月曜日。色々と躊躇はしたものの、結局俺はいつも通り慧心学園初等部の体育館へと足を運んでいた。  
 先週末、俺は取り返しのつかないことをしてしまっている。あろうことか小学生の教え子2人に欲情し、その無垢な身体を穢してしまった。彼女たちのコーチとしても1人の人間としても、最低な行為だったことは自覚している。  
 一時の気の迷いなどと弁明したところで、恥の上塗りにしかならないだろう。なら俺は、彼女たちから必要とされなくなるまでコーチであり続けたい。  
 それに自分の気持ちもわからないままサヨナラするということを、俺はしたくなかった。  
「よし……。大丈夫」  
 体育館の扉に手をかけると、初めてここを訪れたとき以上に緊張を感じる。俺の脳裏にひなたちゃんの笑顔が浮かぶ。  
 あの風呂場での出来事の後も、彼女たちは変わらず俺と接してくれた。それはきっと、何も知らない純粋さあってことだろう。ひなたちゃんとかげつちゃんの優しさには、涙が出る思いだった。  
「あれ……?」  
 拍子抜けするほど何事もなく中に入ったまではいいのだが、談笑する少女たちの輪の中にひなたちゃんの姿がない。体調でも崩したのかと心配になって、アイガードをつけようとしていた紗季に事情を尋ねた。  
「ひなですか? それなら少し遅れるみたいです。なんだか保健室に用事があるらしくて、かげと一緒に行ったみたいですけど。真帆、そうよね?」  
「うん、そーだよ。それよかすばるん、ヒナとゲッタンだけお泊りなんてずるいぞ!」  
 参ったな。やっぱりというか、2人が泊まりに来たのは当然のように部員みんなに知られているようだ。ひなたちゃんの事も気になるけど、今はこの場をやり過ごすことに集中しよう。  
 
 ――なんとか真帆をなだめることに成功した俺は、いつものようにコーチとして少女たちを見守っていた。  
「昴さん、なんだか今日はそわそわされている気がします」  
 その間、いないとわかっているのについついひなたちゃんの姿を目で探してしまっていたようで、若干訝しがられてはいたのだが。  
「おー。遅れてごめんなさい」  
 ひなたちゃんが現れたのは、ミニゲームをしている途中だった。体育館まで急いでやってきたのか、うっすらと頬が上気している。  
「やあ、ひなたちゃん。用事は済んだ?」  
 俺は息を整えているひなたちゃんに声をかける。  
「おー。すんだ」  
 いつもと変わらない柔らかな笑みを彼女は見せてくれる。今日ようやくこの笑顔と出会えて、俺の中では大きな安堵感が広がっていた。  
 密かに実は嫌われていたらどうしようなんて思っていたけど、どうやらその心配はなさそうだ。  
「それじゃあみんな揃ったことだし、ミニゲームは後から仕切りなおしということにしようか」  
「わーい。ひな、おにーちゃんと一緒がいい」  
 制服のままのひなたちゃんが、俺めがけて抱きついてくる。それ自体はそんなに珍しいことじゃないんだけど、今の俺はどうしてもその髪からわずかに感じられる甘い香りを意識してしまう。  
「ひ、ひなたちゃん」  
「ほらひな、長谷川さんを困らせちゃだめよ」  
 俺が困っているように見えたのか、紗季はひなたちゃんを無理やり引き剥がす。  
 若干不満顔のひなたちゃんだったが、仕方なさそうに体育倉庫へ着替えに向かった。  
「ちょっと、やばいかも……」  
「昴さん?」  
 小声だが、つい本音がこぼれてしまったようだ。不思議そうに俺を見上げる智花の頭にポンと手のひらをやり、気持ちを落ち着ける。  
 意識を切り替えられたことを確認し、体操服に着替えてきたひなたちゃんを含めて練習を再開させた。  
 ――あとから振り返ることがあるとすれば、俺はこの時すでにひなたちゃんという天使に心を奪われていたのかもしれない。  
 
 
「お疲れ様でしたー!」  
 練習終了後、みんなの声が体育館に響く。後片付けを終えて、女の子たちはみんな着替えに行ってしまっている。  
 それを見計らうようにして1人、俺のほうへ近づいてくる子がいた。その子が歩くたびに、ウェーブのかかった髪がふわふわと揺れる。  
「ん、どうかした?」  
 俺の横に立つひなたちゃんが、軽く手招きをする。膝をかがめて彼女の顔の位置に目線を合わせると、その表情が少しばかり赤らいでいることに気がづいた。  
「おー。おにーちゃんにおはなし、聞いてほしい」  
 彼女の口許に耳を寄せる。なんだろうな。  
「にちようび、ひなたちとデートしてください」  
「うん、いいよ。………………ってデート!?」  
 大きな声が出そうになるのを、寸でのところで我慢した。ついいつもの癖で簡単に了承してしまったけど、どうすればいい。2人が許してくれたとはいえ前回あんなことがあったばかりだっていうのに……。  
「おにーちゃんとデート、楽しみ」  
 ダメだ。やっぱり俺には断れそうにない。こんなに嬉しそうにしているひなたちゃんを、今更突き放せるような厳格な人間じゃ俺はない。  
 潔く、腹を括ろう。ちょっと遊びに行くだけ。そう考えてしまえば変に意識することはない。  
「わかった、けどデートすることな秘密だよ? それじゃ、みんなと着替えておいで」  
 ひなたちゃんと約束の指きりをして、彼女を送り出す。  
 そして帰り道。バスに乗りに行った女バス部員と別れた俺に、意外な人が声をかけてきた。  
「昴くん、ちょっといいかしら」  
「羽田野先生?」  
 なんの用だろうな。あるとすれば、ひなたちゃんが部活前に保健室へ行ったことくらいか。  
「急にごめんなさいね。少し、ひなたちゃんのことで話があって」  
「はい……」  
 やっぱり、それしかないよな。緊張から、顔が強張ってしまっているような気がする。生唾を飲み込んで、先生の次の口の動きに注目する。  
 いくら羽田野先生が特殊な性嗜好の持ち主だとしても、一応は教師なのだ。その教え子に淫行を働いたとなれば、話は別だろう。  
 先生の右手が挙がると、俺は反射的に身構えてしまう。そんな俺の反応をからかうように、その手は優しく頬に添えられた。  
 
「ふふ……、そんなに怖がらないで。なにも昴くんを取って食おうっていうわけじゃないから」  
「は、はあ……」  
 本当にこの人にはペースが狂わされる。それよりも、こんな調子で話しているっていうことは、俺の心配しすぎだったのかとさえ思えてくる。  
「――だいたいのことはひなたちゃんから聞いたわ。昴くんに悪意があったなんて考えられないし、あの子たちにひどいことなんてするわけないでしょ? だから、美星ちゃんには特別に黙っておいてあげる」  
 ――それに、昴くんは同好の士だしね。  
 そんな付け加えがなければ、羽田野先生が俺を信用してくれていることに感動していたかもしれない。ともあれだ。  
「ありがとうございます、先生」  
 先生の好意には感謝しておかなくてはならないだろう。あんなことがミホ姉の耳に入った日には、俺の命は地獄の鬼に掻っ攫われてしまうことだろう。  
 ミホ姉には悪いが、想像しただけでも全身に寒気が走る。  
「うん、素直でよろしい」  
 彼女の知的な瞳が、楽しげに踊る。歩き始めた俺たちは、やがて校門付近で別れることになった。  
「昴くん」  
 そこでまたしても、先生に引き留められた。真剣さが宿った口調であり、こちらが本題なのかもしれない。  
「小学生だってちゃんと恋することができる。それだけは、しっかりとわかっておいてあげてね」  
「え……、それって」  
 一瞬俺は、あっけにとられたような顔をしていたことだろう。それだけ羽田野先生は、俺自身まだ深く考えないようにしてきた部分へと鋭く切り込んできたのである。  
「それと……、はい」  
 メモ用紙のような一片の紙切れを、先生は俺の手の中に潜りこませる。  
 見れば、電話番号と思しき数列がそこには並んでいた。  
「先生、これってもしかして」  
 この状況で渡される電話番号なんていくら鈍感な人間でもわかる。袴田家の電話番号だろう。  
「ご明察よ。きっちりとした打ち合わせはまだできていないんでしょ? 年上らしく、リードしてあげるのよ」  
 これでようやく察しがついた。ひなたちゃんにデートのことを吹き込んだ張本人のことだ。そうでもなければ、急にこんな展開になんてなるはずがない。  
「ちょ……って……」  
 ――それじゃあね。  
 それだけ残して、俺が言葉を発する前に羽田野先生は俊敏に姿を消してしまっていた。  
 彼女は駐車場に向かったのだろうが、もはや追いかける気にもならない。  
 校門の前に突っ立っているわけにもいかず、なんとなく憂鬱な気分で俺は歩き出す。まったく、人の気も知らず状況をかき回してくれる人だ。  
「俺の気持ち、か」  
 渡された紙をもう一度見直す。ひなたちゃんとかげつちゃんの笑顔が頭の中に浮かんでは消えていく。  
 この調子じゃあ、今夜は眠れそうにないな。  
 
 翌日。とある目的を達成するために、高校の授業が終わると同時に俺は帰路についた。  
 そしていま、俺は自宅の電話の前にいる。  
「さあ、かけるぞ」  
 袴田家のご両親は、この時間帯はまだ働きに出ておられるはず。ならば電話に出るのは、ひなたちゃんかかげつちゃんだけ。うん、ばっちりだ。  
「これでよし、っと」  
 羽田野先生に教えてもらった番号通りに、ボタンをプッシュする。聞きなれた呼び出し音が、数回耳に響く。  
 バスケの教え子の家に電話しているだけなのに、これでもかというくらい俺はどきどきしている。あまり、何度も経験したくない部類のものだ。  
「――はい。袴田です」  
 よかった、かげつちゃんだ。俺はほっとして、受話器に応答する。  
「あ、かげつちゃん? 長谷川昴です。急に電話しちゃってごめんね」  
「は、長谷川コーチ、ええと、こんにちは」  
 どうやら向うのほうでも、俺が電話してきたことに驚いているようだ。  
「うん、こんにちは。……ひなたちゃんからお誘いを受けたことについてなんだけど」  
 世間話なんてしても仕方ないと思い、俺は単刀直入に話を切り出した。  
「はい!」  
 元気な返事に、少しびっくりした。それだけ、かげつちゃんも楽しみにしてくれているということなのだろう。  
 なら余計に、しっかりと段取りを決めておかなくてはならないだろう。  
「それで、どこに行くとかって決めてあるのかな」  
「あ、それなら姉様が電車に乗って動物園に行ってみたいって」  
 なるほど、動物園か。ゆっくり見て回るのならぴったりかもしれないな。天気がよければいいんだけど。  
「いいね。外でお弁当とかみんなで食べるのもいいかも。母さんに美味い物作ってもらうよ」  
「わ、楽しそうです」  
 母さんに伝えておけば、きっと気合を入れて作ってくれるだろう。あまり荷物になるのは嫌だしほどほどにしてほしいという気持ちもあるが。  
「姉様ったら昨日からずっと嬉しそうで。長谷川コーチ、本当にありがとうございます」  
 まったく、どこまでも姉想いな子だ。電話越しにも、彼女の笑顔が透けて見える。  
「そんな、俺もすごく楽しみにしてる」  
「も、もちろんわたしもとっても楽しみです。その……、長谷川コーチとのデ、デート」  
 かげつちゃんの言葉に、不意に顔が熱くなる。きっとかげつちゃんも俺と同じような状態になっているだろう。  
「それじゃあ日曜日、駅に10時頃でいいかな?」  
 取りあえず時間だけはしっかりと確認しておかないと。ちゃんと集合できないと悲惨なことになるからな。その点、しっかり者のかげつちゃんにこうして伝えておけば問題はないだろう。  
「はい、わかりました。姉様にもちゃんと伝えておきますね」  
「よろしくね、かげつちゃん」  
 それから少しだけなんでもないような話をして、俺は受話器を置いた。これで事前の準備は大丈夫だろう。ああ、こうしてしっかり計画すると俄然楽しみになってくるなあ。  
 置いた受話器を握り締めながら、俺はわずかに口許をほころばせている。いまこの場に、母さんがいなくてよかったと思う。  
「体調崩さないようにしておかないと……」  
 なんだか遠足に行く前の小学生のような気分だが、悪くない。  
 きっかけどうこうは関係なしに、この機会を存分に楽しむことにしよう。  
 

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