「一条、伊織、ねぇ……うーん」  
 
 日曜日の朝八時。  
 日課となった智花との朝練に、今日は見学者がいた。  
 
「あのさ、ミホ姉……その、そこでずっと唸ってられると、不気味なんだけど……」  
「んー、いやね、一条伊織ってどっかで聞いたことあるような気が……」  
「もしかして、美星先生と同じ大学の方なんでしょうか?」  
「そうなのかなー、なーんか、もっとドドーンとでっかくイメージが残ってるんだけどなぁ、うーん」  
 
 そのまま唸り始めて、また固まってしまった。  
 ミホ姉が考え込むなんて、珍しいこともあるもんだ。  
 よっぽど強いイメージが残ってるのかもしれない、もしかしたら、訪問販売のしつこいセールスマンだった、とか。  
 
「ありえなくはないけど、あまりイメージにあわないなぁ……」  
 
 一条さんには、もっとスタイリッシュなイメージがある。  
 もっとも、当の御本人はバリバリのビジネスマンな見た目で無職だから、現実が一番イメージと離れていたりするのだけれど。  
 
「んあー、だめだ、思い出せない」  
 
 やがて、大きく伸びをして、勢いよく立ち上がった。  
 
「そうだ、名前を検索エンジンにでもかけてみれば出るかもしれない、いやー、なんでそこに思いあたらなかったかね」  
 
 そんなことを呟きながら、そのまま車の方へ。  
 
「あれ、ミホ姉? 朝ごはん食べていかないのか?」  
「ごめん、今日はパス、なるべく早く調べろってあたしの第六感が告げてるのさ、ほんじゃねー」  
 
 そのまま、エンジン音を轟かせて、あっという間に走り去っていった。  
 珍しい、今までこんなことがあっただろうか、あのミホ姉が、ご飯を食べずに帰るだなんて!  
 
「み、美星先生、どこか悪いんでしょうか?」  
「んー、大丈夫だとは思うけどなぁ、元気だったし」  
 
 むしろ今くらいの方が俺としては大歓迎なわけで。  
 
「っと、まぁミホ姉につきあってても仕方ないか、智花、もう一度いまの形でやってみようか」  
「あ、はい、行きますよ」  
 
 気持ちを切り替えて、練習再開。  
 基本は、智花がオフェンスで俺がディフェンスの1on1だ。  
 ただし、ゴールを公式用に高くし、ボールも7号球を使用している。  
 
「どうした? 少しスピードが落ちて来てるんじゃないか?」  
「いいえ! まだまだ動けます!」  
 
 抜きにかかる智花の進路を阻む。  
 小学生にしては尋常じゃないスピード。相手のレベル次第では今度の試合でも充分武器になるだろう。  
 けれど、今日の本命は、この後――  
 
「はっ!」  
「っ! しまっ」  
 
 ドライブに気をとられた瞬間、智花の小さな身体が真上に跳ね上がり、綺麗なフォームでジャンプシュートを放つ。  
 咄嗟のブロックはかすりもせず、ボールは放物線を描く。  
 そして、パサッと気持ちのいい音と共に、ゴールへと吸い込まれた。  
 
「や、やった、やりました! 昴さんから、ゴールを奪えました!」  
「ふぅ、お見事、やられたよ智花、ナイスシュート」  
 
 胸の前でグッと握りこんで、小さなガッツポーズを作っていた両手に軽く拳を合わせる。  
 智花がいま重点を置いているのは、特に身長差と体格差を意識した練習だった。  
 
 身長で上回る相手のさらに下から切り込んで、相手の意識が下を向けばジャンプシュートでゴールを狙う。基本の基本みたいな技術だけれど、小学生の低さを意識させてしまえば実はそれだけでかなりやりにくさを感じさせることができる。  
 元々シュートの正確さは誰よりも高い智花だ。うまく意識をちらすことさえ出来れば、そう簡単に止めることはできない。  
 最初は、スクープショットを教えてほしいと懇願された。  
 けれど、流石に一月足らずでマスターするのは難しいだろうし、なによりフォームへの悪影響を懸念して、今の形に落ち着いた。  
 ……まぁ、それでも、止めるつもりではあったのだけれど……、……ここわずか数日で、飛んでからシュートを撃つまでの間隔が短くなった気がする。  
 いや、気がするんじゃない、実際に早くなってるんだ。  
 でなければ、さっきのシュートがあそこまで完璧に決まるはずがない、少なくとも触れられてはいた、つい昨日までは。  
 とてつもない成長速度。湊智花の凄さをまた一つ教え込まされた。  
 
「まったく、恐ろしいよ智花は」  
「ふぇ? あ、あの、昴さん?」  
「なんでもない。さて、今度は俺がオフェンスか」  
 
 攻守交替。今度は俺の番だ。  
 せめて、この攻撃で挽回しないと、とボールを手に取った時、家の外側から声がかけられた。  
 
「朝早くから申し訳ございません、わたくし一条と申す者ですが、長谷川昴様はいらっしゃいますでしょうか?」  
 
 振り向くと、どう見てもビジネスマンにしか見えないスーツ姿の一条さんがいた。  
 
「一条さん? どうしたんですか?」  
「あ、長谷川君でしたか……朝練中ですか……」  
 
 そこで、一条さんはジッと俺を見つめて、なぜか視線をそらして言った。  
 
「……頑張ってますね」  
「え? ああ、はい」  
 
 なんだろう、今の間は?  
 
「あの……?」  
「ああ、早朝から失礼いたします、実は学校側からの書類が完成いたしまして」  
「えっ!?」  
 
 正式な書類って、本当に作ってもらってたんだ。  
 
「はい、これで学校側にも逃げ口上がなくなりました」  
 
 一条さんがカバンからとりだした書類には、なるほど、確かに『地域振興バスケ大会に優勝すれば、来年度からの男子バスケットボール部の活動を認める』という文言と、校長先生の印。そして立会人として一条さんの印が押されていた。  
 
「二枚あります。両方に長谷川君の印を押していただき、片方はそちらで、もう片方は学校側での保管になります」  
「ありがとうございます、とりあえず立ち話じゃなくて、中で話しませんか? よろしければ上がってください」  
「よろしいんですか? お邪魔では」  
「大丈夫ですよ、実はさっきまで一番うるさいのがいたんですけど、急にいなくなっちゃって、一条さんならむしろ静かになるくらいです」  
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」  
 
 玄関口にまわった一条さんが、改めて一礼して敷地内に入ってくる。  
 
「失礼します」  
「はい……って、ええと、と、智花?」  
 
 気づけば、智花が頬を膨らませて上目遣いでこちらを見上げていた。  
 
「あ、ご、ごめん、ほらその、続きはまた今度ってことで」  
「別に、かまいません」  
「ああ、そ、そうか、ごめんな」  
「あ、謝る必要はありません、そろそろ終わりでしたし」  
 
「昴くん、智花ちゃん、ご飯できたわよ。あら?そちらの方は?」  
 
 タイミングがいいのか悪いのか、母さんが朝食に呼びに来た。  
 
「と、とりあえず、シャワー浴びようか、ほら智花。一条さんも入ってください、説明するから母さんはちょっと待って」  
 
 全員を家の中に入れて、智花にはシャワーを浴びに行ってもらう。  
 その間に、俺は一条さんが持ってきてくれた書類に判子を押した。  
 
「……、……よろしいのですか?」  
「え? だって、判子が必要なんですよね」  
「……、……ええ、その通りです、判子が……必要ですね」  
 
 なぜだか、一条さんの歯切れがやけに悪かったのが気になったけれど、とにかくあとはもうやるしかない。  
 今日は午後から全員で合同練習だし、フォーメーションも色々と確認しなければならない。  
 あらかじめポジションくらいは想定しておかないと。  
 あとは、対戦相手が決まり次第そのデータか。  
 
「あら、朝ごはん食べてないんですか?」  
「ええ、恥ずかしながら独り身でして、朝は近くの定食屋などで取りますが、ここまでの道すがら店屋がなかったもので」  
 
 フォーメーションを考えている側で、なんだか、別の会話がかわされていた。  
 そういえば、ミホ姉の分が余ってるんだよな。  
 
 
 
 
 
「これは、見事な腕前ですね、どれもとてもよく味が出ている」  
 
 ミホ姉仕様で多めに作られていた朝食を一条さんに割り当てる。  
 幸いにというか、普段通りというか、特に紹介する前から一条さんをあっさり受け入れてしまっていた。  
 
「申し訳ない、朝食までいただいてしまって」  
「いえいえ、それよりおかわりどうですか? 若い男の人だと足りないことはありません?」  
「では、いただきます」  
 
 しかし、この人凄く食べるな……。  
 さっき食べた一杯は二杯分くらいはある明らかな特盛りだったのに。  
 あ、おかわりはさらに特盛りだ。  
 
「しかし、私自身が加わってしまったのが仇ですが、家族の食卓というのは、いいものですね」  
「え? はぁ」  
 
 突然何を言い出すんだこの人は。  
   
「いやいや、仲のいい兄妹で羨ましい限りです」  
 
 姉弟? 確かに母さんは見た目が若いのでたまに間違われることもないことはないけれど。  
 ところで、なぜ一条さんの視線が智花の方をむいているんだろう。  
 
「智花さん、といいましたか、挨拶のタイミングが遅れてしまいましたが、改めてはじめまして」  
「い、いえ、その、はじめまして」  
 
 しかも、なぜか智花はちょっと顔を赤くしてうつむいている。  
 あ、でもちょっとだけ不満そうに頬が膨れてる。一体なんなんだ?  
 
「長谷川君、人数あわせの小学生というのは、もしかして智花さんのことですか?」  
「え、ええ、実はちょっと内緒にしてほしいんですが、俺、親類の紹介で女子バスケットボール部のコーチをしているんです」  
 
 あまり公表することではないのかもしれないけれど、隠したままでは説明はできないし、それに一条さんならみだりに話したりしないだろう。  
 
「なるほど、妹さんのところでコーチを、いいお兄さんですね」  
「ふ、ふぇえ!?」  
 
 そうそう、妹のところでコーチ……、……妹?  
 
「いもうと? え? えっ?」  
 
 誰が? いもうと? 智花?  
 
「あら、やっぱり智花ちゃんうちの子になっちゃう?」  
 
 母さん、まぜっかえさないでください。  
 
「ち、ちがいます、昴さんは私のお兄さんですなく、あの、その、でもそれもいいなぁとは……って、そうではなくっ」  
「その、智花とは……智花、とは……」  
 
 咄嗟に適切な言葉が浮かばない。  
 なんと言えばいいんだろう、友達? やっぱりパートナー?  
 
「なるほど、いえ失礼いたしました、不躾なことを申しまして」  
 
 慌てふためく俺たちを見て、妙に冷静になる一条さん。  
 一体なにを納得しましたか? なにが一条さんの頭の中で解決しましたか?  
 
「まぁ、仲はよろしいでしょう? お二人は」  
「え、ええ、まぁ、その、い……いいと、思います」  
 
 ちらっと、智花の方を見ながら言う。  
 眼が合った。  
 慌ててそらす。なんだかすごく照れくさい。  
 
「それで充分ですよ、大変いいことです」  
 
 対面には、真顔でそんなことを言う一条さんとニコニコしている母さん。  
 なんだかすごく楽しまれてる気がする。  
 
「頑張って守ってくださいよ、いまの笑える場所を……、昴君と智花ちゃんの場所を全力で」  
 
 そう言った一条さんの表情はやっぱり真顔で、なんだか余計に照れくさくなった。  
 この人、こういう恥ずかしくなることを真剣に言うタイプなのか。  
 
 
#########################  
 
□視点変更 〜 一条伊織  
 
「長谷川君の判子をもらってきましたよ」  
 
 一枚の紙っぺらを、校長室に備え付けられた机の上に置く。  
 校長はそれをどこか、苦々しい表情で見つめていた。  
 休日の午前中、校舎はがらんとして、遠くから部活動の掛け声が響いてきた。  
 聞こえてくる元気な声とは対照的に、後ろ暗い書類を男二人で無言で見つめる。  
 
「予想通り今日は小学生もまじえて合同練習をするようです、朝早く訪ねておいて正解でした」  
 
 沈黙に耐えかねて、どうでもいいことを適当に連ねた。  
 もっとも、あの長谷川昴に限って考えを変える可能性は少なかった。だが、もし別の大会に目標を変更されでもしたら非常に面倒くさいことになっていた。  
 
「都合のいいことに、なんと私もその練習に呼ばれました。向こうの戦力を確認してまいります、小学生なので高が知れてはいますがね」  
 
 書類を受け取ったまま一言も発さない校長に背を向けて、歩き出す。  
 
「まて、一条」  
 
 扉に手をかける直前、校長の声に止められた。  
 
「こんなことは、もうしたくない、あの子たちは純粋にバスケットボールをしたいだけなんだ」  
   
 振り向く。  
 雇われ校長という役職を廃した、ただの初老の男がそこにはいた。  
 
「なぜ、こんなことをしなければいけない、こんなものが教育であるはずがない」  
 
 ええ、私もそう思います。  
 けれど、私ももう退くことはできないんです。   
 
「ならば、こちらにサインをください」  
 
 この人は教育者で人格者だ。こんなことは我慢できない。  
 だから、こんな物が必要になる。  
 
「委任状、だと?」  
 
 再び机まで近づき、新しい書類を突きつける。  
 
「今回の件に関して、あなたは何も感じる必要もなければ考える必要もない、すでに舞台は整っているんです」  
 
 あなたはいい人なんでしょう。  
 けれどそれ以上に弱い人だ。  
 だから、上からの理不尽も跳ね除けられない。  
 そして、この甘い誘いに乗ってしまう。  
 
「ここから先は私の独断で行います、あなたはただ私の行動を黙認してくださればいい、すべては私が背負います」  
 
 バスケットボール部の存続と廃部に関する最終決定権の委任状。  
 受任者には、既に一条伊織の名が記されていた。  
 
 
###########################  
 
□視点変更 〜 長谷川昴  
 
「すばるん様、申し訳ございません」  
「はい?」  
   
 午後からの合同練習場。  
 真帆を送ってきた久井名さんに、いきなり謝られた。  
 
「嫌がらせ、の件ですが、どうやら相手の意図異常にすばるん様に影響を与えているようで、見誤っていました」  
「いえ、そんな」  
 
 というよりも、これはやっぱり大人の嫌がらせだったのか。  
 
「正確にお伝えすれば、首謀者は七芝学園の理事長とつながりがあるようでして、バスケットボール部の事件をよろしくないことで再発を防止させばいけないと、伝えたそうです」  
「えっ、それだけなんですか?」  
「はい、ところが、組織というものは恐ろしいものでして、首謀者から理事長、そして校長から顧問へと伝わる過程で、それは『バスケットボール部に対してなんらかの対処を行わなければならない』という内容に変わっていったのです」  
 
 まぁ内容は間違えてはいませんが、と一言久井名さんは付け加えた。  
   
「ええと、つまり、一年間休部状態のバスケ部には、もうこれ以上の対処は廃部しかなかった、ってことですか」  
「はい、はっきり言ってたかがあの程度で真帆様の精神に影響を与えるレベルになるとは、首謀者側も驚いていたほどでした」  
 
 ちなみに、久井名さん、その言い方ですと、首謀者を締め上げたんですか?  
 
「ありがとうございます、でもよかったですよ、真帆やみんなに危害を加えられるようことがなくて」  
 
 どちらにしてもバスケ部は校長や顧問から廃部を勧告されている。  
 たとえ上の方にその意図が薄かったとしても、内容に変化はない。  
 
「申し訳ございません。もう少し私どもの対処が早ければこのようなことには」  
「そんな、安心しました、次々同じようなことが来たらきっと対処できなくなります」  
   
 今回でこんなことは最後。その確認が取れただけでもとてもありがたかった。  
 
「それでは、すばるん様、御武運を」  
「はい、ありがとうございます」  
 
「こらー、すばるーん! なにやってんさー!」  
 
 久井名さんが立ち去ると、ほぼ同時に、待ちきれなくなった真帆の声が響く。  
   
「ごめんごめん、いま行くよ」  
 
 向かう先には、5人の小学生と2人の同級生、そして、1人の成人男性。  
 
「さて、練習に入る前に改めて紹介しておく、今回のことでお世話になってる一条伊織さんだ。今朝話をして、練習の手伝いに来てもらうことになった」  
「一条伊織と言います、バスケットはほぼ素人ですが、皆さんにお力添えをさせていただきます」  
 
 一条さんが丁寧に頭を下げる。  
 いくら暇があるとはいえ練習まで手伝ってくれるとは思わなかった。ますます一条さんに頭が上がらなくなりそうだ。  
 けれど、なぜだろう、今朝よりも一条さんの表情に影が濃くなった気がする。  
 
 どうしてか、少しだけ、不安な感じがした。  
 

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