昨日の予報では、朝方の降水確率は低かったのだが、起きた時にはアスファルトを叩く雨音が聞こえた。天気予報など当てにならないというものだ。  
 そんな雨の中、俺はいつもの朝練メニューをこなしていく。今日の雨では、おそらく智花が来ることはないだろうし、風邪でも引かれたら俺としても困るので今日のところは二人で練習というのもお休みかな。  
 その分、いつもよりシュート練習の時間を多く取ろう。俺は走りながら、そう思った。  
 練習を終えて、汗と雨で濡れた体をシャワーで洗い流すために、俺は風呂場へと入る。その時、家のチャイムが鳴った。どうせみほ姉辺りだろうと俺は当たりをつけて、そのままシャワーを浴び続ける。  
 シュート練習を余分にしたせいか、いつもより少しだけ腕に疲労を感じたが、気にするほどじゃない。存分にシャワーを浴びて、俺は風呂を出る。  
 
 ――智花がいた。  
 それも、下はショートパンツ、上は真っ裸という出で立ちの。  
 
「ふ、ふええぇぇっ!?」  
 顔を真っ赤にして悲鳴を上げる智花。そりゃ、まあ、当然だろう。いきなり男に裸を見られるなんて、多感な時期の女子小学生にとっては羞恥と憤りぐらいしか感じないだろう。憤怒の形相で詰り、罵り、罪深い男を変態呼ばわりしても許されるはずだ。  
 ――って、ええええぇぇぇぇ!?  
「ち、違う、違うぞ智花! これはだな、俺はただシャワーを浴びていただけで……!」  
「あ、あれ、昴さん!? お部屋にいらっしゃると伺ったのですが……あっ」  
 智花の視線が、俺の体の中心より少し下――すなわちデッドゾーンに向けられ――。  
「し、小学生におっきくするのはどうかと思いますっ!」  
 珍しく口を尖らせながら、批判する口調でそう言い放った。  
「ご、ごめんっ」  
 あまりにも智花の体が綺麗だったから、思わず反応してしまったなどと言ったら、それこそ本当に嫌われかねないのではなかろうか。もっとも、すぐに目を逸らさなかった俺が悪いのだから、嫌われても仕方が無いというものだ。  
 俺は深く反省すると同時に、風呂場で智花に平謝りするのだった。  
 
―交換日記(SNS)01― ◆LOG DATE 9/17◆  
 
『なーもっかん! きょうすばるんとへんな空気だったけどどうしたんだー?  
まほまほ』  
 
『ええっ? な、なんでも、ないよ?  
湊智花』  
 
『確かに、今日はちょっと変な空気だった気がするけど? もしかして、長谷川さんと何かあった? …………あ、お風呂場覗かれたとか。  
紗季』  
 
『おー、ひなもおにーちゃんとお風呂、はいる。  
ひなた』  
 
『だ、駄目だよう、ひなたちゃん……。  
あいり』  
 
『す、昴さんとお風呂一緒に入ってもいないし覗かれてもいません! それに、下心があっ……な、なんでもないっ!  
湊智花』  
 
『もっかんがのぞいたのか! やるなー、さすがもっかん!  
まほまほ』  
 
『――――――そ、そんなんじゃありません!  
湊智花』  
 
 九月二十日、つまり月曜日。俺は初めて女バスのコーチを休んだ。  
 俺の都合でコーチに行けない時のメニューは、智花と紗季に渡してあるから心配はない。あの二人なら、しっかりと全員をまとめてくれることだろう。もっとも、みんな練習熱心だから、懸念することなど何もないのだが。  
 先日の智花との遭遇事件を引き摺っている――なんて理由で、コーチを休んだわけではない。後背の妹もバスケを始めたと聞いたので、何とか試合を組めないか、その妹さんの小学校までわざわざこれから出向くのだ。  
 区立雅小学校――男子も女子も、地区大会ではかなりの好成績を残している、らしい。俺の家から、電車で片道三十分ほど。俺の通っていた学区とは別にある、バスケの強豪高だ。  
 学校近くに総合体育館があるらしく、スポーツをする環境や条件がかなりいい。ウェイトトレーニングの用具も一式揃っているとは、羨ましい限りだ。  
 学校自体はそう大きくはないらしいが、父母会で資金を出し合って体育館を毎週借りているらしい。他のスポーツよりも、バスケ部が突出しているのは、こういった理由からだろう。  
 そして、俺は今、雅小学校の正面玄関入り口前に立っている。  
 昔通っていた小学校と大差ないその佇まいに、なんとなく胸を撫で下ろす。慧心みたいな凄い門構えだったらどうしようかと思っていたが、どうやら杞憂に終わったらしい。  
 とはいえ、アポイントを取っていたとしても、高校生の俺が小学校に入るのはどうあったとしても勇気がいる。二の足を踏んでいる俺の横を、小学生達が次々に通り過ぎて行く。  
 いっそ、このまま帰ってしまおうか、とも考えたが、慧心女バスのためを思うとそういうわけにもいかない。なにより、次の試合が決まった時のみんなの喜びようが目に映るから、ここで退いては罪悪感を胸に抱えることになってしまう。  
 出せ、出すんだ勇気、長谷川昴――気合を入れる俺に、一人の女の子が近づいてきた。  
「おじさん、ロリコン?」  
 首を傾げてそう聞いてくる少女。うむ、可愛い――じゃなくて!  
「いや、ちょっとこの学校に用事があるんだ。よかったら、君が職員室まで案内してくれたら嬉しいんだけど、いいかな?」  
「ロリコン?」  
 どうしてもそこが気になるらしい。俺は仕方ないとため息をついて、はっきりと否定した。  
「違います」  
「じゃあ、ショタコン?」  
「もっと違う」  
「レイパー?」  
「わけが分からん」  
「慧心女バスのコーチ?」  
「何で知ってんの!?」  
 思わず、声が裏返ってしまった。  
「だって、ウチは雅女バスのキャップだし。コーチに呼ばってこいって命令されたから、あんあん言いながら犬になってるの」  
「あんあんもワンワンも言わんでよろしいです」  
 まあ、なにはともあれ助かった。  
「じゃあ、案内してもらえるかな?」  
「めんどっちーから、コーチのところまで直行していいよね?」  
「別に俺は構わないぞ」  
「そこは、ワンって言わないと」  
「なんでだよ……」  
 面倒くさい子だなあと思いながらも、俺は学校近くの総合体育館へとその女の子に連れられて行くのだった。  
 
「この度は、突然練習試合を申し込んですいません」  
 頭を下げる俺に、雅女バスのコーチ――舘石さんは鷹揚に笑ってみせた。恰幅のいい白いひげを蓄えた男性で、優しそうな雰囲気は某バスケ漫画のコーチにそっくりだ。  
 体育館では、総勢十二人の女の子が、今はドリブルからのパス練習をしている。掛け声と足音で、それなりに騒がしい。舘石さんの話によると、六年生が四人、五年生が二人、四年生が六人ということで、一番多いのは四年生のようだ。後輩――大橋賢治――の妹の姿も見える。  
 三年生以下は、特定の部活に所属できないというのが、雅小学校のルールらしい。  
「練習試合の話、僕達は大歓迎ですよ。バスケを楽しむというのは、小学生スポーツの理念に則っているではありませんか」  
「しかし、秋の大会も来月に迫っている中、ご迷惑お掛けしていないかと気が気では……」  
「そう、畏まらないでくださいな。練習試合と聞いて、みんなも楽しみにしているんですよ」  
 そう言って、舘石さんは練習に目を戻す。俺も自然と、その光景を眺めていた。  
 統率が取れている。全体的にフォームのバランスも良く、特にキャプテンの子――新居紫ちゃんが、飛びぬけて優れた選手だ。智花のようなジャンプシュートを持っているわけでもなく、未有ちゃんのような瞬発力があるわけでもない。  
 だが、戦略眼・戦術眼は二人よりも飛びぬけているのではないだろうか。  
 紫ちゃんを中心に、よくまとまっているチームだ。慧心のようなチームワークというよりも、軍隊染みたものがある。  
 思わずゾクリとした。俺と同じ匂いを感じたのだ。下級生に指導する姿、指示を飛ばすその様子が、慧心で初めて指導をした時と似通っていたからだ。紫ちゃんを含め、突出した選手がいない中、地区大会で上位まで食い込んだだけのことはある。  
 慧心に足りないのは、頭脳だ。細かい指示まで俺が出せるわけでもなく、紗季はまだ経験が浅い。智花なら並以上の状況判断は出来るが、基本的にフォワードタイプの彼女にはポイントガードの仕事は不得手だろう。  
 勝てない――本能的に、そう思った。  
「紫ちゃん、凄いですね」  
「分かります? 去年、中学生の大会を見た時から、ずっとああなんですよ。いきなり、ポイントガードになると言って……。それまでは平均的な選手だったんですけどね、元々頭の出来がよかったのか、すぐにうちの頭脳になっちゃって」  
「そんな凄い選手がいたんですか……」  
 そう呟くと、舘石さんは俺を見て、ニンマリと笑った。  
「ま、自分では気づいてはないのでしょうが」  
「へ?」  
「いや、なんでもないですよ。……しかし、あの子はどうしているのかな……素晴らしい逸材だったんですが」  
 ふと、思い出したように、舘石さんはこう漏らした。  
「湊智花がいれば、最強のチームになったんですがねえ」  
 
 慧心に転入する前の学校で何があったのかは、智花が聞いている。だが、学校名までは聞いていなかったし、聞かなかった。  
 知る必要がないと思っていたからだ。  
 この先、関わることはない――そう思っていたからだ。  
 だけど関わってしまった。  
 解決策として、ベターなのは練習試合自体をなかったことにするのが一番だ。ただ、そうすると試合に燃えている今の女バスに水を差すことになる。せっかくみんなが一生懸命に練習に励んでいるというのに、ここで俺がその努力を無駄にするようなことが許されるだろうか。  
 答えは簡単だ。許される、はずがない。俺が、そんなことを許さない。  
 駅を出て、家へと向かう。気持ちは沈んだままだ。力なく、トボトボと歩いている俺に、誰かが声をかけた。  
「あれ、今日は練習じゃなかったの?」  
 葵だ。幼馴染みで、週に二回〜三回、俺のために同好会という形でバスケの練習に付き合ってくれている、いわば相棒みたいな存在だ。  
 お互いに過ごしてきた時間が長い分、気の置けない中でもある。  
 …………そうだな、葵に少し、相談してみてもいいかもしれない。  
「葵、ちょっと、これから時間空いてるか?」  
「へ? ……まあ、空いてないこともないけど、どうかしたの?」  
「少し話したいことがあって……いいかな」  
 と言うと、顔を真っ赤にして葵は俯いた。何かボソボソと呟いているけど、よく聞こえない。  
 何事かと思って声をかけようとすると、突然葵は顔を上げた。  
「い、いいけど、高校生なんだから早まっちゃ駄目だからねっ」  
「……はぁ?」  
 何を言っているのだろうか、この娘は。  
 時々、葵は理解できないような発言をするのだった。どこか慌てた様子で、しかし恋する乙女のような恥じらいを併せ持っていて……ぶっちゃけ似合わない。  
「どうしたんだよ、えらい乙女ぶった様子で」  
「…………なっ、あんたねえ……!」  
 葵の目が据わった。と同時に、確かめるようにつま先で地面をノックする。  
 居留守を使いたいぐらいだ。  
 咄嗟に土下座しようとしたその直後、俺の体は宙を舞った…………。  
 
「いきなりなんだよっ」  
 落下した時にしたたか打ち付けた肩をさすりつつ俺が文句を言うと、猿みたいな真っ赤な顔で葵は逆切れとばかりに抗議してきた。  
「す、昴が失礼なこと言うからじゃない!」  
 なんだ、俺はどんな失言をしたっていうんだ……しかし、これ以上葵の精神を逆撫でするのはよろしくないだろう。不満や疑問は胸中にわだかまっていたものの、仕方なく俺は改まって謝罪した。  
「分かればいいのよ……。それで、話ってなに?」  
「あ、ああ……、今度、練習試合が決まったんだけどさ」  
 と切り出すと、興味深そうに葵は瞳を輝かせてみせた。  
「それが、智花が以前通っていた小学校みたいなんだ」  
「ああ……」  
 俺がそう言うと、それだけで葵は勘付いたように呟いた。おそらく、同じことを葵も懸念したのだろう、遠くを見るように目を眇めると、深くため息をついたのだった。  
「難しい問題よね」  
「ああ。ちょっと……いや、今かなり悩んでる」  
「でも、きっと愛莉ちゃん達は喜ぶよね」  
 そう、それなのだ。  
 智花が前の学校で辛いことがあったのことは、俺も葵も、聞いて知っている。先ほどまでもそのことで頭を悩ませていた。  
 だけど、だけどさ。せっかく新しい環境でバスケをまた始めた智花とか、夢中になってバスケを楽しんでくれている慧心女バスのみんなのために、試合をする機会を出来るだけ作ってやりたいとも思うじゃないか。  
 公式戦にも出られないんだし、なによりも勝たせてやりたい、俺が考えた戦略で勝ってほしい、そう思うのは悪いことなのか?  
「俺はさ、勝ってほしいんだよ、強くなってほしいんだ……俺がコーチしたことで、少しでも強くなってくれるなら、そんな嬉しいことはないだろ。  
 ……いや、これは俺のわがままなんだ。とても横暴で、自分勝手なわがままなんだ。俺のコーチングで、素人だった慧心女バスをどこまで強く出来るのか、それが気になって仕方がないんだよ」  
 いつの間にか、俺の心の中で大きくなっていったもの。強くなるのは、女バスのみんなだ――だけど、強くさせているのは、この俺。  
 若輩者が偉そうに、と言われるかもしれない。だけど、若輩だからこそ、こういった自尊心が膨れ上がってしまうのだ。紗季が、ひなたちゃんが、みんなが言ってくれる。「昴さんがバスケを教えてくれるから、強くなれるんです」と言ってくれる。  
 だけど、それを真に受けて、気づけば俺は、女バスが残してきた成績を自分の功績のように思うところがなかっただろうか。全くなかった、なんてことは言い切れない――むしろ思っているだろう。  
 そして、だからこそ俺は、智花のことなんて考えずに練習試合の話を進めようとしていたのだ。試合を一番したいのは、きっと俺なんだ。  
 自分の身勝手さに、拳を強く握った。ふるふると震えるその拳は、指関節まで白くなった。  
 ――でも、葵はこう言ってくれた。  
「私はさ、別に昴が身勝手だとか、傲慢だとか、思わないな。コーチなら、強くなってほしいって思うのも、強くなった時に嬉しいなって感じるのも、もっと試合をしたいしさせてあげたいって思うのも、全然おかしくない。むしろ普通だよ。  
 それに、この試合が智花ちゃんが前の学校で一緒だった友達と、仲直りするきっかけになるかもしれない。ううん、むしろきっかけにして、仲直りさせてあげるべきだと思うの。  
 もし、昴が私とか、一成とか――他の人でもいいけど、喧嘩別れしたらそのままでいいと思う? 喧嘩したら、仲直りしないといつまで経っても心のもやもやが晴れないって昴なら思うんじゃないかな」  
 小さい子供に諭すような、言い聞かせるような、柔らかい口調で紡がれた葵の言葉を、俺は黙って聞いていた。  
 和解のきっかけとか、コーチとして普通のことだとか、全部俺にとって都合のいい逃げ道であることに変わりはないだろう。けれど、葵がそう言うのなら、おそらくそれが正しいことなのだろう、と思う。  
 でも、俺が納得するだけで解決する問題でないことも確かだ。  
 心を決めた俺は、呟くようにこう言った。  
「個人的に、智花に話してみるよ」  
「うん、それがいいと思う」  
 朗らかに微笑む葵の顔は、月並みな表現ではあるが、太陽のように眩しかった。  
 ……うん、やはり持つべきものは、面倒見のいい幼馴染みだな。  
 
 

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