照りつける凶暴な日差し。  
それを少しだけ和らげてくれる、この時期特有の爽やかな風。  
目の前に広がる、のどかな河川敷の風景。  
 
夏真っ盛りなだけあって、今日はとても良い練習日和となるだろう。  
 
 
………今、俺の後ろから腰に巻き付いてくる、一つの懸案事項を除けば。  
 
「智花、その……ちょっと、苦しいんだけど……」  
「すばるさんの、せなか……とてもたくましくて、あったかいです……うふふふ……」  
 
自転車に乗って慧心学園へと向かっている道中、後ろから痛いくらいに抱きしめてくる教え子。  
おまけに何やら不穏な独り言まで聞こえてくるんですが。というか、トリップしながら二人乗りとか危険すぎます。  
あと、カップル座りがデフォになっているのはどういうことでしょう。  
 
「智花?ともかさーん??」  
「あ、ふ、ふえぇっ!!?す、スイマセンつい……!!」  
 
いきなり声をかけられたせいで(いや、三十秒前ほどからずーっと声はかけ続けていたんだけどね)、先程までの甘やかな呟きもなんのその。  
試合中さながらの動きで腰へと回していた手を解き、ぐいんと仰け反る智花。  
 
「───うわっ!」  
 
それは俺にとって、完璧に想定外の動きだった。  
重心の急な変動に対応出来るはずもなく、一気にバランスを崩す二人乗りの自転車。  
 
条件反射的に着ているシャツを掴まれる。  
智花に引っ張られるようにして、自転車の角度は修正不可能なくらいに左側へと傾き、  
 
その先には、河川敷に広がる草むらが───  
 
「危なっ───」  
「ひ、ひゃああっ!!」  
 
がっしゃーーーん!!!  
 
自転車が倒れ、生い茂る緑の上に放り出される二人。  
最後まで体勢を立て直そうとハンドルを握っていたために受け身も取れず、身体の節々に鈍い痛みを感じたもの……擦り傷や打ち身などの外傷を負った感じはない。  
 
芝生の上だったのが幸いしたな………そう安堵して、一緒に乗っていた教え子の方へと振り向くと───  
 
「っ、いたっ……」  
「智花っ!!」  
 
立ち上がれずに左膝を抱えてうずくまっている彼女が、そこにいた。  
 
 
 
 
※  
 
 
 
 
「もっかんっ!」  
「トモっ!?」  
「おー?」  
「智花ちゃんっ!!」  
 
体育館の中へと入る。  
練習時間ギリギリの到着だったため、ドリブルやシュートなどの自主練習を始めている他の女バスメンバーたち。  
 
だけど俺が智花を背負っている姿を見ると、それだけで何かを悟ったらしく練習をやめて一目散に駆け寄ってくる。  
 
 
この光景を見れば、毎度ながらの慧心学園女バス部のチームワークの良さも納得出来るはずだ。  
一人ひとりがバスケを愛し、同時に仲間も愛しているのがよく分かる。  
どこか微笑ましい気持ちでそれを見つめながら、心配するみんなにこうなった経緯を説明した。  
 
今の智花は……外傷としては少し擦りむいて血が出ていた程度だったが、歩く時はあからさまに左足をかばっているのが分かる。  
恐らくは軽い打ち身だろう。歩けないほどではないので骨や関節への心配はない、とは思うが……とにかく。  
 
「智花は今日、練習見学だな」  
「す、すみません………私の不注意で」  
「いや、俺がもう少し気をつけていれば……」  
「昴さんは悪くないです、悪いのは……浮かれていた、私の方ですから」  
 
額に汗を額に浮かべながら、自分を戒める智花。  
 
 
浮かれていた………とは、間違いなく今朝のことが原因だろう。  
 
あの『夢』が現実だったのだとしたら、彼女は真帆と同じくらい、俺のことを好いていて……。  
その想いが伝わりほっと一息……いや、彼女が言うように文字通りアイキャンフライレベルに浮かれた気分だったのだろう。  
今朝の朝食の時だって、いきなり『はい、昴さん、あーん♪』なんて言い出されてひっくり返りそうになったのは記憶に新しいところだし。  
 
まぁ、うちの母さんはあんな性格だから『あらあら、仲いいわね〜二人とも♪』とでも言いたげな目でふふっ、と微笑まれる程度で済んだんだけど。  
 
 
……でも、真帆の件といい智花といい、小学生の女の子ばっかりオトしてる俺ってどうなんだろう。  
色恋沙汰なんて俺には無縁の話だと思っていたのが嘘みたい……というより、色恋沙汰などというハードルはとっくに突破している気がする。  
 
正直に言おう。  
俺だって、彼女たちのような可愛い教え子に好かれるのは、本当にすごく嬉しい。  
だが問題は山積み。どこから手をつければいいのか分からない、散らかった部屋のように散乱している状況だ。  
 
主な問題点を上げるならば───年齢的に、ガチな犯罪行為だろうということ。  
それから、ほとんど二股に近い状態になっていること。この二つに尽きる。  
 
ん?  
ちょっと待て。  
ということは、もし彼女達が小学生とかではなく一つ年下などの合法的な年齢だったとしたら、俺は……どうしていただろうか。  
 
自分が傷つくことも厭わない、真帆らしい熱烈で直球なアプローチ。  
いつもしおらしい智花が見せた、一途で激しい愛情。  
 
 
……ダメだ。  
普段から教え子として可愛がっていて、彼女たちには親しみや愛情すら覚えている。  
タイプは違うといえど、そんな女の子にあそこまで情熱的にアピールされて、持ちこたえられる訳がない。確実に手を出していただろう。  
 
というか今の時点でも俺の心はほとんどヤラれてちゃっているんだけどね。相手の年が小学生ってだけで。  
手も、出してないとは限りなく言いづらい……というより、ほとんど出しちゃってる状況だし。  
 
 
………あんまし変わんないじゃん。年とかもう関係なくなってるじゃん。差があるとしたら、本番があるかないかくらいのもんじゃん。  
 
どうするよ、この状況。  
全く収束する気がしない。というか、どうやったら収束するのか分からない。八方塞がりとはまさにこのことだ。  
 
彼女たちの想いを蔑ろにするわけにはいかない。あぁでも今のまま事が進めば絶対いつかは周囲にバレてしまう。  
そもそも俺だって二人のことは大好きだ。だけど、どちらか一人を選べとなると───  
 
「………よし、これでオーケー。智花、大丈夫?」  
「はい、ありがとうございます……昴さん」  
 
悶々と悩みながら、鞄に入れておいた携帯用の救急グッズと智花が持っていたポケットティッシュを駆使して消毒を済ませ、最後にバンドエイドを貼る。  
とりあえずは応急処置完了。ほっと一息ついていると、みんなの輪から一歩踏み出してしゃがみ込む一人のチームメイトがいた。  
 
いつも冷静沈着、慧心学園女バスのポイントガードを務めている紗季。  
顔色を伺い、本当に軽傷なのかという目を智花に向けている。  
 
「トモ……本当に、平気?」  
 
だが智花は、その問いに答えない。  
その代わり、目の前のチームメイトの顔をまじまじと見つめた後……  
 
「………紗季っ」  
 
待ち続けた想い人に会えたかのような笑顔で、紗季に思い切り抱きついたのだ。  
 
「私……わたし、素直になれたよっ。昴さんに……自分の気持ち、伝えられたよっ……」  
「そう……やったじゃない、智花」  
「うん、っく、でも、きっと私だけじゃ無理だった……紗季が、紗季が背中を押してくれたから───」  
 
半泣きになりながら、溢れる喜びを分かち合おうとする智花。  
それを優しく受け止める紗季。  
 
そして………この言葉を聞いた瞬間、ぞわりと気が飛んでしまいそうなくらいの悪寒が俺の背筋を駆け抜けた。  
 
 
 
───何だ、これは。  
 
これに似た悪寒を、俺はここ数日の間に何度か味わっている。  
 
事の発端となった一日執事の日……『二人きりになったことを俺に注意されたら、こう言い返せばいい』と紗季からアドバイスをもらったことを聞いた時。  
真帆の猛烈なアタックの引き金を引いたのは、彼女の幼なじみである紗季なのだと聞いた時。  
 
そして……今。  
文字通り朝の寝起きを襲うような智花の激しいアプローチは、紗季が後押ししたからだと聞いた時。  
 
 
───ということは、だ。  
 
心底嬉しそうに、智花と抱き合っている眼鏡の少女を見る。  
 
紗季。  
今回もまた……………また、君の差し金なのか………?  
 
彼女はメンバーの中でもとびきり頭が回る子だ。自分の発言がどういう結果を招くか、分からないような子ではない。  
すると……俺の今の八方塞がりな状況を『後押し』したのも、彼女の意思あってのものということになる。  
 
『彼女は策略家だが、それを上手に使いこなしこそすれ、絶対に悪用することはない』。  
そんな評価を覆しかねない、重大な事実だった。  
 
やがて思い浮かぶ、一つの疑惑。  
 
彼女はもしかして、この状況を楽しんでいるだけなんじゃないだろうか。  
楽しむためだけに、彼女たちの想いを利用して、場を引っ掻き回しているだけなんじゃないだろうか───と。  
 
体育倉庫から、ずるずるとパイプ椅子を引きずってくるひなたちゃんの姿。  
智花がコートの外で椅子に座りながら見学することに決まり、それぞれが智花に励ましの言葉をかけている。  
 
 
やがて、見学者以外の四人がぱたぱたと俺の前に整列する。それが練習開始の合図だ。  
 
見慣れた光景。だが俺の頭の中は一向に切り替わることがなく、紗季への猜疑心だけがぐるぐると渦巻いている状態だった。  
 
 
 
 
※  
 
 
 
 
「………の、あのー、長谷川さん?」  
「えっ、あぁうん。どうしたんだい、紗季」  
「今日なんですけど……その、ちょっと早めに練習を切り上げちゃいませんか?」  
 
苦笑いを浮かべながらそう進言してきたのは、俺が錯乱状態に陥るきっかけとなった張本人。  
 
「智花だってあんな状態ですし、それに……」  
 
気づけば周りのみんなが、心配そうに俺の顔を見上げていることに気づく。  
 
「おー、おにーちゃん、今日へんだよー?」  
「すばるん、大丈夫?まだ風邪治ってないんじゃねーの??」  
「長谷川さん……」  
 
それぞれが口々に俺を慮る言葉をくれる。  
遠くからは、ちょこんと座りながら心配そうに俺を見る智花の姿が。  
 
それもそのはずだ。  
指示なんてもっての外、時間配分や練習メニューの順番だっていつもは完璧に把握しているのに、今日はみんなに指摘されてようやく成り立っている状態。  
つまり今日の俺は、コーチとしての役割をほとんど果たしていなかった。  
 
もちろん彼女たちがそれに気づかないわけがない。  
最初の方こそ『智花のことが心配で集中出来ていないのよ』なんて笑いのネタにされていたのだが、もうその域はとうに出てしまっている。  
 
今の俺を取り巻く状況………誰にだって分かることだ。  
普段通りを装って、バスケのコーチなんてしていられる場合じゃない。  
 
しかもバスケのコーチをするとなると、悩みの張本人である女バスのメンバーたちと顔を合わせることになるのだ。  
蒸し暑く、熱気もこもりがちな夏の体育館という悪条件の中で頑張る彼女たち。  
でも座っている智花の姿を見る度、頑張っている真帆の顔を見る度………そして、紗季のことを考える度、どうしようもない自分の状況を思い出して、そのことで頭がいっぱいになってしまう。  
 
こんな精神状態で、コーチとして指導しろなんて言われても不可能に決まっている。  
いつもは楽しくて仕方のないこの時間も、判決を言い渡される囚人のような気持ちでは楽しく過ごせるはずがない。  
 
「………そうだな、まだちょっと具合が悪いのかもしれない」  
 
正直、限界だった。  
今すぐにでも家に帰って、ぐっすりと睡眠をとって、心身ともにリラックスしたかった。  
正しく状況判断が出来ない状態で更なる問題を引き起こし、ますます自分を袋小路へと追い詰めてしまうことだって考えられる。  
そんなことになるのなら、いっそ一人で家に引き篭っていた方がマシなのだから。  
 
だから、彼女の本心がどうであれ……練習を早く切り上げようという進言は、心底ありがたかった。  
 
「ゴメンな、俺が自己管理出来ていないせいで」  
「いえ……こんなに辛そうな長谷川さん、初めて見ましたから……」  
 
朦朧とした頭で紗季の瞳を覗き込む。  
本気で心配しているようにしか見えない。何かを企んでいるようには思えない、んだけど………今の自分に正常な判断が出来るかどうかは怪しいもので、何の参考にもならない。  
 
 
 
結局、予定よりも一時間半も早くに練習を切り上げて、それぞれが引き上げる姿を見送る。  
夏だけあって陽が落ちるのも遅く、まだ夕空の陰りすら見えない今の時間に送り返すのは、非常に申し訳ないと感じる反面……一人きりになってホッとしたのか、吐き出すようにして疲労感が表に出てくるのを感じる。  
 
………だるい。  
出来ることならばこのまま体育館の中で何も気にせず寝てしまいたい。  
中学校時代、特訓で自分を追い込んでこんな風に思ったことはあった。でもその時とは全く違う、満足感も何もない、疲弊しか感じないだるさだ。  
 
一刻も早く帰宅して、ゆっくりと風呂にでも入って、今日は何も考えずにベッドの住人になってしまえ。  
 
「………っ」  
 
自分のベッドを思い浮かべた途端、フラッシュバックする今朝の出来事。  
 
………あぁ、そうか。  
今日の智花との事件は、あのベッドで起こったんだっけ。  
 
また心に暗い影が落ちてくる。  
大丈夫だ、ベッドで眠ると思い出すのならば、今日は床で寝てしまえばいいんだから。  
 
そう決意して、外履きのシューズへと左足を踏み入れた瞬間だった。  
 
 
───くしゃり。  
 
つま先を遮る、微かで薄っぺらい感触。  
男バスの時のようなイタズラか、それともたまたま靴に紛れ込んだだけなのか……拾い上げてみると、一枚の紙を丸めて詰め込んだような、いわゆる紙のボール的なものがそこにはあった。  
 
おもむろに広げてみる。  
女の子が好きそうな、花模様の散った便箋。  
 
その中心辺りに、少し大きめの字でこう書かれていた。  
 
 
『体育倉庫で待っています  
         永塚 紗季』  
 
 
体育倉庫。  
普段、練習の時は女バスのメンバーが更衣室として使っている場所だった。  
 
「……………っ」  
 
何だろう。またしても、嫌な予感がする。  
というか、嫌な予感しかしない。  
 
女の子からの、二人きりでの逢い引きを指し示す手紙。  
普通なら、甘い色恋を連想するものなのかもしれない。  
 
だけど今の俺にとってそれは、トラウマ以外の何者でもなかった。  
 
 
 
───でも。  
 
逆に取れば……これは紗季と二人きりで話の出来る、またとない機会ではないだろうか。  
彼女がどういうつもりで真帆や智花を炊きつけたのか、その真意を聞くことの出来る絶好の場ではないだろうか。  
 
そうだ。それさえ分かってしまえば、こちらとしても最大の懸念事項を潰すことが出来る。  
それだけでも精神的な負担は相当違ってくるだろう。逆にこれはチャンスなのかもしれない。  
 
「……行くしかない、か」  
 
疲労困憊の心と身体を奮い立たせて、もう一度上履きのシューズに履き替える。  
前に竹中がやっていたようにパンッ!と両頬を叩いて、体育倉庫へと歩を進めた。  
 
 
 
 
※  
 
 
 
 
「お待ちしてました、長谷川さん」  
 
ゆっくりと体育倉庫の扉を開けると、そこには手紙をくれた張本人……制服姿の永塚紗季がいた。  
もしかしたら手紙を書いたのが紗季というだけで、他にも誰かいるかと思ったが……どうやら彼女一人のようだ。  
 
落ち着いた様子で堂々と跳び箱に背を預けているその姿は、とてもやましいことをしているようには見えない。  
いや、紗季にとってそれくらい取り繕うことは造作もないことなのかもしれない。そもそも、彼女が後ろめたいことをしていると決まった訳では……。  
 
また思考回路をぐるぐる巡っていく、疑いの信号。  
首を左右に振って、それを吹き飛ばす。  
悩んだところで仕方がない。それならば目の前にいる本人に確認した方がよっぽど早いのだから。  
 
「お時間を取らせてしまって、申し訳ありません」  
「いや……このあと特に予定が入っている訳じゃないし、大丈夫だよ」  
 
会話の空気から伝わってくる、何かを思案している様子。  
どちらが先手を繰り出すか、互いに伺いを立てている空気だ。  
ならば、さっさと本題を話してしまった方が早いだろう。  
 
「───早速ですが、まず、長谷川さんにお尋ねしたいことがあります」  
 
そう思ったのは俺だけではなかったみたいで、先に彼女の方から話を切り出してきた。  
 
「長谷川さんは……あの二人のどちらかに、本気の恋愛感情を抱いていらっしゃいますか?」  
 
それも、ど直球。  
真帆並の豪速球で、俺に渾身のストレートを投げつけてきたのだ。  
 
『あの二人』というのは言わずもがな、真帆と智花のことだろう。  
 
「その前に、俺も聞いておきたいことがある。真帆と智花を炊きつけたのは、紗季……君なのかい?」  
 
その球をピッチャー返しで打ち返す。  
質問を質問で返してしまうような真似はしたくなかったが、これだけは真っ先に聞いておかないと、この先彼女にどういう態度で接すればいいのか分からない。  
彼女なりに仲間を思ってのものだったというのと、いたずらに場をかき乱したくてのものだったのとでは天と地ほどの差があるのだ。  
 
質問をうやむやにされたことに戸惑いを感じていた紗季だったが、俺の真剣───というより必死な表情を読み取ったのか、少し間合いを置いてから、  
 
「………わかりました。全て、お話ししますね」  
 
以前、紗季に問い詰められた俺のような面持ちで、その経緯を語り始めた。  
 
「そもそもの発端は、真帆が長谷川さんに対して本気の恋心を抱いてしまったことです。  
 真帆が好きになったのは、一日執事として長谷川さんが真帆の家に行った時……真帆に対して、熱心に看病して下さったのがきっかけだと思います」  
 
───真実だ。一つの誤魔化しもない。  
何故ならそれは、真帆本人から聞いたこと。それと寸分違わず同じことを言っているのだから。  
 
「でも………長谷川さんは、お気づきでしたか?  
 真帆が長谷川さんを好きになる以前から、ずっと本気で長谷川さんのことを好きだった人がいることを」  
 
真帆の純粋で真っ直ぐな、俺への『好き』の気持ち。  
その『好き』と同等の想いを俺に注いでくれていた、真帆以外の人物───となると、一人しかいないだろう。  
 
「───智花、か?」  
「そうです。長谷川さんも、さすがに気づいていらっしゃったんですね」  
「………いや」  
 
俺のことを『好き』だと言ってくれた二人から───二つしかない選択肢のうち、片方の一つを潰されて、ならもう片方……今朝、あれだけ俺のことを好きだと言ってくれた智花しかいない。  
そう思っただけのことだった。  
 
「そ、そうでしたか………それなら、気づくわけ、ないか………」  
 
それを告げると少したじろいだような受け答えをし、何やらブツブツと呟いている紗季。  
はて、何かおかしな回答をしただろうか?  
 
「今朝のことで長谷川さんにも伝わったんです……よね? トモの想いが、本物だってことは……」  
 
トモ………湊、智花。  
俺にとって大切な教え子であり、守るべき存在であり、愛おしくもある彼女。  
 
「……うん。それは、俺にもよく分かった」  
 
智花がずっと胸に抱いていた俺への想いが本物だということは、今朝のことでよく理解出来た。  
色恋に鈍感だと言われ続けた俺なんかでもハッキリ間違いないと断言出来るくらい、痛いほどに伝わってきた。  
 
『俺さえ居れば、他には何も要らない』。こんな言葉をかけてくれる女性なんていなかった。  
というより、ここまで強くて純粋な『好き』の気持ちがこの世に存在するなんて、ましてやそれを自分に注いでくれる相手が居るなんて、思っていなかったから。  
 
「みんなもそれとなくトモの気持ちには気づいていました。それで、みんなでトモの、長谷川さんへの恋を、応援してあげよう………って。  
 そんな『暗黙の了解』が、いつの間にか私たちの中で成り立ってたんです」  
 
そういえば……みんなで冗談交じりに智花と二人の時間を演出しようとするような、そんな動きがあったような気がする。  
だけどそれは文字通り女子小学生の冗談の一環であって、微笑ましさこそ感じるがそれ以上でもそれ以下でもない………なんて、軽く考えていた。  
 
控えめで、どこか儚げな彼女の笑顔を思い浮かべる。  
 
「………智花……」  
 
智花はずっと、俺に対してあれほどの想いを抱いていたというのか。  
だとすると、俺は彼女に対して、何て失礼な態度をとってしまっていたのだろう。  
 
想いに気づいてあげられなかったのは何も今回ばかりじゃないだろうけど、せめて今回くらいは気づいてあげたかった。  
溜め込んで溜め込んで溜め込んで、あんなに辛そうに俺にすがりついてくる智花なんて、正直見ていられなかった。  
もっと早くに気づいてあげられていれば。いつも気を遣ってばっかりの彼女の心を、解き放ってあげることが出来ていたら……あんな智花の顔は、見ずに済んだかもしれないのに。  
 
自責と後悔の念に苛まれ、ぎり、と歯を食いしばる。  
紗季はそんな俺を一瞥してから考えこむようにうつむくと、眼鏡を上げる動作で右手を顔の前にやり───  
 
「………でも、それも昨日までは、の話ですけどね………」  
 
今までの話を大きく覆す一言を言い放った。  
 
「えっと、それはどういう……」  
「どういう、って………私たちも、長谷川さんが真帆の好意を受け入れて色々なさったことは知ってますから」  
 
視界が揺らぐ。  
恐らくは例のSNSだろう。でも『色々』って……その『色々』に心当たりが多すぎるんですが………。  
 
しかもその『色々』の詳細を、紗季がくまなく知ってしまっているとしたら………。  
 
「せっかくトモを優先して、みんなで応援していたのに、他の人が長谷川さんに気持ちを伝えてしまって、それを受け入れられてしまったんだとしたら……みんな、トモのために我慢しているのが馬鹿らしくなっちゃいますよね」  
 
あはは、と乾いた笑みが彼女の口から溢れる。  
 
どこか要領の得ないやり取り。  
でもその中に、バラバラだったパズルのピースが音を立てて組み上がっていく感覚……今まで不可解だったことの辻褄がどんどん合っていくのが分かる。  
 
「つまり、私たちの中にあった『暗黙の了解』は、昨日の出来事で崩れ去ってしまった、ということです。  
 真帆が本気で気持ちをぶつけたのなら、トモだって同じように想いをぶつけるしかない。私も他のみんなも、きっとそう思ったんじゃないかと思います」  
 
そう……認めたくないことだが、今朝の事件は夢ではない、現実としての出来事なのだ。  
 
智花が言っていた、『真帆に取られたくない』という言葉。  
泣いて俺にすがり付いてくる姿も、彼女のものとは思えないくらいに淫らな一面も……全部現実の出来事だったのだと。  
 
「どのみち真帆みたいな子が本気で好きになった相手に対して、好意を押し殺したままではいられなかったでしょうから。  
 トモだってきっと、長谷川さんを真帆に取られてしまうかもしれないとなっては、何かしらの行動を起こさずにはいられなかったと思います。  
 第三者が発破をかけなくたって、もっとストレートな方法で長谷川さんにアプローチしていたかと……」  
 
……それは何というか、違う気がします。  
紗季さん、貴方は分かっていない……自分の言葉選びのセンス、立ち回りの上手さがどれほどのものかということを……。  
 
「私は……いえ、私だけじゃなくてみんな、この女子バスケットボール部が大好きです。  
 そのうち変に取り繕いながら、遠慮し合いながら、みんなが影で長谷川さんを取り合った挙句、不仲になってしまうのなら……正々堂々と勝負した方がいいと思ったんです」  
 
一生懸命想いを伝えようと俺を見上げてくる、小学六年生の女の子。  
この数日間で数えきれないほど体験したシチュエーションだ………もうトラウマになりそうなくらいには。  
 
「まぁ、二人の背中を後押ししたというよりは、『自分の気持ちに正直になろう』って伝えただけなんですけどね……あはは」  
 
───でも、彼女の言っていることも分かる気がする。  
 
前に葵が言っていた。  
女性の嫉妬や人間関係のもつれは想像以上に陰湿で、複雑なものなのだと。  
そうなってしまいかねないことを察知して、紗季は先手を打ったということか。  
 
説明通り、彼女は彼女なりにチームを思っての行動だったのだ。  
ただ……それにしては、紗季の表情がえらく曇っている。話を聞く限りでは思惑通りに事が進んだはずなのに、何かをこらえているような……苦痛に顔を歪めていると表現してもいいくらいの表情をしていた。  
 
「遅かれ早かれみんなで一つのものを奪い合うのなら、もう素直になってしまった方がかえってスッキリすると思ったんです。  
 ただトモだけは、長谷川さんを想い続けてきた時間がみんなよりも長かったので、一番先に長谷川さんに想いを伝えてもらおうと……」  
 
おまけに説明している声がどんどん小さく、か細いものへと変化してゆく。  
 
彼女はあくまで二人のことを話しているはず。  
なのに……紗季自身も女バスの一員だということもあるかもしれないが、何故こんなにも痛々しい表情で話しているのだろう。  
 
 
───まるで、自分のことのように。  
 
「なぁ………さっきからよく『みんな』って言葉が出てくるけど、『みんな』って言ったって今の話に出てきたのは主に真帆と智花だろ。それで『みんな』とは言わないんじゃないか?」  
 
二人という対象を表す言葉に『みんな』というのは、少し違う気がする。  
言葉選びがあやふやな真帆ならともかく、小学六年生とは思えないくらい礼儀正しく語彙も豊かな紗季が、そんな発言を意味もなくするとは思えない。  
 
自分でも尤もな疑問だったと思う。  
だけども紗季は、その俺の発言を聞いた三秒後に、我慢に我慢を重ねてきたがとうとう堪え切れない………といった様子で、はぁーーーっ、と深い溜め息をついたのだった。  
 
一呼吸置いてから、キッ、と俺を見上げてくる真摯な瞳。  
だがそこに込められているのは決して怒りやイラつきからくるものではなく、むしろ悲しみや哀願に近いものだった。  
 
「長谷川さん……本当に、本当に気づかないですか?分からないですか?  
 この展開になっても、まだ………長谷川さんは、そういう風にしか『私』のことを捉えられませんか?」  
 
『私たち』ではなく、『私』。  
これまで例の二人以外のバスケメンバーを言い表す時は必ず『みんな』『私たち』というような表現を使っていたのが、ここにきて自分を……彼女一人を指し示すものに変化した。  
 
くらり、と目眩がする。  
思わず倒れそうになって、体育倉庫の出入口である扉へともたれかかった。  
 
「──────ま、さか」  
 
そう。  
 
俺だって、そこまでは、鈍感じゃない………はずだ。  
 
 
ゆらゆらと蜃気楼のように揺らいでいる瞳。  
熱く、紅く染めた頬。  
 
この空気………蜂蜜のように甘く濃密な数日間で、幾度となく味わったそれそのものだ。  
 
跳び箱に背中を預けていた紗季が、一歩、また一歩とこちらへ歩を進めてくる。  
後ずさりしようにも、背後には鉄の扉。  
 
「……はい。ここは『みんな』で合ってると思いますよ………長谷川さん。  
 たとえば、ですね───」  
 
身体に火照りを感じる。意識が朦朧としてくる。  
視界がボケる。揺れる。ブレる。  
嫌な汗がぶわっと吹き出し、全身がブルブルと身震いしているのが自覚できる。  
 
「今、長谷川さんの、目の前にいる───」  
 
次の言葉が予想できてしまう。  
それは決して受け入れられない、真実の言葉だ。  
 
何なんだ。彼女たちの中で、一体何があったんだ。  
もう勘弁してくれ。これ以上、俺を苦しませないでくれ。  
 
パニックに陥った俺が、なんだ扉をこじ開けて逃げ出せば………と閃いた時には、棒立ちの俺を囲うようにして彼女が扉へと両手を突き立てていた。  
 
「───……私、とか」  
 
逃げられなくなった俺に、言葉の爆弾が落とされる。  
 
「私だってずっと前から、長谷川さんのこと……お慕いしてました」  
 
予想通りの言葉なのに、受け止めることが出来ない。  
 
「改めてお尋ねします。長谷川さんは……あの二人のどちらかに、本気の恋愛感情を抱いていらっしゃるわけじゃないんですよね?」  
 
やめろ……夢なら早く、醒めてくれ。  
 
「なら………きっと私だって、真帆や智花に負けないくらい、長谷川さんのことが好きです。大好きなんです」  
 
そんな軽々しく好きだなんて、言わないでくれ。  
 
「長谷川さんになら、私………何でもしたいです。何をされたって、いいと思ってます」  
 
おずおずと放たれたその言葉を聞いた時───渦巻く思考が解き放たれる感覚と共に、何かがぶちっと切れたような気がした。  
 
「───きゃっ!!」  
 
彼女の両肩に手を置き、三段重ねになっていた運動用マットの上へと押し倒す。  
そのまま力任せに彼女の両手首を頭の上で束ねて、左手一本できつく抑えこむ。  
彼女の太ももに馬乗りになりながら、  
 
「……なぁ紗季。真帆や智花がそうだからといって、軽々しくそんなこと言っちゃいけない。  
 普段は優しく見えるかもしれないけど、こう見えても俺だって男なんだ。その気になれば、紗季をどうすることだって出来る」  
「は、せがわ………さん?」  
 
マットに彼女の細い身体を抑えつける。  
面食らった様子で、上目遣いにこちらを伺ってくる紗季。  
 
「……な?こんな一瞬で、紗季は身動き取れなくなってしまう。もうされたい放題になってしまうんだ。分かったら、さっきのような言葉は───」  
「私………私だって、軽々しくこんなこと言ってません!本当に長谷川さんのことが!」  
 
怯えを覆い隠すようにして、そう叫ぶ。  
やめてくれ。こんなバスケしか取り柄のない男に、期待なんかしないでくれ。  
 
どうすればいい。どうしたら、彼女に分かってもらえる?  
 
身体が震えて、力の制御が出来ない。  
みしり、と軋むような音。  
気づけば彼女の手首を束ねる左手に、全力と表現して差し支えないほどの力が加わっていた。  
か細い小学六年生の腕。しかも手首は腕の中でも特に脆い部分だ。もしかしたら折れてしまうのではないだろうか。  
 
「………っ」  
 
顔をしかめ、痛みを堪えている様子。  
それは同時に、『ここまで言った以上、私だって後には引けない』という、一種の意地の表れのようにも思えた。  
 
「怖いだろ、痛いだろ……。自分の言葉には、もっと気をつけなきゃダメだ。じゃないと……嫌な思いをするのは、紗季なんだから……」  
 
汚い責任転嫁の言葉だ。  
危害を加えようとしているのは、自分以外の何者でもないくせに。  
 
でも他に言葉が思いつかない。  
今の俺は、一体どんな顔をしているのだろう。  
もしかしたら痛みをこらえている彼女以上に醜く歪んで、泣きそうな顔になってしまってるのかもしれない。  
 
「でも……でも、長谷川さんは、女性に対して力を振りかざすような男性には見えませんから……」  
 
そう言って、額に汗を浮かべながら精一杯安心しているような笑みを見せようとする紗季。  
 
 
………何故。  
 
真帆も、智花も、紗季も。  
何故俺なんかを、そこまで好いてくれるんだ。  
 
そして……なんで俺は、こんなに苦しい思いをしているんだ───  
 
 
───どすっ!!!  
 
「───ひっ」  
 
彼女の笑みが一瞬でこわばり、小さく悲鳴をあげる。  
怯えの表情に変わった彼女を見て、ようやく俺は自分の行為に気づくことが出来た。  
空いていた右の握りこぶしを振りあげ、それをちゃぶ台を叩くようにして、彼女の顔の左横すれすれに力いっぱい叩き下ろしたのだ。  
 
その事実に一番驚いたのは、この行為を行った自分自身なのかもしれない。  
でもすぐに気を取り直して、目の前の怯える少女に向きあう。  
 
───これで彼女が、俺を軽蔑してくれたら。  
───二度とこんな男には近付きたくないと、そう思ってくれればいいんだ。  
 
「……逆に言えば、後先さえ考えなければ、俺の気分一つの問題だろ。紗季にどんな危害だって加えられるという事実に、変わりはない」  
 
熱い。  
頭の中が煮えくり返って、噴火直前のマグマでも溜まっているようだ。  
 
感情の制御が追っつかない。この数日間で溜め込んだ醜くどす黒い想いが、どんどん外へ溢れてくる。  
 
もう潮どきだ。  
これ以上君に何かしてしまう前に、早く身を引いてくれ。  
泣きながらこの場を立ち去って、家に逃げ帰ってくれ。  
 
 
そう願ったが、紗季はむしろ俺の顔を覗き込み、探るような目でこちらを伺った後───  
 
「……………大丈夫です。平気です」  
 
先程の怯えが嘘のような……全て受け入れますと言わんばかりの、穏やかな笑みを俺に向けてきた。  
 
「私………長谷川さんのことが、大好きですから」  
 
彼女に重なって見える、真帆の姿。智花の姿。  
それぞれが自分のことを大好きだと言って、俺に身を委ねてくれている。  
 
───でも俺は、その想いにどう応えてやればいい?  
こんな風に女性から愛されたことのない俺が、一体何が出来るというのだろう?  
彼女たちの想いを受け止められるほどの技量なんて、到底持ちあわせてやいない。  
 
「好きだってことが証明出来るのなら……これくらい、へっちゃらです」  
 
感情のダムを制限している水門が決壊し、おぞましいほどの邪悪なエゴが、心の奥底から溢れ出るのを感じる。  
 
涙で視界が歪む。  
よく見れば、彼女の目尻にも涙が浮かんでいた。  
 
それは痛みからくるものなのか、それとも───  
 
「……お願いだ、紗季。もう、やめてくれ……」  
「嫌です……私だって、私だって……」  
「ほ、ほら……紗季はまだ、恋に恋しているだけなんだ。だから少し年上のお兄さんみたいな俺のことを好きだなんて……」  
「じゃあ真帆やトモはどうなるんですか……?あの二人は本気だって認めたのに、私は認めてくれないんですか……?」  
「そ、そういうわけじゃなくって……勘違いでこんな、紗季を傷つけるわけにはいかないと……」  
「これだけ必死になっているのに、長谷川さんはこの想いが勘違いだなんて、そうおっしゃるんですかっ……!?」  
「な、紗季……いい子だから、お願いだから……!」  
「嫌ですっ!!私だって、長谷川さんが───!!」  
「………やめてくれ、紗季………」  
 
やめろ。  
 
もう、やめてくれ。  
 
「本当にっ─────────長谷川さんのことが、大好きなんですっっっ!!!!!」  
 
全てを飲み込む、感情の大津波。  
 
「やめろって─────────やめろって、言ってるだろっっっ!!!!!」  
 
霞んでいる意識の中で見えたもの。  
彼女が涙を散らしながらきつく目をつむっているワンシーン。  
 
右腕に込められた渾身の力。  
手は握りしめられ、振り上げた拳の行く先は───彼女の、左頬。  
 
 
 
───やばい!!!!!  
 
とっさに拳をほどいて、勢いを殺し、  
 
 
 
ばちんっっ!!!!!  
 
「……………あ………」  
 
絶望的なくらいの、確かな手応え。  
俺の手に弾き飛ばされ、からんからん……と遠くで跳ねる眼鏡の音。  
彼女の左頬が、時間が経つにつれじわじわと赤くなってきているのが分かる。  
 
何とか握りこぶしをほどくことは出来た。  
でも俺が出来たのはそこまで。勢いはほとんど殺すことが出来ず、手のひらに込めた目いっぱいの力で彼女の左頬を打ち付けてしまったのだ。  
 
 
頭が急激に冷えてゆく。  
叩かれた体勢のまま、顔を右に向けてピクリともしない目の前の少女。  
 
 
───嘘だろ?  
 
誰か、嘘だと言ってくれ。  
 
俺のことが好きだと言ってくれている少女を、力づくで抑えつけて『それは勘違いだ』とのたまった挙句、それでも好きだと言い続ける彼女にヤケを起こし、力いっぱいのビンタを、その柔らかな左頬に───  
 
「お、れ………あぁ、あ……っ」  
 
上手く呼吸が出来ない。  
彼女の乱れた制服に、涙の痕が出来てゆく。  
こんなにいつも慕ってくれて、お世話になっていて、感謝してもしきれない、俺の大切な教え子の一人。  
 
その彼女を、激情に任せて傷つけてしまうなんて、そんな、そんな………  
 
「う、うっ……う、あぁっ………!」  
 
どう謝ればいい?  
いや、謝って済む問題じゃない。  
 
大切な教え子に、計り知れない心の傷を作ってしまった。  
もう取り返しがつかないくらいの、深い心の傷を。  
 
 
終わりだ。  
もう、何もかも───  
 
「………わたし、いいました、よね」  
 
下から聞こえてくる、細い声。  
 
「……はせがわさんに、なら……わたし、なにをされたって、いいって……」  
 
向けられたのは、怒りでも、悲しみでもない、別の感情。  
 
「だから、いいんです、よ……泣かないで、ください………長谷川、さん」  
 
硬直状態に陥ったままぶるぶると震え、もはや抑えつける役目を果たしていない俺の左手からゆっくりと両手を抜く。  
それをそのまま俺に向けて開き、下から俺を抱き寄せるようにして背中へと手を回してくる紗季。  
 
 
───これも、そうなのか。  
好きという想い一つで、こんなことまでも受け入れて、許してしまえるのか。  
 
「………大好き、です。長谷川さんっ」  
 
左頬を真っ赤に腫らしたまま。  
暖かな癒しの微笑みが、そこにはあった。  
 
「───紗季っ」  
 
ぎゅうっ、と小さな身体を強く抱きしめる。  
同じくらいの強さで抱きしめ返してくれる、その細い腕。  
 
「ごめん、ごめんっ……紗季っ……俺っ、紗季に、なんてこと……っく……!!」  
「長谷川さん、はせがわさんっ……!」  
 
守ってやらなくちゃいけないのに。  
自分のことばかり考えて、守るべき人を傷つけてしまうなんて、あってはならないことなのに。  
 
「紗季……頼む、俺を殴ってくれっ……!俺が二度と、こんな馬鹿なことしないようにっ……!」  
 
溢れてくるものを止められない。  
こんなに泣いたのはいつ振りになるだろうか。  
 
「……嫌です。こんなに傷ついてる長谷川さんを、もっと傷つけるなんて……」  
 
そう言ってしばらくしてから俺を優しく引き離し、互いに見つめ合う。  
もはや凶器に近い優しさを、俺にくれる彼女。  
 
でもそれでは納得出来るはずもない。俺の身勝手な行動で彼女を傷つけてしまったことには変わりはないのだから。  
 
大好きな男に思い切りビンタされた紗季は、もう死んだっていいと思えるくらいに辛いんじゃないだろうか。  
俺だって、それと同じくらいの仕打ちを、彼女から受けるべきなのだ。  
 
自分の中で湧き出してくる、自虐的な思い。  
だが彼女が求めてきたものは、俺が抱いていたそれとは全く別のものだった。  
 
「それよりも………私の想いが本物だって、認めていただけませんか?長谷川さんのことを大好きだっていう、私の気持ちを」  
 
こんなにも痛めつけられて、それでも動じない彼女の強い想い。  
感極まってか、ぽろぽろと頬まで滴る彼女の涙。  
 
「じゃないと私……浮かばれません。報われ、ませんっ……!」  
 
その言葉を皮切りに、ぶわっと彼女の零す涙の量が増える。  
 
先程も同じようなことを思った気がする。  
もう少し早く彼女の気持ちに気づいてあげれば、こんな姿を見ずに済んだのに、と。  
 
結局、俺は恐ろしく鈍感なのだ。どうしようもないくらいに。  
真帆に全身全霊の気持ちをぶつけられ、智花と紗季に至っては泣くほどの思いをさせないと気づかないくらい、他人の心の動きに鈍い人間なのだ。  
 
「本物に………本物に、決まってるだろっ……!こんなことされてまで、何で俺なんかっ……!」  
「だって!だって!好きなんだからしょうがないじゃないですかっ!!」  
 
もう一度抱きしめあって、お互いの感情を分かち合う。  
心の奥からじわじわと広がっていくような、熱い感情。それはきっと、彼女のことを愛おしく思う感情に違いない。  
 
他人の心は見ることも感じることも出来ない。  
でも何となく、分かる気がするのだ。  
彼女の心もきっと、今の俺とおんなじような感覚を味わっているのだろうと。  
 
こうして肌を重ねていると、鈍感な俺にだって、彼女のどんな想いにも気づいてあげられる。  
そんな気がするのだ。  
 
 
 
五分、いや十分近くも抱きしめ合ったままだったと思う。  
泣き出したことによる彼女のしゃっくりもようやく収まり、逆に身体を密着させていることに安心感を覚えるほどになっていた。  
 
「………紗季」  
「………はい、長谷川さん」  
 
互いに、落ち着いた受け答えをする。  
つい数十分前まであんなに乱れていた心が嘘みたいだ。  
 
「俺は、君にお礼がしたいんだ………いいかい?」  
 
そう言って、少しだけ顔を近づける。  
主語のない会話。でも今ならこれだけで、俺が何をしようとしているか伝わる気がする。  
 
無言で微笑んでいる彼女を『了承』の返答と認識し、ゆっくりと顔を近づけ───  
 
「───ストップです」  
 
唇に、何かが押し当てられる感触。  
見ると、目の前の少女はウインクをしながら小悪魔のような笑みを浮かべていた。何だかんだで、こういうイタズラっぽい表情は彼女の幼なじみである真帆そっくりだな、と思う。  
 
人差し指を俺の唇に押し付けたまま、  
 
「その前に………長谷川さんは実際のところ、私のことをどう思っているのか……お聞きしても、よろしいですか?」  
「あ………」  
 
今からの行為をするにあたって一番重要な問い掛けを、俺に向かって繰り出したのだ。  
 
そうだった。  
キスとは愛し合っている者同士が行う行為。  
なのに俺は、自分が実際に相手をどう思っているのか、全く伝えずにその行為に踏み切ろうとしていた……本当に、情けない。  
 
「………」  
 
彼女のことが好きなことに変わりはない。  
ただ、それはいわゆる『Like』なのか、それとも『Love』にあたるものなのか。  
 
 
……はは。  
前にも確か、全く同じ問い掛けを自分にしていたっけ。  
 
全ての始まりとなった、あの日。  
真帆の家で、一日執事を務めていた、その時に。  
 
「……確かに、今の俺にとって、特別な感情を抱いている相手はいない」  
 
そしてこの回答は同時に、紗季が散々俺に投げかけてきた『あの二人のどちらかに、本気の恋愛感情を抱いているのか?』という質問への答えにも繋がるものだった。  
 
「でも一人の人間として、紗季のことは好きだ………俺に出来ることなら何だってしてやりたいと思えるくらいには、大好きなんだ」  
 
やっと、自分の本音を言えた気がする。  
これだけ愛されて、その彼女たちに同じくらいの愛を返しておいて、今更『実は恋愛感情なんかない』だなんて言えない。  
 
───そう思っていた。  
 
 
でも、もうどうだってよかった。  
それよりも、今の彼女に嘘をついてしまう方がよっぽど失礼にあたると思ったから。  
 
いつもかけている眼鏡がないせいか、紗季の顔が普段よりもはっきり見える気がする。  
端正な顔立ちだ。この子が成長したら、どれだけの美人になるのだろう。  
 
相手がどんな風に思っているのか、全て見透かしてしまいそうな、深い瞳。  
穏やかで、永遠に続く合わせ鏡のような目で五秒近く見つめられる。  
 
やがて彼女の口角が、ゆっくりと笑みの形に変わっていった。  
 
「………わかりました。今はそれで十分です。それなら……私にだってきっと、チャンスはありますから」  
 
───それよりも、包み隠さず正直に自分の気持ちを伝えてくれたことが、嬉しいです。  
 
そんな副音声が、俺には聞こえた気がした。  
 
もしかしたら、最初から素直に伝えていればよかったのかもしれない。  
彼女たちの度量は、俺なんかよりもよっぽど大きくて広い。  
 
正直に伝えれば、純粋な彼女たちはそれに見合った答えを返してくれるのだから。  
 
「───ちゅっ」  
「んむっ……」  
 
彼女の薄い唇にキスを落とす。  
小さな小さな唇。だが確かな温もりと愛情が、そこには込められていた。  
 
 
 

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