫刻が彫られていたりだとか、かなり手が込んでいる。
いったい、どれだけお金がかかっているのだろうか。
「っと、ここでボーっとしてても仕方ないな」
足を踏み入れて、俺は洗い場へと向かう。お湯で体を流してから、シャワーを浴びた。
……うむ、熱い。火照った体に、肌を叩くお湯が気持ちいい。練習後の風呂は、やはり一味違うというものだ。
夏場とはいえ、汗を掻いたままでは風を引きかねない。あとで久井菜さんには、改めてお礼を言おう。
そう思いながら、シャワーを浴び終えた俺は、湯船に浸かる。
その時、扉の向こうに人気があるということに気づいた。
「や、やっぱりやめようよぅ、智花ちゃん……」
「こ、ここまで来たら引き下がれないじゃない……」
「おー、ひなもお兄ちゃんとお風呂入る」
この声は、智花に愛莉……そしてひなたちゃんか。
真帆なら分かる、ひなたちゃんも分かる……だけどなぜ、よりによって慧心女バスの良心二人が……。しかし、あまり男の裸に縁がないだろう女子小学生に、こんな姿を見てトラウマを作らせるのは忍びない。かくなる上は――
――お湯の中に、俺は身を沈めた。
と同時に、浴場の引き戸が大きく開かれる。
「す、昴さんっ! お背中流させて下さい!」
大音量ですね、智花さん。さすがはエース、腹筋もよく鍛えられているご様子で。
しかし、角度的に俺の姿は見えないはずだ、そうに違いない。それに、小学生と風呂に入ったなどとミホ姉や葵に知られたら、記憶喪失ぐらいで済むかどうか……。
それに、小学生離れした愛莉と風呂に入るのはもっとヤバい、何というか色々と背徳的な気分になってしまう。
どうしたらいい、どうすればこの状況から切り抜けることが出来るっ!?
「あ、あれ、長谷川さんいらっしゃらないよ?」
「あ、本当だ……どこだろう」
どうやら、智花と愛莉は首を傾げている様子だ。一安心出来るかと思いきや、しかしひなたちゃんはそう甘くなかった。
「おー、お兄ちゃん、もぐってる」
……ああ、何となく分かってたさ。ひなたちゃんの影が降ってきた時から、何となく分かってたさ。
しっかりを目を瞑る。瞑ってから、俺は湯船から頭を上げた。
「ふ、二人とも! 早く出ていくんだ!」
「ふえぇぇ、昴さん!? ど、どうしてですか?」
「どうしてもこうしてもない! 早く出ていってくれ!」
叫ぶ俺の心情を汲み取ってくれたのか、誰かが動く気配がした。ひなたちゃんの影が動き、遠のいていく。
「おー、愛莉、お兄ちゃんと入らないの?」
そう言っているのが聞こえる。扉が閉まる音がして、慌しい足音も消えた。そろそろいいかなと思い、俺は目を開く。
「…………………………………………え?」
「…………………………………………あっ」
智花の足が目の前にあった。
少し状況を整理しよう。
まずは時間。今は夕方で、台所にはおそらく三沢家のメイドさんが食事を用意してくれているだろう。以前にも頂いたことがあるのだが、羊肉のソテーだとかトリュフのなんたらかんたらという高級すぎる味に、庶民の俺は慄いて味わうどころではなかったような。
みんなが普通に食べているところを見ると、やはりお嬢様だということを再認識した気がする。
場所は三沢家の浴槽。大きいお風呂場で、正直ちょっと引け目を感じなくもない。だが、練習後の汗を流せるのはとてもありがたいものだ。それがたとえ、教え子と二人きりの状況だとしても、だ。
――ピト。
柔らかい肌が背中に触れるのを感じる。
今、俺は智花と背中合わせの状態で湯船に浸かっている。ちょっと現実逃避をしたくなるぐらいには理性を揺さぶってくる、女の子のいい匂いがすぐ近くでする。男の子には毒なのではないのだろうか。それも、年頃の男子高校生には。
「あの……昴、さん……?」
「ん、なんだい智花」
「そ、その……いきなり来てしまって、申し訳ございません……」
智花の声の調子で分かる。おそらく、シュンとして肩を落としているのだろうな。背後の気配で、何となく想像が出来る。
俺としては、動揺はあるけど、怒ってはいない。しかし、落ち込んでいる彼女を少しからかってやろうといういたずら心が、俺の中で首をもたげた。
「そうだな、いきなり入ってくるのはちょっと面白くないぞ」
「すみません……」
「口だけの謝罪だと、あんまり誠意が感じられないな」
声に怒気をほんの少し加える。智花が怯えないように、しかし確実に罪悪感を刺激するような。
……俺の演技力が、こういう時ばかり器用なのはなぜだろうか。
背中に感じる感触が暗さを増した。
いかん、ちょっと苛めすぎたらしい。これ以上落ち込まれたら、俺が感じる罪悪感も凄くなりそうだ。
「智花、冗談だよ。別に怒ってなんか――」
急に抱きつかれた。
「と、智……花?」
「か、体で! 体で昴さんに謝りますぅ!」
…………智花さんパネェっす。
いったい今日の智花はどうしたっていうんだ。
俺の動揺ゲージが振り切れる。色々と反応ができなかった。
が、この状態はちょっとまずい。体で謝罪っていったら……ほら、あれしかないじゃん……。
い、一応確認だ。体で謝罪って言葉の意味を知っているのか、一応確認だ。
「智花……体で、し、謝罪って、意味分かって言ってんのか?」
「もちろんです! 昴さんに、私が奉仕する、ということですよね」
オー、分かっていらっしゃる。
「遠慮しないでください、私に非があるのですから、昴さんに奉仕の一つや二つすることは当然です。そ、それに……毎日1on1の練習もして下さってますし……日頃のお、お礼ぐらいさせて下さいませんと私が落ち着きません!」
「いやいやいやいや! 別にいいから、日頃のお礼は別にいいからっ。ってか、俺こそ智花のおかげでまたバスケが出来るようになったんだから、こっちこそお礼をしたいぐらいだよ!」
あと、ちょっと柔らかめな胸板に色々反応しそうです助けてください。
俺の体に回された智花の腕は、細くて柔らかいくせに力強く、女の子であると共にアスリートなのだなあ、としみじみと思わせる。俺が惚れ込んだジャンプシュートをこの腕が生み出しているかと思うと、このシチュエーションではなぜだか背徳感が湧き上がる。
健康的に日焼けした腕が眩しい。脇の下を通って回された腕が、お風呂場ということもあってか、妙に艶かしく感じられた。
綺麗、だ。素直に、そう感じた。
流されても、いいかもしれない。流されたいのかもしれない。蕩けそうになっている脳の隅で、そう思った。
「昴、さん……?」
「智花、遠慮しなくて、いいんだな?」
「え……は、はいっ。私、頑張ってお背中流しますっ!」
自分を凄く、惨めに感じた瞬間だった。
背中を擦るスポンジの感触を感じながら、たまにはこうやって人と入る風呂もいいものだなと思った。一生懸命背中を流してくれる智花を、素直に可愛いと思う。
さっき智花に、一瞬でも抱いた感情は幻なのだろう。愛莉はともかく、小学生に色気などあるはずがないのだから。
俺を信頼してくれている智花や、女バス部員には、精一杯コーチとして恩返しをしていこう。俺は胸の中で、自分自身に誓いを立てるのだった――。