智花が俺に話しがあると言ってきたのは、その日の練習も終わり解散した後のことだ。葵達は先に上がったのだが、俺はミホ姉に活動状況を報告するよう義務付けられているため、後に残ったのだ。  
 その時、ミホ姉に報告を終えた俺を、智花一人だけが残って待っていたらしい。  
 校門で佇んでいる智花に声をかけると、話があると切り出してきたのだ。  
「話ってなんだい、智花」  
「その……お、お願い申し上げたいことがあるのですがっ」  
 両手を胸の前で握って、上目遣いに智花が俺を見上げてくる。その強大な破壊力に、俺は思わず見惚れる。  
 そして、赤面しながら俯き、もごもごと口の中でなにごとかを呟く智花だが、断片的にしか聞こえてこない。よほど恥ずかしいお願いなのだろうか。しかし、そんなことを智花がお願いするとは考えにくいし……。  
「あ、あのっ」  
 智花が勢いよく顔を上げて、真っ直ぐに俺の目を見てきた。緊張で、表情が少し、引きつっているようにも見える。  
「ど、どうした、智花?」  
「……その、す、昴さんの――――――さぃ…………」  
「――へ?」  
 よく聞こえなかった。特に最後のほうが。  
「俺の……なに?」  
「――――昴さんのお家に明日泊まらせていただいてもよろしいでしょうかっ――!?」  
 智花が顔を真っ赤にしながらそう叫んだ。  
 いや、別にそんなに顔を赤くする必要はないと思うけども……。  
 俺としては、別に智花が家に泊まることぐらい、別に構わない。まあ、倫理上ミホ姉も一緒にという条件付きではあるが。  
 以前にひなたちゃんが泊まったこともあるんだし、お安い御用なお願いだ。  
 俺はそのお願いを快諾してもよかった。しかし、その前に一つ懸念するべき点がある。  
「ご両親には了承してもらってるのか?」  
「父も母も、昴さんのお家なら泊まってもよいと仰っています」  
 そういうことなら問題ない。俺は頷き、踵を返す。  
「あ、あの……昴さん、どこに行かれるのでしょうか?」  
「ああ、さすがに智花一人ってわけにもいかないだろう。ミホ姉に話してくるよ。一緒に泊まることになると思う」  
「へ? え、あの……」  
 智花が言いにくそうに口を開く。  
「その、美星先生には内緒で泊まることはできないでしょうか?」  
 そう言って智花は頬を赤らめる。  
 ミホ姉に内緒か……あとが怖いけど、なにか事情があるのだろうな。  
 俺が聞いてもいいものかどうかは定かでないが、確認はしておいたほうがいいだろう。俺はそう結論を下し、智花に訊ねた。  
「なにか、言わないほうがいい事情があるのか?」  
「ふええぇ? あ、あのっ。美星先生にわざわざご迷惑お掛けするのは本意ではないといいますか、あの、じゃ…………とかじゃなくてですね。えっと、その――」  
 逡巡するように黙り込み、確かめるように言葉を継いだ。  
「――その、怖いんです。私、平気な振りして、みんなでバスケがしたいと言いましたけど――怖いんです、次の試合が。明後日がっ。  
 一人で寝るのも怖くて、怖くて…………眠れない夜は、その、昴さんのことや………………みんなのことを考えて、いつも寝てるのですが、明日はどうしても眠れそうになくて――。  
 だから、お願いです。明日、私と一緒に寝てください。ご迷惑なのは分かっています――――でもっ、私が寝不足で動けなかったりしたら、みんなにも迷惑をかけるので、その……」  
 なるほど。つまり、智花はミホ姉が一緒だと俺と一緒に寝ることを許してもらえないと分かっているのだろう。  
 そして、智花は俺と一緒に寝ることで、ぐっすり眠れると思っているのだろう。むず痒くて恥ずかしい話だが、素直に嬉しくも感じる。  
 智花の中で、俺という存在がそれだけ大きな価値を占めていると思うと、素直にもっと成長しなければならないと思える。人間的な器が、コーチを始める前よりも少しは大きくなってくれていると信じたいし、これからどんどん大きくしていきたい。  
 そして、なによりも友達思いな智花の健気さに胸を打たれた俺は、首を縦に振って歩き出す。  
「おいで、智花」  
「あ、あの……」  
「ミホ姉には言わないから。さて、一緒に帰ろうか」  
 自転車置き場からマイ自転車を持ち出して、荷台を軽く叩いた。  
「後ろ、乗って」  
「は、はいっ」  
 智花が乗ったのを確認すると、俺は力強くべダルを踏んだ。  
 半年ほど前にもこんなことをやったなあと思うと、感慨深いものがある。  
 
 智花を駅まで送り届けた俺は、その足で行きつけのスポーツ洋品店へと向かう。三階建てのその店は、以前智花とシューズを見に来た場所でもある。  
 店内へ入り、陳列された商品を物色して回る。レジの奥には野球用品があり、バットやグローブ、軟式ボールといったものが所狭しと置かれている。もちろん、バスケットボールのコーナーもあり、そこには大小さまざまなサイズのボールが置いてあった。  
 練習に使えそうなものがないか、近頃はよくここを訪れるようになった。メニューを組み立てる参考にもなるし、来年度からのバスケ部再建の際、どういった方向性で練習に取り組むかを考えるのにここはちょうどよくもある。ちょっとした憩いの場だ。  
 出入り口のそばには、練習指南といった類の本が置かれた本棚もある。――俯瞰力の鍛え方、バランスのいい体を作る、などといったタイトルのものから、少しマニアックなものまで取り揃えられている。あとで少しだけ、立ち読みさせてもらおう。  
 その本棚の前に、見慣れた背中を見つけた。ボブカットに花柄の髪飾り――真剣な表情で『バスケ戦略――これが勝利のフォーメーション――』を読んでいる。  
 俺にも記憶があるタイトルだ。確か、ミニバスから社会人バスケまで、あらゆる情報や戦略を網羅してあったと思う。  
 気配を感じ取ったのか、その背中――紫ちゃん――がこっちに振り向く。  
「――とうとうウチを浚いに来ましたか、レイパーさん」  
「違います」  
 俺はそう言って、紫ちゃんの隣に立って棚を眺める。  
「『一回戦敗退常連の弱小校だった桐原中バスケ部を三年で県準優勝までのし上げた長谷川昴という選手。その才覚は、シュート決定率もさることながら、類い稀なるゲームメイク能力によるところが大きい。  
 彼が司令塔として試合を支配していたからこそ、他に抜きん出たタレントもいない桐原が、文字通り破竹の快進撃を成し遂げられたのだ』」  
「うおっ!?」  
「結婚してください」  
 すいません、仰ってる意味が分からないです。  
「無理です」  
「新居紫は哀しんだ」  
「太宰治っぽく言わないで」  
 この子と話していると、随分疲れるなあ……。  
「今日は戦術の参考書でも見に来たの?」  
「そんなところです」  
 紫ちゃんはそう言うと、読んでいた本を棚に戻した。  
「でも、長谷川さんに会っちゃったから、今日はもうやめます」  
「邪魔して、悪いね」  
「いえ、邪魔だなんて一言も言ってないじゃないですか。長谷川さんに会っちゃったから、運命的なビビビッを感じてデートしちゃおうかなって話ですよ」  
 だからしないってさっきから何度も言ってるじゃないか。  
 そんな俺の胸中を知ってか知らずか、妖艶に微笑みながら俺に向き直る。小さいくせに、なかなか胸が……って俺はどこを見てるんだ! 小学生に対してやましい気持ちなんか抱かないんだからな!  
「明後日ウチらが勝ったら、長谷川さんとデートしたいな〜」  
「小学生のうちから節操を持たないと、駄目な大人になるぞ」  
「ウチは長谷川昴のことを個人的に先生と呼んでいる」  
 だから夏目漱石みたいに言わないで!  
「まあ、県大会の決勝で惚れ込んじゃったから仕方ないでしょ。ウチは長谷川さんに一目惚れしたんですよ、なかなか貴重で乙女ティクルな体験で万歳でした」  
「あの試合、見てくれてたのか……」  
 優勝を目前に、手が届かなかった試合。  
 俺が――俺達が、敗北した試合。  
 どんなにゲームを作ろうとしても、力及ばず散って逝った試合。  
 今でも時々、夢に見る。最後のホイッスルが鳴るその瞬間、あの一本が入っていればという夢を――そして、それはネットに絡む直前で、いつも覚めるんだ。  
「最高にカッコよかったです、長谷川さんは」  
「…………けど負けた」  
「ゲームを支配してるのは長谷川さんでした。他のメンバーがちょっと地力で足りてなかったようにウチは思ったけども」  
 ま、そんなことは置いといて――と紫ちゃんが前置きして、  
「智花には負けませんから。ってか、明後日勝ちますよ、ウチら。弱くてもゲームメイクが出来ること、長谷川さんは知ってるよね」  
 不敵に彼女が微笑むものだから、俺の背筋に怖気が走る。  
 紫ちゃんが去った後も、俺はそこに立ち尽くすのだった。  
 
 

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