「そう、すばるん、それくらい…」
「えっと、こ…こんなもんかな?」
湯気が出そうなくらいに…いや、実際にムンムンと溢れんばかりの熱気が俺の鼻腔をくすぐっている。
嗅ぎ慣れない匂い。しかしそれこそが、この栗色の髪を二つ結びにした少女───真帆のものなのだと思い知らされる。
「ひゃっ!ダメだよすばるん、全部入れちゃっ…!」
「ご、ごめん!あまりこういうことに慣れてなくって…」
そりゃそうだ。こんな経験、人生のうちに何度もあるもんじゃない。
ついつい手元を狂わせてしまった俺を、誰が責められよう。
普段は聞くことの出来ない、弱々しい声。
それは怯えからくるものなのか、それとも今は二人きりという誰も見られてない安心感からくるものなのか。
常日頃から甘えん坊な方だとは思っていたが、ベッドの上だとこうも無防備に寄り添ってくるとは、ある意味お嬢様の面目躍如といったところか。
「……あ」
ふと見ると、勢いよく入れてしまった為に、その匂いの発生源である液体が溢れてシーツに飛び散ってしまっている。
高級そうなシーツだ。シミになってしまってもいけないので、雫を人差し指で掬い上げてひと舐め。
うん、これまた今までに体験したことのない独特な味だ。でも俺にとっては───
「……案外いけるかも」
「んにゃっ!勝手になめちゃ……え?」
俺の反応が意外なのか、きょとんとした表情でつぶやく真帆。
「うん、真帆のそれ…なかなか美味しかったよ」
「ほ、本当に…?本当に美味しいって思ったの??」
なんでそんなに不思議そうな、不安そうな顔をするのかさっぱり分からない。
いつも明るく、元気印である真帆らしからぬリアクションだった。
そうか………よく考えると、こうやって自分のを味見されるのは初めてなのかもしれないな。
それなら俺も、しっかりと正直な感想を伝えてあげなければ。
「うん、少なくとも俺は美味しいと思うよ。真帆の───……その紅茶」
「ほんとうっ?!じゃーすばるんの分もたっくさん持ってくるからちょっと待ってて!」
「いやいやいやっ、今は一応俺が執事なんだろ?紅茶は俺が持ってくるから、いい子にして座っててね……お嬢様」
「むー…すばるんがそう言うなら、わかった」
ふくれっ面でぽすんとベッドに腰かける真帆。
全く、ワガママなのかと思ったら、急にサービス精神旺盛になったりして…相変わらず見てて飽きない奴だ。
紅茶を取りに行って数分後……広大な三沢家のキッチンで迷子になり、結局真帆に手伝ってもらう羽目になったのはまた別の話として。
※
「げぇっ、やっぱあまー。すばるんあげるー」
「こーら。仮にもお嬢様なんだから、一度口につけたものは最後まで飲みなさい」
「うー、だって砂糖入れ過ぎたのすばるんじゃん。スティック一本丸々入れたら紅茶の味が消えちゃうんだよー。ぶーぶー」
「う…わかりました。責任とって飲ませていただきます」
教育的指導を施そうと思った矢先、自分のミスを追求されあえなく言葉に詰まってしまう。
やっぱり俺は執事なんて柄じゃないみたいだ。お金持ちの家のワガママ姫を優しく宥め、礼儀や世間の一般常識を説いて差し上げる……というのが、自分の中にある執事の理想像の一つだったのだが。
「……おいしい」
「だろーっ!?このちょっとピリっとした感じがいーよなー!まったくこんなに美味しい紅茶をサキたちは親のカタキみたいに言うんだからさー!」
自分の味覚に自信を取り戻したのか、オトナの味ってのが分からないのかー!うがー!とさかんに吠える真帆。
彼女からしたら『甘すぎ』らしいこの砂糖の量が、この紅茶の強いクセを幾らかマイルドにしてくれている……確かにこの味では、紗季たちが引いてしまうのも無理のない話だ。
今こうして三沢家の…いや、三沢真帆専属の執事として働く発端となったのは、先日の夏祭りのこと。
良かれと思ってやったことが裏目に出る、なんてのはよくあることで……悪気はなかったとはいえ、不覚にも彼女の浴衣の中を覗き込んでしまったことがきっかけだった。
相手は仮にも小学六年生。多感な時期の女の子が、赤の他人……それも男である俺にパンツを見られて平気なわけがない。
本来ならばあの場でわんわん泣かれて観衆からロリコン呼ばわりされ、そのまましかるべき場所に連行されてもおかしくない事態。
そこでどうやって償えばいいのか……という話になり、急遽一日署長ならぬ一日執事(正確には一泊二日執事)が誕生したのだった。
それに……執事として人に仕える経験なんて、そうそうあるものじゃない。
嫌いな人物に仕えるのなら嫌気もさすだろうが、今回はいつもお世話になっている可愛い教え子が相手だ。
嫌な気持ちになるどころか、むしろ自分の至らない指導についてきてくれている日頃から感謝を込めて、喜んで奉仕させてもらおうと思えるくらいだった。
「じゃーすばるん、気を取りなおして宿題の続きするかんなっ。こっからここまで読んで!」
……とはいえ、この扱いはどうにかならないものか。
「あのなー、真帆。幾ら何でも自分の執事に宿題の問題まで読ませるのはどーかと思うぞ?」
「むふー。いいからいいから」
小休止が済んだところで、再び作業を再開させる。
我らが三沢真帆お嬢様の執事として、今請け負ってる作業……それは、国語や算数に出てくる問題を読み上げ、分からないところは手取り足取り教えてあげることだった。
……宿題を手伝ってあげることはともかくとして、文章を朗読することに一体何の意味があるのだろう。
しかし問題を読み上げる俺を楽しそーに見つめるその様は、絵本を読んでもらって喜ぶ幼稚園児そのものだぞー。
そんなことでいいのか小学六年生。
そもそもベッドに寝転びながら宿題なんてするもんじゃありません。
しかもだ。
「にひひ〜」
「………おい」
業務を一生懸命にこなそうとしている俺のほっぺたを、横から小さな手でぷにぷにとつついてくるお嬢様。
これじゃあまるで、というより幼稚園児そのものである。
「こら、こっちは真面目に読んでるんだからやめなさい」
「えーだってつまんないよう〜、遊ぼーぜすばるんっ!」
「……あのなぁ……」
そうしているのにも飽きたのか、今度はベッドの上でうつ伏せの体勢になっている俺に馬乗りを仕掛けてくる。
さながら即席ジャングルジムだ。
「……なぁ、普段から久井奈さんとかにも同じようなことやってるのか?」
「んにゃ?まっさかー。それに前、やんばるに宿題全部やってもらったことをサキに話したらメチャクチャ怒られてさー。そっからは全部自分でやることにしてんだ。すげーだろっ!」
え、そっち?ってゆーかすげーだろっじゃねー!
だめだこのお嬢様、はやくなんとかしないと!
ていうか久井奈さん!そこは貴方の管轄であり、多少強引にでも教育的指導を施すべきところだと思うんですが!
し、仕方ない。気を取りなおして…ここは臨時とはいえ三沢真帆に仕える執事である俺が、しっかり分別というものを叩き込んでやらなければ!
「うん、その、なんだ。分からないところがあるのなら教えてやるから。俺は部屋の掃除でも片付けでも言ってくれれば何でもするし、だから…」
「ソージなんていーからさ、すばるんは言われたとおりにするっ!」
くっ、何とかして文章朗読の業務が出来ないことを伝えようとするのだが、ここまで嬉しそうな顔をされてはストレートに『出来ない』とは言いづらい…!
「いやでもほら!俺執事なんて初めてだからさ、久井奈さんに人に仕える何たるかを教えてもらいたいなーって…」
「ほぇ?でも今やんばる家にいないよ?」
そう思って遠まわしにアピールしてみると、予想外の返答が帰ってきた。
───え?
あのメイド兼真帆の監視役とでもいうべき久井奈さんが、真帆を家に残したまま外出…?
ふと、ここまでの経緯をたどってみる。
三沢家に到着してから真帆に会うまで、確かに久井奈さんは隣にいて案内してくれたはずだ。
なのに、その後いつの間にか陰も形もなくなっていて、その上この広い敷地内で久井奈さんと別れて以降、真帆以外の人物の誰とも遭遇していない───
「……なぁ真帆。もしかして、今この家には」
ぞわり、と嫌な汗が首筋を伝うのがわかる。
「ん?すばるんとあたししかいないよ??やーたまにはすばるんと二人っきりってのもいいかなーって思ってさ。くふふ」
含み笑いを浮かべたままさらに俺との距離を縮め、左の腕に抱きつくお嬢様。
───いやいやよくないって!絶対良くない流れだこれは!!
ちなみに、ここまでの行動をおさらいしておくと───まずはバスケのことについて聞かれ、小一時間のマンツーマンレッスン。
次に一緒にゲームをし、用意されていた昼飯を食べ、そして夏休みの宿題……と、行動パターンの中にこれといって特筆するものはなかったりする。
だが問題は……今日の真帆は何を思ってのことなのか、スキンシップという言葉が生ぬるく感じるくらいに俺にべったりだということ。
もちろん俺にやましい気持ちはない。
しかし、いかに俺にやましい気持ちがなかろうと『赤の他人である高校生の男子が小学六年生の女の子の家に上がりこんで、あまつさえ二人きりで一日を過ごす』という状況を世間がどう見るかは全くの別問題なのだ。
今年の春……女バスのコーチとして就任してから嫌というほど思い知らされた、一つの教訓である。
もう一度、頭の中で現状を把握する。
罪と罰。償いのため、ここから逃げ出すわけにはいかない。
しかしここにきて真帆がひっつき虫モードと化し、更に進退きわまる状況に追い込まれる俺。
そして………とどめとばかりに判明した新事実。
俺の頭の中にある警報装置がやかましいくらいに鳴り響いているのが分かる。
今回の発端となった真帆のパンツ覗き見事件のように、女バスのコーチとして就任してからというもの、こういった感じの思わぬハプニングに巻き込まれることは多々あったのだ。
ましてや今回は、誰も助けてくれない、助けられない。この広大な土地の中に二人っきりという悪条件中の悪条件。
───これは色んな意味で、危うい方向に向かっているとしか思えない!
「おいっ真帆!仮にも女の子が男を家に連れてきて二人きりになるなんてっ」
「あーもう、わかったよう……そんなヒッシにならなくたっていーじゃん……」
魂レベルの危機感からくる俺の叫びに近い声。
しかし真帆は分かりましたと言わんばかりに話を途中で切り上げ、頬を膨らませいじけた態度をとる。
どうやらたった一言で、俺の今現在における危機的状況を理解してくれたらしい。
そう、一見大雑把で無頓着に見える真帆だが……その実、一から十まで話さなくても相手の事情を汲みとってくれる優しくて賢い子なのだ。
トラウマとかロリコンとか法的にどうのというような複雑な事情を話さなくても、俺の焦りようを見て、ある程度のことは察してくれる───
「………すばるんは二人っきりになったら、あたしにえっちなことしたくなっちゃうんだもんね…?」
「はああああ!!!???」
───前言撤回。
そりゃそうだ。小学六年生にそこまで高度なことを要求するほど、俺だってオトナゲないわけじゃないさ。あはは…。
てゆーかその発言はどっから出てきた!
俺か?俺の日頃の行いなのか?!
もし普段からそういう風に思われているのだとしたら、もう二度と女バスの皆にコーチとして向き合えない……もう、辞めるしかない……
「───って、二人きりになったことをチューイされたらサキが言えって」
「さああきいいいいいいいいい!!!!!」
ぴっ、と人差し指を立てて、この発言の黒幕を暴露。
いやはや…憧れの先輩への失望や新学期早々に経たれたバスケへの望み、絶望のトラウマをこれでもかというほどえぐる一言をどうもありがとう…。
……なにこの長谷川昴メンタル攻撃用ダブルチーム。てゆーか紗季さん、なに考えてはるんですか!
後で聞いてみると、『夏祭りの時、長谷川さんと真帆のやりとりを本気で聞いて、心底から心配してしまった私からのささやかな仕返しです☆』だとか何とか。
……いや、ささやかな仕返しにしてはダメージが大きすぎるんですが……。
「まーそんなわけだからさっ、今日は特別っ!やんばるたちもコーニンってわけ!」
俺の背中をバンバンと叩きながら、さっき一瞬だけ見せたおしとやかな態度はどこへやら……一転してカラカラと向日葵のような笑顔で笑い飛ばす真帆。
久井奈さんの合意とかそれ以前に親への了承はどうした!とか、色々突っ込みたいことはあるのだが。
「あらためて今日一日二人きりだかんなっ、よろしくすばるんっ!」
ちゅっ。
依然馬乗りになられた状態で、上を見上げる俺の額に降ってきた、ささやかなキス。
あぁ、これはもうダメだ───
この時点で、俺の心は完璧に折れてしまった……。
ああ、神様。
明日は雨が降ろうが雪が降ろうが嵐になろうが一向に構いません。
なので、せめて……せめて今日この一日だけは、何事もなく平穏無事に過ごせますように。
※
現在の時刻は夜八時。
俺の願いが神様に届いたのか、それともこれ以上俺のトラウマをえぐるまいとの配慮なのか、その後も特に変わったことはなく穏やかな勉強タイムとなっていた。
まぁその半分以上が真帆とのお喋りで、やれ実は紗季がどーだの、愛莉がこんなことを言ってだの、智花がこんなことを教えてくれただの、
ひなたが急にこんなことをしだして楽しかっただのといった話で時間を浪費してしまったことには目をつぶるとして。
晩ご飯の際、たどたどしく電話で宅配ピザを注文し、一喜一憂している真帆を見るのは新鮮だったし(自分で電話をして注文するのは初めてだったらしい)、
何だかんだいっても真帆とここまでじっくり話す機会は今までになく、いつの間にか俺にとっても有意義な時間となっていた。
……うん、たまにはこういうのも悪くないのかもしれないな。
俺が智花のシュートに惹かれたように、こうして一対一で話すことによりまだまだ皆の知らない一面を見ることが出来るかも知れない。
なにせ彼女たちはまだ小学生。
性格やクセなどは大体把握しているつもりだが、それでも未だ眠ったままの『個性』という名の財宝がそこかしこに埋まっているはずだ。
部員全員の才能を一つでも多く発見して、もっともっと活躍出来るように磨いてやることが出来れば……バスケプレーヤーとしても更に上のレベルへ伸ばしてあげられる。
五人一緒にいることの多い女バスメンバーだが、そういった意味ではあえて一対一で話が出来る機会を作ってもいいかもしれない。
……かといって、今日みたいな泊まり込みとなると社会的にもレッドゾーンの話になるし、何より俺のメンタルが持ちそうにないので勘弁して欲しいところなのだが。
「おーっすばるんお帰りー!どうだった?あたしんちのお風呂、気持ちよかった??」
というわけで、食事を済ませると早々と風呂場に案内された俺であった。
「いや…その……」
今しがた入ってきたお風呂に関して言うならば、気持ちよかった……というより、とにかく凄かった。
何というか、庶民と大富豪の差を思い知らされたというか、このまま小さい銭湯として町中に出しても立派にお金を取れるんじゃないかという位のシロモノであった。
そして俺に尋ねながら、喜色満面の笑みでもう今日何度目かも分からない抱きつき攻撃をかまし、腕にすがり寄ってくる真帆。
超濃度のスキンシップは今だに実行中らしい。お前はアレか、『お帰りなさいご主人様』の犬か!
「じゃー今度はあたしの番だな!三分で帰ってくるから待ってろすばるん!」
「ダメだって!湯冷めするからしっかりあったまってきなさい!俺もゆっくりしてるから!」
「はいはいーっと!」
某ラピュタ王のような宣言をしながら、ぴょんぴょんと兎のごとく駆けていく真帆。
その後ろ姿はご機嫌そのもので、まるで恋をしている女の子のような───普段は態度も喋り方も一番男勝りに見える、真帆らしからぬ雰囲気を醸しだしていた。
ちなみに……最初の方こそきちっと主人ぶってはいたものの、もはや『執事』なんてのはただの肩書きで、今となっては二人で楽しく過ごせればそれでいいや、という感じである。
こうなると、一体どうして執事になれなんて言い出したのか、ますますさっぱり………
………いや、何となく分かってきてはいたのだ。
真帆が泊まり込みの執事を俺に命じた、その理由。
今日一日を三沢真帆の執事として過ごした中で、微かに……しかし少しずつ大きくなっていった懸念事項の一つ。
そして今、真帆が俺に見せているその後ろ姿が、その懸念事項を確信へと変えてくれた。
何があったのかは分からないが、今日の真帆は───いつもの真帆じゃない。
どちらかというとぶっとんだ発想でいつも周りを驚かせる方だが、今回は普段とは全く違う……別の方向へ向いているぶっとび方だった。
具体的に言うと、いつもの積極性とはまた違った愛情表現───要は、スキンシップの多さがハンパじゃない。